四章 桜花救出作戦 4
二つの赤点が消えた。それは、鮮川と緒方の死を意味していた。
涙が出ることはなかった。罪悪感も覚えなかった。あー信号が消えたな、とそれだけだ。それは俺が薄情者だからかもしれない。あまりに色んなことをすり減らし過ぎたからかもしれない。ただ、やるせなさだけが沈殿していく。
十年前、俺は一度本丸の地下侵入まで辿り着いた。数えるのが馬鹿らしいぐらい死んで、出撃の内容がごっちゃになるぐらい戦い暮れて、ようやく辿り着いた。だけど、そこで最後の詰めを誤った。
十年+αの積み重ねで信頼しきってしまっていた吉野の不意打ちで、俺は飛行装置を撃ち壊された。イロナシに囲まれて、囮として利用された。去っていく赤点達。通り過ぎていく鮮川。それに続く緒方も俺を見さえしなかった。
あまりにも孤独に生き過ぎたことを後悔した。咲楽に固執し過ぎて他人に歩み寄る、人としての生き方を放棄してしまっていた。十年は消して短くない。
また高校生に戻ってしまった時、友情とか愛情とか希望とか信頼とか、耳触りの良い言葉が示すもの全てが、音を立てて崩れていった。
絶望して、恨んで、そして決意した。
自分を捨て、道化を演じてでも、何もかも利用する。例えそれが悪だと分かっていても。全てはもう一度、咲楽の笑顔を見るために。
咲楽を連れたイロナシが天井を破った。開いた穴から月が見えた。閉じ切る前に、穴を潜った。
成層圏。全てを呑み込むような宇宙の黒と、血を連想させる哀しい赤い地球が、グラデーションとして背景に広がっていた。こんなに高くまで登ったのは、初めてだった。
イロナシと咲楽が屋上の縁で立っていた。子供が勝手にどこか行かないように繋ぎ止める親子のように。
何十年ぶりと見る君の顔。相変わらず憂いを帯びていて、綺麗だった。
髪伸びたね。大人びた顔になったね。少し痩せたね。
言いたいことが山ほどあった。語り尽くす頃にはまた桜が咲いているかもしれない。
でもまだ、終わってはいない。右目を潰した、あのオリジナルのイロナシを倒さなければ終わりは迎えられない。
動く様子のないイロナシを見て、俺はゆっくりと屋上に着地した。
ここまで来るのに、色んなものを失い過ぎた。もしここで死に、また高校生に戻ったなら、俺はもうここまでくることは出来ないかもしれない。心が折れる所か、バラバラに砕け散って、もう二度と歩くことさえ出来ないかもしれない。
だから「これで、終わらせる」
銃を構えると、イロナシは咲楽を抱えて、後ろに倒れるように落ちていった。まるで投身自殺だった。
意表を突かれた。ジェット噴射で一気に近付く。縁から身を出すと、イロナシは蜘蛛のように壁にへばり付き、身構えていた。
悪魔が笑った気がした。罠か、と気付いた一瞬、手刀が振り上げられた。咄嗟に銃で防ぐ。瞬間、銃が粉々になり鉄屑へと変わった。
怯むな。
銃のない状況でのイロナシとの戦闘はもう五万としている。飛行装置を吹かせ、手刀より内側へ、イロナシへと突進する。
抱きつくようにイロナシを壁から剥がす。イロナシは翼を広げて安定を取ろうとしたが、俺は噴射を止めることはなかった。バランスを崩し、揉みくちゃになりながら二人と一匹は落下する。
赤と黒、黒と黒と白。地球が、宇宙が、イロナシが、俺が、咲楽が、入り乱れて落ちていく。
引き剥がそうとしてくるイロナシの手首を掴み、力を込める。右腕の義手が雄叫びを上げた。
この時のために、右腕を自分で切り落としたんだ。痛みの代価分は働いてもらう。
二千馬力の右腕がイロナシの手首をへし折った。子供のような甲高い悲鳴。イロナシが痙攣するように跳ねた。咲楽が手放された。
「馬鹿がっ!」何で手首が折れたぐらいで手放すんだ。
イロナシを蹴飛ばし、真っ逆さまに落ちていく咲楽を追い掛ける。
「咲楽!」右手を伸ばす。
咲楽は戸惑った顔していた。正直になり切れない右手が葛藤の中で揺れ動いているようだった。
『別に困ってなんていません!』『だって、信じたって言わないと帰ってくれないでしょ?』『私はとっても嘘つきですよ』『女の子は食事に敏感なんですよ』『このままだと何時間も居座ってしまいそうなので』『私の命を触らせてあげているんですから、丁寧にお願いしますね』
脳裏に擦り切れるぐらい繰り返した君との思い出が蘇る。まるで感情を出すのが許されていないかのように、君はいつも申し訳なさそうに表情を隠していた。
『私としたことが、随分と贅沢なことをしてしまいました。私はこんなに幸せになっていい人間ではありません』
でも君は『城嶋くん、ありがと』あんなに嬉しそうに笑うじゃないか。
『……ごめんね、誠くん……』君が自らイロナシと共に姿を消したあの日からずっと後悔し続けた。あの時、ああしていれば、こうしていれば、と何度となく考えた。
もう後悔したくなくて、なりふり構わずここまでやってきた。騙して、裏切って、殺して、自分を捨てて、自分を愛してくれた人の好意さえ利用して、ここまできた。踏みにじってきたものの上に立つ俺は、きっと血が乾いたみたいに真っ黒に染まっているだろう。この舞台から降りれば刺し殺されるに違いない。だからせめて憎しみに殺される前に、月並みでもいいから、君のために、言葉を尽くしたい。
「いいんだよ! 幸せになろうとしてもいいんだよ!」
咲楽がハッとして、目が合った。沈黙が数秒、決意に満ちた咲楽が手を伸ばしてきた。それを掴もうと、更に手を伸ばす。何度も宙を掻く手。あと数センチ。
しかし、ありとあらゆる物語が夢と希望を打ち砕く展開になるように、これもまた、例外なく、切り裂かれる。
伸ばしていた右腕が切断された。綺麗に切られて、手首より先が、あらぬ方向へと飛んでいく。眼前を横切る黒い怪物。咲楽が再び、イロナシの手中へと収まった。
「嫌っ、離して!」
咲楽が叫び、暗雲の中へと消えていく。
ジェット噴射で追い掛け、雲の中へと突入する。イロナシに並んだ。速度メーターは既に振り切られていた。
イロナシに後ろから組み付き、左手で腰に据えていた拳銃を取り出す。銃口を密着させ、発砲する。背中、頭、腕。黒い血を流すばかりで、イロナシは咲楽を手放そうとはしなかった。おもちゃを取られないようとする子供みたいだった。
イロナシが暴れ、バイザーが割れた。破片が頬を裂く。
「いい加減にしろ!」
切断され、鋭利になった右腕をイロナシの背中に突き刺した。悲鳴と共に黒い血が滲み出てくる。一度、引き抜き、もう一度、刺す。
一段と高い悲鳴。イロナシが咲楽を離した。イロナシから離れ、咲楽を追い掛ける。
手を伸ばす。
雲を抜けた。
引き止めるように、イロナシが後ろからヘルメットを鷲掴みしてきた。
背中の留め金を撃ち壊すと、バックパックが背中から切り離され、イロナシがバックパックを抱えるような姿勢になった。
ヘルメットに思いっ切りジェットの逆噴射を命令する。直後、ヘルメットが頭から抜け、イロナシはバックパックを抱えたまま、遥か上空へと離れていった。
拳銃をしまう。身軽になった俺は空を踊るように落ちて、左手を伸ばす。二人の間には、もう障害は何もなかった。伸ばされていた咲楽の手が、手中に収まる。長年のブランクも感じさせずそこにあるのが自然なように。そのまま引き寄せて、抱き締めた。
微かに分かる咲楽の匂いと温もり。背中に回された腕が痛いほどにしがみ付いてくる。何年も空いた空白を埋めるように、思いの丈をぶつけるように、俺達は気持ちを確かめ合う。
胸の中に顔を埋めていた咲楽が顔を上げた。真っ赤に染まった頬と鼻は寒いからかもしれない。温めるために、腕に力を込めた。
「どうして……どうしてこんな所まで来たんですか」
どうしてってそりゃ……
「君の笑顔が見たい。それだけだ」
咲楽の涙が風に煽られ、頬の傷口をそっと撫でた。
直後、聴き慣れた悲鳴のような雄叫びが聞こえた。上を見るとイロナシが迫っていた。まるでヒステリックを起こした人間だった。
右腕で咲楽を抱えるようにし、自由になった左手で拳銃を取り出す。
狙いを定め、躊躇うことなく、引き金を引いた。
銃弾はイロナシの抱えたバックパックに命中した。目でハッキリ分かるほどの強力な電気が散らばり、爆発四散する。
爆風に押され、加速する。
真っ逆さまに落ちていく。急激に迫る赤い地上。
怖がる咲楽を胸に抱く。せめてと思い、彼女の頭の上に左手を添えた。
間違いなく死ぬだろう。
でも、また君に出会えるなら、死んでもいいかもしれない。君のためなら、何度だって死んでも構わない。何度死のうが、何度だって君に会いに行く。死ぬ恐怖よりも、君に会えなくなることの方が、ずっとずっと、何倍も、恐ろしいことだから。
目を瞑ると、咲楽の匂いと温もりと感触を、胸に刻んだ。
※
全てが透き通った青で埋め尽くされていた。綺麗過ぎて、気味が悪い。自分がここにいることが不自然に感じた。鳥が二羽横切っていく。そこでようやく空だと理解した。こんな空、久しぶりに見た気がした。
右腕を上げる。血の通った腕があった。閉じ開きを繰り返し、感覚があることを確かめる。
また、死んだみたいだった。さて、次どんな世界かな、と体を起こす。
唖然とした。
見渡す限りが瓦礫の山だった。
これまで散々見た光景だけど、澄み渡る空と崩壊した地上の反する二つが揃い踏みするのは初めて見た。まるでオセロの石を横から見ているようだった。
だがその光景は初めて見るはずなのに、どこか既視感があった。違和感を探るように辺りを見渡す。
後ろを向いた時だった。
白い花が咲いていた。
瓦礫で周りの花が潰される中、花壇の隅に咲く一本のデイジーだけが残っていた。
花壇を縁取るレンガの色合い、花の位置、壊れたプランター。忘れるはずがなかった。
かつて、咲楽と植え替えたあの花だった。
「……戻って、きた……のか……」
脳裏を横切る様々な場面。咲楽の涙、咲楽の笑顔、伸ばす手、伸ばされる手。
下を見ると、瓦礫の隙間から白い腕が伸びていた。
胸に広がる嫌な予感。焦燥感に駆られ、夢中になって瓦礫を退かしていく。
そして現れたのは、霜月咲楽の死体だった。