四章 桜花救出作戦 1
あなたはいつも遠い存在で、憧れの人だった。
ロケットが飛んでいく。ススキを揺らし、雲を伸ばし、見えなくなっていく。
幾度となく見たその光景を、目に焼き付けるようにずっと眺めていた。
目に見えるいつもが愛おしくなるのは、終わりが近いからだろうか。
隣のあなたを見ると、また寂しそうに遠くを見ていた。
夕日がススキ草原を黄金に染め上げるこの風景の先に、あなたは何を見ているのだろう。
その眼差しは、十年前、まだ私達が学生だった頃と何も変わっていない。
隣の席のあなたは、いつも斜め前の女の子を見ていた。
授業中も休み時間も、あたしと話している最中も。
「黒板を見ているだけだよ」ってあなたは言ったけど、黒板がなくなっても、あなたはあの子を見続けている。
たまにはあたしのこと、見てくれてもいいじゃん。
「あのロケットはちゃんと月まで行くのかな?」
「地球に見切りをつけた人達のことなんか知らないよ」と相変わらず冷たいことを言う。
人類の希望、なんて呼ばれるあなたは、人類のことなんてこれっぽっちも考えていない。きっと、自分のことも考えてないんだと思う。
機械の右腕に触っても、あなたは気付かない。
ホント、冷たいよ。
一年前、本丸に忍び込んだ部隊から何枚かの写真のデータだけが帰還した。
写真のほとんどは生物の内側を撮ったような肉々しい本丸内の壁などを映したものだった。それらの写真とデータ内の位置情報から本丸内の構造を推測して地図を作っていくのだが、写真の中に一枚だけ、人物を撮った写真が入っていた。
部隊の誰でもなく、写っていたのは場に不相応に、白いワンピースを着た女性の姿だった。誰もが「何だ、この奇怪な写真は」と言ったらしい。ぼやけてハッキリとした顔は分からなかったが、人類の希望と評される人が、その人物を霜月咲楽だと断言したそうだ。
それから数ヶ月後、本丸中枢にいる霜月咲楽を救出するため『桜花救出作戦』が立案され始めた。
十年前、彼女とあたしはクラスメイトだった。
誰とも喋らずにいつも教室の隅にいて、空気みたいな存在だった。あたしが彼女の存在を意識し出したのは、城嶋が気にしていることに気付いたからだった。
教師からも相手にされない彼女の存在を意識しているのは、恐らく世界であたし達だけだった。逆に彼女があたし達に気付いていた様子は、当時は微塵も感じなかった。
この奇妙な三角関係が続いたある日、その日は訪れた。
突然教室の壁が吹き飛び、クラスメイトがたくさん死んで、霜月咲楽だけが拉致された。後にも先にも、奴らが拉致したのは霜月咲楽一人だけだった。
そんな彼女のために残された僅かな人類が「桜花救出作戦」なんて大層な作戦名を付けて動くのは、恐らく彼女が、この一方的な蹂躙を止める鍵である可能性が出てきたからだ。そう、あくまで「恐らく」で「可能性」。
言語もコミュニケーション方法も持ちえない奴らが、どうやって仲間内で意思疎通を行い、どうして目的不明の殺戮を繰り返すのかは長年不明だった。だが、奴らの根城である本丸から人間と同じ意識波長が定期的に発せられていることが判明し、奴らはその意識波長に反応して動いていることが分かったらしい。そしてその意識波長は十代後半の女性の元ととても酷似し、霜月咲楽も拉致された当時は十七歳であったこと、本丸中枢で彼女の姿が確認されたことから、霜月咲楽を救出することが、人類が救われる唯一の道と考えられたのだ。
少女一人がこの戦いを止める、なんていう映画みたいな話に賭けるしかないほど、打てる手がもう残されていないなんて、笑えない冗談だった。それが恋敵なんだから、尚更だ。
そして今日、総攻撃の前日。戦地へ赴く全隊員に休暇が出された。
準備に半年以上掛けられた人類最後の総攻撃。明日の戦いは、これまでの戦いとは違う。撤退の二文字がなく、負けは即ち、死を意味する。
昼間にお母さんとの涙の別れを済ませ、月への移民船を見送った。夕方まで部屋を片付け、死に支度を済ませると、最後の心残りを清算するため彼を呼び出した。
場所は基地から少し離れたススキ草原の中に建てられた物置小屋の上。初めて戦地へ向かう前日、怖がるあたしを彼がここで慰めてくれたのだ。それ以来、彼と二人っきりになれる場所として、ここはお気に入りになっていた。
やっぱり最後ぐらい、もう一度のこの場所で彼と二人っきりになりたかった。
最後、最後と何度も呟くのは、何も死だけを意味するわけではない。あたしが生き残り、もし作戦に成功したとしても、そこはあたしが望んだ世界ではないからだ。
彼女の救出が成功した時、彼と二人っきりになる時間はもう二度と訪れないのは明白だからだ。本音で言えば、こんな作戦どうでもよかった。緩やかに衰退していく人類の営みの中で、救われない彼と一緒に死ぬ方がまだマシだった。
明日なんか来てほしくない。でも、人類の命運がかかっているのだから、あたし一個人の感情なんてどうでもいい。でも明日は来てほしくない。
どうしようもない葛藤。考えてもしょうがないのに、考え込んでしまう。
「どうしたの? そんなに俺のこと睨んで」
「あ、ごめん、考え事してた」
「まぁ明日死ぬかもしれないからね。考えることもたくさんあるよね」
彼は何を考えていたのだろう。明日のこと? 昔のこと? それとも霜月さんのこと? あたしのことを考えていてくれていたら嬉しいけど、きっとそれはないだろう。
「ねぇ、城嶋」何を考えているの? と訊こうと思った。でも途端に怖くなった。その答えが何であれ、きっと私は傷つく。彼の発言に何度一喜一憂したことか。いや、むしろ喜んだことがあっただろうか。
「何?」
これ以上傷つくなら、どうせ明日死ぬのなら、せめて、最後に自分の想いぐらい伝えたい。
「……あたしね、昔から城嶋のことが……好きだったの……」
言ってしまった。明日にはなくなってしまうのに、フラれるのは分かっているのに、もしかしたら、何て小さな希望が捨てられなくて、存在しない幻を掴みに行ってしまった。
彼の顔を盗み見ると、予想外だ、と言わんばかりに目が見開いていた。機械の右目が容赦なく私を見つめてきていた。
少し間を開けて「……ここが旅の終着点なんだよ」と彼は切り出した。
「昔、色んな世界に行ったんだ。平和なとこ、暑いとこ、寒いとこ、貧しいとこ、異質なとこ。でもこの世界より先は存在しないんだ。俺が何で、人類の希望って言われているか、その真実はなんだと思う?」
一体何の話をしているのだろうと思いつつも、「奴らをいっぱい倒したからじゃないの?」とあたしは答える。
「それは半分正解。もう半分、何で俺はたくさん倒せることが出来るんだと思う?」
「頑張って訓練したからじゃないの?」
「違う。正解は、俺は何度も死んでいるから、でした」
「……え?」
「意味分かんないよね。でも本当なんだ。今までは死んだら別の世界に飛ばされていたのに、この世界に来てからは死んだら咲楽がいなくなった翌日に目が覚めるようになったんだ。最初は混乱したさ、誰だって今までのルールが突然変わったら困惑する。でもしばらく繰り返すうちに気が付いたんだ。もしかしたらこれまでの法則と実はなにも変わっていなくて、こっちが勝手にこれまでの法則を勘違いしていたのでは? ってね。鮮川、君は覚えていないけど、君と初めて会った時、君はこの世界をパラレルワールドだと言った。当時の俺はそれに納得してしまって、疑うこともなく死ぬ度に別の世界に移動するものだと思っていたんだ。だけど、実際は違ったんだよ。別の世界に行っていなかったんだ。俺はずっと同じ世界にいて、世界の方が姿形を変えていたんだ。そして咲楽がイロナシと共に俺の目の前から去ってから、世界は変化することを止めた。つまり、世界と咲楽とイロナシは何か繋がっているんだ。きっと俺も、それに繋がっている一人なんだと思う。……だからさ鮮川、俺は咲楽の傍にいないといけないんだよ」
何を言っているかよく分からなかった。ただ、振られたということだけはハッキリと分かった。最初から、十年前から分かっていたことのはずなのに、こうして突きつけられるとどうしようもなく悲しくて、涙が出て、止まらなくなる。
彼は気付いていたけど、慰めることをしてくれはしなかった。それも知ってる。彼はこういう時、何も言わない。何もしない。自分が傷つけた時、彼はその痛みを背負おうとする。それが優しさなのか、罪滅ぼしなのか、どちらにしても、酷く不器用だと思う。
でもあたしは馬鹿だからその背中に甘えて、子供みたいに抑えきれない声を上げた。
「別の世界とか、時間が戻るとか、傍にいないといけないとか、どれこれも、意味分かんない!」
彼は何も言わない。
「振るにしたってもっとましな言い回しがあったでしょ!」
やっぱり反論しない。少しは反論してほしかった。この際、思いっきり喧嘩して悪口をいっぱい言ってやりたかった。
寝癖は直せ、訓練をサボるな、もっと愛想を良くしろ、後輩の面倒をみろ、汗を掻いたらシャワーを浴びろ、たまには部屋の掃除をしろ、洗濯をしろ、同じ服ばかり着るな、椅子で寝るな、ちゃんと人の目を見ろ、話を聞け、もっとあたしを構え。
一方的に言ったらあたしが悪いみたいで嫌だから、精一杯の嫌味を込めてあたしは一言だけ言う。
「あんたは、壊れてるよ……」
「……そうかもしれないな」
しばらくして、泣き止んだあたしは城嶋を置いて、無言で立ち去った。彼もそれを引き止めることはしなかった。
ちょっとだけ引き止めてくれることを期待していた。
黄昏時、夕色と夜の色が曖昧になって黒く染まっていく。
ススキ草原に出来た獣道を辿りながら基地へと戻る。
帰り道、思い出して、また泣いた。
濡れる手で拭っても、意味はなかった。
※
「俺も鮮川が好きだったんだ。いつも傍にいれくれてありがとう」
予想外だった。涙が出てきた。人ってホントに嬉しいことがあると涙が出るんだ。
彼は何も言わず、ただ黙って横にいてくれた。
ねぇ、もう一回言って。嘘でもいいから、もう一回。
彼の心の傷を映す、磨りガラスのような両目の瞳には、あたしは映ってはいなかった。
彼はあたしなんか見ていない。いつもあたしではない遠くの誰かに想いを馳せている。その相手が霜月さんだということをあたしは気付いている。
……でもあたしは単純だから、なんだかもう少し生きたくなっちゃったよ。
地球最後の日に何がしたい? っていう質問が一時期基地内で流行になったことがあった。
あたしは「好きな人と一緒に居たい」って言って同僚に笑われた。
彼は…… 何だっかな……
夜、出撃前夜ということで食堂ではささやかな宴が行われていた。
「最後ぐらいいいじゃん」とあたしは手を繋いで会場に向かった。
あたし達の姿を見て、皆口々に何かを言っていた。驚く人、悔しがる人、納得がいった人、笑う人。幼馴染は、悲しそうに笑っていた。
会場は次第に熱せられていく。
どこに隠してあったんだか、次々に運び込まれるお酒とお肉。それを誰も咎めようとはせず、あのいつも怒っていた禿げオヤジさえも、今日ばかりは笑っていた。
皆が集まって笑う光景は初めて見た。幸せな光景だと思った。でも瞬間、それは皆が最後だと分かっている証拠だと気付いてしまった。だから私も虚飾まみれの笑顔を作った。
偽物でも、いつかは本物に変わると信じて。
熱を一気に冷めさせたのは、一発の銃声だった。
騒動の中心には右足から血を流す吉野さんと、銃を構えた彼がいた。
「今度は邪魔させない」
その言葉に色はなく、温度もなく、感情さえも乗っていなかった。
二人の仲が悪いのは有名だった。
一ヶ月前。桜花救出作戦、その決定稿の発表がされた。
内容はとてもシンプルで、本丸に向け包囲攻撃、相手の戦力を分散させる。後から主力部隊で一点突破を仕掛け、霜月咲楽を救出する。というものだ。
主力部隊のメンバーは彼を筆頭に、数多くの場数と実績を残したエリートが名を連ねた。
あたしとおっちゃんもその中にいた。もちろん吉野さんも。
どんな理不尽な作戦でも異論を呈したことがなかった彼が、珍しく声を上げた。
「吉野は外せ」
吉野さんは最年長にして物腰柔らかさから基地内での人気が高い人だ。実績だって申し分ない。騒めきが起こったのは当然だった。
誰かが理由を尋ねた。
隣の彼は何かを言い掛けて、一旦やめると、改めて「嫌いだから」と言った。
いくら人類の希望と言われる凄い人でも、その意見は却下された。
吉野さんを慕っている人が、彼の胸倉を掴んだ。
「お前、何してんだよ!」
彼はそれを意に介さず、床に倒れる吉野の左足に追い打ちを撃ち込んだ。
狂気的だった。誰もが言葉を失った。
「……てめぇ……調子乗ってんじゃねぇぞ!」
振り上げられた拳を、おっちゃんが止めた。
「怪我人を増やして、戦力を減らすのは良くない」
胸倉を掴んだ方は理解しつつも、怒りを鎮めることも出来なかったようだった。彼に唾を吐き、運ばれていく吉野さんに付いていった。
誰も声を掛けられなかった。
彼が無慈悲に狂気的な行動をするのは稀にあった。何でそんなことをするのか尋ねると、彼は決まって同じ答えを言う。
「やられたからやり返した」
今回もきっとそうだろう。だが実際に城嶋がやられた現場を見た、という証言を得たことは一度もないらしかった。そんな彼を周りは、薬でおかしくなっているだの、天才は何を考えているか分からないだの、戦い過ぎて壊れただの、陰で好き放題言っているのは確かだった。
彼が壊れているのはあたしも共感した。でもそれは、彼のせいじゃない。自傷行為をする人はいれど、自ら精神的に壊れるなんて不可能だ。彼をそこまでにした周りの環境があたしは憎い。そして何よりも、彼が可哀想だった。
騒ぎを聞きつけた守衛がやって来て、間もなくして彼を取り囲んだ。
本来なら問答無用で懲罰房に入れられるのだが、作戦開始まで既に十二時間を切っている。今回の件は作戦終了後に咎められることになった。その時が訪れるかは定かではないが。
誰かが仕切り直そうと声を上げた。その気概を無駄にしように誰かが乗っかり、その勢いが次第に伝染していった。
会場を出て行く彼を追って、あたしも外を出た。負い目を感じているのかもしれない。
閑散とした滑走路に夜風が吹いていた。
彼が立ち止まる。
「鮮川はさ、地球最後の日に何がしたい?」
「あたしは……好きな人の隣に居たいかな。……城嶋は?」
「……もう一度、満開の桜が見たいな」
それから十時間後、桜花救出作戦が始動した。