三章 人類の希望 7
海水調査に行くときに使ったリフトへ行くと、都合良く無人だった。外へ出ることは自殺行為として扱われているのが幸いとなった。
ロッカーから塩雪対策一式を盗むと、スノーモービルをリフトの上に用意し、昇降機のレバーを下げた。リフトが上がっている最中にレバーを戻されないようにワイヤーで近くの機械にきつく結ぶ。地上への出口は他にもあるが、それでも足止めぐらいにはなるだろう。霜月が待つリフトへと走る。
途端、今までに聞いたことのないサイレンが耳を劈いた。このサイレンが僕達の脱走を示すものだとすぐに分かった。
焦る気持ちと対照的にリフトは重い腰をあげるようにゆっくりと上がっていく。部屋の隅に人影が見えた。胸騒ぎが一瞬。
「行かせるかよ!」
一息にリフトに飛び乗ってきたのは、緒方だった。
僕が反応するよりも早く、緒方が振り下ろした拳が僕の下顎に直撃する。視界が揺れ、倒れると、覆い被さろうとしてくる。反射的に足で緒方を押し飛ばす。
立ち上がったのはほぼ同時。殴ろうとした拳を受け止められ、こちらも殴ろうとしてきた拳を受け止めた。
「今ならまだ間に合う。城嶋、今すぐこんなこと止めろ」
「……嫌だ」
「外へ逃げて、どうするつもりだ。お前達の行こうとしている先には、何もないんだぞ!」
「それでも、ここにいるよりもマシだ!」
足に力が入らない。腕の力も押し負ける。
「霜月は人類の希望なんだぞ! お前、人類を敵に回すつもりか!」
「構わない! 知らない人が知らない場所で助かるよりも、僕は今ここにいる人の傍に居たい!」
霜月が緒方に体当たりをした。緒方の姿勢が崩れ、僕も体当たりの追い打ちを掛ける。よろめいた所を最後に手で突き飛ばし、緒方をリフトから追い出した。落ちていく音がした。リフトはもう登ってくるのは不可能な高さにあった。
スノーモービルに跨ると「運転出来るんですか?」と霜月が訊いてきた。
「たぶん、緒方の運転見てたから。まぁ最悪、親から貰った立派な足があるし」
リフトが頂上に辿り着き、扉が開く。
外は吹雪だった。一寸先も全く見えない。不安なのか組み付いてくる霜月の腕に力がこもる。
「行こう」
アクセルを入れると、僕達を乗せたスノーモービルは真っ白な闇の中に走り出した。
行き場所なんて決めてない。ただ、あの体に纏わりつく柵から逃れたくて、遠くへ、遠くへ、誰にも邪魔されない場所へ、二人で、行きたかった。
でもそんな願いが許されるはずもなく、僕の感傷への浸りは一発の銃声で打ち砕かれた。
耳元を掠める甲高い音。鋭い風。振り向くと、おぼろげに見えるスノーモービルの姿があった。緒方だとすぐに分かった。
急カーブし、市街地へと紛れ込む。小さな瓦礫を何度も踏み、車体が跳ねる。その間にスノーモービルの影から何発も銃弾が飛んできた。
学生が考えなしで言う「殺す」なんていう軽いものじゃない。本物の殺意が自分に向けられている。罪悪感で吐きそうだった。
何発目かの銃声が鳴った時、霜月が短い悲鳴を上げた。
「どうした!?」
「……すみません……当たっちゃった……みたいです」
血の気が引いた。また僕のせいなのか。僕がこんなことをしたせいで……
解けていく霜月の手を掴む。
「やめろ緒方! やめてくれぇ! 霜月を連れ戻したいんだろお前は!?」
後ろに叫んだが、スノーモービルがいないような気がした。
戸惑いと不安が、胸を過る。直後、真横からけたたましいエンジン音が聞こえた。
「城嶋あああぁああああぁあ!」
宙を飛んできたスノーモービルが眼前に迫り、視界を埋め尽くす。衝撃、痛み、思考停止。何度も体が転がる。気が付くと、地面が近かった。
朦朧とする意識。もしかしたら一瞬意識を失っていたのかもしれない。頭が割れるように痛い。いや、実際割れているのかもしれない。目の前の塩の上に赤い雫が垂れ落ちる。鼻も感覚がなくなっていた。口の中がしょっぱい。
何とか体を起こし、周りを確認する。
霜月は?
吹雪が収まる気配はなく、見える範囲には誰もいないようだった。
「霜月、どこだ!」
悲鳴をあげる体に鞭打ち、近くにあった血の跡を追っていく。霜月が倒れていた。
「大丈夫!?」
上体を起こすと痛そうに顔を歪める霜月が「結構キツいかも」と呟いた。
どうする。どうすればいい?
腹を殴るような重々しい音がした。工事現場で耳にする機械音。その正体が何であるかはすぐに察しがついた。音が異様に近い。
姿勢なんて気にする暇もなく、霜月を抱えたまま、その場から離れるために転がった。
刹那、空振りに終わったチェーンソーが雄叫びを上げながら宙を引き裂いた。
その人物は、やはり緒方だった。開かれた目に慈悲の色はなく、頭から血を流すこともマスクをしていないことも気にも留めず、ただ殺すことだけを考えているようだった。
緒方から目を離さないようにしながら、そっと霜月を降ろす。
「緒方、やめてくれ。もう放っておいてくれよ」
緒方は首を横に振ると「……鮮川はもう、いないんだよ。だから俺ももう、止まれないんだよ!」と強くなった語尾に合わせ、切り掛かってくる。
距離を取ると、緒方は僕の方へと向かってきた。狙いはやっぱり、最初から霜月ではなく、僕を殺すことだったのだろう。
たまたま落ちていた鉄パイプを拾い、振り下ろされたチェーンソーを防ぐと、火花を散らし、互いを拒絶するように弾かれた。
何度も火花を散らし、咲かせ、拒絶し合う。
誰とも争いたくなかったのに、どうして僕は緒方とこんなことをしているのだろう。
「……頼む、城嶋、死んでくれ。お前が死んでくれないと、俺はどうにかなっちまいそうなんだよ」
疲労か塩の影響か定かではないが、緒方は立っているのもやっとのように見えた。チェーンソーを振り上げる度に重さに引かれて数歩下がり、振り下ろした拍子に数歩前へと歩く。もう執念だけが体を動かしているようだった。
ふらつく足元を見ていると、死に場所を探しているようにも思える。
殺す必要はない。後頭部でも殴り、気絶させることも出来るだろう。でも、マスクなしではどの道死ぬ。結局僕が殺したも同然だ。選べるのは、この手で直接殺すか、間接的に殺すかだ。友達を殺すならせめて、この手で殺して背負う罪の重さを、知っておくべきなのかもしれない。霜月がそうやったように。
大振りの攻撃を避け、懐へと入る。
「……ごめん、緒方」
尖った鉄パイプを左胸に突き刺した。とても簡単だった。手の痺れに、肉を破る感触と骨を砕く感覚、友達を殺す自己嫌悪。
チェーンソーが落ちた。緒方の腕がだらりと垂れ、ふらふらと踊り出す。鉄パイプの穴から水道の蛇口のように血が流れ出て、塩雪に赤いシロップが掛けられていく。
膝から崩れ落ちて、倒れそうになった緒方を抱きとめた。久しぶりに人の重さを感じた。
既に目の焦点の合っていない緒方が、熱にうなされたように喋り出す。
「俺はさ……ただ、お前が羨ましかったんだよ……あいつが、最期まで……お前の名前を、呼んでたから……最期まで、一緒にいたのは俺……なのにさ……」
涙が止まらなかった。溢れて、震えて、嗚咽しそうになる。
「ごめん、緒方、ごめん、ごめん、本当にごめん……」
「何で、お前が謝るんだよ……お前は、悪くないだろ……これも、自己中な俺の、報い……」
本当はずっと、ずっと前から、この世界に来る前から鮮川が僕に好意を抱いているのは分かっていた。それに対して、緒方が疎ましく思っていたのも感じていた。それを僕は知っていながら、後回しにして、先延ばしにしていた。その結果がこれだ。これは僕の責任だ。
緒方が息を引き取った。直後、塩になった緒方がぼろぼろと崩れて、僕の腕から零れ落ちていく。
僕の体に収まりきらない感情が行き場を失い、喉から溢れ出て、叫んだ。
後悔も、憤りも、思い出も、罪も、責任も、焦燥も、感傷も、懺悔も、悲しみも、何で僕は生きているんだ。こんな生きていてもしょうがないのに、何で僕は未だに自分を殺しきれないんだ。
自分を痛めつけるように、叫び続けた。
そして世界は、再び急変する。
突風が吹き、尻餅を着いた。吹雪が突然止み、視界が晴れた。呆気に取られた。何が起きた、と考えるよりも先に、その原因が目に入った。
僕と霜月の間に、イロナシがいた。
何色も混ぜて黒くなったような巨体から悪魔のような羽が怏々と広げられる。
……あぁ、タイムアップか……丁度いい、いっそ苦しむように殺してくれ……
たまには神様も粋なことをしてくれる。
そうやって僕は、又しても自分の都合の良いように解釈していた。一番の自己中が自分だって未だに気付かないのだ。
事態は僕を殺すことなんかよりずっと悪く、進行する。
霜月がイロナシに近付いていく。さすがにそれは不味い。
「駄目だ、そいつに近寄ったら!」
霜月が僕の方を見た。
「……ごめんね、誠くん……」
その口調、僕の呼び方、全てが僕の知っている霜月ではなかった。
イロナシは霜月を抱えると、一回、二回と羽ばたきだす。まるで飛んでいく前兆だ。
「待てよ……どういうことだよ!」
立ち上がり、走り出す。
霜月、君は一体何者なんだ。君は一体何を知っているんだ。イロナシは僕を殺すためだけにいるんじゃないのか。
イロナシに飛び掛かかる。
「待てって、言ってんだろ!」
ポケットに入れていた折り畳みナイフを目に突き刺した。黒い血が跳ね、イロナシが絶叫を上げ、僕を引き剥がした。
ゴミみたいに投げ捨てられる。脳を焼くような痛み。今の一瞬で右腕が切り落とされていた。
痛みで意識が飛びそうになる。視界の隅が黒くなり始めた。
霜月と共にイロナシが空に上がっていく。
「待って、待ってよ……お前の相手は、僕じゃないのか……!」
足にはもう力が入らない。霞む視界。痛み。吐き気。全部を堪えて、雑巾みたいな僕は残る全てを振り絞って、届きはしない空に向かって左手を伸ばし、叫ぶ。
「僕は……俺はこっちだぞ、イロナシいいぃい!」
宙を掻く左手の指先から、ぼろぼろと白く崩れていく。
叫び声が虚しく雪のように落ちていく。
手が消え、足を失い、ナメクジのようになっても、叫び続けた。
全てがなくなる最後のその一粒まで、叫び続けた。