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三章 人類の希望 6

 結局霜月は退院する日も姿を現さなかった。

 退院したその足で僕は真っ直ぐ霜月の部屋へと向かった。ノックをしても返事はなく、ドアに耳を当てても中からは物音一つしなかった。悪いとは思いつつ、ドアを開けて中を覗く。自室には鍵を掛けられない規則がこんな所で役に立つとは思わなかった。

 中は僕の部屋と同じで殺風景で、誰かいる様子はなかった。

 訓練所に行っても、食堂に行っても、植物園に行っても、霜月の姿はなかった。科学部生物学科があるエリアに行こうとしたが、途中からは関係者以外立ち入り禁止になっていて、鍵の付きのドアの向こうには行けなかった。

 他に思い当たる場所もなく、しょうがないので後回しにしていた緒方への退院報告をしに行くことにした。

 ドアをノックしても返事はなかった。

 躊躇いなくドアを開け、中を確認する。中には誰にもいなかった。

 緒方もいないのか。大人しく部屋に戻るかな。と出て行こうと思った所で、机の上に見覚えのある花を見つけた。

 押し花にされ、半永久的にその美しさを残された花。名前も知らない白い花。霜月と一緒に花壇に移し替えた花だ。

 押し花の乗った机には、手帳が置いてあった。興味本位で本を手に取り、一ページから開いてみる。

【《二〇一四年○月×日》

 ようやく念願だった白紙の紙束が手に入った。今日から日記を書いていこうと思う。とは言ってもまた不定期だが。】

 緒方の日記のようだった。

 あいつ見た目に寄らず日記何か書いてんのかよ。と好奇心に釣られて文字を読み進めていく。

 そこに書かれていた内容に、僕は開いた口が塞がらなくなった。読み進めれば、元の関係に戻れないと途中から理解しても、ページを捲る手を止めることは出来なかった。

 日記に書かれた記憶喪失以前の霜月はまるで別人のようだった。どの世界でも憂いを帯びた顔をしていた霜月。それが根本からある霜月の考え方や生き方の体現だと思っていた。

 しかし日記の霜月は緒方のことをおっちゃんと気さくに呼び、笑顔を作ることに躊躇いを感じていないようだった。いくら記憶喪失になったからといって、いきなり無表情に暗くなったりするだろうか。毎回人を殺していた吉野が同じ吉野かもしれないという疑問も解けていないままだ。もしかしたら、僕は霜月咲楽について根本的に勘違いしているのではないか?

 【《二〇一五年○月×日》

 肋骨が折れて痛い。吉野の裏切りとか、班壊滅責任とか、鮮川が塩を吸ってしまったとか、色々積み重なって胃が痛い。もう全部痛い。

 でもきっと鮮川の方が苦しんでいる。俺なんかよりずっと辛いはずだ。俺は弱音を吐いていい立場じゃない。弱音を吐くのはこの日記だけだ。】

 【《二〇一五年○月×日》

 鮮川が全身巻かれた。目と鼻と口は開けてもらっているが、痛々しく見てられなかった。体中に痒みと痛みがあるみたいでずっと悶えていた。俺には何も出来なくて、謝罪と気晴らしにもならない慰めを言い続けるしか出来なかった。気持ち少し小さくなった気がした。医者にももう助かる見込みはないと言われた。薄々気付いていたが、実際に言われるとショックだった。他人が死んでも涙なんて出なかったのに、さっきから涙が溢れて止まらない。疲れているはずなのに、眠りたいのに、これっぽちも眠くならない。いつもどうやって寝てただろうか。】

 【《二〇一五年○月×日》

 お見舞いの帰り道、安田さんを見つけた。思わず掴む手に力が入ってしまった。山本と吉野の素性調査を依頼して以来音沙汰なくなるし、ようやく連絡してきたと思ったら『防弾チョッキを着て行け』の一言だけ。手に力が入るのも当然だ。

 問い詰めたらようやく口を割った。

 班員全員にスパイ容疑掛かっていた何て全く笑えない冗談だった。海水調査も最初からスパイを炙り出すための囮任務だったなんて下手なB級映画でも使われない設定だ。ふざけやがって。吉野が死んだ後、丁度タイミングよく他の班が通り掛って助けられたのも、あれもただの三文芝居だったてことかよ。

 だが、田中が死んでからの増員が遅かったのも、青森遠征の数少ない生き残りの二人が俺の班に入れられたのもおかしいとは思っていたが、これで納得はいった。納得はいったが、俺と鮮川にもスパイ容疑が掛かっていたってことが腹立たしい。上層部のやり方にも腹が立つ。上層部は俺を信用してなかったってことだし、今回の件で俺からの信用も落ちた。信じられるものは、辛いものばかりだ。】

 【《二〇一五年○月×日》

 最近腹痛が酷い。肋骨ではなく、胃の方だ。夜も寝れない日が続いている気がする。

 胃薬ではなく、またいつもの睡眠導入剤を処方された。すぐに睡眠薬を処方するのはあの適当な医者の悪い癖だ。

 鮮川の容態も日に日に悪くなっていっている。何より辛いのは、鮮川がうわ言のように城嶋の名前を呼ぶことだ。あいつの気持ちは分かってはいる。いつだって俺は眼中になくて、ただの幼馴染にしか過ぎない。あいつが地上調査隊に入るって言った時から何も変わっていない。

 別にあいつが誰を好きになったって構わない。それであいつが笑って毎日を送れるなら俺はなんだってする。だけど、やっぱり、隣にいることを望まれてないってのは少し寂しい。

 そして言ってやりたい。お前の好きな男は今、別の女と一緒にいるぞって。】

 【《二〇一五年○月×日》

 霜月が塩化になっていないってのは絶対におかしい。鮮川はあんなになってしまったっていうのに、どうして霜月は平気なんだ。一日ずっと考えて、ふと気が付いた。あいつはもしかして、塩を摂取しても何ら異常をきたさない特異体質なんじゃないか?

 明日、科学部に相談しにいこう】

 【《二〇一五年○月×日》

 俺の予想は的中していた。霜月は塩に耐性を持つ人間だった。採取した血に塩を入れても、水に溶かした塩を注射しても、塩化反応は起きなかったらしい。これは凄いことだ。人類が地下に逃げ込んでから百年間の歴史上、今まで一人として塩に耐性を持つ人間は現れたことはない。これから研究が進み、どうして塩化反応が起きないのか原因が究明出来れば、世界は大きく変わる。霜月は正に、人類の希望だ。】

 「ふざけんじゃねぇ!」

 何がスパイ容疑だ。何が人類の希望だ。

 行き場のない憤りが、拳になって机を叩いていた。

 「人の部屋で、勝手に何をしているんだ」

 振り向くと、壁に寄り掛かる緒方が悠然とこちらを見ていた。

 収まらない怒りに駆られ、無意識に緒方の胸倉を掴んだ。

 「てめぇ! 何が分からないだ! お前が霜月を」

 「足が治ったばかりなのに、随分威勢がいいな」

 依然として上から目線な態度を止めない緒方が続ける。

 「お前が何で怒っているのか、俺にはサッパリ分からないな。勝手に日記を読まれて、怒りたいのはこっちの方だ。それに、もしお前がスパイ容疑に掛けられていたことを知って怒っていたとしても、好きな子が研究対象にされて怒っていたとしても、俺に怒るのはお門違いだ。俺だって容疑を掛けられていた身だし、霜月の件は人類にとって最善手だ。黙って見過ごす方が悪だと思うね」

 実際その通りだった。僕が怒ってもしょうがないことで、緒方に怒りの矛先を向けるのは間違っている。

 「好きな子が研究対象にされている事実は確かに同情の余地があるけどな。お前はもう少し、自分勝手でいることを辞めるべきだ。ほら、手を放せよ」

 手を剥がされた拍子に机にぶつかった。ひらひらと押し花が落ちる。

 「それはデイジーっていう花だ。鮮川の誕生日にあげようと思って植物科の人から貰ったんだが、お前にやるよ。笑ってほしくて用意したんだけど、あいつもう、笑えないからさ。霜月にでもあげてやれ」

 「……いらない」

 「デイジーってのは昔はポピュラーな花だったらしくてな、花言葉が色々あるんだ。美人とか平和とか、あと一つ、お前らにお似合いな言葉があるんだ、何だと思う?」

 「……知らない」

 「希望だよ。な、ピッタリだろ」

 「皮肉のつもりか……てめぇ」

 「どう受け取ってもらって構わない。いいから早く部屋から出て行け。ここはお前がいていい場所じゃない」

 部屋から追い出されると、途方に暮れて、ふらふらと彷徨い歩いた。

 緒方の棘のある言い方、『自分勝手』や『ここはお前がいていい場所じゃない』といった言葉選びは少なからず僕を傷つけることには成功していた。

 気が付くと、自分の部屋に戻ってきていて、硬いベッドの上に倒れ込んだ。長い間放置していたから埃っぽかった。

 どうすればいい、何をすればいい。焦燥感だけが胸の中で走り回って、自分の無力さが歯痒かった。

 まさか睡眠導入剤がこんな所で役に立つとは思わなかった。

 翌日以降も僕は焦燥感だけをぶら下げて、胃の中に燻ぶっているものの正体が分からないまま、ベッドに転がっていた。

 霜月に会いたいと思い、日に何度も霜月の部屋と自分の部屋を行き来した。

 誰もいない部屋をノックして、ベッドで転がって、ノックしての繰り返し。

 霜月に会えないまま、一ヶ月が経過した。

 その日も僕は霜月がお見舞いに来てくれていた時間と同じ時刻に部屋に向かっていた。道中で名案が浮かぶ。

 そうだ、自殺しよう。自殺して別の世界に行けば、この状況を打開出来る。

 自殺は今までしたことがなかった。死の恐怖を知っているからこそ、僕は常に誰よりも生きることにしがみついていきた。

 だけど今回は死ぬしかない。このまま生きて、この世界に留まっても、これ以上状況が好転するとは思えない。そもそもこの世界に固執する必要だってないじゃないか。

 じゃあどうやって死ぬかな。何てことを考えていると、「城嶋さん?」と耳に馴染んだ声が聞こえた。

ハッとして顔を上げると、前方から患者服の霜月が歩いてきていた。

 僕は思わず、名前を呼んで近くまで走った。抱きつきたい、触りたいという衝動を堪え、立ち止まると「久しぶり、大丈夫?」と顔を覗いた。薄暗くて遠くからは分からなかったが、霜月の顔色は決して健康と言えるものではなかった。なのに霜月は「大丈夫です。口の中が少ししょっぱいぐらいです」と両手を顔の前で振った。

 僕はその手を掴むと嫌がる霜月を無視して無理やり袖を捲った。腕には大量の注射の痕が痣になっていた。

 「すみません。本当に、大丈夫ですから」

 悪いことをした子供が罰を受ける時の顔をしていた。

 酷く可哀想だった。日頃から辛い目にあっても、それはしょうがないことと自分を殺し、自分にも責任があるからと自分を責め立てているみたいだった。

 普通の人なら同情して欲しいとか、心配して欲しいって思うものだ。だけど霜月は、本気で自分が悪いと思っているようだ。

 「あの、城嶋さん、痛くないんですか?」

 我に返ると口いっぱいに血の味が広がっていた。じりじりと下唇が痛みだす。

 目頭が熱くなりだした。

 僕より辛いのに心配させて「ごめん」嫌がっているのに無理やり見て「ごめん」あの時ちゃんと止められなくて「ごめん」早く死んでこの世界からいなくならなくて「ごめん」この世界に来て「ごめん」君を助けてあげられなくて「ごめん」

 「何で城嶋さんが謝るんですか? 悪いのは私ですよ。もし私が普通の人だったら、こんなことにはなってなかったんですから」

 何でそんな悲しいことを言うんだ。君が悪い要素なんて、何一つないじゃないか。もし誰かが悪いとすれば、それはこんな意味不明な世界の方だ。

 どうしようもなく無力な僕は霜月の両手を覆うように、両手で握った。力を込めれば折れてしまいそうな、一度赤く染まった白い手。誰かを傷つけないようにするために柔らかくて、誰かに優しくするためのように温かいのに、誰かに怯えるように震えていた。

 どうすればこの震えは止まるの? もっと強く握ればいい? もっと温めればいい?

 「手、冷たいですね」

 「手が冷たい人は心が温かいんだよ」

 「逆説的に私が冷たい人みたいじゃないですか」

 「君の目はいつも冷たいよ」

 僕に何が出来る? 何をしてあげられる? どうすればこの人の力になれる? どうすればいい? どうすればまた君は笑ってくれる?

 「じゃあ」と霜月は僕の手から両手を引き抜くと、逆に両手を包んできて「こうすれば城嶋さんも私と同じになりますね」と悪戯に言った。

 瞬間、全部がどうでもよくなった。生きるとか死ぬとか世界とか、もうどうでもいい。僕がどうなろうが知ったこっちゃない。全を助けるために、目の前の一を犠牲にするとかそういう理屈もどうでもいい。

 僕にとったら、君が全で、君が一だ。

 君さえいればいい、あとはもう、何もいらない。

 「逃げよう」

 戸惑う霜月の手を取り、僕は暗闇の向こうに走り出した。

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