三章 人類の希望 5
翌日から僕は、リハビリを始めた。衰えた足腰を元に戻すことがこんなにもきついものだとは思わなかった。リハビリを終えてベッドの戻ると霜月が待っていてくれた。そこから二人で施設内を散歩した。
その一日の流れは次第に当たり前になっていった。
あの植物園まで行ったり、知らない角を曲がって施設内を探検したりと、僕達の会話が尽きることはなかった。
そんなある日のことだった。
向かい側から緒方が歩いてきた。その足取りは重そうに引きずられ、項垂れた首は前を見ていなかった。
声を掛けると、ようやく気付いたのか「おぉ、久しぶりだな」と張りのない声を出してきた。目の下は隈で覆われ、青白い肌は死人のようだった。
「お前、大丈夫か?」
「最近少し寝れてないだけだ」
全身から滲み出る疲れは、少しという言葉を使うには不適切に見えた。
「忙しいの?」
「いや、班の活動がないから以前と比べるほどでもないよ」
じゃあどうしてそこまで疲れ切った顔をしているのか。その答えはすぐに分かった。
「これから鮮川の見舞いに行くんだ。一緒に来ないか?」
僕と霜月は緒方についていくことにした。
考えてみれば、最近霜月に夢中になり過ぎて鮮川のことをすっかり忘れていた。
病室に入り、緒方が仕切りのカーテンを開ける。
「鮮川、今日も来たよ」
ベッドに横たわるものを見て、僕はショックのあまり言葉を失った。
それはこの世界に来て初めて見たもの。包帯で全身を巻かれた人とそっくりだった。これが本当に鮮川なのか? 鮮川にしては縦も横も、二回りほど小さくなっている気がした。
「今日もありがとう、おっちゃん」
鮮川の声だった。包帯越しに口がありそうな場所が動いた。不気味だった。
よく見ると、包帯の隙間から白い粉が飛び出ていた。
「今日はね、お客さんが来ているよ」
「え、誰? もしかして城嶋くん?」
期待に満ちた声。緒方が返事をしてやってくれと言わんばかりに頷いてきた。
「久しぶり、鮮川」
「え、嘘、ホント! 城嶋くん元気にしてる?」
その声は病人とは思えないほど元気だった。
「あぁ、元気にしてるよ。鮮川も結構元気そうで良かった」
「ははは……そうでもないよ。見てよこの姿。あたし多分、もう一ヶ月ないんじゃないかな」
返す言葉がなかった。
「もう目だって見えないし、感覚もなくなってきてるの。ついこないだまでは痛いーって騒いでたのに、急に痛みがなくなっちゃてさ。手足だって動かせてるのか全く分からないんだよね。どう? 今足動かしてるんだけど、ちゃんと動いてる?」
動いてなかった。だけどその事実が痛々しい姿の子を傷つけると思うと、僕は真実を言えず「うん、動いてるよ」と震えそうになる声を必死で抑えた。
「良かったー。もう喋るだけしか出来なくなったらいよいよ終わりって感じするからね。そうだ、ねぇ、今日はたくさん語ろうよ」
それを断る選択肢はどこにもなかった。
一しきり、僕と鮮川は喋った。時折鮮川はジェスチャーを踏まえた話をした。僕は動かない手を見て、相槌を何度も打った。
「あたしね、寝るのが怖いんだ。ずっと真っ暗で、感覚もなくてさ。あたしにとったら、細切れの死なんだよ。毎日死ぬみたいでホントに怖い。起きたことも分かんなくてさ、起きても自分が生きているのか死んでいるのかも分かんなくて、毎朝叫ぶんだ。笑えるよね」
笑えなかった。気の利いた返事も出来ず、ただ僕は「そうなんだ」としか言えなかった。
「眠たくなってきちゃった。久しぶりにいっぱい喋って疲れたかも。ねぇ城嶋くん、また来てくれる?」
「うん、もちろん」
「やった! それじゃあ一回死にまーす」と鮮川は冗談ぽく言うと、静かになった。身動き一つとらず急に黙ると、本当に死んでしまったようだった。
病室を出ると緒方が「あんなに楽しそうな鮮川久しぶりだったよ」と言った。
「ねぇ、何で全身巻かれてるの?」
「あれは二次被害を防ぐためだ。塩になった人間の塩を吸うとその人も塩になってしまうからな」
「……なるほど。生きているのに死人みたいで、なんか嫌だな、あれ」
「しょーがないさ。塩化は不治の病だ。生きている人間の方が大事だしな。……というか、霜月は平気なのか?」
「何がですか?」
「霜月も地上でマスクなしで過ごしてたろ。マスクの壊れ方からしてみて、鮮川と同じ様に爆発の時にマスクが壊れたんだろ? 塩もかなり舞い上がってたから霜月も結構吸ったと思ってたんだけど」
「運が良かったんですよ、きっと」
「それもそうだな。事実こうしているわけだし。それじゃあ今日はありがとうな」
僕と霜月はまた病室に戻っていく緒方に手を振って、戻ることにした。
帰り道、僕達の間に会話はなかった。出来なかったと言った方が正しいかもしれない。あの衝撃的な姿が脳裏に焼き付いて、しばらく離れそうになかった。
翌日以降も、霜月のお見舞いは続いた。日々が経つにつれ、鮮川のこと印象が薄くなり、霜月のことで上書きされていく。
リハビリの歩行訓練も順調に距離を伸ばしていった。そんな折に退院の予定日が決まった。今日もお見舞いに来てきれていた霜月に報告する。
「そうですか。それは良かったですね」と興味なさそうに視線を落とす霜月。
まぁ両手を上げて喜ぶような奴じゃないし、こんなものだろう、と僕は苦笑いをしていた。そんな時だった。
沢山の人の足音に僕は病室の入口に目を向けた。白衣にマスクを付けた八人ほどの個性のない集団がやってきていた。真っ直ぐ僕達の方に歩いてくる。。
なんだ、何事だ。と呆気にとられていると僕達を囲むように集団は足を止めた。
「被検……失礼、霜月咲楽さんですね?」
「そ、そうですけど……」
「我々は千葉施設地上調査班科学部生物学科。霜月咲楽、あなたには上層部から出頭命令が出ています。ご同行を願います」
「え、どういうことですか?」と戸惑いを隠せない霜月が両脇から男二人に持ち上げられ、有無を言わさず連行されて行く。
「え、え、ちょ、ちょっと待ってください」と僕がベッドから立ち上がろうとすると、「落ち着いてください」と押さえ付けられた。掛けられる声は優しかったのに、肩を掴まれる力は暴力的だった。
霜月が何度も振り返る。その目は助けを求めていたのに、僕は何も出来なかった。
男達が病室から出て行くと、僕を押さえ付けていた男も足早に病室を出て行った。
ベッドから転げ落ちるように飛び出すと、カーテンや他人のベッドをお構いなしにしがみつきながら廊下へと出た。
白衣達の姿を既に遠く、追い付くことは出来そうにもなかった。
廊下の端に、一部始終を見ていたであろう緒方が立っていた。緒方に今の集団は何なのか問いただしたが「分からない」としか言わなかった。
翌日から霜月は、お見舞いに来なくなった。