三章 人類の希望 4
もう何日も皆の顔を見ていなかった。
ベッドから見える景色は何一つ変わらず、目を覚ましてから一週間は経過していた。
両足に撃ち込まれた弾丸と大きな鉄片は摘出されたが、細かな鉄片はいまだに左太腿にあるらしい。しばらくは痛むけど、その内痛みはなくなるとのことだった。両足にはいまだに穴が開いているらしく、絶対安静のままでいる。先日少し足を動かしたら激痛が襲ってきた。完治には三ヶ月ほど掛かるとのことだった。
定期診断の際、皆のことを訊いた。先生曰く、緒方は防弾チョッキ越しに至近距離で撃たれたため肋骨を骨折、爆発を受けて顔に火傷と右目を失明。霜月は目立った外傷はないが、外でマスクなしで活動したために検査入院。鮮川の怪我はかなり酷かったらしく、先生の所にはまわってきていないから分からないとのことだった。
身動き一つとれずにベッドで一日中寝ているのはとても退屈で、時間が経つのが遅かった。先生から睡眠導入剤を処方されたが、飲み過ぎは効き目が弱くなるらしいから一日一回までにしている。
つまらない病院生活。気を紛らわすものは何もなく、天井を眺めていると、自然と吉野の件を思い出してしまっていた。頭の中で何度も繰り返される最後の光景。霜月が人を刺す光景。
吉野も僕と同じ立場だったのだろうか。吉野は死んでまた別の世界に行ったのだろうか。霜月は何故、人を刺すことが出来たのだろうか。霜月は罪悪感に悩まされていないだろうか。検査入院の結果はどうだったのだろうか。
晴れない雲が永遠と頭の上で停滞していた。
誰かがベッドの脇に立った気配がした。淡い期待を抱いて目を開ける。
「チっ、緒方だったか…… 久しぶり、元気してた?」
「お前の舌打ちが聞こえるぐらいには元気だ。安心しろ」
声色を聞いた感じは、いつも通りのようで安心した。鼻より上は包帯で巻かれ、唯一左目だけが見える状態だった。顔に火傷と聞いてきっと見た目が酷いことになっているから、緒方が来たら出来るだけいつも通りに接しようと思っていた。無事に出来ただろうか?
緒方が来た理由は、しばらく活動休止になったという連絡のためだった。班が壊滅したのだから仕方がない。
要件を済ませると緒方は雑談をそこそこに帰ろうとした。去ろうとする背に向け、僕は「そういや鮮川の大丈夫なの?」と訊いた。
緒方はしばらく黙ると重たそうに口を開け「爆発の時にマスクが外れたみたいでな。塩化で小さくなってるよ」とだけ言った。去っていく後ろ姿はそれ以上言いたくない、思い出しくたくないと言いたげで、それ以上追及することは出来なかった。
緒方が病室から出て行くのを見届けると、僕は再び目を瞑った。
塩化。人が地上の塩を摂取してしまうと体が塩になる現象だ。
摂取した量で進行具合が変化し、少量ならば問題はないが、摂取した量が多ければ多いほど症状は悪化し、遅くて数ヶ月、早くて数十分で完全に塩になってしまう。一度皮下組織の塩化が始まってしまうと治る見込みはないという。
確か、そんなことを座学で言っていた。
緒方の口ぶりからすると、もしかして鮮川はもう助からないのかもしれない。
……体が塩になるなんて想像がつかなかった。意味は分かる。でも常識を逸した現象を頭の中で再現することは叶わなかった。
鮮川がもうすぐ死ぬかもしれないという実感が湧かなかった。
再び誰かがベッドの脇に立った気配がした。
また緒方か。何か言いそびれたのか?
気怠く目を開けると、そこに立っていたのは霜月だった。珍しく髪を結んでいた。驚きのあまり言葉を失い、何か言わなきゃ、と必死に考えて口に出来たのは「久しぶり」というありきたりな台詞だった。もっと洒落たセンスはねぇのか、と心の中で誰かがぼやいた。
「お久しぶりです。お見舞いに来ました。足はどうですか?」
霜月がお見舞いに来てくれたという事実にテンションが上がり「あ、あぁ、それならもう大丈夫だよ」と考えなしに足を動かした。突き抜けた痛みに顔をしかめた。
「城嶋さんの大丈夫の許容範囲はかなり広いみたいですね」
「まぁね、男は痩せ我慢だから」
「痩せ我慢の練習をもう少しした方がいいと思います」
「ね、それ僕も思った」
霜月の口元が緩んだ気がした。もしかして笑ったのか?
霜月はベッド脇に腰掛けると、足の状態や入院期間などを事細かに訊いてきた。上辺だけじゃなくて、本当に心配してくれているようで、嬉しかった。教え終えると、霜月は足元に置いてあった袋から『誰でも分かる近代史』を取り出した。
「げっ」
「入院生活は退屈でしょうから絵本を持ってきてあげました」
「絵本の概念が崩れる」
「寝る前にお母さんが読んでくれるという都市伝説の本のことですよね?」
「絵本の定義が限定的過ぎない?」
「眠くなる、という点においては同じかと思いまして」
「じゃあきっと広辞苑も絵本の一種だね」
「城嶋さんは眠る前、お母さんに広辞苑を読んでもらっていたんですか?」
「やっぱ絵本の意味知ってるでしょ」
霜月が笑って、僕も思わず笑った。
「そういや霜月も検査入院してたんでしょ? 検査の結果はどうだったの?」
「何も問題ありませんでした。爆発が起きた時も運良くかすり傷程度で済んだみたいです」
「良かった。心配してたから安心したよ」
「私のことはどうでもいいので、ご自身の心配をしてください」と霜月は立ち上がり、僕の足を触った。当然痛みに顔を歪めた。
「今日はもう帰ります」
「ず、随分早いね」
「このままだと何時間も居座ってしまいそうなので」
「僕は別に構わないよ」
「入院生活はまだまだ始まったばかりですよ? 一気に話さないで、こまめに出していかないと明日以降話すことがなくなってしまいますからね」
「それもそうだね」
「それじゃあまた明日」
霜月は手を振ると後腐れもなく、病室を出て行った。
感情の高ぶりの余韻を楽しみつつ、早く明日が来るように目を瞑った。
……そういや明日以降も来るみたいなことを言っていたけど、本当かな。
翌日、霜月は来た。その翌日も。更にその翌日も。毎日十分から三十分ほど雑談をして帰っていく。
僕としては嬉しいのだが「毎日来て面倒じゃないの?」と訊くと「面倒だったら来ていません」と返された。
誰でも分かる近代史を読破した頃、ようやく絶対安静が解除された。まだ時折足は痛むが、膝を曲げられることがこんなにも心躍ることだとは思わなかった。
霜月にそれを報告すると、「じゃあお祝いに病室以外の風景も見に行きましょうか」と車椅子を借りて来てくれた。霜月に車椅子を押され、僕は何週間ぶりかに病室を出た。薄暗い廊下や重々しい雰囲気は相変わらずだったが、その日は霜月との会話が良く弾み、気付くと一時間ほど散歩をしてしまっていた。
霜月のお見舞いが毎日の楽しみになっていた。病室に近付いてくる足音に胸を躍らせ、看護師が入ってきて落胆するのを何度も経験した。
今か今かと霜月を待ちわび、もしかして今日は来ないのかな、とネガティブになり始めた頃にやって来るのを何度も経験した。
何度目かの車椅子での散歩の時、草木が生えた広間に出た。なんだろうここ? と僕達は顔を見合わせた。
幅も高さも奥行きもある巨大な空間に強い光に照らされて、木々や花々が背を伸ばしていた。無愛想な施設内にしては、随分と表情豊かな場所だった。
丁度近くにいた関係者のような人に話を聞くと、植物の研究をしている場所だと教えてくれた。
二人して感心していると「緑や美しいものを見ているとリラックス出来て体にいいんですよ。どうぞ奥まで進んで見てください」と遊歩道があることを教えてくれた。
木々のトンネルを潜っていく。まるで植物園のようだった。代り映えしない景色をずっと見てきた僕らにとって、まるで魔法の国だった。
「そういや前にも桜のトンネルを潜ったよね」
僕がそういうと霜月は困ったように眉を寄せ「何のことですか?」と首を傾げた。
「あ、ごめん、夢の話だった」と誤魔化した。
霜月は霜月でも、この霜月は別人なのだった。やり場のない感傷を顔に出さないようにした。
しばらくすると、これまた広い草原が広がっていた。
入っていいのかな? と悩んでいると、向かい側の通路からボールを持った子供が数人走ってきて迷いもなく草原の奥へと進んでいった。
「いいみたいだね」
「ですね」
僕達も草原の中へと入っていき、元気に遊ぶ子供たちの邪魔にならないように隅の方へと行った。
霜月は車椅子から手を放すと、うーんと伸びをし「流石に疲れました」と草原に座った。筋肉が落ち、上手く立てない僕は崩れ落ちるように車椅子から降りた。霜月は咄嗟に「大丈夫?」と声を掛けてきたが、下が土だったおかげで痛くはなかった。
二人並んでぼーっとしていると、辛い現実も嘘のように思えてくるようだった。
「そういや、何で髪結び始めたの?」
「爆発のせいでボロボロになっちゃったんですよ。髪を切ってくれる場所も分からないので、結んで誤魔化してたんです」
「だったら僕が切ろうか?」
自分の髪を整えるのに、何度か切ったことがあったから大丈夫な気がした。
霜月も一瞬戸惑いの表情を見せたが「……じゃあお願いします」と背を向けてきた。
「流石にハサミは持ってないよ」と言うと「でしたら、これを返すので使ってください」と霜月はポケットから見覚えのある折り畳みナイフを取り出した。
ドキリとした。血は洗われてはいたが、それは吉野を殺したナイフだった。
「これで髪切ってもいいの?」
「はい。これは自分に対する戒めでもあるつもりです」
言葉が重かった。霜月なりに自分の手で人を刺したことを受け止めているのかもしれない。ナイフを差し出す手は小さく、白く、華奢で、その手に人を刺した感触がこびりついていると思うと、やるせなかった。僕があの時、躊躇わずに速度を落とさなかったら、霜月が吉野を刺すことはなかったのだ。
とやかく言うことも出来ず、僕はナイフを受け取った。
ヘアゴムを取ると、黒髪が肩下辺りまで垂れた。首元付近が見るからにボロボロになっていた。髪を持ち上げると、サラサラと指先から髪が零れていく。
「結構切ることになるけど、いい?」
「いいですよ」
刃を髪に当てると、又しても僕の中で躊躇いが生まれた。
「……今更なんだけどさ、髪は女の命っていうけど、僕なんかが切っていいの?」
「私の命を触らせてあげているんですから、丁寧にお願いしますね」
一息をゆっくり深く吐くと、僕は慣れない手つきで霜月の髪に刃を入れた。傷んだ箇所を切り落とし、全体的に馴染むように傷んでない箇所にも少し刃を入れる。
ああでもないこうでもないと二十分ぐらい格闘していただろうか。
なんだか、奇妙で、不思議で、温かい時間だった。
切り終えると、霜月は自分の髪を撫で感触を確かめる。
「どうですか?」とショートカットになった黒髪をさらりと手でなびかせた。
控えめ言うと、最高に可愛かった。
無論、そんなことが言える舌を持ってはおらず「ショートカット結構似合うね」という褒め言葉が精一杯だった。
「流石に疲れた」と今度は僕が言う番だった。
また二人してぼーっとする。しかし、頭を空っぽにするには些か、隣の子が可愛すぎた。
「城嶋さん、何でさっきからチラチラと私のこと見るんですか?」
「ほら、さっきの人が『緑や美しいものを見ているとリラックス出来て体にいいんですよ』って言っていたから」
「私に苔なんか生えてませんよ」
「前者じゃなくて、後者の意味で言ったんだけど」
「だとしたらよっぽど疲れているみたいですね」
「じゃあ尚更、見てないといけないね」
返事はなかった。霜月は見るからに口をきつく締め、明後日の方角を見ていた。
「ねぇ霜月」
「は、はい!」
妙に緊張した声が返ってきた。僕は不意を衝くように振り向いた霜月の両頬に人差し指を当て、口角を押し上げた。
柔らかくスベスベした触り心地。想像を絶する感触に感動しつつ「霜月って全然笑わないよな」と出来るだけ冷静に言葉を並べる。
すると霜月は眉に皺を寄せ、仕返しと言わんばかりに僕と同様に、人差し指で僕の両頬を押し上げてきた。
「それはお互い様です」
歪な笑顔で見つめ合い、睨めっこで笑ってしまうように僕達はほぼ同時に笑い声を上げた。
声を出して笑ったのは久々な気がした。
「そろそろ戻ろっか」
「そうですね」