三章 人類の希望 3
地上調査当日になった。
大型搬入リフトが僕ら五人と三台のスノーモービルを乗せてゆっくりと上がっていく。むき出しのワイヤーが錆びていて今にも切れるんじゃないかと不安だった。
「もう一度確認する。全員装備は大丈夫か?」
緒方の問いに答えるため、一つ一つ装備を触って確かめる。
まず防塩対策のローブ。深めのフードが付いているのを確認し、穴が開いていないかを隣の霜月と確認し合う。
霜月が頷いたからたぶん大丈夫だ。僕も霜月のローブを確認し頷き返す。
次にゴーグルとマスク。ゴーグルのフィット感を確認し、マスクは今一度付けて呼吸できるかを確認する。
次にポケットに忍び込ませた折り畳みナイフ。これはたまたま僕の部屋の机にあった物だ。恐らくこの世界の僕の元々の私物だと思われる。何とか条約で火器の使用は禁止されているらしいので、皆ナイフぐらいを私物として持っているのだろう。種類は知らない。あれば何かと便利かな、と思ったのだ。ローブ越しに触って確認した。
緒方がスノーモービルの装備を確認し始めていたので、僕も形だけ加わった。
瓦礫切断用のチェーンソー。食料と水。海水採取用の道具一式。
形だけの僕は暇だったので、何んとなしに振り返り、女性陣二人が乗るスノーモービルの方を見た。
霜月と鮮川がしゃがみ込み、二人で装備を確認していた。
次に吉野の方を見た。
吉野のスノーモービルには空いた座席にテントを乗せているので、荷物が大分膨らんでいた。
数日前、スノーモービルの座席を決める際、僕は吉野に荷物担当をやらせることを反対した。荷物に何か仕掛けるんじゃないかと疑ったのだ。
じゃあ僕が荷物担当をやるのか、という話に当然なったが、僕はスノーモービルを運転出来なかった。
スノーモービルを運転出来るのは緒方と鮮川と吉野の三人。二人乗りのスノーモービル三台で行くのが最適であるのは間違いなかった。
僕と霜月は絶対に後部座席。じゃあ運転士三人を入れ替えるかという話にもなったが、僕が吉野と相乗りすることを嫌がるのは皆分かっていた。
鮮川は「だったらあたしと城嶋が一緒に乗ればいいんじゃない? おっちゃんが荷物で」
鮮川が他の男と相乗りすることに、緒方が嫌がるのは容易に想像出来た。
だが緒方は公私混同しない男だ。眉間に皺を寄せながらも「それがいいかもな」と言いのけた。流石だった。
でもそれだと霜月と吉野が相乗りすることになる。僕はそれも嫌だった。そもそも吉野が同じ班にいることが嫌なので、誰と相乗りしようが、全部嫌だった。
そうして平行線のまま話は進むまず、最終的に初期案である僕と緒方、鮮川と霜月、吉野と荷物、という組み合わせでいくことになった。
リフトが止まった。気圧の変化で耳がおかしかった。唾を呑み込む。
スノーモービルにまたがり、緒方にしっかりと組みついた。
赤ランプとアラームがけたたましく騒ぎ立て、恐怖心が煽られる。
鉄扉がゆっくりと開き出し、風が吹き込んだ。ちらりと白い粉が眼前を横切る。
緒方が手で合図を送ると、スノーモービルが一斉に発進した。
勢いに思わず目を瞑った。エンジン音に腹が揺れる。慣れてきて目を開いた。瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。
粉雪のように降る塩。何一つ動かない瓦礫の山。人気のしない廃墟。朽ち果てた車。
一面に広がる白の世界は、退廃的でありながら現実離れした幻想ようだった。
鮮川がロマンなんていうのも分かる気がした。
僕はその光景に見惚れ、しばらく言葉を失った。
景色が移り変わり、街の中に入ったようだった。見慣れたコンクリートジャングルが白い化粧を纏い、不思議な空間になっている。
「昔の人はどんな暮らしをしてたんだろうな」と緒方が突然口を開いた。
「どんなって、そりゃあ……」
普通だよ、と答えようとして僕は口を噤んだ。考えてみれば、この世界の緒方達は生まれてからずっと地下で暮らして、地上のことを知らないのだ。
僕は昔、それがあることが当たり前だと思っていた。友達と街を歩き、買い物をして、道行く人を横目で見て、誰かが作った広告を仰ぎ見ていた。
そんなことをしていたのも遥か昔のことのように感じる。いや、実際に遥か昔のことになったのかもしれない。
流れていく景色は、時の流れに置いていかれた僕に似ているような気がした。
鮮川が正面を指差し、霜月と喋っていた。
緒方の肩越しに正面を覗く。
雪の城が建っていた。実際には何十年と掛けて瓦礫に塩が降り積もって出来たものだろう。だが、世界を殺したものが、こうも儚く美しい姿を創り出していると思うと、僕はどうしても塩が一概に悪いと言えなくなっていた。
スノーモービルが雪の城の前で止まった。近くで見ると、港にある倉庫だったことが分かった。とはいえ、近くに海は見えない。緒方に訊くと、長年降り続いた塩のせいで海の表面に分厚い塩の層が出来てしまっているということだった。
座学の知識がないということで僕と霜月はスノーモービルを見ていることになった。塩が積もらないように雪の城の中に入れる。緒方と鮮川と吉野は何か道具を持って、何もない塩の雪原へと向かっていった。
僕と霜月だけになった。外は雪が降り、まるで雨宿りをしている気分だった。
「さて、何してよっか」
「……」
「暇だね」
「……はい」
気まずい沈黙。このままでは窒息死してしまいそうだった。
スノーモービルの横に座って凭れかかる。外の景色を眺め、落ち着いた雰囲気を醸し出しつつ、何か話題はないかと頭をフル回転させた。
こんな機会滅多にない。少しでも良い顔を見せるのだ。
何一つ音がしない世界は本当に死んでしまっているかのようだった。無言の時間が幾ばくか経った頃、綺麗な音色が微かに聞こえることに気が付いた。音のする方を向くと、しゃがみ込んでいる霜月がいた。
拾ってきたのであろう何かの棒で、地面に絵を描きながら鼻歌を口ずさんでいた。
心をくすぐる綺麗な音。曲は確か、何かの映画の主題歌だったような気がする。
落書きされた絵は〇を三つ並べたネズミや、ネズミが嫌いな猫、電気を放つネズミなど、有名なキャラクターが多かった。意外と子供っぽい所があるんだな、と思った。
それをネタに話し掛けようと思ったが、自分の世界に入り、珍しく楽しそうだったので、話し掛けるのを止めた。それに霜月の鼻歌を聞いていたいというのも、少しあった。
「おい、起きろ」
緒方の蹴りで目を覚ました。どうやら眠ってしまったみたいだった。まぁあんな鼻歌を聞いていれば誰だって寝てしまう。
緒方と鮮川が戻ってきており、当然あの鼻歌も落書きもなくなっていた。状況を察するに、ここの海水の採取が終わったようだった。
「あれ、吉野は?」
僕がそれを口にすると「城嶋が吉野を気に掛ける何て珍しい」と鮮川が言った。
気に掛けるも何も当然だ。あいつが何をしでかすか分からないからこそ、吉野が常にどこで何をしているのかを知っておきたいのだ。
「吉野なら忘れ物したって、採取ポイントに戻ったよ。すぐに戻ってくるから安心しろ」
緒方がスノーモービルで片付けをしながら言ってきた。
「忘れ物だなんて如何にも怪しいじゃないか!」
「疑い過ぎでしょ」と笑いを含んだ鮮川の台詞を無視して、雪の城を飛び出した。
その直後だった。真後ろで爆発が起きた。
熱、風、音、衝撃。目まぐるしく上下左右が入れ替わる。壁にぶつかって止まると、雪の城は崩壊し、辺り一面に塩が舞い上がっていた。
爆発が起きたことは経験上すぐに分かった。だが、何がどうして爆発したのか分からなかった。皆は無事なのか?
探しに行こうとすると、左足に激痛が走った。太腿にいくつもの鉄片食い込んでいた。足元の塩が赤く染まる。
顔を上げた時、視界の隅に何か見えた。それが吉野と分かった瞬間、嫌な予感がした。痛みを噛み殺して前へと走った。その直後、さっきまで僕がいた所に銃弾が飛んできた。
「ふっざけんなよ」
舞い上がった塩で姿が隠せると判断し、城の中へと駆け込んだ。
視界はかなり悪く一寸先も見えない状況。
「霜月! 緒方! 鮮川!」
声が反響する。誰からも返事はなかった。何度も叫ぶ僕の声を打ち消すかのように、銃声が響く。
「まさか無事な奴がいるとはね」
吉野の声だった。
「かくれんぼは嫌いなんだ。出て来てくれよ」
「出て行くわけないだろ」と反響しない程度に心の声が漏れる。
何か武器はないかと考えると、スノーモービルにチェーンソーがあったことを思い出した。足を引きずり、何度も瓦礫にぶつかる。何とかスノーモービルを見つけたが、そこでようやく、爆発したのがスノーモービルだったことが分かった。内側から爆発したように風穴を開け、チェーンソーを含め、持ち物は全て壊れていた。
吉野は最初からこの日、スノーモービルを爆発させることを企んでいたのか。
舌打ちをし、また奥へと逃げ込んでいく。
いくつかの銃声。それから逃れるように瓦礫の背後に身を潜めると、ポケットから折り畳みナイフを取り出した。
刃物を扱ったことも銃を扱ったこともある。だが、それを人に向けて刺したことも撃ったこともなかった。それは道徳からくるものではなく、人に危害を加えてはいけないという固定概念からくるものだった。
だから何度刺され殺されようとも何度も撃たれ殺されようとも、僕は人に危害を加えたことはなかった。
僕に、出来るのか?
軽い吐き気に、喉の渇き、心臓の鼓動が耳で分かる。グローブの中はもう手汗でびちょびちょ。今にも口から心臓が飛び出しそうだった。
一息吐き、気持ちを落ち着けると「お前! 何でこんなことをするんだ!」と叫んだ。
吉野の笑い声が聞こえた。
「元の世界に帰るためだよ」
ハッとした。吉野も世界移動をしている? だとすると疑問が生まれる。僕は吉野に五回殺された。それが世界移動している吉野だとして、何故こうも毎回同じ世界で出くわす? 世界移動している霜月とはあれ以来一度も出くわしていないのに。
……結論を出すのはまだ早い。
「元の世界に帰るためって……どういうことだ」
銃弾がすぐ近くの瓦礫に当たった。大まかな位置がバレたと思い、すぐさま別の場所に移動する。
「城嶋くんは、この世界に矛盾を感じたことはあるかい?」
「矛盾?」
「例えば、漫画ワンピースや映画ハリーポッター、アニメドラえもんなどを知っているかい?」
「知っている。それがどうした」
「そう。普通はそう。知っているのが当たり前、疑問に持つはずがないんだ。だが、考えてみくれ、君はそれらの作品を知ってはいるが、この世界で見たことはないんじゃないか?」
……確かにない。
この世界で紙は貴重なものだ。テレビだって映画館もこの世界にはない。例え、僕が知らない所に映画館や漫画があったとして、映画を撮影する環境がなければ、毎週漫画雑誌を連載するほどの紙の余裕があるとは考えられない。
「気付いたようだね。そう、ないんだ。僕も生まれて三十五年間で一度も実物を見たことはない。昔、それが存在していたという文献さえも見たことがない。それでも、多くの人はその作品の存在を知っていて、知っていることに疑問を持っていない」
思い返せば霜月もさっき、キャラクターを描き、映画の主題歌を鼻歌で歌っていた。
「何故こんな矛盾が生じ、何故それに誰も疑問を持たないのか…… そこで思ったんだよ。我々は元々別の世界で暮らしていて、その時の記憶が残留しているのではないかってね」
「だからってこんなことをすることと何も繋がらないじゃないか!」
「人の話は最後まで聞こうな」
銃弾が目の前の瓦礫に命中する。距離をどんどん詰められている気がする。
「そこで僕は考えたんだ。矛盾という思考ロジックは人間にしか発生しえないものだ。なら、この矛盾した世界を作った神様は人間の中にいるのではないかってね」
この緊張の中にいることに限界がきていた。そろそろ決着をつけたいところ。僕は最後に自分が声を発した所から音を立てずに移動し、吉野の背後に回る。
「矛盾を無くす方法を君は知っているかい? それはとても簡単だ。片方を無くせばいいんだ。人類を絶滅させることが出来ないなら、あとは神様を殺すしかない。神様を殺せば、僕達は本来いるべき世界に帰れるってわけだ」
「だから手当たり次第に殺すってことか!」
叫んだのは僕じゃない。緒方だった。
時間経過と共に薄まった宙に舞う塩。人影が見えるようになりだし、緒方のシルエットが吉野に組み付いた。
「お前、生きていたのか!」
吉野の両手が塞がれた。やるなら、今しかない。でもいいのか? 吉野には別世界について他にも訊いておきたいことがある。奇襲は一回だけ。目隠しをする塩も減ってきた。これを逃せば銃を持つ吉野には勝てない。だけど……
「城嶋っ! 今だ!」
迷っている暇はなかった。
「くっ……そおおおおおおおおお!」
僕は走り出した。左足の痛みを食いしばり、声を上げて迷いを振り払う。
ナイフを両手で持つと刃を立てた。あと五メートル。
その瞬間、再び躊躇いが顔を出す。
本当に刺していいのか? 本当に? 本当に?
固定概念と理性が僕の決意を揺さぶった。
銃声がした。引き剥がされた緒方が地面へと倒れていく。銃口がこちらを向く。恐怖が加速する。足がすくんだ。
再びの銃声とほぼ同時に僕の右足があらぬ方向へと傾いた。鋭い痛みが右足を中心に駆け巡る。足が縺れ、地面に衝突する。ナイフが転がり、眼前で止まった。
「ったく、手こずらせやがって」
ついでにと言わんばかりに僕の左足に銃弾が撃ち込まれた。
痛みは声を出す領域を越え、喉からは空気が絞り出た。脳が痺れて、意識が朦朧とし出す。痛みから連想され、思い出されるのは死の恐怖だった。
視界の隅が黒く染まりだした。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
痛みが全てを上書きし、感覚全てが失われる真っ黒な恐怖。生きるものとして最も反対側にあり、何度味わっても慣れることのない本能からの拒絶。
視界に捉える吉野が殺すのを焦らすように弾倉に弾を一発ずつ込め出した。ニヤニヤと笑みを浮かべる姿がマスク越しでも分かった。
最中、吉野の目が驚きに変わった。急いで弾倉を元に戻し出す。直後、眼前にあったナイフが誰かに拾われ、その人物は吉野に体当たりをした。
霜月だとすぐに分かったのは、マスクを付けていなかったからだった。
驚きの光景に目を奪われ、時が止まったようだった。
吉野の目が驚いたまま静止し、霜月と吉野の間から赤い液体が滴り落ちる。
たっぷりとした間の後、霜月がゆっくりと吉野から離れた。その手には真っ赤に染まったナイフが震えていた。吉野の左胸がじわりと赤い斑点を描き出す。コップに水を注ぎ過ぎたように口から血が溢れ出た。表情一つ変えることなく吉野はブルブルと震えながら地面へと倒れた。蝉の最期のように一しきり震えると、それから吉野が動くことはなかった。
膝から崩れ落ちる霜月も浅い呼吸を続けているようだった。
全てが終わり、殺されることがなくなった僕は安堵の息を吐いた。
それからどうやって施設に帰ったかはほとんど覚えていない。気が付いたのは、病室のベッドでまた赤錆びた鉄パイプの羅列を見ている時だった。