プロローグ ある晴れた日のこと
章分割で投稿しますが、かなり長いです。
全体で文庫本一冊分の長さがあります。
それでもお付き合いして頂ける方は、宜しくお願い致します。
五月の連休直前だったから、あれは確か四月の末のことだ。
進路希望調査票の提出期限をすっかり忘れていた僕は、放課後の教室で一人プリントと睨み合いを続けていた。高校二年になった始業式の日に担任が配った大量のプリントの一枚だ。
「提出期限は一ヶ月だからなー。出せない人は放課後残ってでも出してもらうぞー」
一ヶ月もの間考えて出なかった結論をものの数時間で出せるはずがない。
進学か就職か。その二つが堂々巡りを繰り返す。母さんは僕のためを思い「進学しなさい」と言うが、僕は女手一つでここまで養ってくれた母さんのためにも就職がしたかった。そもそもこの地元の高校を選んだのも、交通費をなくすためだ。
何となしに窓の外を眺めると、如何にも哀愁が漂ってきそうな夕日がグラウンドに色濃い影を作り出していた。サッカー部が忙しく声を上げ、斜めに見える校舎の窓からは吹奏楽の練習が垣間見える。
そうやってもう何度目か分からない気晴らしをしていると、体育館脇に一つの人影を見つけた。花壇の前でしゃがみ込む一人の生徒。そこは園芸部が運営する花壇であり、放課後にその姿を目撃するのは大して珍しいことではない。だが、そこにいたのは明らかに園芸部の生徒ではなかった。そのことに気づいたのは、僕がその女生徒を知っているからだ。
白い肌に華奢な手足、化粧っ気はなく、胸元まで伸びるおさげの黒髪、毎日顔にぶら下げている憂鬱そうな表情は最早彼女のトレードマークになりつつある。
こんな時間にあそこで何しているんだろう。
夕日に照らされた彼女の背中を僕は見つめた。
「霜月咲楽です。よろしくお願いします」
一ヶ月前、始業式の日に僕のクラスに転入してきた霜月さんは、必要最低限の挨拶を教室の床にした。咲楽なんて明るい名前と真逆な小さい声とトーンの低さ。誰もが根暗な奴と思っただろう。
でもそれは緊張しているから、最初だからと僕らは勝手に解釈して、朝のホームルームを終えるとパンダを見るかのようにクラスの奴らは集まった。
明るい奴が「初めまして」と爽やかに挨拶して、学級委員長が「分からないことがあれば何でも聞いて」と優しく声を掛け、道化役が「わはは、どっから来たとばい? 俺は千葉」と勢いよく喋っても、霜月さんはその全てを「よろしくお願いします」という言葉で片付けた。
ノリが悪いのは最初だから。とそれでもクラスの奴らはめげずに声を掛けたり、輪に入れようとしたり試みたが「すみません、用事があるので」「すみません、体調が悪いので」「急いでますので」「お金がないので」「忘れてました」「やめてください」と、その姿勢を変えることは一切なかった。
それが続けば、話しかける者などいなくなる。転入してきてから一ヶ月と経たず、彼女の周りには誰も近寄らなくなった。無論僕も例外ではない。とは言っても僕の場合は、転校初日に職員室の場所を訊かれただけだが。
とりあえず同じクラスメイトとして知っていることとすれば、表情なし、友達なし、帰りの挨拶が済めば一番にクラスから姿を消すことぐらいだ。
そんな教室で本ばかり読んでいる霜月さんだからこそ、花壇の前でしゃがみ込む異例の光景に、僕は興味を惹かれてしまった。帰りの挨拶が済んでから既に二時間は経過していた。
僕は将来の決断と目の前の興味を天秤に掛けると、早々に『未定』と殴り書きをして、帰り支度を済ませた。
「どうせこれで進路が確定するわけでもないし」と自分に言い聞かせる。
昇降口へ向かう際、小走りをして担任のいる教員室へと向う。担任の山岡はタイミングよく教員室にはいなかった。これ幸いと山岡の机に進路希望調査を置くと、教員室を脱出する。連休明けに何か言われるかもしれないが、それは連休明けの僕に任せることにしよう。頑張れ。
野球部の打撃音、部活の掛け声、吹奏楽部の楽器の音。廊下を染めるオレンジ色に急かされて、僕は駆けていく。
昇降口を出て、グラウンドの脇を通り、体育館脇へと行く。
角を曲がると、一ミリたりとも動いていないであろう霜月さんの姿がそこにあった。まだ彼女がいたことに胸を撫で下ろす。急いできたことを悟られないように、歩く速度に切り替え、ゆっくりと近寄った。背後まで近寄ったが、かなり集中しているようで僕の存在に気付いている様子は全くなかった。その彼女の視線の先を覗き見ると、壊れた水色のプランターがあった。手にはそのプランターの破片を持っている。
状況から察するのは簡単なことだった。膝に手をつき、姿勢を低くする。
「直そうとしてるの?」
不意を突かれたのか、霜月さんは口を半開きにして間抜けな顔で僕を見上げてきた。普段は眉一つ動かさない人なだけに、思わず笑ってしまいそうになった。霜月さんの方もしまったと言いたげに目を見開くと手で口を押えた。その動作が原因か、指に付いていた土が鼻の上に付着した。堪えることが出来ず、僕は遂に吹き出してしまい、「なっ!」と霜月さんが声を上げた。顔が一瞬にして真っ赤に染まり、恥ずかしそうに顔を膝の中へと埋めてしまう。
一連の動作に僕が笑っていると、「何ですかいきなり! 話しかけてきたと思ったら、人の顔を見て笑ったりして!」と物静かなイメージとはそぐわない荒い口調で彼女は捲し立てた。
「ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだ。ただ、霜月さんが困ってそうだったから」
「別に困ってなんていません!」と顔を埋めたまま言い放ってきた。
「じゃあ何してたの?」
「あなたには関係ありません!」
「プランター直そうとしてたんでしょ?」
僕の問いにピクリとも反応を示さない様子からして、大方正解なのだろう。僕はしゃがむとプランターの様子見ることにした。
プランターは何か物が当たった衝撃で壊れたようで、一辺だけが破損し、その破片が散らばっていた。砕け散った破片は大小様々で、接着剤やテープを使って直すのは困難な気がした。幸いにも植えられていた白い花は無事なようで綺麗に咲いたままだった。
プランターを壊した犯人を霜月さんだとは思っていないが、とりあえず「霜月さんがやったの?」と訊くことにする。依然として顔を隠したままだったが僅かに首を横に振った。
「だよね」
霜月さんのことはよく知らないが、こんなことをする人ではない気はしていた。僕は辺りを見渡し、花をどうするべきかを考えた。
すぐ目の前のレンガで縁取られた花壇を見ると、花を植え替えられそうな空きがあることに気が付いた。そこに植え替えることを提案すると、霜月さんはようやく顔を上げ、小さく頷いた。顔はほのかに赤く、鼻には土が付いたままだった。
僕は頷き返すと「じゃあちょっとシャベルを取ってくるよ」と腰を上げた。直後、袖を掴まれ、僕の視線は霜月さんの方へと引っ張られる。上目遣いの霜月さんが待ち伏せしていた。黒い瞳に僕が映る。心臓が握られた感覚に陥った。
「何で助けてくれるんですか?」
助けるなんて大袈裟だ。別にこれと言って深い理由なんて一ミリたりともない。
しかし眼前に迫る真剣な顔をした霜月さんに「ただの気まぐれだよ」なんてお茶を濁す返しをするのはどこか罪悪感を覚える気がした。
そこで僕は「鼻に土、付いてるよ」と不意を突くことにした。その妙案は成功し、霜月さんは弾けたように僕の袖から手を離し、鼻を袖で隠した。また赤くなった霜月さんに笑いつつ「ちょっと待っててよ」と言い残して、僕は用具入れへと向かった。
園芸部は別の場所で活動しているようで、彼らが利用する用具入れは鍵が掛かっていなかった。土の匂いのする用具入れから二本のシャベルと軍手を拝借し、花壇へと戻る。戻る頃には霜月さんの顔の火照りも鼻の土もなくなっており、心なしか普段より表情が明るくなっているようにも思えた。
シャベルを渡し、僕は花壇に穴をあけ、霜月さんはプランターから花を取り出す作業に取り掛かった。
作業の間、そういえばこの花は何の花なんだろう、と疑問に思い、霜月さんに問い掛けたが、彼女も「さぁ」と首を傾げた。
後にデイジーというポピュラーな花であることを知るのだが、それさえ知らなかったということは咲楽も花には興味がなかったのだろう。だとしたら彼女は何故、園芸部でも、プランターを自分で壊したわけでもないのに、この花を自分でどうにかしようとしたのだろうか。
その答えを訊こうにも、彼女に会うことは今や叶わない。
最後に根元に土を被せると「うん、素人にしては良い出来でしょ」と花壇の隅に植えられた白い花を満足気に眺めた。
視線を隣にいる霜月さんに移すと、彼女もしばらく花を眺めていた。その横顔にはいつもの暗雲はなく、嬉しそうな表情が見てとれた。
「誠君」
「ん」
「ありがと」
霜月さんが笑っていた。彼女の笑顔に釣られたのか、それともまた鼻に土が付いていたことが可笑しかったのか、どっちにしろ僕は声を出して笑った。霜月さんはどうして僕が笑っているのか分からないようだったので「鼻、また」と指を差した。
そこでようやく気付いた霜月さんは、僕の笑いに釣られたのか、また土が付いたのが可笑しかったのか、どっちかは分からないし、どっちでもいいのだが、彼女も一緒に声を出して笑った。
片方が笑うから、釣られてもう片方も笑う。途中から何が可笑しいのかも分からなくなっても僕達は何となしに笑った。
霜月咲楽の笑顔。
それが俺の覚えている、この世界の最後の記憶だ。