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黒髪の乙女  作者: 畑々 端子
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     ◇


 今夜は底冷えです。年の瀬ですからしかたありません。面白いことに奈良は雪があまりふらないと言うのに、雪国よりも冷えるのだそうです。東北育ちのお母様がおっしゃっていたのですからその寒さは筋金入りなのです。

 ですから、私は防寒に余念がありません。足袋の中には毛糸の靴下を、下着の上には毛糸のパンツを、手にはお姉様からお借りした手袋、実は長地盤を二重に着込んでいるのです。耳も顔もお面のおかげで寒くありません。ですが、不覚にもマフラーを忘れてしまいました。襟元から首が冷えるのは辛いことです。寒さのあまり声がでなければ占い師などできません。喉を温めに甘酒など頂にいきたいのですが、ここを離れるわけにはいきませんから困ってしまいます。この水晶玉を取られでもしたら、取り返しがつきませんから。

 ですが、私は内心どきどきしておりました。魯人さんは猿でもできる。と言わんばかりの口調でしたけれど……はたして私に務まるでしょうか。道行く人たちはおろおろとする私を好奇の眼差しで見て行きますが、椅子に腰かけてくれません。

 やはり呼び込みなどをした方がよいのでしょうか…………

 私は試しに『アブラカタブラ』と小声で言ってみましたすると、不思議なことに水晶の中にゆらゆらと海藻のように揺れながら文字が浮かび『甘酒』と出るではありませんか。

『当たるも八卦当たらぬも八卦』と言うと、その文字はまたもゆっくりと消えてゆくのです。これならば私でも立派に占いができます。実際は私ではなく、水晶玉が占っているわけですけれど。

 面白くてしかたがなかった私は、もう何度も『アブラカタブラ』と言い『当たるも八卦当たらぬも八卦』と言って遊んでいました。

 そしてこれが最後と呪文を唱えると、文字が出てきませんでした。もしや、私が遊びすぎたので、水晶玉の力がなくなってしまったのではないでしょうかと思い。どうしましょうと心中で大慌てでした。ですが、次の瞬間。水晶玉に黄色いマフラーを持った勝太郎さんが写っていたのです。


      ◇


 私は普段から絶対に使うまいと心に決めていたバスに飛び乗り必至の形相で流々荘に帰り着くと、丁度、夫婦が出掛ける所であり、二人して笑みを一休みさせて好奇の眼差しを私へくべていた。

 私はそんな二人を完全に眼中から遠ざけ、部屋へ入ると机の上にやうやうしく折り畳んで置いたマフラーを手に取り、目を閉じ深く息を吐いてから、再び韋駄天走りにてバス停まで駆けた。

 バスを待つ間のもどかしいことと言ったら走った方が早いのではないか。と思ったほどである。だが、現実にはバスの方が早いのだ。ただ、片時でも咲恵さんの元へ進みたい一心の私は一歩として進むことが、動くことができない状況こそが許し難く私の心中を煮えたぎらせたのである。

 私はバスの中で悶々と不安を募らせていた。黒髪の乙女は……冬に咲く牡丹のように可憐たる黒髪の乙女は今頃、祭りに色気づいた不埒漢に声を掛けられてなどいないだろうか。

はたまた、私が到着するまであの場所に止まって居てくれるだろうか。そして……本当に私を許してくれているのだろうか……

 勢い逸った私は、ポケットに入っていた小銭をありったけ運転手に渡すと、堰を切った水のようにバスを飛び出した。

 背中に運転手の低い声が聞こえたが、罵声でないかぎり運賃が足りないわけではあるまい。ならば文句を言われる筋合いなどあるものか!

 私は東向き商店街を疾走し、表通りと合流するや人混みを掻き分け、キネマの前まで押し進んだ。

 すると、我が意中の乙女は今だ狐の面を被ったまま水晶玉を前に佇んでいたのである。

人の流れの真ん中に居て私は人目を憚らず深呼吸を何度も何度もした。呼吸を整えた私は、ゆっくりと水晶玉に視線を落とす乙女に気取られないよう、気を配りながらも堂々と水晶玉の前に立ったのである。

 水晶玉に視線を釘付けにしていた乙女は、やがて慌てて首をもたげた。

「私はこのマフラーをとある女性に贈りたいと思います」

 私は力強く言った。

「はい……」

 乙女はきょとんとしていた。お面でその表情こそ読み取ることができなかったが、確実にきょとんとしていたことだろう。

「ですが、その女性がどこにも見当たらないのです。私のせいで怒らせてしまいました。そして……それきりなのです……」

 私は狐の面に向かって眼真っ直ぐにそう言った。目の辺りに開けられた小さなな穴から黒い乙女の瞳が覗ける。私はその瞳に向かってもはや後悔すまいと、想いのたけを話したのである。

「お名前を聞かせて頂けませんか」

 表情は窺い知ることはできなかった。だが、その声色は咲恵さんに間違いなかった。私がここ数ヶ月、耳にしていなかった愛おしい声である。

「はい。その方は鴻池 咲恵さんとおっしゃるのです。どうか探してもらえませんでしょうか」

「すみません。私は本当の占い師ではありませんから、探すことはできません。ですが、これだけは自信をもって言えます。その方はあなたの近くにおりますよ」

「本当ですか」

 私は微笑んだ、不思議なことにお面が微笑んだように見えたのである。

「一つだけ、当てて差し上げます」

「はい」

「あなたのお名前は筒串 勝太郎さんです」

そう言うと乙女はお面を取って、桃色に染めた頬を露わとしたのであった。

「これは咲恵さんではありませんか」

 今にも抱き締めたい衝動を抑え、私はわざとらしい台詞を喋った。感極まると……感慨無量となると……人はいたって冷静になれてしまうものなのである。

「お面をしていましたのに、良くおわかりになられましたね」

「以前にも同じ面おつけた方とお会いしてましたから、それに、その手袋とこのマフラーが惹かれあったのですよ」

 そんなキザな台詞を吐きながら、私は乙女の首に黄色いマフラーを捲いた、気の利いた巻き方など心得ていなかったが「まあ」と乙女はさらに頬を桃色にして私を見上げたのであった。もの言わぬその表情は、今まさに悦喜の骨頂えあるとそんな雰囲気を醸していた。「本当によろしいのですか?」

「ええ、もちろん。今日は贈り物をする日なんだそうです」

「ですが、赤い手袋と黄色いマフラーは……色合いが不釣り合いですね」

 私は喜色満面と赤い手袋にてマフラーに手をやる乙女に見て続けて言った。すると、

「いいえ、色はともかく。手袋もマフラーも同じくらいとても温かいですよ」と口許をマフラーに隠してほっこりとした目元で咲恵さんは言うのだった。

彼女はふんわりと笑った。真善美うち揃った紛うことなき笑みだった。

 かくして、お面の乙女は咲恵さんだった。これに運命の縁を感じずに何を感じろ言うのだろうか……


      ◇


「私はこのマフラーをとある女性に贈りたいと思います」

 私の前に立たれた勝太郎さんは、突然私に向かってそう言ったのでした。その眼光は強く、まるで何かの覚悟を秘めているようでした。

「はい……」

 ですが、今の私はお面を被っておりますし、勝太郎さんにお見せしたことのない着物姿でおりますから、きっと、勝太郎さんは私に気が付かず〝占い師〟に話しかけられているのでしょう。ですから私は『はい』とだけお答えしました。

「ですが、その女性がどこにも見当たらないのです。私のせいで怒らせてしまいました。そして……それきりなんです……」

 勝太郎さんは真っ直ぐに私の瞳に向かったそう語りかけるのです。それはまるでお面の下に私の顔があることを知っているかのように……私は思わず『それは違います!』と口に出してしまいそうになってしまいます。そうなのです。勝太郎さんは何も悪くなどありませんもの……私が……私が悪いのです……

「お名前を聞かせて頂けませんか」

 私は恐る恐るそう言えました。もしも、勝太郎さんの探している女性が私でなかったのであれば……すでに私は嫌われ、勝太郎さんの心が他の婦女に向いてしまっているのであれば……潔く身を引かなければいけません……

 ですが……

「はい。その方は鴻池 咲恵さんとおっしゃるのです。どうか探してもらえませんでしょうか」勝太郎さんは間違いなく私の名前を口にして下さったのです。あのような無礼な弁を浴びせた私の名前を呼んで下さったのです。私は嬉しさ余って、涙をこぼしてしまいそうになりました。

「すみません。私は本当の占い師ではありませんから、探すことはできません。ですが、これだけは自信をもって言えます。その方はあなたの近くにおりますよ」

 本当は誠心誠意を込めて謝罪するべきところですが、私は敢えて占い師の体を貫いたのです。

「本当ですか」

 その時の勝太郎さんの嬉しそうなお顔と言ったら……私は生涯忘れないでしょう。そう心に決めさせる柔らかい微笑みでした。

「一つだけ、当てて差し上げます」

「はい」

「あなたのお名前は筒串 勝太郎さんです」

 私はそう言うと、徐にお面をはずしました。もう、占い師はやめです。一人の乙女に戻った私はこんな無礼な婦女を捜して下さった殿方の前にただの乙女に戻ったのです。

「これは咲恵さんではありませんか」

 勝太郎さんのわざとらしいことと言ったら。照れ隠しのように棒読みでそう言われるのです。私は可笑しくなって少し笑ってしまいました。

「お面をしていましたのに、良くおわかりになられましたね」

「以前にも同じ面おつけた方とお会いしてましたから、それに、その手袋とこのマフラーが惹かれあったのですよ」

 はてな?と思った次の瞬間、私の首には肌触りのとても良いマフラーが捲かれておりました。それは淡いひよ子色のマフラーだったのです。なんと言うことでしょう。このマフラーは私が欲しいと思いながら、結局手に入れることができなかったあのマフラーに相異ありません。

「本当によろしいのですか」

 私はこのマフラーの価値を存じております。ですから、このような物を頂いてしまうことがどこか心苦しかったのです。

「ええ、もちろん。今日は贈り物をする日なんだそうです」

 勝太郎さんはさも当然とそうおっしゃって下さいました。そうなのです。『くりすます』贈り物をする日なのです。お姉様がそうおっしゃっておりましたし、くりすます前日だと言うのに、お姉様の元には贈り物が沢山届いておりました。それはもう素敵なブローチからお着物、指輪にペンダント、、中には異国の茶器までも……それは豪華絢爛と言うに相応しい有り様でした。

 けれど、お姉様は「この手袋が贈り物の中で一番嬉しかったわ」と簡素な白い箱に収められた赤い手袋を頬に当ててそうおっしゃっておりました。ですから、私にお貸し下さるとおっしゃった時は、何度もお断りをしたのです。ですが、お姉様は「咲恵の手にあかぎれができたらどうするの」と私の手を心配して下さったのでした。ご心配頂いて、この気持ちと心意気を無碍にすることは出来ませんから、私は手袋をお借りしました。

 私は嬉しくてマフラーを口許まで覆ってその温もりを感じました。私はとにかく嬉しかったのです。もうどうにかなってしまいそうなくらい嬉しかったのです……マフラーを頂けたこと、このような住まいから離れた場所で偶然にも出会えたこと…………そして、何よりも勝太郎さんが私を許し微笑んでくださっていることが嬉しかったのです。


      ◇  


 織り姫と彦星が運命的な再開をはたした。そんな幻想的で美的な瞬間にあって、それを許すまじと現れたのは蚰蜒のオヤジであった。忌々しい。

 蚰蜒のオヤジは何をしてきたのか全身びしょ濡れであり、モーゼのごとく人混みが割れてゆく。それが人徳やそれに準ずるものでないところが笑えるのだが、あのオヤジには大きな借りがある。また狐どもに追われてはくりすますの夜を十分に楽しめない。

 私は「それでは後ほど」と咲恵さんに口早に言うと、さっさと古平と隠れていた路地へと取って返したのであった。

 「勝太郎さんっ、待って下さい」咲恵さんの声に私はひっくり返りそうなほど後ろ髪を引かれたが、なんとかそれを振り払って事なきを得た。名残惜しや!

 路地に戻ると、さて、どこから逃げたものかと緊急時の避難路を模索した。そして猿沢池側の入り口を見やると、そこには見覚えのある女性が佇んでいたのである。それはいつか古平と共にフロリアンにてお茶をしていた娘さんであった。

「酷いですよ、裏切るなんて」

「まだいたのか」

 路地の裏側から現れた古平は、私が振り返るなりどこか疲れたようなしかし溌剌とした表情を浮かべていた。

「まあ、でも僕は今世紀最大の儲けができそうです」

 そう言いながら古平は『李』と赤く判が押された札のついた小物を幾つか手の平に並べて見せた。

 古平曰く、この李と判の押された札はオヤジの出品する物品の証であり、この札がぶら下がっているだけで高ねがつくと言う。ゆえに札だけでも欲しい者からすれば垂涎の価値があるそうだ。

「オヤジを追っかけたんですよ。そしたら、すんなり、百貨店を見つけられましてね」

いししし、と古平は思い出し笑いをした。よほど痛快なのだろう…………

「そんなにすごかったのか」

「すごいなんてもんじゃないですよ。金銀財宝お宝に囲まれて競りをするんですから、参加者なんてね、手癖が悪くならないように手錠までされるんですから」

「手錠までか……」

「だから、僕は善男善女老若男女問わず、あらぬ触れ込みで会場に人を雪崩れ込ませてやったんです」

 けけけっとますます得意になってけったいな笑みを浮かべる古平である。

「どさ草に紛れればこれくらいはちょろいもんですよ」

 後、水もかけてやりました。と、ついには腹を抱える古平。

「今から行ってもまだ少しは落ちてるんじゃないですか」 

「お前はいかんのか」 

「僕はこれから野暮用がありまして」

 と妖怪のような顔を見せてから、古平は猿沢の池の入り口へ駆けてゆくかと思うと、小春日さんの前で止まった。

 懲りない奴である。あのジジイのことだ、いつぞやの狐を使って地の果てまで追いかけてくるだろう。私はその点、これ以上阿呆になるつもりなかった。今日はくりすますなのである。露店も出ていれば、わが意中の咲恵さんも居る。この上は、咲恵さんと露店巡りをせずして帰られようか……

 しかし…………あんなに性根から腐っている古平に恋人が、しかも清楚で素直そうな女性などと。きっと、小春日さんは古平に騙されているのだ。そうなのだ。それいがいに考えられん。私は嫉妬と憎悪にまみれ是非を正すべく。足を踏み出そうとしたのだが、

「勝太郎さん」と突然、咲恵さんが私の前に現れたのである。しからば私はなんのためらいもなく嫉妬も憎悪も明後日の方向へ全力で投擲しなければならない。そしてそう思った次の瞬間にはすでに投擲を終えていた。

「今夜は随分と長く感じます」

 彼女は三条通を歩き始めるとそっと、そう話した。

「冬至から二日しか違いませんから。一年で三番長い夜です」

 私は隣に咲恵さんがいる喜びと至福を噛み締めながらそう答えたのであった。


      ◇

 

 勝太郎さんは「それでは後ほど」とそれだけを言い残して走り去ってしまいました。せっかく再会することができたと言うのに……それに私はまだきちんと謝ってもおりませんし、マフラーのお礼も言えておりません。

「勝太郎さんっ、待って下さい」

 私は咄嗟にそう言いましたけれど、着物でしたから追いかけることは叶わず、そして、その反対方向からはまるで池にでも落ちたかのように全身をびしょ濡れになった魯人さんが歩いてこられたのです。

「どうされたのですか、それでは風邪をひいてしまいます」 

 私は後ろ髪をひかれながらも、魯人さんの元へ駆け寄りました。

「店番ご苦労じゃったな。これは礼じゃよ、受け取りなさい」

 魯人さんは唇を紫色にしながらも、懐から親指の先程の小瓶を取り出して私の手に握らせたのです。

「そんな、御礼などいりません。お客さんも誰一人来ませんでしたし、私は座っていただけなのですから」

「いやいや、そうやって身を案じ手を握ってくれただけで、年寄りは嬉しいのじゃよ」

 魯人さんはそうおっしゃると、「さあ片付けじゃ」と言います。

 すると、どこからともなく狐の面を被った方々が現れ一点の乱れもない手際の良さで、水晶玉をひょいと担ぎ、机を折り畳んで片付けてしまったのでした。

「お嬢さんも風邪をひくのではないよ」 

 くしゃみをしながら魯人さんはそうおっしゃると、狐の面衆の一人の背負子に乗り人混みの中へ紛れてしまったのでした。

 万事風のごとくでした……早きこと風のごとくと古の孫子はおっしゃいましたけれど。まさにその通りでした。

「勝太郎さん」

 私はキネマから少し行ったところにある路地に勝太郎さんの姿を見つけ、ほっと胸をなで下ろしてから声をお掛けしました。

 勝太郎さんは少し驚いている様子でしたけれど、やがて頭を掻きながら私の元へ歩いてこられます。どちらがとも言い出すでもなく三条通を歩き始めた私たちでした……

「今夜は随分と長く感じます」

 私は歩き始めてから、そっと呟くようにそう言います。

 すると、  

「冬至から二日しか違いませんから。一年で三番長い夜です」

 そう言いながら勝太郎さんは住んだ夜空を見上げたのでした。


      ◇


 私と勝太郎さんは出店の並ぶ三条通を歩いておりました。私は着物ですから歩みはとても遅いのですが、勝太郎さんはそんな私に歩調を合わせて歩いてくださいます。

 私はそんな勝太郎さんの優しさに胸を温かくする傍らで当然ですと。映画の件の謝罪を誠心誠意を込めて繰り返しお伝えしてマフラーのお礼もしっかりとお伝えしました。ですが……幾ら繰り返し申し上げても私は勝太郎さんに謝り足りませんでした。

「もう、十分ですよ。それに私は何度も言います通り一切気にしておりません。それに今宵はくりすますです。私は咲恵さんとこうして一緒に居られるだけで十分ですから」

 勝太郎さんは見上げる私にそうおっしゃって下さったのでした。

 私は恥ずかしくなって、俯いてしまいました。勝太郎さんはどうして、いつもこのように恥ずかしい台詞を言ってくださるのでしょう。

「勝太郎さんはいつも私に優しくしてくださいますね」

 私は思ったことをそのまま口に出しました。すると、今度は勝太郎さんが俯いてしまったのです。

「そうです。勝太郎さんはお祭りと言えば何を思い浮かべますか?」

 私は勝太郎さんにそう話し掛けます。

 魯人さんはお祭りと言えば、占いとおっしゃっておられましたけれど、私はやはりお祭りと言えば林檎飴なのです。

「私は林檎飴ですね。丸くて小さいものは姿、大変よろしいですから」

 勝太郎さんは少し考えてからそうおっしゃいました。

 そうなのです。林檎のように丸くて小さいものは大変姿見がよろしいのです、その林檎に甘い飴をかけるのです。なんと素敵な食べ物でしょう。これを考えた方は天才と尊敬い

たします。そして、林檎飴をなめると、べろが紅をさしたように赤くなるのです。私は昔、お姉様とそんなべろを見せ合って笑いあったものです。 

「そうです、林檎飴は姿見が良い上にたいへん美味しいのです」

 私が楽しそうに言うと。「それでは」と勝太郎さんは言うと、ひと駆けして両手に林檎飴を持って帰って来たのでした。私に林檎飴を買って下さったのです!

 それはそれは嬉しく思いました。そして、私と勝太郎さんは並んで、林檎飴を舐めながらお祭りを楽しんだのです。

「見て下さい」

 弾んだ声でそう言われましたので、私は見ました。すると、紅を差したベロがありました。

「どうですか」と言われるので、「赤いです」とお答えしました。

「私のも見て下さい」とお願いしました。久しくベロを出しましたが、殿方の手前、少し遠慮いたしました。

「赤いです。お揃いですね」と勝太郎さんは莞爾と笑ったのです。

 よもや私の顔がおかしかったのではと、恥ずかしくもなりましたが、勝太郎さんがあまりにも楽しそうに笑ったので私も楽しくなって、ついには声を出して笑ってしまいました。

 こんなに楽しい時間は久しぶりです。そうです、夏祭り以来なのです。勝太郎さんと一緒だったから楽しかったのかもしれません。

 お祭りですけれど、冬ですから花火がありません。私は真冬に花火と言うのも小粋で良いと思うのですが、打ち上げられないかぎりは、そう思っているのはどうやら私だけだと思っていました。

 ですが、家まで送っていただく道すがら、思い切ってそのようなことを勝太郎さんにお話したのです。てっきり笑われると思っていましたけれど……

「花火はいつ上げても綺麗ですから、夏でも冬でも春でも秋でも、ひっきりなしに打ち上げれば良いのです」勝太郎さんはそうおっしゃるのです。

「それはとても良いですね」

 私も同感でした。風味こそ薄れてしまうかもしれませんが花火はいつみても綺麗ですから、気が向いた時に打ち上げれば良いのです。このように思っているのは私だけだと思っておりましたから、少なくとも勝太郎さんは私の味方になってくれることでしょう。私は重ねて嬉しくなってしまいました。


      ◇


 黒髪の乙女との一時は誠に悦楽の境地であった。女々しくもまだまだ、咲恵さんの傍らにいたく存じます。と、うっかり口を滑らすまいかと自信を喪失してしまう前に、乙女とまた今度と別れたのは本当に良かった。

 冬将軍が北風に唸りを一層激しくむち打っていたが、私の内心はほこほことまるで焼き玉エンジンのごとく温かかった。やはり乙女は可愛い。傍にいるだけで私は救われる気がした。私のささくれだった魂が浄化されたのも、ひとえに乙女のおかげであると私は声を大にして叫びたい。折りに触れて挨拶の替わりに吹聴して回っても良い。

 部屋に帰る前に、喉を潤そうと炊事場へ行くと、新妻が何やら困った表情でいた。見れば瓶の蓋に悪戦苦闘している様子であった。内容物からしてイカの塩からだろう。夫婦中睦まじく晩酌などと羨ましいかぎりである。

「開けて差し上げますよ」

 私はそう言うと「そんな、大丈夫ですから」と言う新妻から瓶を受け取り、瞬く間に開けて見せた。

 きょとんとしていた新妻であったが、私が「晩酌ですか」と聞くと「はい。実は今日。主人の誕生日なんです」とはにかんだのであった。

「それはめでたいですね。おめでとうございますと御主人にお伝え下さい。それでは」

 私は紳士のままその場を立ち去った。背中に「ありがとうございます」と新妻の声が聞こえたが、敢えて振り返ることなく自室へと入ったのである。

自分でも信じられないくらいに、魂は浄化されていた。今までの私であるならばうらやましさあまって妬み侮蔑の念を伴って、困っている新妻を前にしてもそれを足蹴にこそしても、今日のように仲睦まじき一時のお手伝いをして差し上げることはありえなかっただろう。

 そして、気が向いたにせよ、はたして瓶の口を開けられただろうか……今の私は何でもできそうなほど、気持ちが上向いていた。私に不可能はない!とナポレオンの前で明言できそうな勢いである。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだと自分自身で思ってしまうくらいなのだ。

 そんな余裕に満ちあふれていた私は、古平に騙されて買ってしまったグリム童話集を手に取った。思えば、古平にも感謝をせねばなるまい。

 このグリム童話集とて黒髪の乙女との話題の種になったことは言うまでもなく、そしてあの赤い手袋とて、わらしべ長者のようにマフラーに替わり、それは私の手から乙女の首もとへと渡った。私は翠玉のように煌めき金殿玉楼のごとく美しく可憐たる黒髪の乙女の笑顔を見られたのである。これは大凡手元に何も残らぬであろう。だがしかし、それ以上に価値のある尊いものであった。それは私の胸の中にしっかりと刻みこまれている。

 その童話集を感慨深くぱらぱらとページを流していると、不意に何かがひらひらと枯葉のように足元に落ちた。拾い上げてみると、それは元々グリム童話集に挟んであった栞であり、その栞には『李』と赤い判が押してあった。

 私は誠にわらしべ長者になってしまった。棚からぼた餅とはこのことを言うのだろう。栞を裸電球に翳して私は、勝ち誇ったように微笑んだ。

 古平は今頃、温々と自室にてほくそ笑んでいるだろうか。それともこの寒空の下、狐どもに追いかけ回され悶絶びゃく地となり果てているだろうか…………いずれにしても、古平よ。ご苦労だった、私は何もせずとも、値千金を手に入れた。一字千金と言うが私の場合は一冊千金である!

「開けて下さい私です」  

 私が高笑いを始めようとした時分、部屋のドアを激しく叩く音と共に、寝る前には決して耳にしたくない古平の声を聞いてしまった。

「迷惑を考えろ」

 私は拳ほどの隙間を開けると邪険にそう言った。

「あなたも知ってる〝奴ら〟に追いかけられてましてね、少しばかし困ってるんですよ」 『少しばかし』と言いながらも肩で呼吸している限りは……もとい私の元へ駆け込んで来ている時点で切羽詰まっていることは明白である。 

「うつつを抜かしているからだ」

「それはお互い様ですよ」

 ここまで来ても余裕を醸そうとするのは、誠に古平らしい。

「とりあえず、お前がかっぱらって来た物を奴らに返せ」

「そんなもん、とっくの昔に放り投げましたよ。竜田川にね」 

 本末転倒である。

「おい、どうして私に手袋など渡した」

 そんなことどうでも良いでしょ、と悪態をついた古平だったが、

「クリスマスってのはプレゼントを贈る日なんですよ」立場上、ぶっきらぼうにそう答えた。

 認めたくはなかったが、今回、乙女と仲直りの上、三条通にてデートを楽しめたのも古平の功と成すところが大きい。ゆえに、今晩だけはかくまってやっても良いと、私の心底が菩薩になりかけていた。

「そうであっても、お前がそんな気を遣うはずがない」

 それでも私は加えて言った。

 しつこいですね。と古平は言ってから、

「あなたがあの人をうまく行ってもらえれば、私にも得があるでしょ?鴻池さんはお金持ちだから」とほくそ笑んだのである。

 何が、『クリスマスってのはプレゼントを贈る日なんですよ』だ。お前の魂胆は今判明した。それこそが顕然たる古平の目論見なのである。

 私は目元を痙攣させながら、ドアを勢いよく閉めた。

 しかし、「私とあなたの仲じゃありませんか」と古平は足を挟み込んでこれを阻止したのでる。不貞不貞しい輩である。

 私は。部屋の中へ戻ると、グリム童話集を手に古平の元へ戻った。

 古平は鎖をなんとか外そうと、空腹に力ずくで檻を破ろうとするオラウータンのようにがちゃがちゃとやっていたが、

「これを見ろ、最近、格安で辞書を買ったんだ」

「あなたが買ったんですか。間抜けたもんですねえ。あなたは生粋の阿呆だ!そうに違いない!」

 古平はグリム童話集と私の顔を交代に見ていたが……やがて、自身の見舞われている状況の困窮にも関わらず、抱腹絶倒と腹を抱えて笑い出したのである。

「醜態晒してくされ」

 私は今度こそドアを完全に閉めると、笑い転げる古平がドアノブにまとわりつく前に錆び付いた施錠をした。

「バカヤロー!」「あんたは鬼だ!」「薄情者!」しばらくの間、古平は一人で品のない言葉を連発しながら一人で騒いでいたが……やがて、古平の怒号と大勢の足音と共にその声は遠のいて行った。まるで、大津波が何もかもを攫われたようなそんな情景である。生ける有害者である古平がどこへ攫われようと誰が心配などするものか、ひょっとしたら小春日さんあたりが心を痛めるかも知れないが、小春日さんならばすぐに恋人の一人や二人できてしまうだろう。

 古平よ生きていればまた会うこともあるだろう、私はごめん被りたいものであるが。


      ◇


 今夜はとにかく冷えた。部屋の中にいると言うのに、息が白くなるのはなんたることか。全く持って部屋の有り難みがないではないか。 

 私は机の上に置いてある余分に買った林檎飴を手に取ると、これをポケットへ押し込んで、これだけ寒ければ人肌にて溶けることもあるまい。と最小値で前向きに考えると、静かに深夜の外に足を踏み出したのであった。

 ほこほことし過ぎていた反動か、今私の心中は水を打ったように静まりかえっていた。虚しさや寂しさこそはないものの、胸の辺りがすうすうしていたのだ。くりすますの興奮冷めやらぬ内にこの林檎飴を賞味しょうと思い立った私は、一人で張り付く寒さの中、竜田橋へと向かったのだった。

 すると、そこには、純白のロングコートにこれまた吸い込まれそうな黒髪をした婦女が、橋の上に佇んでいた。欄干に置いた手にも白い手袋、足元にも白いリボンのあしらわれた白い靴の徹底振りに私は異様な感覚さえ覚えた……

「あら奇遇ね」

 私が帰るべきか進むべきかと思案していると、その女性はおもむろにこちらに眼だけを向けてそう言ったのである。

「桜目……先輩……」

 私は眼を疑った。わかりやすく眼を擦って疑ったのである。

「桜目先輩と言っておきながら、私には挨拶もしてくれないの」

 そう言いながら桜目先輩は私の目の前まで歩いて来た。

「すみません。こんばんわ」

 桜目 清花その人であった。今や自他共に認める銀幕のスターである桜目 清花が私の眼の前にいるのである。

 凛とした眼に、小さな鼻、白い肌と顔の形は良く、血色の良い唇は燃えるように赤い。雪女が実在していたならば、この容姿に相異あるまいと私は思わず生唾を飲み込んだ。

「桜目先輩、どうしてまた……」

「勝太郎君はあの子といる時、とても楽しそうだったから……」

「え……」

 艶容に微笑む桜目先輩の意図は不明である。ただでさえ、意思の疎通が難しいこの婦女から意思を読み取ることはエニグマを持ってしても難解だろう。

「私。これでも焼き餅焼きなのよ。倶楽部内外からマドンナと呼ばれるのは悪く無いし、羨望と共に贈られる恋文やお手紙だって気分が良かったものね。挙げ句は松永君に見初められて……あの人は影の多い人だったけれど、知っている?美人は危険な香りの漂う殿方に惹かれるそうよ」

「でも、先輩が交際を断ったのは有名な話しですよ」

 そうなのである。松永先輩は桜目先輩を我がものとせんがため、私を映画倶楽部へ送り込み、桜目先輩に関する全てを報告させたのだった。そこまでしたにも関わらず、爽快なほど桜目先輩は松永と言う男を一言で振ったのである。

「ええ、では、勝太郎君は私がどうして断ったと思う?」

「わかりませんよ」

「私には頬を染めてくれないのね。あの子には夕日のように顔を染め上げると言うのに」

 そう言うと、桜目先輩は私の頬に手をやり、「こうすれば、少しは照れてくれるかしら」

と言いながら眼を閉じると、顔をやや傾けて私の顔をめがけて唇を近づけてきたのである。

 私はと言うと、その有り得ない状況に戸惑い戸惑い果てて、何も出来ないでいた……それこそ目玉さえも動かせないまま……

「よかった。ようやく、頬を染めてくれたわね。勝太郎君たら私に女性としての魅力を感じていないのかも知れないと疑ってしまったわ」

 あと小指の爪ほどの距離を残して桜目先輩の唇は遠のいた。

「桜目先輩。一体何が言いたいのですか?」

「あら、勝太郎君は私の質問に一つとして答えてくれていないのに、自分の質問にだけ答えを求めるなんて、それは高慢と言うものではないかしら。それに、勝太郎君は類い希なる鈍感肌ね。いいえ、ひょっとしたら脳みそが入っていないのかもしれないわ」

「鈍感なのは認めましょう。ですが、私は言葉遊びはあまり好きではないのです」

「そんなの勝太郎君が全て悪いのよ。桜の樹から覗き続けるその眼差しを、私に向けてくれなかったから……スポットライトは当ててくれたと言うのに、到頭その眼差しだけは私に向けてくれないのだもの。少しくらい、意中の殿方と言葉を交わす乙女心は許されるはずだと思うのだけれど……」

 そう言うと、桜目先輩はますます口許を緩めるのである。

「笑えません」

 それではまるで、桜目先輩が私に恋心を抱いているようではないか。そんなことがあり得るはずがない。

「今更、余計なコトは言わないでおくわ。勝太郎君は私に感謝をしてね。それこそ頭を地面につけて感謝をしてね。けれど、私は勝太郎君に対しては寛大だから、あなたの質問に答えてあげるわ。つまりあなたと彼女の後をつけていただけ、それこそつきまといみたいにね」

「それでは、桜目先輩も三条通にいらっしゃったのですか」 

「ええ、私は女優だもの。素人のあなたや彼女を騙す事ぐらい、何のことはないわ」

 私は黙り込んでしまった。この人は一体何をしに来たのだろう。正月には早い。銀幕のスターに休日があるとも思えない。これは夢なのか?それとも幻なのか…………私はこの瞬間の現実が信じられなくなってしまった。

「もしも、彼女を泣かすようなことがあれば、たとえそれを天が許しても私が許さないでしょうね。あなたを殺して私も死ぬわ」

 私が訝しめ始めた頃、彼女は不意に星空を見上げて、そんな台詞を吐いた。

「それは夜叉の所行にて、大凡あなたには似つかわしくないお姿でしょう」

 私はこれが現実であると、受け取らざる得なかった。

「あら、覚えていてくれたのね。勝太郎君が私に言ってくれた最初で最後の台詞を……」

 そうなのである。これが私が急遽代役となって桜目先輩と一度だけ共演した場面でも台詞であったのだ。

「桜目先輩」 

「何かしら」

 視線を私の顔に戻した桜目先輩に私はポケットに忍ばせておいた林檎飴を差し出した。

「これを差し上げます」

「あら嬉しい。けれど、もらう理由がないわ」

今日は……私は躊躇してしまった。だが、

「今日は、くりすますです。贈り物をする日なんだそうです。ですから、」

 私は微笑みを添えて、林檎飴をさらに差し出した。桜目先輩は暫し私の顔を見つめていたが、やがてゆっくりと林檎飴を受け取ると。そのまま胸の所へ持っていくと優しく抱き締め。 そして、それはそれは優しい笑顔で「ありがとう」と言うのだった。

 その微笑みは決して銀幕の上でも見せたことのない、混じりっ気のない無垢な笑みであった。

 そう、私が唯一、核心的でありながら松永先輩にへ報告しなかった事柄なのである。撮影の折、近くの屋台で偶然売っていた林檎飴を桜目先輩に差し入れたところ、彼女は私の眼の中にて、まるで少女のように瞳を輝かせて丸く小さい姿見のよい林檎飴を見入って極上の微笑みを浮かべていたのである。

 私は……いや、私の良心がこの笑みをかの画策高い男には渡してはなるまいと、感じたそのままを素直に貫いた。ゆえに往々にしての結果であったのだろう。

彼女は「もう会うこともないと思うけれど、別れが寂しいことは良いことよね。偶然にもまた会えた時……感動できるもの」と言い残して夜の闇の中へ溶け込もうとした。しかし、彼女の纏う白はそれを素直に許さず、しばらくは揺れる裾と足下がその存在をはっきりと見せていた。それはまるで、暗幕の中スポットライトを浴びているような錯覚を思わせたのであった。

生きてさえ居ればこのような誠に白昼夢のような夜もあるものなのか……私は川のせせらぎに耳を貸しながら夜空を見上げた。

 いや、もしかしたら……今日がくりすますだったからかもしれない。

 なんでも……くりすますの夜には奇跡が起こると言うらしいのだから…………



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