第三章 秋風立ちて
一夏の思い出を八月の一日に刻んだ私は、誠に華やかな真夏の滑り出しをしたわけだが、滑り出したそのまま流れのまにまに、結局はそれ以上もそれ以下もなかった。ただ、噎ぶほど暑い盆地の底で干からびた蛙の一歩手前にて視線を漂い続けていたことだけは、将来私的武勇伝の片隅に書き加えたいと思う。
それと言うのも、夏には盆と言う文化があり、今夏、曾祖父の三十三回忌を迎える咲恵さんは、手紙のやりとりも出来ぬ間に実家へと帰ってしまった。ゆえに私は四畳間にて干からびているしかなかったのである。
私は切実に思った。私から黒髪の乙女を取ってしまえば、かくも虚しくも悲しい身の上に落ちぶれてしまうのだと……乙女がいればこそ、私の無精髭面にも希望が滲み出てくれば、明日への活力も浮遊してくると言えるのである。だから、咲恵さんとに文通の途絶えた約二十日間は私の歴史から抹消された……もとい抜け落ちた断片となり果てた。
そうして、ようやく秋の到来を肌身で感じるようになった仲秋の頃、ようやく咲恵さんからお手紙が私の郵便受けを潤をしたのであった。
この度は趣向を変えて、涼しくなった時節、竜田川沿いでも散歩はいかがでしょう。と私はお誘いした。晩夏を憂い秋の到来を喜ぶ乙女はフロリアンに籠もるよりは季節の風に髪の毛を靡かせながら、時折、髪の毛を耳の上にかき揚げることだろう。きっとそうに違いない。そうでなければお誘いをした意味が無に帰すのだ。
乙女の虜である私は、乙女の色々な素顔が見てみたいと思うようになってしまっていた。笑った顔や恥ずかしがる顔は沢山見てきた。不謹慎なことを言えば恐怖する乙女の表情すらも知っている。だが、まだ、憂いた表情や怒った顔は見ていない。後者は見たくないと思いつつも、恐いもの見たさが先立って、私の興味や好奇心と言った腑で蠢くならず者どもが擦り手で頬を染めていたりする。
なんとも怪しからん話しである。
大學の夏期休暇の折、私は週の真ん中を約束の日と記した。場所は竜田橋の上である。
その日はなんとも夕焼けが美しい夕暮れであった。
「こんばんわ、勝太郎さん。お久しぶりです」
「これは咲恵さん。お祭り以来ですね」
私はと乙女はそのような挨拶を交わした後、どちらが言い出すでもなく、川沿いの道を生駒神社の方向へと歩き出した。
「あんなに賑やかでしたのにね」
乙女はすっかり出店のなくなってしまった道の先を見て寂しげに呟いた。
それは私も感じ入るところである。あの夜は本当に賑やかであった、頭上には提灯が並び、生駒神社まで隙間無く軒を連ねた出店からは食欲をそそる音と香り、あるいは眼に映える遊戯の数々が目白押しだったのである。
乙女も私もそれは大層にはしゃいだ。林檎飴を買い求め綿菓子を食べて、お揃いのお面を買って……思い出すと、思い出す限り哀愁がふつふつと湧き出てくる。
夏の終わりとは厄介である。
「勝太郎さん、赤とんぼです。すっかり秋ですね」
乙女は川の上を飛ぶ赤トンボの群れを指さして、口許を綻ばした。
「秋真っ盛りですね。そうだ、日本の呼称を〝秋津州【あきつしま】〟というそうです。トンボの国と言う意味なんだそうですよ」
私も夕日を背に空を飛ぶ赤トンボを見上げながら、そう言った。
「そうなのですか。ですから、トンボがいっぱい飛んでいるのですね。勝太郎さんは物知りです。私はまた一つ賢くなりました」
乙女は眼を丸めて私を見上げて、謙虚にもそう言うと、また違った趣で赤トンボを眺めていた。
黒髪の乙女は嬉しそうにトンボに纏わる武勇伝を私に話してくれた。
とても楽しそうに語る彼女の話し耳を傾けながら歩いていると、翠玉のような夜のとばりが沈み行く夕日の天辺から幕を下ろし始めてくる。そろそろ帰路を歩かねばと、急く心とは裏腹に、どうして物事とは、はじまりと終幕こそがもっとも美しいのだろうか、私と乙女は段階的に虹のように配色の違いを見せる宵の口の空を見上げて恍惚となっていた。
感傷に浸っていた私はつい、
「秋になれば、空気が澄んで月が綺麗に見えますね」と呟いてしまったのであった。
「はい、仲秋の満月ですね。その折は勝太郎さんも御一緒にお月見をいたしましょう」
乙女はそう言って、頬を淡く茜色に染めていた。てっきり口は災いしか生まぬと思っていたが、時々は功名に一役買うらしい。
私は「それは楽しみです」と頭を掻いた。
「そろそろ日が暮れますから帰りましょう」と私が引き返すと「この時節は一番綺麗ですが、すぐに終えてしまいますから、腹五分目です」と乙女は面白い表現で文句を呟いていた。そんな子どものような乙女もやはり可憐である。
「勝太郎さんは秋と言えば何を思い浮かべますか?」
少しの沈黙の後、彼女はそっと私にそう聞いた。
「私はサツマイモですね」
月でも良い。ススキでも良い。むしろそう言った方が、乙女の心と通じたような錯覚に陥ったかもしれない。だが、悲しいことに月でもススキでも腹は膨れないのだ!そして、安価にて易々と腹の膨れるサツマイモが私にとっては『秋』なのだ。
「勝太郎さんも食べ物なのですか。お恥ずかしながら私も梨や栗などが大好物ですから、秋と言えば食べ物なのです」
お月様やススキではお腹は膨れません。乙女は莞爾と笑いながら私を見上げた。
「そうです腹が膨れなければ秋ではありません」
本当に乙女とは馬が合いそして話しが合う。私は下手な格好をつけなくて良かった、と胸を張ったのだった。
◇
お盆を経て下宿先へ戻った私は、早速、勝太郎さんにお手紙を書きました。
晩夏ですから夏はもう終わってしまいますし、季節の装いはすでに秋めいているのですから……
今年は曾おじい様の三十三回忌とあって、仰々しくも、長々とそれはお別れを惜しみ、訪ねて下さるお客様が絶えることがありませんで、私もお姉様もお客様の接待に走り回っておりました。
ですから、面持ちとしては不謹慎にもようやっと解放されたと言った趣です。御一緒に下宿先へ戻ったお姉様などは、荷物も紐解かずソファに横になられてしまっておりました。
「風邪をひきますよ」と私が声を掛けると「ありがとう。でも、それよか顔がくたくたよ。微笑みを浮かべ続けるというのも辛いわ」とおっしゃりながら頬を指でもみほぐしておられました。
私は『泣き虫の咲恵ちゃん』で通っておりますから、お姉様のように満面の笑みを浮かべずとも良かったのです。ですから、私はご挨拶の時のみに笑みを浮かべるようにしておりましたから、そんなに頬が疲れていませんでした。
そう言えば、夏はもう終わってしまうと言うのに、私は今年の夏の思い出が勝太郎さんと御一緒した夏祭りしかありません。お祭りの後、数日と経たない内に実家に帰ってしまいましたし、帰ってからは、法要の準備とお供え物やお客様へのお土産などをお姉様と買いに走っておりましたから、やはり、思い出はお祭りだけなのでした。
昨日、バスの中にて肩を落としてその旨をお姉様にお伝えすると「咲恵はまだいいわ。私なんて何一つ思い出などないのだから」と頬を抓られてしまいました。とても強く抓るのですよ。痛かったです。
お手紙を真っ先に出してから、荷物の整理や家のお掃除などをして、ようやく落ち着いた頃合いで勝太郎さんからお返事が来ました。
お手紙には、『最近は夕焼けが美しく、非常に情緒深いものがありますから、夕暮れの散歩などいかがでしょうか。』と記されてありました。
私は便箋を手に深く頷きました。確かにフロリアンにてお話をするのも悪くありません。ですが、夕日の茜色をその身に受けた入道雲とその造形美はまさに金殿玉楼のほかにありません。あれを人間が作ることなど不可能なのですから!
それに私は散歩が大好きですから、勝太郎さんのお誘いには望むところだったのでした。
お約束の日、待ち合わせ場所でした竜田橋へ行きますと、やはり勝太郎さんが先に到着されておりました。
「こんばんわ、勝太郎さん。お久しぶりです」
「これは咲恵さん。お祭り以来ですね」
私と勝太郎さんは、そのように軽く挨拶を交わした後、無為自然と川沿いの道を生駒神社方面に向けて歩き出したのでした。
私はふっと寂しくなりました。お祭りの日から数えて一ヶ月近く、この道を歩いておりません。ですが、私の脳裏には頭上に煌々と提灯の列、そして、出店からは情緒よろしい音や香ばしいソースの匂いが漂っておりました。私と勝太郎さんはそれぞれに林檎飴やら綿飴、お面を買ったのでした。お面などはお揃いでしたから、一段と嬉しく思えましたもの。
さながら夏夜一夜の夢の後……と言った面持ちです。
「あんなに賑やかでしたのにね」
私は不意にそう呟いてしまいました。
本当に楽しかったのです。それはもう私も勝太郎さんも大はしゃぎでした。私もこのようにお子様のようにとはしゃいだのは、本当に幼少の頃以来かもしれません。
私は哀愁の念に、茜空を見上げました。空は今日もなんとも言えない壮大で雄大なカンバスに人知の及ぶところを知らない造形美を描いております。
「勝太郎さん、赤とんぼです。すっかり秋ですね」
夕日を背景に真っ赤なトンボが群れて飛んでおりました。私はその情景に思わず指を指して微笑んでしまいました。
「秋真っ盛りですね。そうだ、日本の呼称を〝秋津州【あきつしま】〟というそうです。トンボの国と言う意味なんだそうですよ」
勝太郎さんは、私の指さした空を見上げてそう言いました。
「そうなのですか。ですから、トンボがいっぱい飛んでいるのですね。勝太郎さんは物知りです。私はまた一つ賢くなりました」
勝太郎さんのおっしゃることに私はいたく納得してしまいましたから、団栗眼で幼少の頃に思いを馳せました。
何を隠しましょう。幼少の頃はお姉様より私の方がやんちゃっ子だったのですから。お姉様は虫が嫌いでしたけれど、私は夏と言えば毎日のように虫取りアミと虫籠を持って河川敷や里山を駆け回っておりました。ですから、膝小僧には擦り傷が絶えませんでしたがその折、色々な種類のトンボを捕まえたものです。特に馬大頭【おにやんま】を捕まえた時は、嬉しさあまって馬大頭を片手に泣きながら逃げるお姉様を追いかけたりもしました。
そう考えてみますと困った妹だったわけです。
私は少し躊躇したのですが、トンボを追いかけて田畑を走り回った私の武勇伝をお話することにしました。大した話しでもありません。ですが、勝太郎さんは楽しそうにこれを聞いて下さいました。そして、馬大頭を持ってお姉様を追いかけ、ついには泣かせてしまった、段になるとついに笑いだして下さったのです。
お話をしていると、とても時間は早く流れるものですね。気が付いた時には山の裾野より順々に夜のカーテンが降りてきていました。濃くなった緑はまるで翠玉のようです。
そろそろ、帰り時ですね。と内心で残念に思っておりますと「秋になれば、空気が澄んで月が綺麗に見えますね」まるで、名残惜しむかのように勝太郎さんが呟かれました。
「はい、仲秋の満月ですね。その折は勝太郎さんも御一緒にお月見をいたしましょう」
私は言いました。少し恥ずかしかったのですけれど、何を隠しましょう、私は毎年一人でお月見をしていたのです。月見団子を拵え御神酒とススキを飾って、まん丸お月様を見上げていたのです。
もちろん今年も、お月見をしましょうと思っております。けれど、今年は勝太郎さんもお誘いしましたし、お姉様もおられますから、去年よりはずっと賑やかになることでしょう。
勝太郎さんは「それは楽しみです」と俯いて頭を掻いておりましたが「そろそろ日が暮れますから帰りましょう」と生駒神社の手前で引き返したのでした。
「この時節は一番綺麗ですが、すぐに終えてしまいますから腹五分目です」私はそう呟いてから、「勝太郎さんは秋と言えば何を思い浮かべますか?」と傍らを歩く勝太郎さんにお聞きしてみました。
さて、勝太郎さんはお月様やススキなどに秋を感じられる殿方なのかもしれません。もしかしたら、食べ物に秋を感じることを是としないやも……ですが、残念ながら私は梨や栗など、秋の味覚にこそ秋はあるものです。と思っていたのでした……
ですから、
「私はサツマイモですね」と勝太郎さんがおっしゃった時、私は思わず手を叩いてしまい
そうになりました。けれど、手を叩くなど、少し大袈裟過ぎますから「勝太郎さんも食べ物なのですか。お恥ずかしながら私も梨や栗などが大好物ですから、秋と言えば食べ物なのです」と言い、そして、「お月様やススキではお腹が膨れません」と続けて言いながら満面の笑みを浮かべてみたのでした。
婦女の嗜みにも、少しばかしお淑やかにお月様やススキと言ってもよかったのですが、とても不思議なのでした、勝太郎さんの前では私らしい私でいられるのです。いつもお父様のお知り合いの殿方やそのご子息様などとは、肩肘を張ってでも淑女たらんと猫を被るのですが、本当にどうしてでしょうか?お祭りの時のはしゃぎようと言い、蚊柱にしても、
気が付いてみれば私は猫を被るのも忘れてしまっているのです。
だから、後々羞恥心が立って、俯いてしまっても、勝太郎さんはまるで動じることもなければ、私に淑女たらんこと強要しないのです。ですから、私は勝太郎さんとお別れした後、改めて今一度お会いしたいと思ってしまうのでしょうね。
そのようなことを話しながら家まで送って頂いた後、私玄関にてドアに背を持たせて、
眼を閉じてみました。
すると……やはり、またお会いしてお話をしたいと思ったのです。
「おかえり咲恵。ちょっと、何をにやにやしているの?気持ち悪いわ」
出迎えに来て下さったお姉様は、眉を顰めてそうおっしゃいました。
「にやにやも笑顔ですから良いのです」
私はそのように返事をすると、スキップをしながら居間へと向かったのでした。
◇
私の黎明となるべく何度目の朝がやって来た。そうだ今日こそ、私の懐は焼き芋のごとくほかほかとなるのである。
月初めの本日は内職の納入日であり、それは同時に私にとって、乙女との賛美されるべく時間への糧が手に入る日でもあった。
私は早朝に一度支度をしてから再び昼前まで惰眠を貪り、残暑の厳しい中を本屋街へ向けて歩くことにした。近道を行くかどうか迷ったのだが、やはり竜田橋を越えて正規の道程を歩くことに決めた。近道もよい、機微として逸る気持ちからすれ、少しでも早く金銭を手中にしたいと思うのは誰とて同じであろう。だが、この季節、特に酷暑の後、秋口は熟成に熟成を重ねた肥溜めが悲痛な匂いを発するのである。我が居城である流々荘の便所とて、負けず劣らずなのだが、肥溜めはこれでもかと言うほどにふかく掘られている。ゆえにその臭さも自乗自乗と匂いの倍率だけで論じるならば、この匂いは遥か宇宙へも流出していることだろう。
充血した眼のまま納入を済ませ、財布を温めた私は、その足で本屋街をぶらぶらすることにした。
黒髪の乙女はたいへんな読書家らしく。以前、私がお勧めした海底二万里はすでに読み終えてしまったとのことであった。ならば、私も新たに面白い書籍を発掘してまた乙女にお勧めせねばなるまい……決してそのような使命感にのみかられて、本屋を覗いていたわけではない。言うなれば半分程度だろう。
実を言うと私も読書が好きな性分であったのだ。
私は学生であるから、本来ならば入学時に購入した浅学非才の辞典を買い直さなければならないのだが……これがどうしたことかべらぼうに高い。高価なのである。特に我ら貧乏学生の間では雲の上の辞書として名高い『エニグマ』という百科辞典は他の辞書とは一線を画しており、この辞書を手に入れた暁にはめでたく卒業が約束され他も同然と、噂される万能辞書なのであった。
常々、購入意欲だけは潰えずとも、逆さまにぶら下がったあげくにブレイクダンスを踊ってみたとて、そんな金は畳みの上に転がり落ちることはない。
だから、面白そうな娯楽小説でも購入して、四畳間にて現実逃避でもしてやろうと意気込んだ私の目の前に、まごうこと無き『ENGM』と表紙に大きく書かれた百科辞典を見つけた時、私は思わず眼をしばたかせて頬を二度も抓った。
大學の購買にてガラスケースに仰々しくも飾られたエニグマを私は穴が開くほど見てきた男なのである。だからこそ、表紙を見間違えることなどがあるはずがない。
そのエニグマはこともあろうに古本書籍の棚に乱暴に横倒しになっていたのである。私に聞こえた、そして見えた。エニグマが私を呼ぶ声を!栄光を餌に手招いている姿が!
私は迷わず他の書籍には脇目も振らず、エニグマを小脇に抱えて狭い店内を走った。
古本にもかかわらず、私的一週間の食い扶持を吐き出させたのはさすがは天下のエニグマであろう。
念願のエニグマを手に入れた私は、蝶々のようにふわふわとした足つきでふわふわと高揚した心中にて、久方ぶりにスキップ混じりに四畳間へと帰ったのであった。
さて、天下のエニグマにはいかなる未曾有の知識が詰め込まれているのだろうか、それはもう大凡私などの想像が及ぶ範疇などは軽く超越した境地、それこそ私が石器時代の住人であるとするならば、このエニグマはアトランティス人の知識と栄華が詰められた産物に違いない。
私には明瞭にエニグマが輝いているように見えた。錯覚でもかまうまい。どうだろう机の辺りに転がる私の蔵書と比べても、博識にてずっしり重くその堂々としたると姿見の良さと言ったら、その全てを凌駕していて当たり前である。
私は早速、現在執筆中の論文に使えそうな項目を探ろうと索引を探した……がなかった。大体は末ページに記載されてあるはずなのだが。そこはエニグマである。きっと私の知る辞典と同じでなくとも別段不思議ではあるまい。きっと項目が多すぎて記載できなかったのだろう。
次ぎに私は目次を探して、ページを捲った。
すると、あるにはあった。確かに目次はあった……
だが、それは私が望むべき目次ではなく、驚嘆のあまり次の瞬間に私は『エニグマ』を足元へ落としてしまった……
◇
私はこの歳頃なりまして、再び児童文学を手に取りました。幼少の頃から家の本棚に並んでありましたが、その頃わたくしは大変、字が下手であり本は全て手書きで書かれてあると思っておりましたから、私はこのように字が汚いのに、どうしてこのように綺麗にかけるのでしょう。と本の文字に嫉妬していたことをしっかりと覚えております。
それから幾星霜。書道教室へ通ったりお母様に手ほどきを受けて、ようやく人様にお見せする文字となり、本を手に取るようになったのです。
童話と呼ばれるものはやはり、お子様が読む物でしょう。教訓や夢がとてもたくさん詰め込んでありますから。
ですが、私も今それを大切に読んでいるのです。このように甘く夢のある物語を生粋の大人が書いていると想像すると、きっとその方の頭の中はお花畑や水のかわりにそれは甘い蜂蜜が流れる川などがあるのです。もちろん私は著者の方とお会いしたことがありません。けれど、殿方であれ婦女であれ、きっと眼鏡をかけていると思ったのです。
本好きの定めだと思います。童話を片手に夜を明かしてしまう私とて近々眼鏡のお世話になるかもしれません。ただ、心配なのは私にはたして眼鏡が似合うかどうかと言うことです。あまりに醜い様子であるならば、眼鏡をはずして外を歩かねばなりませんもの。ですから、私は桜並木そばの芝生の上で本を読んでいる時などは、伊達眼鏡をかけておりました。
まずは、外で眼鏡をかけることから慣れましょうと思ったのです。
本日も私は伊達眼鏡をかけて、グリム童話を読んでおりました。すると「鴻池さん、少しばかし、こちらへ来てもらえないだろうか」と声を掛けられました。
「はい、鈴木先輩。すぐに参ります」
私は本を閉じると、本を芝生の上に置いて、桜並木へと歩いて行きました。
「読書中にすまないね」
「いえ、倶楽部のことですか?」
鈴木先輩は眼鏡をかけたおられる先輩でした。常々、よほど本を読まれているのでしょうね。と思っていました。ですが、鈴木先輩は細身の長身を思う存分に生かして、テニスも実に達者なのです。ですから、私は文武両道なのですね。と先輩を少しばかし尊敬しておりました。
「本日の倶楽部なのだが、私はどうにも行けそうにないんだ。部長から倶楽部室の鍵を預かっているのだが、君は今日倶楽部はどうするかな。できれば、倶楽部室の鍵を預けたいのだけれど」
鈴木先輩は『ENGM』と表紙に書かれた分厚い図書を小脇に抱えておられました。そして、もう片方の腕の先には小さなテニスラケットを象った装飾がぶら下げられた鍵がぶら下がっていました。
「本日はご学友とのお約束がありまして、倶楽部に参りません。ですが、倶楽部室の鍵を開けるくらいでしたら承りますわ」
本日は小春日さんとお買い物のお約束をしておりましたので、倶楽部には参加できないのでした。けれど、倶楽部室の鍵を開けるくらいでしたら。雑作もありませんし、同じテニス倶楽部に所属する小春日さんもそれくらいの間くらいはご容赦下さることでしょう。
「そうかい。それでは鍵を預けておくよ」
そう言って、鈴木先輩から鍵を受け取った私は鈴木先輩の傍らに佇んでいる殿方に今更ながら気が付きました。
「そちらの方は鈴木先輩のお知り合いなのですか」
「ああ、演劇部の楠 良介君だ。なんだ鴻池さんはこのような男が好みなのかい?だったら、残念だね。良介君には桜子さんという想い人がすでにいるのだよ」
私はそんなことまで言っておりません!と言いたかったのですが、声に出せず、楽しそうに笑う鈴木先輩を上目遣いで眼光を強くしました。
先輩。婦女をからかうのよろしくないですよ。と良介さんはおっしゃって下さいました。
そして「お初にお目にかかります。楠 良介と申します」とお辞儀をして下さったのです。
「鴻池 咲恵と申します」
と私も自己紹介の後、お辞儀をお返ししました。
「鴻池……失礼ですが、鴻池 瑞穂さんとおっしゃる方をご存じありませんでしょうか」
「はい、存じ上げるもなにも、私の姉です」
どうして良介さんは私のお姉様のことを知っておられるのでしょう。私は驚いてしまいました。
「私の恋人の友人らしく、何度か三人で喫茶をしましたので」
「そうなのですか、お姉様は顔が広いですから、それにしても奇遇ですね」
どこか勝太郎さんに似ている雰囲気の良介さんに私は好感を抱いてしまいました。なにせ、物腰柔らかく、ぎこちなくもしっかり私の顔を見て下さるのですから。
それに、それに……桜子さんでしたか……想い人のことを『私の恋人』だなんて、恋人だなんて!きっと、良介さんは桜子さんのことを大切に想っているに違いないのです。
私もいつか、『私の恋人の咲恵さん』と呼んで頂ける日がくるのでしょうか……
これこれ、鈴木先輩がそう言って、私と良介さんの間に咳払いをしながら割り込みました。
「良介君。君は先に図書館へ行っていたまえ。鴻池さんにはもう少し話しがあるのでね」 わかりました。と先輩の言葉に素直にそう言った良介さんは「それでは鴻池さん。折あらばまたどこかで」とお辞儀をして、図書館の方へ歩いて行ってしまいました。
「はい、その折はお姉様と桜子さんと相席したいものです」と お辞儀をお返しした私は、さて、読書に戻りましょうと思ったのですが、
「鴻池さんはいつから、眼鏡をかけるようになったんだい?」と先輩に聞かれてしまいましたので、歩き出すことができませんでした。
「いえ、これは伊達眼鏡なのです」
と正直に言いますと。
「はははは、君は面白い女性だな。私など眼鏡が煩わしくて仕方がないと言うのに、君は好きこのんで眼鏡をかけるのかい?それは健常者のエゴだな」
そう言いながら先輩はまた笑うのでした。
私はそんなに笑うことはないではないですか。と言いたい言葉飲み込んで拳を握り締めておりました。どうして、眼鏡を本の上に置いて来なかったのでしょうと後悔をしながら……
「それで、明日の日曜日は暇かな?私と喫茶でもどうだろう。この前は、忙しいと断られてしまったからね。今回はどうだろうか」
先輩は細身で長身ですから、姿見もよろしく、もしかしたらお茶のお誘いをされている私を羨む婦女もいるやもしれませんが、私は鈴木先輩の人間性は嫌いなのです。先輩は学業優秀で運動も得意です。けれど、それを鼻に掛けるとこもあり、端的に言えば高慢ちきなのです。
確かに文武両道である姿は尊敬に値すると思いますが、私の気持ちなどお構いなしに、傷つけておいて、誰が喜んで喫茶のお約束をするものですか!
ですから私は「明日は、私の恋人と喫茶のお約束がありますから、無理です。それに、恋人がいる身の上は喫茶のお誘いを承諾をすることまかりなりません」と声を荒げてしまったのでした。
一朝怒りにその身を忘れてしまうなんて、私はまだまだ淑女としても人としても修行が足りません。
それに恋人と喫茶だなんて……恋人のいる身の上だなんて……嘘にも見栄にもまかりならないのは私自身です。眼鏡をはずしてポケットに仕舞い込んだ私は、グリム童話を抱き締めて溜息を何度もついておりました。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた先輩には生々とした面持ちでしたが……明日はどうしたものでしょう。もしも鈴木先輩と鉢合わせ などしてはいけませんから下手に家から出るわけにもいきません。明日は家の中に籠もるしかなさそうです。
私は自分で捲いた災いに頭を垂れて、小春日さんとのお約束の後、多めに食糧を買いに行きましょうと明日の算段をしておりました。
「咲恵さん、今日も読書ですか」
「勝太郎さんっ!」
なんと、頃合いよろしく勝太郎さんが来て下さったのでした。勝太郎さんは今し方まで駆け回っていたと言わんばかりに額に汗を浮かべておりました。もしや……もしかして、私の姿を見つけて、わざわざ駆けて来て下さったのでしょうか。
そんな風に恍惚とする傍ら、あまりにも私が黄色い声を出したものですから勝太郎さんは「そのように喜んで頂けると嬉しいですけれど、何かあったのですか?」と一歩後ずさってしまいました。
「いえ、少し声が大きくなってしまいました」
私は見上げた頭をまた膝元に戻して言いました。
「別にそう言う意味で言ったのではありません。ただ、私も嬉しかったものですから」
と頭を掻く勝太郎さんは、
「明日、お暇でしたら喫茶などいかがでしょうか」とこともあろうに、喫茶のお誘いまでして下さったのでした。
私には勝太郎さんが、観音菩薩様のように見えました。怒りに我を忘れ、口走ってしまった見栄と嘘が本当になってしまったのですから!
私は嬉しさ余って思わず眼を潤ませました。
「えっ、咲恵さん。私は何か気に障ることを言いましたでしょうか、そんな、すみません、ごめんなさい」
私が涙を拭うと、勝太郎さんは酷く狼狽して小脇に抱えていた図書を落としてしまわれました。
「いえ、眼にゴミが入ってしまっただけですから」
私は嘘をつきました。ですが、嬉し涙の理由を勝太郎さんにご説明差し上げても、はたして納得してもらえるとは思いませんし、このことについて私は、お墓まで持って行くつもりでおりますから、たとえお姉様であったとしてもお話することはないと思います。
「はい、喫茶のお誘い承知しました。それでは、お昼の一時に竜田橋でどうでしょうか」「はい。それで結構です」
勝太郎さんは、落とした図書を拾ってから、そう言って頷きました。
「それでは楽しみにしておりますね」
「私も、明日の楽しみできました」
そう言って勝太郎さんは微笑むのです。
私とお茶をするだけですのに、そのように喜んでいただけたら、婦女冥利に尽きると言うもの。やはり勝太郎さんは、愛情細やかな殿方なのです。「それでは、私は図書館の方で用事がありますので」と桜並木へ戻って行く勝太郎の背中をそのように思いながら、見つめておりました。
そして、抱き締めていたグリム童話をさらにきつく抱き締めたのでした。
◇
私は似非エニグマを小脇に抱えると、大學へ駆けた。この荒くれだった心中を癒せるのは、黒髪の乙女だけだろう。
そして、私は決めた。誰がなんと言おうが決めてしまった。
いつもの芝生の上に乙女がいたなれば、腰を降ろして読書などしていたなれば、明日の日曜日のお昼時に喫茶へお誘いしようと!
そしてその後、図書館へ転がり込んで、この似非エニグマと高値で売れそうな書物を物物交換してやると!
はたして、エニグマは似非であった。表示はまごうことなき『ENGM』であった。だが、それはエニグマではなかったのである。
大學生垂涎の偉大なる百科事典に『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』『白雪姫』などと、その他童話にのみ構成されているわけがあるまい。
それはエニグマではなく、間違いなく『グリム童話』なのであった。さらに厳密に言うと『グリム童話集』だったのである。
私は一週間の食い扶持を、全力でしかも満面の笑みと興奮をもって溝に投擲したのだった。ゆえに、大學の附属図書館にて金になりそうな蔵書とこのグリム童話集をすり替えてくれるのである。
図書館からすれ、大學からすれば大切で貴重な知識の蓄積を、持ち出されたあげくしがない本屋に売り飛ばされるのだから、迷惑の以外の何ものでもあるまい。迷惑千万だろう。だが、なんと文句を並べようとも私の命が救われるのであるから、万事問題ないのである。
万事は人命を最優先してしかるべきなのだ。
私は仮初めの正義を振りかざし、堂々と大學の門をくぐった。
「よう筒串」
元気だったか?、とにやにやしながら私に声を掛ける輩がいた。
私は当然無視をした、見えていたが見えていない体を貫いて、そそくさと歩むのである。
古平をはじめ、にやにやと笑みを浮かべて近寄って来る人間は往々にしてろくな思考をしていないのだ。
「ちょっと待てって」
すると、その男は食い下がって、私の面前に立ちふさがったのである。
「西村。お前とは遠い昔に縁を違えたはずだぞ」
残念ながら、私はその男を知り置いていた。眼鏡に無造作な髪型は男のくせして肩まで伸び、いつもそれを一つ括りにしている。
この男とは私が初々しくも松永信者であった頃、映画倶楽部に厄介になっていた折の知り合いであるが、もちろん、反松永に転じたその瞬間からこの男との縁断ち切ったはずなのだ。
「昔のよしみだ、ほら、飯だってさんざん奢ってやったろう。話しくらいは聞けって」
そう言って、西村は汚らしい手を私の肩においたのだった。
「話しだけだぞ」
私は掛けた恩は水に流し受けた恩は石に刻む男なのである。意思、無意思関係なくも、飯を恩を忘れるわけには行くまい。ただし、話しによっては今後もただ飯が食えるなどと言う損得勘定に流されたわけでもない。
西村の話しでは映画倶楽部は文化祭に間に合うように映画を撮るらしい。題名は「あゝ青春の日々」だそうだ。だから、私に雑用兼役者として手伝えと言い出すのものと勘ぐったのだが……「最近お前、親しい女性がいるそうじゃないか。なかなかの上玉だと聞く、そこでだ、お前からその婦女に映画への主演をお願いしてくれないか」と言いだしたのである。
私はもちろん「不可能だ」と即答した。電波の早さで即答してやった。
「そこを押して頼む。洋食三昧三日でどうだ」
「だがしかし断る」
私はそう言うと、「そう言うなよ」とさらに食い下がらんとする西村に対し、脇に抱えたグリム童話集を振り上げて、脳天から二度ほど打ち据えてやった。
西村は舌を噛んだのか「ひにゃ」と木天蓼【またたび】に陶酔した猫のような声を出したかと思えば、更に振り上げる私の面前から脱兎して逃げ出したのであった。
なんと忌々しい凡愚の輩なのだろうか。
たかが昼飯三日分ごときとわが愛しの黒髪の乙女とを天秤かけようなど笑止千万!私はとかく食欲には事欠かき、常に腹を空かせている身の上なれども、それ以上に尊ぶべきは黒髪の乙女であり、それは不動にして天上にも天上もない唯一乙女独尊なのである。
深くうなずいた私は、少し離れた場所から私を見ている西村を見つけると、やはり腹立ち、グリム童話集を振り上げ、夜叉のごとく追いかけたのであった。
私は追いかけた、それはもう必要以上に追いかけた。廊下を駆け抜け、講義中の講堂を横切り、事務所の書類を散らかして、再び外に躍り出た。桜並木を食堂に向け駆ける西村を私は決して逃すまいと空腹の腹に鞭打った。
だが、私は先行する西村が食堂脇の小道に逃げ込んだところで追随することをやめた。その先は旧講堂になっており、現在では倶楽部室や執行部の根城となっているのだ。だから、映画倶楽部の倶楽部室も旧校舎にある。ゆえに、倶楽部室へ逃げ込まれてしまっては手も足も出ない。そればかりか、旧講堂は異名を松永御殿と称すのである。言うまでもないが松永一派の根城でもあるのだ。
そのような伏魔殿に反松永を掲げる私がグリム童話集のみを頼みの綱として、突撃を敢行したところで、即座に逆襲に尾を巻いて逃げねばなるまいは必定。白昼堂々と不毛な争いをするのも情緒に欠ける。それに私は乙女に会うために大學へやってきたのだ、それでは本末転倒の上に目的の逸脱もはなはだしい。
私はすっかり汗ばんだ額を袖で拭うと、呼吸を整えてから桜の大樹の脇を通り過ぎた。
乙女は果たしていつもの芝生の上にいるだろうか、もしも、乙女がいなければ、私は何をしに大學へ来たというのだろう。西村を追いかけにわざわざ出向いたわけではないことだけは確かである。
そんな私の不安をよそに、
「咲恵さん、今日も読書ですか」乙女はいつもの芝生の上に乙女は座していた。
だが、どうしたことだろう。今日は本を開くこともせずただ抱きしめ、どこか物寂しげに佇んでいるのであった。
「勝太郎さんっ!」
かと思えば私が声を掛けたとたんに、発条を巻たてのオートマトンのように顔を上げると喜色浮き立つ声を上げたのだった。
「そのように喜んで頂けると嬉しいですけれど、何かあったのですか?」
私は背を仰け反らせると共に、草の根にかかとを引っかけて、一歩後ずさってしまった。
「いえ、すみません。少し声が大きくなってしまいました」
折角黄色い花を咲かせた乙女だったと言うのに、私の何かがそうさせたのだろう、乙女はそう言うと再び頭を垂れてしまった。
そんな乙女に私は「別に、そう言う意味で言ったのではありません。ただ、私も嬉しかったものですから」と照れ隠しに頭を掻きながら言った。
乙女は私の言葉にゆっくりと顔を上げると、物言わぬ表情のまま私に視線をくべていた。
愁い含みの乙女の表情もこれまた……
「明日、お暇でしたら喫茶などいかがでしょうか」
乙女が何も言う気配がなかったので、私は続けて言った。何を隠そう私は決めていたのである。乙女に相まみえられたならば喫茶にお誘いすると……
乙女は私の顔を見上げたまま、瞳を潤ませたではないか、私は酷く驚きとてつもなく狼狽した。「えっ、咲恵さん。私は何か気に障ることを言いましたでしょうか、そんな、すみません、ごめんなさい」そして、なんとかそう言いつつも、脇に抱えていた似非エニグマを落としてしまったのであった。
「いえ、眼にゴミが入ってしまっただけですから」
乙女はそう言うと目元を拭って見せ「はい。喫茶のお誘い承知しました。それでは、お昼の一時に竜田橋でどうでしょうか」と続けて言ったのだった。
私はと言うと、安堵息を吐きながら落とした図書を拾い上げてから「はい。それで結構です」と言った。
「それでは楽しみにしておりますね」
そう言う頃には乙女の表情にいつもの笑みが戻っていた。
「私も、明日の楽しみできました」
私はさらに安心して安堵の息をつくかわりにそう言って笑ってみせた。
そして「それでは、私は図書館の方で用事がありますので」と乙女と別れ、一人図書館へと向かったのである。
今更ながら、乙女と会う以外に私には崇高なる目的があっ。、西村を追いかける道程で忘れてしまう程の、用事であった。しかし、思い出してみれば私の食い扶持が生まれるか、一週間を無食で過ごすかと言う重要な案件ではないか。
向かったまでは良かった。しかし、図書館の入り口には『演劇倶楽部貸し切り』と書かれてあるではないか。私はわかりやすく、首を捻った。どうして演劇倶楽部が図書館を貸し切る必要があるのだ。
旧講堂には、歴とした舞台が備わっているはずであるからして、稽古しかり何しかり、旧講堂で行えばよい。どうして公たる知の収束地を一部の學生に占領されねばならんのか。
私は何喰わぬ顔で図書館へ入ろうとした。入ろうとしたのだが……
「申し訳ありません。本日は図書館を貸し切って、舞台のお稽古をしておりますので、どうかご容赦くださいませ」
と後ろから声を掛けられて、私は扉に掛けた手を引っ込めた。
振り返れば、それはいつか瑞穂さんと共に歩いていた大和撫子こと桜子さんではないか。
「これは桜子さん。桜子さんも演劇倶楽部だったのですか」
「これは確か筒串さんでしたわよね。こんにちわ」
桜子さんは衣装なのだろうか、足元から頭の先まで、真っ白なドレスを身に纏っていた。
頭にはヴェールまで……
「はい。ああ、これは衣装でして、今度、文化祭にて演じますフィガロの結婚と言う演目のお衣装なのです」
と私の視線に気が付いたのか、慌ててそう説明してくれた。
私は惚れ惚れとそのドレスに……いや、ドレスを身に纏った桜子さんに見入ってしまった。これが巷で噂。純白乙女の洋式花嫁衣装、『ウエディングドレス』と言うものに相違なかろう。
初めてその衣装を眼にした私は、はしたなくもこのような可憐な女性の心の中にいる良介と言う同性に嫉妬した。紛うことなき嫉妬心を燃やした。
「それでは、本日は図書館を諦めます。お稽古がんばって下さい」
そう言いながら、せめてもと私は扉を開けて差し上げた。
「すみません。それでは」
やうやうしく、お辞儀を残して桜子さんは図書館の中へ入って行く。その後ろ姿を見送りながら、扉を閉めた私は改めて図書館への入館を諦めたのであった。
この図書館の中に後何人純白の衣装に袖を通した婦女がいるのかは定かではないが、少なくとも桜子さんが入って行った限り、部外者である私が闖入することはできない。
堂々と邪魔をしてやろうと目論んでいたわけだが、大和撫子の邪魔はしたくない。それに眉を顰められる所行もお断りだ。ゆえに己が誠に恥じぬように、私は踵を返し、流々荘がへ引き返すことにした。
◇
帰り道、我が心の大和撫子である黒髪の乙女と一言二言、言葉を交わして帰ろうと思っていたのだが、丁度その手前で、忌まわしき西村の姿を発見してしまった私は猪突猛進とこれを追いかけ、私に気が付いた西村は塀を乗り越えてグラウンドへ逃げ出した。私ももちろんこれに追随したことは言うまでもない。
野球部のダイヤモンドの中を通り過ぎ、一直線に襲い来る打球を私は華麗にかわし、陸上部員よりも早くゴールテープを切り、そして校門のところで足を絡ませて派手に転んだ西村の背中に馬乗りになると、本が破れるほど無造作に伸び放題の髪の毛を携えた脳天を打ち据えてやった。
西村がすっかりのびた頃合いで、私は何喰わぬ顔で帰路についた。昔年の恨み辛みを全て解放した清々しい心中は空を雲をいつもよりまして青く白く見せてくれるようであった。
流々荘へ帰った私は、炊事場へ行き、七輪に掛けられた小鰺の干物を一枚摘むと、それをはみながら四畳間へと入った。そして脳天へのみ打撃を加え少しばかし疲れてしまったグリム童話集を紐解いたのである。
このように夢のある物語をいや空想をだいの大人が書きなぞらえたと言うのだからとんだお笑いぐさである。このような現実からかけ離れた『ふぁんたじぃ 』などと言うものかまけていて立派な人間なれるとは到底思わない。私は著者に対して侮蔑の言葉を並べ立て、ついでに皮肉を歌った。大人が夢物語の虜になってしまうなど唾棄すべき人間へのはじめの第一歩であろう。
善行の見返りに金のなる木や金銀財宝が手にはいるのなら、四六時中善行に明け暮れよう。ご都合主義かくありきと邪推な真心、これこそが大人であるがゆえなのである。
グリム童話集の序章を読んでいた私はとかく捻くれたいた。だが、本編が始まると、ヘンゼルとグレーテルのなんとも可哀想な兄妹に同情し悪辣な魔女に憤慨して、結びを読んで安心し、赤かいずきんを被った少女の真心に感銘し、畜生の風情が人間を欺くとは!と少女が大好きであった老婆を食い殺し、老婆になりすました狼に対して殺気をみなぎらせた。末期に猟師によって狼が撃ち殺された瞬間などは、「それ見たことか!」と一人拳を突き上げたのだった。
宵の口を過ぎて、一呼吸おいた私は、本の間に挟んであった『李』と大きく赤色で印された古くさい栞を見つけ、それを挟んで本を閉じると、万年床にて玉響の仮眠を経て、再び『ふぁんたじぃ 』の世界の門をくぐった。
次なるお話は白雪姫であった。
私は夜通し手に汗を握りながらページを捲る。七人のこびとの人の良いこと、あくどい性悪女はよりにもよって、私と咲恵さんが愛してやまない丸くて小さく姿見の良い林檎に毒をもったのだ。私は再び怒髪天と腑を煮えたぎらせた。だが、結末において、白馬に跨った王子が白雪姫に口づけをする場面に到達すると、思わず顔を火照らせてしまった。そそれと言うのも誠に阿呆な話しなのだが、白雪姫が咲恵さんであり、王子の役を私が拝命した場面を思い浮かべてしまったからである。やはり私は阿呆だ。
最後のお話しは締めくくりに相応しい物語であった。それは人魚の姫と人間の王子との淡く切ない恋愛話であった。
壮絶にも己の愛を貫いた人魚姫はやがて、空気の精霊となって天へ昇っていった……王子よなぜだなぜなのだ!なぜ気が付かないのだ!私は号泣にて蒼白くなりつつある空に向かって、無言の叫びをあげた。
そして、私は私自身に自問したのである。お前は咲恵のさんのことを命をかけて焦がれることができるのか、たとえこの思い伝わらず失意のうちにこの身が果てることとなったとて、何も言わず空気の精霊となって天へ昇ることができるのかと……
二つ返事で「はい」と言えなかった自分がもどかしかったが……恋いこがれている婦女に想いを伝えられずに朽ち果てるなどしたくない。そんなことが出来るはずがない。私はやはり夢の世界に生きることはできない、人間らしい人間であった。
万年床に横になって、想いを巡らせていた私。明確な意思は表すことができず、意識が失われる少し前に呟いた言葉は「そばに居てほしい」だった。
◇
嘘から出た誠とはこのことを言うのですね。私は、お姉様に口紅の塗り方を教えて頂き、洗面所にて鏡に映る自分の顔と睨めっこをしながら、そのように思っておりました。
勝太郎さんと喫茶の席を御一緒するのはもう何度目でしょうか。もう慣れたものと、胸の辺りが熱くなることもありませんでしたし、本日は伊達眼鏡をしていきましょうと、思うまでに心持ちに余裕がありました。
洗面所にて自分の小さな口唇を尖らせて見たり頬をあげてみたり、睨めっこをしておりましたが、やはり、紅をのせただけで随分と私の印象が明るくなるのですから不思議です。
「咲恵、お約束の時間に遅れるわよ」
そのようなことをしておりますと、お姉様がそう言いながら腰に手をやって洗面所へ入って来たのでした。
「もうそのような時分ですか?」
私が驚いた表情でそのように聞き返しますと、
「あなた、寝間着のままで勝太郎さんとお茶をするつもりなの?着て行く服をまだ決めていないでしょ」
「そうでした」
私は、はっとなって寝間着の裾を指で摘んで「お姉様どうしましょう」と顔を蒼くしたのでした。
「もう、咲恵は私がいないと本当にだらしがないのだから、お洋服を着る前に口紅を塗ってどうするの。お洋服についてしまうわ」
お姉様は私と一緒に部屋へ行くと、クローゼットを開きながら、呆れ声を出します。
「だって」
私も薄々は気が付いているのです。私はもうお子様ではありませんから、何でも一人でこなさなければなりません。ですが、幼少の頃よりお姉様やお母様を頼りと成長してきた私ですから、お姉様やお母様が傍らに居て下さるとついつい悪い癖が出てしまい甘えてしまうのでした。
「今は良いけれど、いつかは私もお母様もいなくなってしまうのだからね」
「それはわかっています……」
そんなことはわかっているのです。ですけれど……私は黙って頬を膨らましました。
「それは、お母様が言うことです。お姉様には言われたくありません……」
「わかってるわ。だから言ったのよ」
お姉様は何着かお洋服をベットの上に並べると、嬉しそうな表情をして私に向き直ったのです。
「突き放すのはお母様。可愛い可愛い妹を抱き締めるのが姉である私だもの」
ちょっと意地悪。とお姉様はお茶目に舌を出して見せたのです。
「お姉様は本当に意地悪です。本気にしてしまいましたもの」
「甘えてもらえるのは姉の特権だもの、咲恵だって、甘えるのは妹の特権だって知ってるくせに」
「それは心得ておりますよ。私はお姉様の妹ですもの」
「文句を言いながらも、私は咲恵が可愛くてしかたないのだから、そこも察してくれると嬉しいわ」
お姉様はそう言うと寝間着姿の私を優しく抱き締めて、頭を撫でて下さいました。
「そんなことはとっくの昔にわかっておりましたよ。私も意地悪をしたのです」
私は膨れっ面をやめて、微笑んでお姉様の耳元でそう囁きました。本当のところは純粋な嘘だったのですが、人を苦しめたり陥れたり、罪悪の念が漂う嘘で無ければ、良いではありませんか。
私は待ち合わせの竜田橋へ向かいました。お姉様が選んで下さった洋服と、口紅は自分で今一度差しました。
さて、今日は何をお話ししましょうかと、考えてながら歩いておりますと、不思議なことに、道程短くもう竜田橋ではありませんか。このような不思議なこともあるのですねと、
欄干に手を置いて竜田川の流れを見下ろしていたのです。
珍しく、勝太郎さんの姿はありませんでした。いつも私よりも先に到着されておられましたから、本日もてっきりと思っていたのですが……ですが、待ち合わせの時間にはまだ早い時分ですから遅刻ではありません。
私は勝太郎さんを待つ間ポケットに忍ばせた伊達眼鏡を取り出すと、こっそりと掛けてみました。はたして、勝太郎さんは眼鏡を掛けた、伊達眼鏡を掛けた私の姿をなんとおっしゃるでしょう。
鈴木先輩は『それは健常者のエゴ』だとおっしゃいました。言われてみれば、私は視力には自信があります。私の姉妹も両親も誰一人眼鏡を掛けておりませんもの。お酒が強いと言うのも同じです。
勝太郎さんは今まで、私を褒めてばかりして下さいました。本日こそは、本日こそは、鈴木先輩のように言われるのかもしれません……
でもでも、勝太郎さんなら、「似合っておりますよ」と言っていただけるやもしれません。こう見えて私はの心は傷ついていたのです。エゴだなんてエゴだなんて……似合っていないと言われるのであれば、別段気にも致しません。けれど、エゴだなんて……それではまるで私が眼鏡を必要とされる人々に対して、『私は眼が良いのですよ』と嫌みを言いふらして楽しんでいるようではありませんか。
私はそのようなことを思ったことはありません。眼鏡を掛けていると言うだけで世界が少し違って見えるのが面白可笑しかったのです。ただ、それだけだったのです。
「すみません。お待たせしました」
私が到着してから、少しして、勝太郎さんが息せき切って駆けてきました。
「いえ、私も今し方到着したばかりですよ」
と勝太郎に言いました。
「一目では誰かわかりませんでした。眼鏡をかけられたのですね」
勝太郎さんは少し驚かれた様子でした。
私としたことが、眼鏡を掛けたまま振り返ってしまったのです。私一生の不覚です。
「いえ、お恥ずかしながらこれは伊達眼鏡なのです」
私は慌てて眼鏡をはずすとスカートのポケットへ伊達眼鏡を押し込みました。
すると、
「どうしてとってしまうのですか?折角よく似合っていたのに」勝太郎はたしかにそうおっしゃって下さったのです。
ですが、私はその言葉がどこか鵜呑みにできなかったのです。疑心暗鬼になりかけていたのでしょう。これまで愛情細やかに接して下さっている勝太郎さんのことですから、お世辞などを言うはずもないと言うのに……
「お世辞は好きではありません」
私は俯いてぶっきらぼうに言いました。私は可愛くない婦女です。
「お世辞ではありませんよ。私は新しい咲恵さんを見たようで、つい嬉しくなってしまいました。もし、お世辞と千歩譲るのであったら……眼鏡をかけていない咲恵さんの方が可愛らしいです」
頭を掻きながら勝太郎さんはそうおっしゃって下さいました。
もしかしたら、もしかしたら私は勝太郎さんにこのように言って頂きたくて、私はわがままを言ったのかも知れません。
「私、嬉しいです」
私は勝太郎さんの顔を見つめてそう言いました。感謝の言葉も込めて……
このように清々しい気持ちで鈴木先輩とお茶などどうしてできましょうか。私は知らずのうちに勝太郎に、殿方に甘えてしまったのです。だから、困らせるようなことが口から出てしまったのだと思います。お姉様やお母様にわがままを言うのと同じように。
◇
私は無夢にて、鉛のように重くぼおっとした体をようやく持ち上げ、万年床から起きあがった。今朝方までの感動はどこへやら宵っ張りの後遺症に私は文字通り腑抜けであった。
本日は乙女と喫茶をする約束をしているのだ、眠気にかまけて、身だしなみに手を抜いては男子の名折れであろう。
私は嗚咽ににも似た息を吐いてから、便所へ入り、すでに有毒物の域へと到達しつつある便所内の悪臭を鼻から肺一杯に吸い込んで。次の瞬間には毒を呷った哀れな男のように喉元を押さえながら炊事場へ駆け込んだ。
眼はさっぱり覚めたが、貴重な健康を害した気分である。
残念なことに炊事場には食べ物と思しき物が何一つなかった。そのかわり、調理台の下にに懐中時計が落ちているのに気が付いた。
金色の体に、ご丁寧に名前が彫り込まれてあった。それも二人分、私は質屋にでも持って行こうかと手に取ったが、その長身と短針を見て、この時計が狂っていることを心の底から願った。八百万の神々に祈った。
そして、私は懐中時計を握ったまま自室へ逃げ帰ると、急いで出掛ける支度をした。支度と言ってもマントを羽織り雑草のようになった髪の毛を手櫛にてすいて、布団の上に放り投げておいた、懐中時計を再び握ると風のように流々荘を飛び出した。
郵便受けを過ぎたところで、私の真上に住まう新妻と出会した。私があまりにも勢いよく飛び出してきたので、身を仰け反らせていたが手に携えた買い物籠から覗く長ネギやら、白菜やら、竹皮の包みからして今夜はすき焼きでもするのだろうか。
私は挨拶もせずに、通り過ぎようとした……通り過ぎようとして、次の一歩を思いとどまり「炊事場に落ちてましたよ」と懐中時計を新妻に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
新妻はポケットの辺りを押さえてから、よそよそしくも珍しい者を見るかのように私を見ながら、懐中時計を受け取ったのであった。
私は二言なくして、再び駆けだした。あの懐中時計が示す時間が真であれば、乙女を待たせることになってしまう。懐中時計は待ち合わせの時間半時前を指していたのであった。
◇
そもそも、私が悪いのである。私が流々荘へ越してきてから一年ほど経って、あの新婚夫婦は越してきた。隣だけに持って行けばよいと言うのに、わざわ下の階の私のもとへも引っ越し蕎麦を持って来てくれた。
その当時はまだ、私にも余裕があった、金銭的余裕精神的余裕。その他諸々の余裕が。だから、共同の炊事場で炊事が一緒になれば、譲り合いもしたし調味料の貸し借りもした。そして、祭りの夜などはわざわざ林檎飴を買って来てくれた。
そんな仲の良いご近所さんであった時分に、一度、あの懐中時計を見せてくれたことがあった。
結婚をすると結婚指輪を言うものを買い、新郎新婦双方が左手の薬指にはめるのだと言う。だが、この若夫婦は指輪を買うことができなかった。
ゆえに、夫が想いを込めて懐中時計を贈ってくれたのだと、恥ずかしそうにはにかんでいた彼女の笑顔はどうしても鮮明に甦ってくる。
それも、私の心が荒み全てに余裕が無くなってから、仲の良いご近所さんと言う関係も砂上の城と崩れさり、今では挨拶も交わさなくなってしまった。
全ては身から出た錆びというものである。悔やむまいと決めていたが、悔やまれるは仕方なし……万事は積み上げるは難し、崩すは易しなのである。
それを知っている私は、同じ過ちを犯すまいと必死に乙女と接している。いつ元の木阿弥と私の精神が荒んでしまうかわからないが、少なくとも、底辺を這って生きて来た私であるからして、これ以上荒むことはなかろう。
だから、約束の時間に遅刻することはできない。そして、なんとしても乙女よりも早く竜田橋の上に到着しておかなければならないのである。
「すみません。お待たせしました」
息せき切って駆けたが願望叶わず。竜田橋には乙女の姿があった。
「いえ、私も今し方到着したばかりですよ」
そう言って振り返った乙女の顔には違和感があった。後ろ姿からして、黒髪の乙女に相違なしと迷わず声を掛けたのだが、もしや別人では……と眼を疑ってしまうほどの様変わりである。そうなのである、乙女は眼鏡をかけていたのだった。
「一目では誰かわかりませんでした。眼鏡をかけられたのですね」
私は思いのまま、驚いたまま弁を吐いた。すると「いえ、お恥ずかしながらこれは伊達眼鏡なのです」と顔色をかえて急いで眼鏡をはずすとそのままポケットの中へしまった。
「どうしてとってしまうのですか?折角よく似合っていたのに」
私はこれまた、想いのまま弁を吐いた。荒い呼吸を正しながらだったがゆえに、褒め言葉の頃合いを見誤ってしまったが、乙女は可愛らしい女性であるからして、身に着けた全てが全て似合ってしまう不思議な婦女である。だから、眼鏡とて少し幼い本好きな少女のような趣でこれはこれで可愛らしかった。そばかすでもあれば若草物語の登場人物のような趣であろう。
「お世辞は好きではありません」
だが、私の言葉が気に気に入らなかったのか、乙女は俯くとぶっきらぼうにそう言うにとどまったのである。
だから、私は困った。世辞であったなれば『本当は……』と良くも悪くも本心を述べれば良いのであって、まだ言いようがある。だが、本心を世辞と言われてしまえば、言葉を選ばなければならなくなる。私にそのような才覚が備わっていれば、今頃、恋人の一人や二人はできているはずである。
「お世辞ではありませんよ。私は新しい咲恵さんを見たようで、つい嬉しくなってしまいました。もし、お世辞と千歩譲るのであったら……眼鏡をかけていない咲恵さんの方が可愛らしいです」
私は本心の上に本心を重ね塗りをするしかなかった。口に出すには恥ずかしかった。けれど、これ以上の飾り言葉を持ち合わせていなければ、瞬時にて気の利いた文言を作り上げる文才とて持ち合わせていない。
ゆえに、恥ずかしながらも本心の上塗りなのである。
「私、嬉しいです」
彼女は頭を掻く私を一直線に見つめてそう言った。
私はその一言を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。ここでさらに「本当ですか?」と再度問われたならばどうしたものだろう。と懸案したからであることは言うまでもないだろう。
私と乙女はすっかりお馴染みとなったフロリアンへ行き、顔なじみとなりつつあるウエイトレスは私たちの姿を見ると、何を聞くでもなく窓際の席へ案内してくれた。
やはり窓際は日光燦々と明るく気持が良い。
そして、席についた私と乙女はそれぞれにウインナ珈琲を注文したのだった。
「咲恵さんはグリム童話と言うのをご存知でしょうか?」
「はい、存じておりますよ。実は昨日、芝生の上で読んでおりましたのはグリム童話なのです」
この年になって童話と言いだした私にいかような好奇な眼差しを向けるだろうか、と思ったのだが、意外や意外。乙女もグリム童話の愛読者だったのである。
「咲恵さんがご存知でよかったです。私は昨日丸一日をかけてすっかり読破してしまいました」
本当である。暇つぶしに紐解いたが最後、しっかりグリムの世界に引き寄せられ、人魚姫を読み終え涙するまで読み耽ってしまった。
まあ、と乙女は口元に手をやって驚いて見せてから、
「勝太郎さんは、たいへんな読書家なのですね。私などなどまだ半分程度しか読んでおりませんもの」と嬉々としてそう言った。
「半分……でしたら、丁度、白雪姫のあたりですね」
「はい。七人のこびとに白雪姫が助けられたところです」
乙女は興奮気味にうなずきながらそう答える。よもや同じ書籍を同じ頃合いで読み合わせていようとは、微塵も思わなかった。蓼【たで】食う虫も好き好きと言う乙女が童話をも好んで読むとはやはり、咲恵さんの中には純粋なモノのみが詰まっているようだ。いや、そうであってほしい。
でなければ、汚れきった私などを海容とご一緒してもらえるはずがないのだから。
本日の喫茶の話題はグリム童話に終始し、それは愉快な一時となった。年頃のよい男女が童話を肴に珈琲を飲むのである。端から見ればそんな私たちの方が可笑しく見えるかも知れないが、私と乙女が、ひいては乙女が楽しそうに笑うのであるからして、誰に後ろ指を指される言われもなかろう。
そうして、いつものように、夕暮れを前に咲恵さんを家までお送りして、庭に出ていた瑞穂さんと一言二言ことばを交わしてから、私は流々荘へ帰ったのだった。
◇
嫌な予感などするはずもない。「また大學でお会いしましょう」と乙女と別れ、「あら、今度は三人でお茶をしましょうよ」と後ろから姉妹の話し声が聞こえて来た。そのかぎりは私にとってはまたいずれ至福の時がおとずれる予告のようにしか聞こえないのは私が生粋のご都合主義者だからであろう。
足取り軽く流々荘へ帰った私は、自室のドアの前で足を止めた。
ドアに何か挟んであったからである。抜き取って開いて見ると、それは便箋であり、端正な文字で『時計ありがとうございました』と書かれてあった。
私は部屋に入りながら、今一度その文面を読んで、頭を掻いた。事もあろうに持ち主がわかっていて、質屋へ持って行こうと目論んだのは誰あろう私なのだから……そして、同時に安堵もした。質屋に行かず、新妻の手の中へ無事に帰って良かったと……
便箋を机の上に置いた私は、そのままふやけた昆布のように万年床へ寝転がった。誠に快哉である。喰うに困るこの私が質屋に行かず、時計を返すような真似をするとは!これも一重に黒髪の乙女と時間を共にするようになった効能だろう。これほど我が身から灰汁が抜け落ちているのだと確信したときはない。
感謝をしよう。感謝の弁を述べよう。必ず感謝の弁を述べよう!私は黒髪の乙女に何の前触れもなく感謝の言葉を述べようを決めた。
そして、「どうされたのですか。勝太郎さん」と首を傾げる乙女の姿を思い描いて、身こそばいゆくなってしまった。全身がこそばい。だから、万年床にて溺れる犬のように手足をじたばたとさせた。
疲労感をおぼえるころ、舞い上がった埃がふよふよと電球に映し出されて、粉雪のように綺麗だった。体には悪いが眼には映える、困った趣である。
このまま、私は安眠に落ちるのだろう。私は心安らかに惰眠を貪ることができると、静かに眼を閉じたのだったが……
「たのもお!」
聞くからに汗臭い男の声が私の部屋のドアを叩いたのである。
私は無視を決め込もうと思ったのだが、今にも壊しそうな勢いでドアを殴る阿呆漢に、仕方がなく相手をしてやることにした。
「なんだ、私はもう寝るところなんだ、帰れ」
ドアを少し開けると、そこには西村が立っていた。性懲りもなくぬけぬけとよくも来れたものである。
私がグリム童話集を取り机へ向かったその瞬間、ドアは蹴開けられ西村をはじめとして、ぞろぞろとそれはもう秋口に桜の木の上で蠢く毛虫のように男どもが私の部屋へ入って来た。
西村一人だと油断した私が迂闊だった。しかし、時既に遅し……たちまち我が聖域たる四畳間はむさ苦しい男どもですし詰めの様相となったのである。ただでさえ男汁が染みこんだどんよりとした空間であるというのに、何が悲しくて汗臭い男どもと残暑厳しいこの季節に押しくらまんじゅうなどに興じねばならんのだ!
「映画倶楽部部員全員でお願いしにきたのだ」
西村は確信した笑みを浮かべながら、私に誠意の有無を伝えたが、
「部員を全て女性に代えて出直してこい」私は、瞬く間に『嫌がらせ』と言う名の邪たる誠意を足蹴にしてやった。
うら若き婦女と押しくらまんじゅう、もといすし詰めに遭うのであれば、胸の柔らかい部分や腰元などが仕方が無く触れるや良し。柔らかい吐息などが耳の後ろに当たるもやむなし。全ては不可抗力という合法に守られる。これまさに桃色天国と称す。
「女子部員がいればお前にこんな頼みごとをするか。桜目先輩がやめてから、女優探しには苦労しているんだ」
「知ったことか。お前たちが下心を隠さずに身だしなみも改めずに婦女に声を掛けるから、引き受けてくれんのだ」
私の言うことは当たらずも遠からず、自信があった。私ですら、乙女に相見える時だけは最低限の身だしなみに気を使い、鏡があれば鼻の下が伸びていないか確認する念の入れようだと言うのに、こいつらと来たら、力押しで押し込めば婦女が振り向くと勘違いをし散らかしている。恥を知れ!
「お前が首を縦に振るまで一歩も外には出さんぞ」
歪んだ情熱を瞳に色濃くしつつ、西村は微笑んだ。
私はまずます、佳麗かつ清楚な黒髪の乙女をこのような奴らの掃き溜めに送り込むような真似がどうしてできるかと、長期戦の臍【ほぞ】を固めた。
「言っておくが、私は乙女のためならば、火の中でも水の中でも恐ろしくないのだ」
吠え面並べさらせ。と付け加えてやった。
私は勇ましくも勝利を我が手に掴む自信があった。明瞭たる自信があったのである!咲恵さんを渡してたまるか、私はこの一身を持ってしても、首を縦に振るまいと胸を張った。
私の最後の砦である乙女をやすやすと破らせてたまるか、極まればこのグリム童話集にて
一騎当千と花と散ってくれる。
私が腑で豪華を燃やす一方で、映画部員たちはたがいに肩を組んで人間バリケードを完成させ、臨戦体勢を整えた。
このすし詰め状態において肩を組む好行為になんら意味を見出せなかったが、西村とて予期していたのか不明だが、すぐに誰とも知れぬ腋臭が漂いはじめた。なんと不快な悪臭だろうか……
汗臭さならば慣れたものだが、これは私にも免疫のない臭攻めにて……便所の悪臭とも異なるこの激臭はどうしたものか。
私は苦肉の策と窓を開けようとした。
しかし、私の行く手を見計らったように映画部員が遮った。そして悟った、こいつらは私と心中する覚悟なのだと。
◇
さて、すでに数名が脱落し数人分の余裕ができた四畳間では、不毛な戦いが永遠と続いていた。
徒党を組むは好きにすればよい。だが、我が根城は勘弁してほしい、白線菌の巣窟であ黄ばんだ靴下に蹂躙される我が万年床の哀れな姿と言ったら。目頭が熱くなる。
それはさておいても、この四畳間にこれほどの人間が入ったのはこの部屋に腰を置いてから最初であり、最後であろう。
激臭に眩暈を覚えて来た頃合いで軋む床が抜けまいかと少し心配となってしまった。
「筒串、もう勘弁してくれ。鴻池さんの相手役はお前でかまわん。だから、鴻池さんに話しだけでもしてもらえないだろうか……」
外で野犬が遠吠えが聞こえた頃合いで、ついに西村が浸からなく膝をついて、そう言った。
「よし、それなら話しだけはしてやる。ただし、相手役は私だぞ。二言ないな」
「ない」
最大の妥協を経ての合意だったが、西村は私の返答を聞いて、部員の前で情けなくも尺取虫のように顎を畳みの上に投げ出した。
その後、早々に西村を残し他のむさ苦しい輩どもを追い出して、窓をから顔を出した私はようやっと生きた心地と極楽を噛み締めた。
そして、今だ尺取虫のように伸びている西村に契状を二枚書かせ、拇印まで押させた。
「約束だぞ」と船酔いした漁師のような足取りで出ていた西村。
こうして、私の不毛なる『映画倶楽部の乱』はただの虚しさのみを残して終焉したのであった。
後日譚のように語ろう。その夜、私は激臭の染みついた部屋の中で魘されて一睡もすることができなかった……忌々しい奴らである。
至福の中で贅沢な惰眠を貪ろうとしていたあの瞬間を返せ!
◇
私はその日を迎えるにあたって、朝から緊張をしておりました。
昼下がり、いつもの芝生の上でグリム童話を読んでおりますと、疲れた様子の勝太郎さんが来られて「咲恵さん、私の相手役になって頂けませんか」と藪から棒におっしゃったのです。
「相手役とは……」
私が聞き返しますと、勝太郎さんは映画倶楽部の依頼で『あゝ青春の日々』の主演をなさることになり、その相手役に私をご推薦くださったと言うのです。
「私は演技をしたことがありませんから、荷が重すぎると思います」
そう言ってみた私ですが、勝太郎さんも初めてとおっしゃいますかぎり、私のお気持ちも理解できるでしょう。
それでも私をお誘い下さるのですからと、
「面白そうですね、やってみます」とお返事をしました。
本当はお断りしたかったのです。ですが、何ごとも挑戦して経験してみなければ人生を損していることになりますし、一度きりの人生ですから楽しむべきなのです絶対に!と思ったのです。それに映画の撮影だなんてオモチロイに決まっているのですから。
言い過ぎました……
確かに、お姉様も何ごとにも挑戦してみると、人生の彩りの幅が広がるとおっしゃっておられましたが……私が女優だなんて映画に出るなんて……恥ずかしいやら恥ずかしいやらで、どれだけお断りしようかと思いました。けれど、ほんのちょっぴりだけは好奇心からやってみたいと思っていたのです。オモチロイだろうと思ったのは本当です。
それに相手役が見知らぬ殿方ならまだしも、勝太郎さんであるならば少しは心持ちも明るいと言うものですし……ですから、ようやっとお引き受けできたのです。
家に帰って夕餉の折、お姉様にそれとなくお話ししてみました。すると「あら、咲恵も銀幕デビュウするのね」と喜色満面と言うのです。
「お相手役が勝太郎さんですから、安心ですけれど、私はお芝居など自信がありません」「誰だって初めての時はそのようなものよ。今や銀幕の星となった桜目 清花だって初めての映画撮影の時は緊張していたもの」
「桜目 清花……私は知りません」
「まあ、まだ女優一年目ですから咲恵が知らなくても仕方ないわね」
今度は苦笑してそう言うお姉様ですが、お話しを聞いてゆきますと、桜目 清花さんとはお姉様のご学友であり、私の通う大學の先輩でもあると言うではありませんか。私は驚いてお箸を落としてしまいました。
映画倶楽部から銀幕の、本物の女優さんになってしまう婦女がいたなんて!
「映画が……いいえ、演技をするのがとても好きな女性だったわ」
思い出すようにお姉様が天井を見上げてお話しします。
私も同じように天井を見上げて「好きこそものの上手なれ。ですね」と呟いたのでした。
「それはそうと、映画倶楽部には女性部員がいるのかしら?」
「知りません」
「もし、いないのであれば、誰がご学友に身の回りのお世話を頼まないといけないわよ。私でも良いけれど……」
「どうしてですか?」
「衣装やお化粧とか、一人ではできないでしょう」
「そのとおりです」
いかんせん初めてのことですので、私は勝手がわかりませんで、そのようなこと細かなことがまったくわかりませんでした。
お着替えのお手伝いなど、殿方に手伝って頂くわけにはいきませんから、誰か婦女の方にお願いしなければならないのです。
「小春日さんにお願いしてみましょう」
私の第一のお友達である小春日さんが思い浮かびました。まだお願いもしておりませんし、突然の申し出に小春日さんがお受けして下さるかもわかりませんけれど。
「思い当たる人がいるならばいいわ。もしも、その人の都合がつかなかったら、私が引き受けるから」
少し困った顔をして私にお姉様はそう言って下さいました。私は嬉しくなって「その折はよろしくお願いします」と大袈裟にお辞儀をしたのでした。
◇
気が付けば十月を跨いでいた。そんな週初め、かくして撮影は開始された。渡された台本を見るに、主体は純情な青年と純粋な乙女との恋模様であり、それを取り巻きの人々が時に盛り上げ、時に面白可笑しく着色すると言う、まるでフィガロの結婚のような戯曲の仕様であった。
「勝太郎さんの足を引っ張ってしまうと思いますけれど、どうぞよろしくお願いします」 と袴を着込んだ咲恵さんが私の元へぺたぺたと駆けて来て、そのようにお辞儀をした。私も「いえいえ、私こそ咲恵さんの足を引っ張らぬように気を引き締めて望みますよ」とお辞儀を返した。
女学生の間でも見かけなくなりつつある袴である、とかく乙女の袴姿は初めて見るのだ、私の胸は大いに高鳴ったことは言うまでもなく。いつもの癖で頭を掻いていると「筒串さん、そんなに頭を掻くと折角の髪型が崩れてしまいますよ」と櫛を持った小春日さんに怒られてしまった。
小春日さんは咲恵さんの衣装や化粧の手伝いをしてくれるのだと言う。「お願い致しましたら、快くお引き受けして下さいました」と乙女がそのように話していたのだから間違いはあるまい。
本日の撮影は、序幕で流される始まりの部分であった。私と乙女が並んで桜並木を歩いたり、大學内の食堂にて慎ましげにお茶をしたりするのである。すると、そこに主人公に捩れた愛情を抱いた男女に扮した西村が押しかけて来て、一悶着あるという場面だった。
前者の撮影は刹那に終了した。何せ二人並んで歩いているだけなのである。たとえ前を向いた二人の表情が緊張に強張っていようともそれは何ら問題ではない。
だが、後者の撮影が困難を極めた。何せ女装した西村が「私という者がありながら!」とハンカチの端を噛みながら駆け寄って来るのだ。
私と乙女が抱腹絶倒とならぬわけがない。「フィルムがぎりぎりなんだから、真面目にやってくれよ」と西村に釘を刺され、彼女は「すみません」と殊勝な面持ちであったが「笑わすお前が悪い」私はふんぞり返った。
その後、台詞の無い序幕分の撮影は夕暮れまで続けられ、烏が山に帰って行く頃、ようやく終了したのであった。
「台詞もありませんでしたのに、本日はもの凄く疲れました」
帰り道、乙女は肩を落とし腕をぶらんと空を弄びながら、そう息を吐いた。
「衣装のせいもあるのですよ。着慣れない服を着ると疲れるものですから」
私も多少の疲労感が双肩を重くしたものの、これほど長く乙女と時間を共にしたのは初めてであり、今後も撮影の度に乙女とこうして長時間を共に出来ると思うと、それはもう悦楽と言う他に表しようがない。
「そうですね。袴など着たことがありませんもの」
お互いに初めての撮影であったかぎりは、感じるところも似通っていたようで、そのほとんどは互いの演技を称賛し、今後の展望などを話して帰った。
乙女の家に到着する頃には山裾に夕日が、空にはうっすらと月が見える時分であった。「あらあら、勝太郎さんこんばんわ」
私と乙女が門柱の前で話題の途切れる間を模索していると、買い物籠を携えた瑞穂さんさんが帰ってきたところに出くわした。
「こんばんわ瑞穂さん。お買い物ですか」
ええ、お夕飯のね。と瑞穂さんは言い、
「そうだ、勝太郎さん今晩ご一緒に夕餉などいかがかしら」と手を叩き合わせて、嬉しそうにそう提案したのであった。
その際、「お姉様」と少しばかし狼狽した乙女がなんとも可愛らしかった。
「お姉様。いきなりなにをおっしゃるのですか。勝太郎さんにご迷惑です」
乙女は顔を赤くしながら両手に拳を作って瑞穂さんに抗議するのである。そんな乙女とは対照的に調子に乗っていた私の口は喉元まで「いえ、この後永遠と暇を持て余しております」と口走ろうとしていた。急いで飲み込んでことなきを得たのだが……
「勝太郎さんすみません。それでは、また撮影の折に」
乙女は表情を隠すようにうつむき加減で口早にそう言うと、門柱に手を掛けてしまった。
「そうだわ。これから二人して舞台のお稽古に行ってきたらどうかしら?咲恵は随分と不安がっていたじゃないの。それにお相手役は勝太郎さんなのでしょう?だったら、丁度良いじゃない」
それでも食い下がるのが瑞穂さんである。悪戯な笑みを浮かべたその婦女は恥じらいの色を浮かべる妹を見て楽しんでいる様子は私が見ても一目瞭然であった。
「お姉様、ですから勝太郎さんが……」乙女は、どうして良いのわからない困った表情で瑞穂さんの顔を見やってから、上目遣いで私に意見を求めた。
「いえ、私は今時分からですと暇を持て余すだけでしょうし、咲恵さんさえよろしければ是非」
私は今度こそ、先程の雪辱とばかりにはっきりとそう言った。折角の瑞穂さんが私に機会を与えてくれていると言うのに、それを無碍に何も言えずできずいるのは、男子として情けないではないか。
「へ」と言った乙女であったが、そんな妹を尻目に瑞穂さんは片眼を瞑って親指を立てて見せたのであった。
◇
「どこでお稽古をしましょうか」
「生駒神社にしましょう。今時分ですと人も居ませんでしょうし、静かですから」
竜田橋を渡り終えたところで私は定案した。「そうですね。そうしましょう」咲恵さんはそう言って賛成してくれた。
そう言えば、私がマドンナこと桜目 清花を初めて見たのも生駒神社の境内であった。たしか松永先輩主催の酒宴で昼から酒を飲んで酔っぱらったあげくに生駒神社の賽銭箱に背をもたせて眠りこけていた時だったと思う。
宵の口を過ぎた頃だろうだろう、頼りない三日月と灯籠の明かりが朧気ながら境内を照らす中、純白のブラウスとスカートを纏った桜目 清花が台本を片手に演技の稽古をしていたのである。
彼女はそれを知ってか知らずか……定かではなかったが、その後、何の因果が私は松永先輩の欲望のために映画倶楽部に潜入して桜目 清花の身の回りの世話をする役を勝手に拝命した。断固として拒否したかったろう当時の部長以下西村を含む映画倶楽部の面々はこれを断固として拒否したかったに違いない。まんまと私が、暗黙の了解を得ることが出来たのは松永先輩の圧力が物を言ったのだろう。
無表情でいることが多かったマドンナであったが、雪女のように白い肌に芙蓉の顔だというのに笑うこともなければ、瞬きが彼女の表情であった。
そんな桜目 清花には白がよく似合った、冷淡な性格と人嫌いな性格も相まって、何ものにも染まらない白色が彼女の印象であった。
だが、彼女は誰よりも映画を愛し誰よりも自分を磨いていた。頑なに決して人前では努力の姿を見せないのである。ゆえにも周りは、天から付与された才覚を持った女優と彼女の演技を褒め、美貌に酔いしれたのだが……その影で彼女の精進する姿を知っている私は、どうにもそれが歯がゆく。皆が絶賛する裏で密かに、項を垂れたのであった。
女優と賞賛されずとも、銀幕の星ではなくとも……彼女は女優魂を持った役者なのかもしれない。
そんな彼女と最初で最後の共演をしたのが、これまたこの生駒神社であったわけだ。
「勝太郎さん?」
「すみません。ぼおっとしてました」
マドンナを初めて見たあの日に酷似している宵の口である。月までも同じ三日月なのだから。
開いた台本を片手に乙女に声を掛けられ私は豆砂利の感触を初めて感じた。
「第一幕はほとんど台詞がありませんから、第二幕から練習をいたしましょう」
「わかりました」
第二幕は劇的かつ重要な幕であった。恋に落ちた二人だが、なかなかそれを言い出せないでいる主人公が、舞台の練習と言う名目で、胸中を告白すると言う観客赤面の場面である。
「それでは勝太郎さんの台詞からです」
「わかっています……はい」
それはわかっていたのだが、台本に連なる台詞は大凡、私には恐れ多くも私の口が震えてしまうような台詞である。
だが、練習に来たのであるからして、練習しない訳にはいかない。ゆえに、私から始まる台詞を読み上げることにしたのであった。
『桜さん。私はずっとあなたのことを愛おしいと思っておりました』
『勝さん。それは本当なのですか』
『やっ、どうして桜さんがここにいらっしゃるのですか』
『心太屋の女将さんから、勝さんから大切なお話しがあるとお伺いしました……』
『えっと……その……」
『勝さんは私のことを愛おしいと本当に思って下さっているのですね。でしたら、私も告白いたします……私も勝さんのことをお慕いしております』
「〝ここで桜は、勝の胸に顔を埋める〟と注意書きがありますけれど……」
「それは、本番一回で良いではありませんか」
「そっ、そうですね。こんな薄暗い時分にそのようなことをしておりますところを見られてしまいますと、疑われてしまいますものね」
私はもちろん、乙女をこの腕の中に抱き留めたかったのだが、それは乙女が嫌がるだろうと私は自ら身を引くことにした。
「つまらないことを言ってしまいました。続きをどうぞ」
「いえ」
乙女は台本を握りしめると、豆砂利に視線を落として呟くようにして言うのだった。
それでは。と私は続きの読み始めた。
『そうです。私は桜さんのことを好いております。桜さんのことを想うと夜も眠れぬ身の上です』
『そんな、そんな嬉しいことをおっしゃらないで下さい。私たちには遠の昔に親同士が決めた許嫁がいるのですよ』
『桜さんも私に〝お慕いしております〟と告白してくれたではありませんか。そんなことを言わないで下さい……』
『それは、私が言ったのではありません。私の、私の中にいる女の部分が言わせたのです』
『桜さん』
台本にはここで勝が桜を抱きしめると書かれてあったのだが、私は華麗に無視し、咲恵さんの台詞を待った。
『私たちはいずれ離別しなければならない運命……運命なのでしょうか』
『そのような運命であるならば、今この時に私と別れて下さい。その方が悲しみは……』
『それならば、別れるとおっしゃるならば……私に死ねとおっしゃって下さい!』
その台詞の瞬間、乙女の瞳に炎がが灯ったように見えた。灯籠の蝋燭の火かと思ったのだが、今まで半ば棒読みのセリフ合わせであったにもかかわらず、この台詞にだけは心迫るものがあったのだ。私の心に響く……そのような、衝撃があった。
だから私も、
『別れるだなんて、やめましょう。こんな話しをしたかったのではありません。私が桜さんに伝えたかったのは……伝えたかった言葉は。幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました。これだけを伝えたかったのです!』と我ながら迫真の演技を乙女に披露したのだったが……言い終わった後に乙女の顔を見やると、とてつもなく恥ずかしくなってしまった。
乙女は赤面して台本と私の顔を交互に見ている。
その仕草に私も今一度、台本をみやると、出し抜けに大きな声がふわっと出そうになった。
「勝太郎さんたら、台詞を間違えておりますよ。〝私は花よりも珠よりも美しい桜さんのことを愛しております〟です」
乙女は俯いて台本を両手で握りしめると、もじもじしながらそう言うのである。
「これは、灯籠の明かりだけでは暗くて文字が良く見えませんでした」
平静を装ってあくまでも言い間違えたと言い訳をしてみたものの、乙女に負けまいと感情を込めたところ、紛うことなき私の本心が出てしまった。勝が桜へ思いを伝えたのではなく、私が咲恵さんへ想いを伝えてしまったである。
「そうですね。文字が見づらいですから、本日はこの辺に致しましょう」
「お家までお送りします」
はい。とうなずいた乙女と私は気まずいと言うか、互いが互いを異常に意識しているという状況だろうか……言うなれば、初めて喫茶の待ち合わせをしたあの頃にそっくりである。
「すみません。私が言い間違えたばかりに」
何か言いたかった。この沈黙の間になんとか会話を挟みたかった。ただそれだけだった。
「いえ。あまりにも勝太郎さんが台詞に感情を込められるものですから……笑わないでくださいますか」
乙女は、うつむき加減そう言った。
「笑うなんて、とんでもない」
私が言うと、
「私が勝太郎さん告白された面持ちとなってしまいました」
とさらに俯いて言ったのであった。
「そのとおりですよ……」
「えっ」
声を上げて乙女は小さな口を少し開けたまま私の顔を見上げた。大きく見開かれた眼がその驚きの度合を私に伝え、少々潤んだ瞳に映る自分の顔を見て、誠に情けない顔であると罵った。
「私は勝として桜役である咲恵さんに告白するつもりで言いましたから」と嘘をついたのである。
微塵でも良い。私の気持ちに気が付いて欲しい。そんな、都合の良く想いが伝わるわけもないとわかっていたが、意気地のない私はそのまま勝のように『咲恵さんのことを愛おしく思っております』と言えなかった。
「そうです。そうですね。私は桜役で勝太郎さんは勝役ですものね」
取り繕うように、慌ててそう言った咲恵さんは安堵したように、演技に少し自信が出て来た旨を私に話してくれた。
ものの見事に沈黙の間は解消されたが、どうしてだろう。私の胸の中には冷たい恋風が吹き抜けているような、そんな気がした。
◇
「また、練習にお付き合い下さいませね」と家の前で勝太郎さんとお別れしてから、私はずっとほわほわとしておりました。
居間のソファーに腰を降ろしたまま、座布団を抱きしめ天井をぼおっと見上げていたのです。
『幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました』
勝太郎さんの迫真の演技の際におっしゃられた言葉です。台本の台詞ではありませんから勝太郎さん独自の言葉のでしょう。
ですから余計に私は驚いてしまったのです。
私はこともあろうに勝太郎さんが私に告白をしたのではと一瞬、はっとしてしまったのです。きっと勝太郎さんのように愛情細やかで誠実な方は周りの女性が放っておかないでしょうから、きっと遍歴とて……
私はしっかり、勝太郎さんの言葉に胸を射抜かれてしまいました。映画とはお芝居とは観覧に来て頂いたお客さんの心を射抜かなければならないのでしょう。
私はさらに恍惚となって天井を見上げながら「幾星霜と私は花よりも珠よりも美しいく愛らしいあなたのことをずっと想っておりました。だって……」と座布団をこれでもかと抱きしめたのでした。
「もしかして、そのように勝太郎さんに告白されてしまったの?」
お姉様が優しくそう言いながら、私の隣に腰を降ろしました。
「はい……」
しっかり言っておかなければなりません。言われたのは桜さんなのです。そして言ったのは勝太郎さん扮する勝さんなのです。けれど、
「とうとう、咲恵も娘さんになったのね。おめでとう」
お姉様は私の両手を取ると、「おめでとう」と繰り返してぶんぶん上下に振るのです。
「お姉様、私が頂いた言葉ではなくて、私が扮する桜さんが告白されたのですよ。映画の練習です」
なんだ、とお姉様は唇を家鴨のように尖らせて、
「勝太郎さんは愛情細やかで誠実だけれど、いまいち意気地に欠けるのね」と言いながら台所へ歩いて行ってしまうのでした。
私は机の上に投げ出していた台本を手に取ると、イーゼルに置いてある鉛筆で台本の表紙に可愛らしい林檎の絵を描きました。この台本はすっかり私のお気に入りなのです、何せ勝太郎さんとの思い出がこもってしまったのですから!
私は即席にしてとても愛らしく描けた林檎の絵を見てから、深くうなずくと次の撮影が楽しみとなってしまい、思わず台本を抱きしめてしまったのでした。
◇
今頃乙女は瑞穂さんと夕餉の最中だろうかと、そんなことを考えながら私は台本を顔に被せて万年床に寝転がっていた。
西村が言うには本日撮影した序章をまず作り、数日後に試写会を開くのだと言う。それまでは撮影はないのだとも……大衆に見つめられつつも、毎日咲恵さんと一緒に居られると思い込んでいた私は少し肩を落とした。
だが、男子たるもの自分でお誘いができずしてどういますか!成り行きにかまけていては成るものもまにまに流されて、いずれは別離してしまう運びになりかねん。
それに、今まで何度となく喫茶にお誘いし、乙女はこれを快く引き受けてくれたのである。このままで良いのだこのままで……
私は台本の目隠しの下、神社の境内を思い出した。もしも、あのまま愛の告白をしていたならば咲恵さんはなんと返事をくれただろうか。などと考えるのである。ばかばかしい。私は上体を起こすと、ぽとりと布団の上に落ちた台本を手に取り、台詞の練習を始めた。
もしもなど、過去を悔やむ凡愚でしかないのだ。もしも、もしもと振り返ってばかりいてどうして前を見つめられようや。情けない自分を払拭するためにも私は何度も何度も台詞を読み上げたのである。
だから、翌々日には第一幕の台詞全てと第二幕の前半部分の台詞を暗唱できるまでになっていた。本日は第三幕の台詞を読破の上、早々に鍛錬に励もうかと目論んでいた。もちろん、これは乙女に「勝太郎さん凄いです!」と感歎と称賛の声援を頂きたいがゆえの努力なのである。
だが、私の下心にのみ突き動かされた、精進はその日の夕暮れに砂上の城と化すこととなってしまった。
第三幕の中盤までなんとか暗記し終えた私は、久方ぶりに脳みそを急回転させたせいだろう、知恵熱を出してぼおっと落日の赤色を眺めていた。視線を掠る机の上には新妻からの感謝状が置いたままとなっていた。これとて、女性からのお手紙にかわりあるまい、それに感謝の意をしたためてあるとくれば、例え一文たろうとも無碍に扱うことなどできようはずもない。
などと、しょうもないことを考えて、一人きりでにやにやしていると、「筒串。俺だ西村だ」と珍しい来客があった。
「なんだ」
ドアを開けると、手みやげを持った西村の姿があった。
「実家から送ってきたもんなんだが、喰いきれなくてな」
とりあえず風呂敷包みを受け取ると、中から匂い慣れた甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「忘れたのか。私も松永信者だったんだぞ」
松永信者であった私は、松永先輩のやり口も熟知していた。何を隠そう、私はあと一歩で松永先輩の裏の側近に選ばれようとしていたのである。
「おいおい、今じゃ松永先輩の名を出す奴もいないんだぞ。やり口だなんて、考えすぎだ」
飴と飴。これぞ松永流である。風呂敷の中はカステラであり松永先輩が相手の機嫌とりに好んで贈答に用いた品である。
ゆえに古平などは皮肉の意味を込めて私に差し入れたりする。
「映画がどうかなるんじゃないだろうな」
「実はその通りなんだ」
やはり。私は風呂敷を部屋の片隅へ放り投げると、西村の胸ぐらを握り逃亡を阻止を第一とした。
「子細詳しく話してもらおう」
西村の鼻面に額をあてて私はうなり声を上げた。
しかし、西村は猛獣を飼い慣らしたサーカスの飼育員のみたく冷静沈着であり、「最近こんなことはよくあることなんだ」と前おいてから、もっともらしい説明を始めたのであった。
数年の間、學生会の執行部を牛耳っていた松永先輩は表だっては一学生であったが、裏では學生会の長であった。先輩はとかく影の暗躍者が好きだったのである。その目立ちすぎる影の暗躍者は學生会の権限の中でも最大にして絶対の『倶楽部活動費配分権』を明瞭に後ろ盾としていた。特質すべきは文化倶楽部への配分権を全て握っていた。
ゆえに、文化倶楽部は松永先輩にいかに取り入るかが、倶楽部の繁栄を大きく左右していたのである。
と、ここまで聞くと。まるで映画の序章のようであるが、実際にはそこまで、徹底はされておらず、若い婦女とその乳と酒を愛していた松永先輩はそれなりに人望もあり時に外道なれども、大凡は筋を通していた。だから私も一時は信者となったのだ。
聞いた話では松永先輩が學生会を牛耳ってからと言うもの毎年怪我人を多数出してまで大揉めに揉めていた倶楽部活動費争奪戦がすっかり平定され円滑にかつ静謐に皆が笑顔で握手をするほどにまで改善されたらしい。
だが、瑞穂さんとの婚約が破談となり、それも婦女側から三行半を送りつけられたあげく松永先輩側の不埒な行いが路程したことで、先輩は強制的に実家へ連れ戻されてしまったのである。今では出家させられたとかそうでないとか……今でも三条通を逃げ回っているのだとか……真しやかは噂や作り話だけが松永と言う人物の名を残しているにすぎない。
そこで困ったのが求心力を失った學生会である。突然の松永先輩失踪のせいで倶楽部活動費の決定があやふやになり、争奪戦こそ勃発しなかったものの、そのかわりどの倶楽部も活動費らしい資金をもらえないまま今日いたるそうだ。だから、とにかく製作に金のかかる映画などは企画倒れが多く、今回、西村は文化祭の折、映画倶楽部ここにあり!と存在感を示すために様々な人間から金を借りて『あゝ青春の日々』を撮ることにしたのだが、
フィルムが確実に足りないことや、当面の資金難から撮影を中止せざる得なくなったと言うのである。
「そう言う訳なんだ。鴻池さんには俺から謝罪しておいたから……ケーキを手みやげにな」
そう言って笑った西村の笑顔はどこか物寂しげであった。
私は訝しんだ。松永一派にいた人間は特別に信用ならないからである。だが、私とて借金を背負う苦しさは痛いほどにわかる。だから、私に残された微塵の良心や人の良さと言う部分が西村の胸ぐらを握りしめていた手を解かせたのだった。
私は「それでは仕方あるまい」と西村に背を向けた。
「悪いな筒串」
西村は最後にそう言って、ドアを静かに閉めた……
下駄の音が遠のいて行く。
私はやはり納得がいかず、いや悔しくて部屋を飛び出すと、便所のドアを開け誰かが新しく買い置いた便所下駄を片手に階段を望むと、それを力の限り西村の後ろ姿に投擲した。命中したのか否かは定かではない。便所下駄を放出した後、私はすぐに踵をかえして自室へ駆け込んだからである。
ただ、ドア越しに断末魔の叫び声と何ものかが階段を転げ落ちるような音が聞こえたのは確かであった。
◇
私は夕暮れと共に万年床へ潜り込んでふて寝をしていた。今となって枕の横に捩れて転がっている台本が忌々しく見えて仕方がない。半分以上も暗記したと言うのに、時を超えて私が脳みそを活性化させたと言うのに!
今や脳みその中で、回文のように巡る台詞の数々はもはや、本棚の端に回帰した卑猥図書の写真と同じくどうなろうとも後悔はしないだろう価値しかない。価値で言うなれば後者の方がまだ価値があると言うものである。
理由が理由だけに、誰を恨む訳にも侮蔑弁をぶつけるわけにもいかない。唯一と言えるのは松永先輩の失脚だろう。だが、それは私の念願であり悲願でもあったわけで……これを後悔しようものならば、本末転倒以外の何物でもない。
私は惰眠をむさぼった、正真正銘本物の惰眠を貪った。
私は四畳間に立っていた。風呂敷を携えて持って立っていたのである。窓の外には暗幕のベールにほんわりと黄粉餅のように丸く美味しそうな満月が手に届きそうであった。
「撮影中止などとまかりとおるか!」
私は机の上に仁王立つと、遙か彼方へ向かって咆哮を上げ、そして、風呂敷の四方を両手両足の指に挟む机を思い切り蹴って暗黙の夜空へと飛翔したのであった。
妙に生暖かい夜空に躍り出た私は、ムササビのように滑らかに微風を切って飛行した。
これぞ古の古式飛行術ではなかろうか。人間は翼がなくともプロペラがなくとも空を飛ぶことができるのである!
万有引力だろうが相対性理論だろうが関係ない、今まさに私は風呂敷一枚で空を舞っているのだ。
私は一頻り、空中遊泳を堪能した後、西村の頭でもこづいてやろうと思い立ち頭を大學の方向へ向けた。
それにしても暗い。これではどこに西村がいるのかわからないではないか。私が鵜の目鷹の目と地上を浚っていると、突然むさ苦しい何かに突き当たった。それはうにょうにょとやはりなま暖かくまるで心太のようであり、私が噛みつくとつるんと面白いほど喉越しよく歯切れよかった。
そしてその心太暗幕を突き破ると、そこは太陽光が燦々と降り注ぐ真昼の世界であった。世の中とは真は渾天説が正しかったのか。と納得しつつ、私は大學上空を猛禽類のごとく大きく輪を描いて旋回し、やがて桜並木へ向けて滑空をはじめた。
私の眼はよく見えた。常人を卓越した眼力には桜並木を歩く袴姿の婦女が写った。
「なんと」
それは見るからに咲恵さんではいか!かような映画の衣装を身に纏って何を……その刹那、桜の大樹にて死角から現れたのは、こともあろうに咲恵さんの傍らを寄り添うようにして歩き、しかも腰に腕を回した不埒漢の姿であった。
この破廉恥漢め!幾度となく喫茶の席を共にした私でさえまだ指先しか触れるにしか至っていないと言うのに、何を藪から棒に腕を腰に回しているのだ。映画に格好つけてなんたる所行か!
映画……桜並木を歩む二人の後ろには女装をした西村がおり、三脚にてキャメラを構えた映画倶楽部の部員がいるではないか。私は首を傾げた。滑空をしながら首を傾げた。映画は撮影中止になったのではなかったのか?それとも、西村の計略にて主役の私のみを入れ替え、撮影を続行しているのか……西村を問い詰める必要がありそうだ。
とにもかくにも最優先すべきは乙女救出である。
私は狙いを定めた川蝉のように急降下を始めた。手足が塞がっているからには、我が誇るべき石頭にて間髪入れず特攻を敢行してくれる。
私は歯を食いしばると細身の長身たる男子へ向けてみるみる高度を下げて行った。
翻筋斗打ちさらせ!私が眼を閉じようとしたその瞬間に、横殴りの突風が私の体を上空へ舞上げ、そのまま明後日の方向へ吹き飛ばしたのであった。
我が愛しの乙女の姿が忌まわしき不埒漢の姿が、小さくなって行く。無論、私は抗った。全身をねじったり、波打たせたりと春一番のごとく強風に立ち向かってみたのだが、人間四肢を駆使できぬとはかくも情けない抵抗しかできないものである。
私は姿勢制御ままならず、深海へ沈んで行くノーチラス号のように夜闇の中を風に流されて行った。再び心太のベールの中へ吹き戻されてしまったのだ。
夜の世界に戻ってくると、ベールに遮られてか強風は止み微風のみが私の飛行を可能としていた。
なんとかして、心太ベールを今一度突き破れないものか。私はただそれだけを考えていた。心なしか高度が下がってきていたが、流々荘の近辺に着陸するのだから良いと、気にせず思案し続けた。
螺旋を描きながら私は降下している。これ以上の飛行は難しそうだったから、着陸の後陸路にて乙女を救出しよう。私はそう腹づもりをして月明かりにて朧気ながら見える地面を確認すると、地面の様子よりも先に酸味を伴ったただ一言『臭い』としか言えない悪臭が鼻についた。
そのに追いは流々荘その便所の匂いであり、本屋街への近道の途中にも嗅いだことのある匂いであった。そう、それは肥だめの匂いだったのである。
どういう風の吹き回しか、気まぐれで自分勝手な暴風に運ばれ、そしてたどり着く先が肥だめなどと、まるで夢か幻かはたまた漫画の世界であろう。
今度こそ私は暴れた、手足をばたつかせてなんとか推進力を生み出そうと藻掻いた。肥だめになんぞと落ちてたまるか!その一心で……だが、体は一向に降下の一途を辿っており、致命的なことに、私は暴れ過ぎて足の指に挟んでいた風呂敷を離してしまったのである。
描いていた螺旋は一直線となり、私は名実共に落下した。万有引力そのままにただ落ちた。
そして着水したのであった。
硬い地面に叩きつけられなかったのは不幸中の幸いと喜ぶべきか、死に物狂いで顔だけを出した私は、このままいっそ沈んでやろうかと絶望のまっただ中に……いや肥だめのまっただ中にいた。
這い上がったところで、大學へは行けずはたまた流々荘へ帰ることもさすがにままなるまい……精々竜田川の流れのまにまに流されてどこどこへ行くくらいなものだろう。
やはり絶望だ。
それでも私は這い上がった。何度か悲惨な末路を思慮してみたことがあったが、そのどれも『肥だめで……』というのでは無かった。つまり同じ終焉であっても肥だめの中では死んでも死にきれなかったわけである。
ゆえに私は這い上がった。
だが、次の瞬間。私は再び頭から肥だめに落ちたのである。落とされたのであった。「うひゃー」と言う品のない声と共に飛んで来たリアカーが背中に直撃したからである。
まるで、竜巻に飛ばされて来た家の下敷きになって息絶えた魔法使いのようである。
「うひゃー」の声の主がドロシーでないことだけは自信がある。
一度ならずも二度までも肥だめに入った私は、一心不乱に這い上がろうと足掻いた。這い上がった暁には声の主に抱きついてやろうと思ったからである。私は無敵だ。肥だめから這い上がった私には何人たりとも近づけまい、近づきたくもないだろう!だから無敵なのである!
私は顔を上げた。せめても、どんな男か見ておいてやろうと思ったのだ。例え逃げようとも地獄の果てまで追随するつもりで……しかし、不思議なことにそこにはリアカーもなければ声の主と思える人物もおらず。
かわりに、全身が真っ黒い人間のようなモノが立っていた。
言うなれば人の影みたいであったが……その肩には木製の三脚。腕には、フィルムやらあげくにはキャメラまで抱えているではないか。ひょっとしてこいつは映画倶楽部の部員なのだろうか。私がそのような推測を巡らしたとたん、
その男らしきモノは、腕に抱えたフィルムとキャメラを肥だめに放り投げ、三脚を投げつけたのである。三脚が私の首筋を掠めて刺さった時はあわやと、冷や汗が額を駆けた。
「それ見たことか」
男らしきモノはそう吐き捨てると、黒い体を夜闇の中へ消してしまったのであった。
◇
それから数日の間をおいて、私は完成した序幕の映像を拝見いたしました。
劇中の私は……桜役の私は着慣れない袴を身に纏い、勝役の勝太郎さんと櫻の並木道を歩き、食堂で談話したりとまるで恋人同士の一時を見ているようです。ですから、私は少し恥ずかしくなってしまいました。
だから私は私自身に必死に言い聞かせるたのです。フィルムに収められた自分は咲恵ではないのですよ、桜と言う女学生なのですよと。
「やはり映画とは華々しいですね」
私の隣で恍惚となっていた小春日さんがおっしゃいました。
「はい、とても華々しいです」
私は恥じらいながらお答えします。
「勝太郎さんと鴻池さんがとてもお似合いです。仲睦まじい感じが演技でなくてもありありと感じ取れますもの」
さらに小春日さんは両手を頬に当てながら、いやいやと小さく首を振りながらそう言ったのです。
そんな……。私は言葉に詰まってしまいます。お似合いだなんて……仲睦まじいだなんて……
「あ、あれは私と勝太郎さんではなくて、桜さんと勝さんですよ」
私は顔を赤くしてしまいました。
「そうでしたわね。私ったら、そそっかしいのだから」
何かに気づかれたように、眼を大きくした小春日さんはそう言って「ごめんなさい」と
可愛らしく舌を出して謝りましたので「実は私も、刹那勘違いをしてしまいましたから、小春日さんのことは言えません」と小春日さんに耳打ちしたのです。
「まあ」
小春日さんは呟きます。そして、私と小春日さんは二人して顔を向き合わせたまま、くすくすと密かに笑ったのでした。
その日の午後から、撮影が始まりました。分厚くなった台本を新しく渡され、目を白黒させましたが捲ってみると、台詞は勝太郎さんと練習をしたままとなっておりましたのでそこは一安心でした。
ですが、奇妙なことに勝太郎さんのお姿がありません。そう言えば、試写会の折もお姿を拝見していないのです。私のお相手役である勝太郎さんが居なければ、お話しは進みませから、
「あの勝太郎さんがおりませんけれど……」私は監督である西村さんに言いました。
「ああ、筒串なら序章で死んだことになったから、もう出番はないんですよ」
「……そうなのですか……」
そんな……と私は突然不安になってしまいました。てっきり私のお相手役は勝太郎さんだと思っておりましたのに、まだ、序章で死んでしまうなんて。それでは、神社の境内にて練習しました第二幕のあの台詞は誰がお相手なのでしょう。確か、お相手の殿方の胸に寄り添わなければならないはずですから……
諸々お聞きしたいことがありましたが、まずは頭に包帯を巻いた西村さんの身を心配差し上げなければなりません。
「西村さん。包帯を巻かれておりますけど、お怪我をなされたのですか?」
「これは、昨日転んだ拍子に電柱にぶつけただけです」
西村さんは「大したことはないんです」包帯を何度か叩いて見せました。
「そうですか、それは何よりです。それで……映画のことなのですけれど、私のお相手役はどなたがなされるのですか?」
「ああ、それなら今紹介しようと思っていたところです」
そう言って西村さんが腰低く案内してきたのは誰あろう鈴木先輩ではありませんか。
「いやあ、筒串君だったか、彼に自分よりも〝鈴木先輩の方が鴻池さんの相手役に相応しいです〟と代役を頼まれてね。私も忙しい身の上なんだが、お相手が鴻池さんとあっては断るわけにもいかんだろう」
やけに白い歯を見せて完爾として笑った鈴木先輩はそのまま「よろしく」と私の手を取って甲に口づけをしたのでした。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
鈴木先輩は同じテニス倶楽部の先輩ですから勝太郎さんよりも長いお付き合いになります。お優しい殿方ではありましたが、少々わがままで高慢と鼻にかけるところがあるのが
私は嫌いなのです。
太陽が真上から傾き始めた頃、キャメラは回り始めました。けれど、なぜか私の衣装は袴のまま……それに撮影場所も以前と同じ場所でした。
「鴻池さん。悪いんだけど鈴木先輩のたっての希望で、序章から取り直しになったんだ」
三脚を抱えた映画倶楽部の方が椅子に腰掛ける私にそっと教えて下さいました。
「最初からなのですか」
私は「わかりました」と言ってうなずきます。同じ場面を繰り返しでしたら、私は自信があります。何せ、試写会と同じように立ち回れば良いのですから。それに、一度経験しているかぎりは、以前の演技により磨きをかけられることでしょう!
「緊張しているのかい?」
意気込む私の隣に腰を掛けた先輩がそう声を掛けて下さいました。けれど私は緊張などしておりませんでしたので「私は二度目ですから、緊張はしておりません」とお答えしました。なのに、
「強がらなくても良いんだ。僕は筒串君よりもずっと女性の扱いには慣れているから、心配はいらない。鴻池さんは安心して私に身を委ねればいい」そう言って先輩は私の髪の毛を触るのです。
「鈴木先輩。折角の髪型が崩れてしまいますから、髪の毛に触らない下さいませ。鴻池さん、今一度、髪を梳きますからこちらへおいで下さい」
私の髪の毛を弄びながら、もう片方の手を私の手に重ねたところで、怒ったような形相の小春日さんがやって来て、私を無理矢理、控えし室へ引っ張って行きました。
まったく、髪の毛は婦女の命なのに、と小春日さんは憤慨しています。
「どうされたのですか、小春日さん」
「鴻池さんも、もう少し抵抗しても良いのです。髪の毛は女性の命です、その髪の毛を弄ばせると言うことは、体を許しても良いという合図だと、お母様がおっしゃっておりました」
「そうなのですか!」
私は鯉のように口をぱくぱくさせながら小春日さんに詰めよったのです。
「ええ、私のお母様はそのようにおっしゃっておりました。それに、鈴木先輩はテニス倶楽部の婦女を見境なく口説いておられますから……てっきり……」
「口説くだなんて……確かに髪の毛は触られましたけれど……口説くだなんて……」
「ごめんなさい。早とちりしてしまいました」
櫛を両手で握りながら、小春日さんはなにやらもじもじとしております。もじもじとしたいのは私の方なのですけれど……
「また助けてくださいませね」
私は思いきって小春日さんを抱きしめました。
困っている私にお姉様がして下さるように、抱きしめてみたのです。
「鴻池さんったら、お茶目さんなんですから」
そう言うと小春日さんは笑顔になりました。ですから、私も笑顔になったのです。初めてお姉様の真似をしてみましたけれど、お姉様はいつもこのようなお気持ちで私を抱きしめて下さっていたのでしょうと、改めてお姉様の懐の深さを実感いたしました。
そして、新規蒔き直しと序幕の撮影が始まります。
桜並木を桜と勝が並んで歩く場面からなのですが……鈴木先輩は何を思ったのか私の腰に手を回して必要以上に傍らに接近するのです。
「先輩、近すぎます」
私は小声で言いました。
「恋人同士なのだから仲睦まじくなくてどうするんだい」
先輩は私の耳元に顔を寄せて、囁くように言うのです。私は顔を背けました。耳にかかる息のこそばゆいことと言ったら……それに、先輩は腰に回した腕の指先を時に波打たせるように動かし、時には私の横腹をさするのです。
それはもう私は不愉快でした。台本にもそのようなことはかかれておりませんでしたし、もとより、一度目の撮影で勝太郎さんはそのようなことをしませんでしたもの!
「大丈夫ですか」
桜並木の場面が終わって食堂への移動の最中、鈴木先輩が私に声を掛けてくる前に小春日さんが駆けて来てくださいました。
「台本にあのようなことが書かれてありましたかしら」
「いいえ。私もおかしいと思いましたもの、先日と演出が全然違います」
小春日さんは私の肩に手を置きながら、首を洗い立ての犬のようにぶんぶんと振ってそう言ってくださいました。
「私から西村さんにお伝えしましょうか?」
「いいえ、私は大丈夫です。引き受けたからには少しくらいの我慢はできます」
勝太郎さんが折角お誘いして下さったのですから。少しくらい我慢しなくてどうしますか。映画が完成した折りは……文化祭で上映されるその時は、是非ともお姉様と勝太郎さんと三人で見たいのです。小春日さんも時間を許せばご一緒したいですし……
食堂の窓際腰を降ろしました。前回の撮影では中央の座席に腰を降ろして、キャメラや他の機材も食堂内に入っておりましたのに……今回は私と鈴木先輩を残して、全員外が外に居るのでした。
ガラス越しに小春日さんの心配そうな表情が見て取れました。ですから、私は小春日さんに微笑んで『大丈夫ですよ』とお伝えしたのでした。
「今週末にお茶でもどうだい?」
「そのような台詞はありません」
私は勝太郎さんの足を引っ張ってしまってはと台本をしっかりと暗記しておりましたから、自信を持って鈴木先輩に申しました。
「君は随分と融通が聞かない頑固な女性のようだが、そう言うところもまた可愛らしい」
「そんな台詞もありません」
「それでは、どういえば会話をしてくれるかな」
そう言うと鈴木先輩は微笑みを浮かべながら視線をテーブルに固定していた私の顎に指をあてたのです。
「何をするのですか」
私はとっさに右手で、先輩の手を弾いてしまいました。
すみません。私がそう言うと「表情も愛らしいがこの手も可愛らしいね」と私の右手に両手を添えたのでした。
「これでは、取り直しになってしまいます。フィルムに余裕がないと西村さんがおっしゃっておりましたもの」
私は声をできるだけ絞ってそう申し上げます。取り直しになってはフィルムの無駄ですから、出来るだけそれとなく先輩の手から私の手を引き抜こうとしたのですが、先輩は私の手をしっかりと握っていて容易に引き抜くことがまかりならなかったのです。
「どうせ、何を話しているかなんてわかりはしないんだから」
そう言って先輩は、慎重な私を笑うのです。私はお腹の中が熱くなるのがわかりました。
良い映画にするためにも素人たる私は一生懸命に精一杯の演技をしようと努力し、そして協力しようと思っていますのに、それを笑うとは何事ですか!
私は頬を膨らまさずに眼に力を入れて先輩をにらみつけます。
ですが先輩は「そんな恐い顔をするなよ、折角の美人が台無しだ」とさらにふざけるのです。
私の堪忍袋がはち切れんばかりとなった頃合いでした。
「私というものがありながら、どうして、そんな女性と仲良くされるのです!」
台本通り女装した西村さんが私たちの席の前に現れたのです。おかげで私は鈴木先輩に噛みつかずにすんだのですが……
「お前は何のつもりだ!私と鴻池さんの仲を邪魔だてするつもりか!」と大声を張り上げて激昂した先輩がこともあろうに、西村さんを蹴り倒したのでした。
「なんてことを!」
私は蹴り飛ばされ、派手に床に顔を打ち付けた西村さんの元に駆け寄り「大丈夫ですか」
と介抱をしたのです。
「失礼ですが先輩は本当に台本を読んでらっしゃるのですか、西村さんは何も間違ってはおりません。それをどうして足蹴りになどするのです」
私は西村さんを介抱しながら、眉を顰めて言いました。もう、キャメラを気にする必要はありません。西村さんが蹴り倒された時点でフィルムは無駄になってしまったのですから。
「もちろん読んでいるとも。いやだな、鴻池さん。これも演技だよ演技」
平静を装っているつもりでしょうか余裕の笑みを浮かべて歩いてやって来た先輩は「立て」そう言って西村さんの腕を持って無理矢理西村さんを起きあがらせたのです。
私はそんな鈴木先輩に歩みよると、むんと胸を張って言ったのです。
「台本を読んでいらっしゃるなら!今の私は桜です。〝鴻池〟と呼ばないでください!」
しっかりと先輩の眼を見てそう言いました。そして、大股で食堂を後にしたのでした。
「どこへ行くんだ」
背中に先輩の声が投げ掛けられましたが、私はその声に答えることなく、控え室まで振り返ることすらもしませんでした。
「鴻池さん。お怪我はありませんか」
私が控え室に戻ってすぐ小春日さんが入ってまいりました。お優しい小春日さんのことですから、私を心配して駆けつけて下さったのでしょう。
「はい。私は大丈夫です。私よりも西村さんが心配です」
「西村さんは鼻から血を流しておられましたけれど、平気なご様子でした。」
よかった。それを聞いて私はほっと胸を撫で下ろしました。
「先輩も先輩ですし、この新しい台本は酷い有様です。鴻池さん。まだ序幕ですし、私はおやめになるべきだと思います」
「新しい台本……今朝頂いた分ですね」
「ひょっとしてまだ目を通してらっしゃらないのですか?」
「序幕は台詞がございませんし、第一幕の台詞は覚えておりましたから……」
私がそのようにお答えすると、小春日さんは一度私の顔から視線をそらしてから、小春日さんの持っていた台本を見開いて私に見せて下さいました。
私が台本に視線を落としている間も「初々しく若い青春を描いていると言うのに、女学生の腰に手を回すなんて、あってはなりません。あれでは、女学生に声を掛ける軟派な男子ではありませんか。鈴木先輩の振るまいは見ていて気分が悪くなりました」と小春日さんは興奮気味に話しておりました。
私はその間、眼を徐々に見開き、口を大きく開けて台本の文字を追うのです……そして、しまいには台本を床に落として、両肩を抱くようにしてその場に座り込んでしまったのでした。
そのページは第三幕の序盤でした。第三幕は駆け落ちを覚悟する桜と勝を描くのですが、その序盤になんと口にすれば良いのでしょう……口に出すのを憚りたいのですが、そうもいきません。
それは、もしも、二人の駆け落ちが成功しなかった時、その時は次に二人が逢えることは無いだろうと、勝が言い。こともあろうに桜を押し倒すのです。桜は、恥じらうのですが「婚約の契りに……」と体を許してしまうのです。
台本には注意書きにて、『しばらくベットにて情欲を交わす二人の描写』とも加えられていました。
ですから、私は「(そんな!)」と台本を落として座り込んでしまったのです。
「大丈夫。今ならまだ間に合いますよ」
意気消沈する私の手を握って小春日さんは慰めて下さいました……それはわかっています。このような愛憎劇が相俟って何が青春ですか。私は、もうこの映画に出演する気はすっかり失せてしまっておりましたし、たとえどれだけ頼みこまれたとしても、私がフィルムに写ることはありません。
映画はそれで済むのです……済むのですが……私が本当に悲しかったのはそのようなことではありませんでした。
「ありがとうございます小春日さん……なんとお礼を申し上げればよいか……」
ですが、それを小春日さんに申し上げても仕方ありませんから、私は手を握って下さる小春日さんに感謝の気持ちをお伝えしました。
「いいえ、鴻池にさんにはラケット盗難の折、すでに助けていただきましたもの。恩返しと言うわけではありませんけれど、同じ婦女として、見過ごすことはできませんもの」
小春日さんはそう言うと、私の洋服を持って来てくださいます。私は迷うことなく袴を脱ぎにかかると、洋服に着替えたのでした……