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黒髪の乙女  作者: 畑々 端子
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 そんなことがあってから、私は蚊柱を見上げるようになり、今もこうして橋の上から蚊柱を見上げているのです。

 ですが、私のような無粋な人が多いせいでしょうか、蚊柱は今では橋の上でなく川の上に移動してしまったのです。そして橋よりも私よりもずっと高いところにあるのです。

 四六時中群れていて、楽しそうと思っていた私ですが、本当は蚊柱の面々は常に過激な日常を過ごしているようで、つい最近そのことを知り、ますます蚊柱が気になってしまいました。

 お昼間は鋭敏かつ俊敏と縦横無尽に飛び回る燕に翻弄され、日が落ちて燕がやっと寝床へ帰ったかと思えば、次はコウモリが蚊柱に迫るのです。コウモリは夜行性ですけれど、どうして川の上に集まってくるのでしょうか。蚊柱が気に食わないのでしょうか?

 ですから、このように平穏と群れていられる時間はとても貴重なのです。

 誰一人蚊柱などに、興味を持って見上げる人は居ませんでしたが、私は見ていますよと一言申し上げたい心持ちになりました。子どもを見守る親の気持ちとはこのような面持ちなのでしょうね。私は思わず口許を綻ばせました。

 そんな矢先、

「こんばんわ、奇遇ですね」と不意に声を掛けられました。私が声の主を見やると、そこには勝太郎さんが立っているではありませんか。

「これは勝太郎さん、こんばんわ」

 わたしも挨拶します。すると「今日も威勢良くうごめいてますね」と勝太郎さんそうおっしゃるではありませんか。私はついつい嬉しくなってしまいました。てっきり私だけが蚊柱の生き様を拝見しているものだとばかり思い込んでいたのですから……

 ですから、私はつい嬉しくなって勝太郎さんの横顔を笑顔を携えて見上げてしまいます。

道行く人々は清々しくも夕焼けを眺める青年と言った趣で勝太郎さんを見ることでしょう。ですが、実は蚊柱を見上げているのです。

 私はさらに嬉しくなってしまいました。

「あ、その……すみません……」

私はびっくりしました。急に勝太郎さんが私の方に顔を向けたからです。そして、私は視線を足元に落としました。横顔であれ、人にまじまじと見つめられるのは気色が悪いものです。私も、講義の時など隣に腰掛けた殿方にずっと見られて居たことがありましたので勝太郎さんのお気持ちは察してあまりあります。

「いえ……」勝太郎さんはそう小さく言ってから、「この季節は酸漿の季節だそうですよ」

と一輪の酸漿を差し出したのです。

「これを私に?」

私は寝起きのように、はっとなって顔を上げました。

「一輪で賑やかさに欠けますけれど」

 照れ隠しでしょうか、そう言いながら勝太郎さんは頭を掻いています。

 私は、

「いいえ、そんなことありません。酸漿は一輪だからこそ姿見がよろしいのですよ。私のお母様が昔、梅雨の季節になると、酸漿を沢山買って家中に飾っておりました」と言ってから酸漿を受け取りました。

 なんて懐かしいのでしょう。私のお母様は東京の出身でして、幼少の頃より酸漿市で酸漿を買っていたそうです。 

 ですから、私が幼少の時分はお母様が酸漿をたくさん買い込んで全ての部屋に廊下にと一輪挿しにて飾っておりました。

 久しく、その風景には出くわしておりませんが、酸漿を見ますにすぐさま懐かしい思い出が鮮明に蘇ってくるのでした。

 私は懐かしさあまって、つい酸漿の実をつついてしまいました。ぷっくりと膨らんだ果実は姿見良く。愛でるもよし、撫でるもよしと一挙両得、一度で二度美味しいと言った趣なのです。

 無邪気に酸漿の実をつついている私を見て勝太郎さんは顔をほんのり赤らめ、何かを言いたげな表情をしておられましたが、ついに何を言うこともありませんでした。ひょっとしたら、子どものように笑顔を浮かべる私に呆れてしまったのかもしれません。

 もしそうであったならば、お恥ずかしいかぎりです。

「夏風邪でもひかれたのですか?顔が赤いですよ」

 顔が色づいておりましたから、もしやと思い私は勝太郎さんにお聞きしました。

「いえ、その……夕日が水面に反射したのですよ。だから、咲恵さんの顔も赤いです」

「本当ですか」 

 私は驚いて自分の手で両頬を包み込むようにしました。どうでしょう。私のほっぺは暑さにあてられたように温かかったのです。ですから、

「本当です。ほっぺが温かいです」と勝太郎さんに顔を見て言いました。

すると、勝太郎さんはまた頭を掻きながら「これからお時間があれば、お茶でもいかがですか」そう言って竜田川沿いにの道にあるベンチを指さしました。

 ベンチは喫茶店ではありませんから、注文はできません。ですが、梅雨明けをした今日は、からりと清々しく、川沿いですから一度、風がそよげばそれはもう爽快とばかりに心地が良いことでしょう。

 それに、なんと言っても、あのベンチからは蚊柱が見えるのです!私同様に勝太郎さんも蚊柱を拝見していたのです。きっと、お姉様に負けない楽しいお話しが出来るはずなの

です。

 蚊柱を見上げながらお茶など、なんて風流なのでしょう。小粋な勝太郎さんさんお誘いに私は、

「梅雨明けそうそう、夕暮れの川沿いなど小粋ですね。喜んでご一緒します」そう言って

 二つ返事でお答えしました。

 今頃、お母様とお姉様は夕飯の支度をしながら、私の帰りを待っていることでしょう。お母様とお姉様にはまことに申し訳なのですが、私はもう少しだけ蚊柱を見上げていたいと思います。

 これもまた一期一会なのですから。

「コウモリが飛んでいます」

 私はコウモリが苦手でしたから、勝太郎さんよりも歩幅を狭めて歩きます。

「そうですね。川の上ですから、コウモリも飛ぶでしょう」

 対象的に勝太郎さんはコウモリが恐くない様子です。悠々とコウモリを見上げているではありませんか。「蚊柱の敵なのですよ」と私が呟くと、勝太郎さんは聞こえていたのでしょう。「私にも羽があれば、今すぐ追い払うことができるのですけれど」と真面目な顔をして私に言ったのでした。

 羽だなんて、私はおかしくなってついつい声を出して笑ってしまいました。何せ私も、幼い頃はいつか、背中から翼が生えて行きたいところへ自由に行けてしまうと思っていたのです。

 ベンチに腰を降ろすと、勝太郎さんは私を一人置いて、どこかへ駆けて行ってしまいました。どうしたのでしょうか、と思っていますとやがてサイダーの瓶を両手に持って帰って来たのです。

「お茶にお誘いしたからには、何か飲まなければなりません」

「ありがとうございます。サイダーを飲むのは久方ぶりです」

 私はサイダーを受け取ると、気泡を湛える瓶口を見やって生唾を飲み込みました。そして次の瞬間にはしゅわしゅわと清涼の魔法水を喉へ流し込んだのでした。

「そうだ、コウモリというのは昔は『河守』と言われていたのですよ」

 勝太郎さんもサイダーを一口飲んでから、思い出したようにそうおっしゃいました。

「そうなのですか?ですから、よく川の上で見かけるのですね」

 私は納得して薄暗い空を縦横無尽に飛び回るコウモリを見上げてうなずきました。

 ヤモリは家を守るから『家守』。イモリは井戸を守るから『井守』と言うのを、おばあさまから教えて頂いたことがあったからです。

「勝太郎さんは物知りですね。おかげで、一つ賢くなることができました」

 そう言って、私が勝太郎さんの方に顔を向けますと、今度は勝太郎さんが手足をじたばたとさせて、何やら驚いたのです。

「いえ、咲恵さんには及びませんよ」

 手を頭にやりながらそう言った勝太郎さんは、ますます顔を赤くして苦笑いを浮かべるのでした。


      ◇


 梅雨明けそうそうに、黒髪の乙女と過ごした一時はまさに甘美に溢れていたことは言うまでもない。話題が蚊柱であったことをさっ引いても十二分におつりが帰ってくることだろう。季節に限って空を漂う虫とて、これもまた一期一会の趣なのである。

 配達途中の酒屋に出くわしたのは、私の普段の善行ゆえの奇跡であろう。エンジンのかかったままのオート三輪の荷台には箱に納められたサイダー瓶が擦れ合ってかんかんと清涼感のある風鈴のような甲高い音を立てていた。運転手はどうやら配達のために三輪のそばを離れている様子であった。

 私は悪魔のささやきを明瞭に聞いた。今なら瓶二本をくすねたところで大凡安全牌である。

 だが、私はそんな貧相な悪魔を優しく宥めると、帰って来た酒屋の主人に頼んで、荷台のサイダーを売ってもらったのであった。

 私だけならまだしも、咲恵さんに盗品のサイダーなどを飲ませられようわけがない。そんなことをすれば、盗品である汚れた魔法水によってたちまち美しいものだけでできている乙女の口はただれてしまうことだろう。

 私は至極当然のことをしただけである。だが、万年床にて心地よく回想出来るかぎりはやはり、乙女の口がただれなくて良かったと思うのであった。

 次の日からは、夏真っ盛りと蝉の叫び声と共に、容赦ない灼熱の日光が降り注ぎ、私は

万年筆を握りしめたまま、ふやけた天麩羅の衣のようになって四畳間でのびていた。蒸し暑いのも耐え難いが、かといって誰が純粋なれどこのように暑くしろと願ったと言うのか。もう少し段階を経て暑くなってほしいものである。

 乙女から手紙が届いてから早一週間。私はもどかしくも返事を出す頃合いを見計らっていた。大學は夏期休暇に入る前の試験まっただ中なのである。

 もちろん私は大學へ赴いて鉛筆を走らせるような試験は全て投げ捨て、参考図書を丸写しした小論文あるいは研究報告書を提出しただけであった。後は、ひたすらに内職に励むだけである。

 黒髪の乙女との有意義な時間を過ごすためには多少なりとも、金がいるのだ。もちろん、彼女に渡すのではない、当たり前だ。喫茶店に行ったり、あわよくばキネマなどにもお誘いしたい。動物園に遊園地と、とにかく行楽地へ赴くとなると何かと物入りなのである。

 だが、私の中では、はっきりしていることがある。私と乙女は交際をしているのではないのだ。私が告白をできなければ、乙女から告白などを望むわけもなく。ただ、友人かそれ以下の間柄なのだ。男子の嵯峨かこのように乙女から『お茶のお誘い』の旨がしたためられた手紙が来れば、いやでも勘違いかもしくはそれに準ずる思い込みにて胸を焦がしたいものであろう。

 しかし、だからこそ自重しなければならないのである。


 

 拝啓


 川沿いでの語らいの折はサイダーをごちそうしていただき、本当にありがとうございました。久々にサイダーを飲みましたものですから、つい夢中となってしまいました。

 ここ数日は夏真っ盛りと、蝉も鳴き勇んでおりまして、大學へ向かう途中など帽子が無くては頭がふらふらとしてまいります。

 勝太郎さんはお元気のことと存じますが、これからが夏ですから夏ばてや夏風邪などにお気をつけ下さいませ。

 本日お手紙を差し上げたのは、お礼と、お茶のお誘いをしたいと思い、お手紙をしたためました。婦女である私から勝太郎さんをお誘いするの恥じらいにも躊躇いを伴いましたが、サイダーのお礼もしなければなりませんし、蚊柱について談笑したあの日は、お姉様もお母様もそれぞれに勝太郎さんにお夕飯をごちそうする予定であったそうです。お母様は罪滅ぼしとおっしゃっておられましたが、残念ながら私には何のことだか知るところではありませんで、しつこく聞いてみても婦女の秘密とお母様に釘を刺されてしまいました。

 勝太郎さんはお心当たりなどありませんでしょうか?ありましたら、こっそり教えていただけたなら私は嬉しく思います。 

 前後してしまいましたが、今一度、私とお茶をご一緒してくださいませんでしょうか。

 もしお受け下さるのでしたら、勝太郎さんのご予定をお聞かせ下さいませ。場所はフロリアンにてと考えております。

 私も勝太郎さんも學生の身空。夏期試験を控えておりますから、學業を第一とせなばなりません。ですから、試験が終わってからとなりますね。

 病気になってしまいそうなくらい暑い日々が続きますが、私も勝太郎さんにとっても大切な時期となってまいりますので重ねて申し上げます。どうぞ御自愛下さいませ。


 お返事をお待ちしております。


敬具

鴻池 咲恵


 

 先にも記したが、私は筆記試験を尽く避けて通り、そして逃げた。いかんせん講義に出ないのであるからして、単位を獲得できる点数を得る自信など皆目ありはしないからである。

 その分、考察論文や小論文と言ったやつは、大學の附属図書館へ行けば大凡論題に則した書物が何冊かあり、これらをブレンドして丸写しすれば、めでたく似非論文ができあがる。

 至極簡単に単位を得ることができると言うのに、どうしてか図書館はいつも閑散としており、利用している学生がちらほら見当たる程度である。私はどうして、このような不正に近くも楽な正攻法を皆使わぬのかと首を捻ったが、誰もが真似しないのであれば私にとっては好都合。だから、私はこの方法を大きな声で言うこともなければ内密に教えてやることもしなかった。

 とは言え、先人の論を丸写ししているだけではないか!と横やりを入れられれば、これを否定する術はない。

 乙女は真面目で可憐な筋金入りの學生であるからして、日々予習復習を怠ることなく、試験期間ともなれば、睡眠に落ちることなく気が付いた時には朝日が顔を出していた。などと言うことも珍しいことでもないのだろう。

 私は天井を見上げながら、胸の辺りを掻いた。そろそろ、私の体臭もごみ溜めから肥溜めに昇華しはじめている頃合いだ。

 乙女と会う前に銭湯へ赴いて垢と言う垢を汗臭さと共に洗い流さねばなるまい。

 盆地の嵯峨か夏の暑さは異常である。炊事場の蛇口を捻ると温い水が飛び出し、便所からの悪臭はもはや匂いにあらず。涙が出るほど眼しみるのである。ゆえに眠気覚ましには事欠かないのだが、用を足すたびに涙を流さねばならないのは涙の無駄と言うものだろう。涙などと言うものは素晴らしきに感動して、または憎たらしくに憤怒して哀愁にやりきれぬ時にこそ流すものなのである。

 だから今朝方、真上の新妻が涙を拭いながら便所から出て来たところに出会した時には、暴漢にでもなったような嫌な気分となった。

 私は灼熱地獄を瀕死の蛙のように大の字となってなんとか生き延び、日が傾き、そよ風がようやく温くなった辺りで朦朧とする意識を携えて起きあがると、フラフラと千鳥足で

机の前まで歩き、ようやく便箋を取り出したのだった。


      ◇


 梅雨が明けてからと言うもの、白と黒の曇天はどこへやら、ここ数日などは灼熱の様相をていしております。この暑さなら、せめて試験期間が終わるまで梅雨でも良かったかもしれません。そうふっと思ってしまう私を誰が責められるでしょうか。

 試験勉強の合間、私は勝太郎さんへ御手紙を書きました。よもや勉強の邪魔になってはとも思ったのですが、やはり書いてしまいました。

 それも、私からお茶のお誘いの旨を……はしたない婦女と勝太郎さんが呆れられるかもしれませんと思ったのですが、蚊柱について語らったあの一時を思い出すと、どうしても今一度お話をしたいと思ったのです。

 ですが、私も勝太郎さんも本分は學生ですから、勉学を疎かにしては本末転倒です。ですから、末尾近くに執念深く學生の身空の心得を書き加えておきました。本当は、勝太郎さん向かって投げ掛けた言葉ではありません。実は私自身に向かって戒めの意味を込めて投げ掛けた言葉なのです。

 私は横好きでして、勉強も好いておりますが、一つのことに集中すると言うことが苦手です。昨日とて、試験勉強をしていたはずですのに、いつの間にか部屋の掃除をしてみたり、デッサンの続きをしてみたり、意味もなくラヂオ体操セブンを踊ってみたり……机に向かっている時間より無駄に動いている時間の方が長かったのですから……

 どうしようもない性分ですが、だからと言ってそれが言い訳になるわけもなく、また、試験日が延期されるわけでもありませんから、ぎりぎりになって必死になって机にかじりつかなければならなくなるのが常なのでした。

 その折、勝太郎さんから御手紙が来ないでしょうか、と何度となく郵便受けを見に行きましたが、結局、御手紙は入っておりませんでした。

 私は溜息をついて、もう五杯目の休憩の紅茶を飲みながら勝太郎さんは試験勉強に余念無きようにと、便箋には目もくれずに夜更けまで机に向かっていることでしょう……

「そうです」 

 私は一念発起して紅茶の残ったティーカップをそのままに、自室へ駆け上がると机にかじりつくことにしたのでした。


      ◇


 お手紙が来ないもどかしさを、払拭すべく勉強に邁進した私は文字通り余念無く勉学に集中することができました。このように魂までつぎ込んで勉強に集中するのは大學に入学してより初めてではないでしょうか。

 おかげで、試験の出来は上々でした。試験期間を終えてなお、このように不安なく清々しい面持ちでいるのは大學に入学して以来、初めてのことです。ですから、今期に限っては初めてづくしなのでした。

 現実に努力をしたのは私ですが、その切っ掛けを、起爆剤を下さったのは勝太郎さんですから、ここは勝太郎さんに感謝をしなければなりません。

 ですが、どうして勝太郎さんはお返事を下さらないのでしょう。やはり婦女である私が差し出がましくも勝太郎さんをお誘いしたのが癇に障ったのでしょうか……私はもう一度、お手紙を書きましょうかと思いましたが、お返事を催促する手紙を出すなどあまりにも情けなくも悲しいではありませんか。それに、もしも逆鱗に触れてしまっていたなれば、そのような手紙は火に油を注ぐようなものですし、不躾にも程がありますから、乙女の恥である前に人として恥じるべきなのです。

本日までは試験期間が終わるまでお手紙は来ないものと、諦めておりました。それは『試験期間中油断すまじ』と明瞭な理由があったからこそ諦めることができたのです。ですが、試験が終焉した今となってはそんな理由はまかりとおるはずもなく、また私の人間らしいところがずきずきと疼きだしてしょうがなかったのです。

 試験が終われば夏期休暇ですから、私は実家へ帰る支度をしなければなりません。しなければならないのですが……なるほどどうして、荷造りなどをする気にもなれなかったのです。

 私は扇風機の前に腰を降ろすと、前髪を逆立てながら、『あ』の発声をしました。息が長く続けばつづくほどに、濁点がついたように音が変化して面白可笑しいのです。決して、他人様にお見せることは恥ずかしく憚るのですが、どうせ来客などありませんし、いらっしゃると言えばお姉様くらいですから、別段見られたところで何ともありません。そもそも、この面白可笑しい発見をしたのは誰であろうお姉様なのです。

 そんな風に暇を持て余していますと、扇風機ごしに自転車に乗って通り過ぎて行く郵便屋さんの姿が見えました。もうそんな時間なのですかと一度立ち上がろうとして、私は再び膝を折って発声をしておりましたが……

 やはり気になりましたので、郵便受けにそろそろと向かうことにしました。

 外には誰もおりませんでしたが、私は私にお庭の様子を見に来たのですよ。とあくまでも郵便受けだけを見に来たのではないのです。と言い訳をしていました。もしも、郵便受けが空っぽであった時でも、言い訳をしてさえいればその落胆もいくらかは緩和されるかもしれないと思ったからなのでした……

 ですが、言い訳をしなくてもよかったのです。なぜなら、郵便受けの中には封筒が入っていたのですから!




 謹啓


 ここ最近は夏真っ盛りとむせび鳴く蝉たちに同情したくなる日々が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。大學の試験も終わり、何かと気の抜ける時期でありますから夏風邪などにはどうぞご用心下さい。

 先日のお手紙ありがたく頂戴いたしました。すぐさま返事を書こうかと思案しましたが、咲恵さんの勉強の邪魔になってはと、筆を遅らせた次第です。

 てっきり、怒ってらっしゃると思っておりましたもので、お手紙を頂いた際は安堵しました。

 お姉さんとお母様はどうして「罪滅ぼし」などともうされたのでしょうね。生憎、私にもその理由はわかりかねます。非常に残念です。

 先日、咲恵さんの下宿先の近くにおりましたのは、偶然ではありません。咲恵さんたちに出会ったのは誠に偶然であり奇跡的であると私自身も思います。それと言いますもの、梅雨の最中、不躾にも咲恵さんの下宿先へ向かいました際、咲恵さんを怒らせてしまいましたことをお詫びするためだったのです。

 どんな理由があろうとも、年頃の女性である咲恵さんの元へなんの断りもなしに、訪問した私が浅はかであり、無礼の極みであったわけですが、どうか言い訳をさせて下さい。便箋を買いに行った帰り道、綺麗な桔梗を売っていたものですから咲恵さんに差し上げたいと思い、桔梗を購入してその足で下宿先へ向かったのです。今更ながら、このような文言は忌まわしく思われるかと思いますが、どうぞお心をお鎮め下さい。

 喫茶の件は喜んでご一緒させて頂きます。今度の日曜日、昼の一時からでいかがでしょうか、私は自由な時間が多くありますから、咲恵さんのご都合が悪いようでしたら気楽にお知らせください。

 本当は竜田橋などで待ち合わせたいと思いますが、雨が降るといけませんから、フロリアンにて待ち合わせといたしましょう。

 それでは、喫茶の日を指折り楽しみにしております。

 


   敬白



 私は、居間へ駆け戻ると、横殴りの扇風機の風に髪の毛を泳がせながら、便箋に眼を走らせました。

 そして、はてな?と首を傾げたのでした。お返事が長らく届かなかったのは、思った通り試験の邪魔になってはとの勝太郎さんのお心遣いにてでしたから、ふむふむと頷けましたが、その後の文面には私は心当たりがなかったのでした。

 私は勝太郎さんがこの家に訪ねて来たことを知りませんでした。ですから、憤ることもするはずがありませんし、そもそも、私は実家に帰っておりましたから下宿にはいるはずがないのです。

 私はしばらく指を口元へやりながら、考えに耽っておりましたが、それも今度の日曜日のお昼間一時より、じっくりとお聞きすればよろしいでしょうと、すっかりどのようなお洋服を来て行きましょうか。とクローゼットの中を思い出しては、頭の中で着せ替えをしながら恍惚としていたのでした。


      ◇


 やがてその日はやって来る。それは今まで同様に私がいかに念力を込めようと念仏を唱えようと無情に回転を続ける長針と短針、加えて秒針が逆に動き出すかその動きを止めないかぎりは、日は昇りそして暮れてゆくのである。

 またしても、散髪へ行かず行けず、一張羅の洗濯をするに止まった私はその日の正午には姿見の無い室内内で身だしなみをただして、いざ行かん乙女のもとへ!とフロリアンへ出かけて行ったのだった。

 時計がないと言うのは至極不便である。とりあえずは一時間と釣り銭が来るほどの余裕を持たせて四畳間を出てきたのだが……早く到着しすぎると言うのも、なんとももどかしい。きっと手持ち無沙汰に託けて、面白可笑しく昼下がりを喫茶にて楽しむ乙女たちに浮気眼を泳がせることだろう。断言して間違いはあるまい。誠実のどうらんを塗りたくったとしても、私はしがない男子なのである。

 竜田橋の上から清流の体を保ちつつ、たまに上流から得体の知れないゴミがどんぶらこと流れ行く水面を見下ろしながらそんなことを考えていると、咲恵さんに対して誠に申しわけない気持になってしまった。

 もう一つ気が付いたことがある。私は黒髪の乙女と後何度、喫茶の席を共にするのだろうか……いやできるのだろうか…………してもらえるのだろうか……少なくとも少なくとも今日は間違いない。だとするならば、次があったならば、私はまたこの一張羅を着てフロリアンへ向かうのだろうか。私は婦女ではない身の上は衣服に気を使う事も多少は許されるだろう。

 だが、さすがに何度も続けて同じ服で出かけて行くと言うのも芸がないし、よもやこの一着しか所有していないのではと乙女に悟られてしまうかもしれないという危惧もまとわりついて離れない。かと言って、無い物は無いのだ。懸案しても懸念してみても結局どうすることもできないのである。もどかしいことこの上ない。

「勝太郎さん」 

 そんな折、私は背中に声を掛けられた。耳に優しい温かい声である。

「これは咲恵さん、奇遇ですね」

 私は振り返るまでもなくその主を知り置いたが、わざわざ振り向くと驚いた振りをして、そう言って小さくお辞儀をした。

「少しばかり早く出てしまったと思いましたけれど、勝太郎さんと出会えましたからよかったです」

 お辞儀を返してかたそう言った乙女は薄い萌葱色のワンピースに純白のブラウスと、少し軽装であった。胸元には控えめな林檎のブローチがなんとも可愛らしい。咲恵さんらしい可憐さを引き立てているブローチはまるで、咲恵さんをそのように輝かせるために、想いを込められて精魂を込めて作られた一品のような雰囲気があった。

 相変わらず化粧気はなかった。それでも、透き通るように肌は白く、血色のよい口唇などは口紅をのせたように鮮やかである。やはり黒髪の乙女は品良く美しくもどこか無邪気な温かみを醸していた。

「私の顔に何かついていますか?」

 芙蓉の顔を傾けて私にそう言うのであった。

「いえ、本日も随分と暑いですから、早くフロリアンへ行きましょう」

「はい」

 あなたの顔に見とれていました。本心であるが、どうしてそのようなことが言えようか。

これもまたもどかしい。道ばたに咲く名も知らぬ花とて、朱に染まる夕日とて美しい、これらにはたして綺麗と賛美の声を押し隠すだろうか。であるならば、美しい人に向かって美しいと言えないのはどこか不条理である。

 褒められて嬉しくない人間はいない。ならば、乙女も私の賛美を受け入れて頬の一つも赤くしてくれるかもしれない。このもどかしさの根源はやはり、意気地のない私による私のせいなのだ。こればかりはどうしようもない……

 私がそんなことを考え込んでいる隣で黒髪の乙女も何か考え事をしている様子であった。年頃の乙女である、何かと悩み事も多いことだろう。

 だが面白いことにフロリアンへ到着すると乙女の面持ちは晴れ晴れとした笑顔に変わっていた。気持ちの良い笑顔で見上げられた私も、思わず笑顔を浮かべてしまった。

 笑顔とは往々にして伝染するものなのであろう。

 ウェイトレスに案内されるまま今回は壁側の席へ腰を降ろし、ついでに珈琲を注文した。

 一様、観葉植物や外国の風景画などが飾られてあったが、やはり一番の花は私の向かいに腰を降ろす乙女その人だけである。これはこれで困った、私の乏しい知識と経験からすれ、乙女と面と向かって長々と話すには全てが頼りなくそして、不足し過ぎている。だから、先の喫茶の席では折を見て、外に視線をそらして事なきを得たのだったが、この度はすでに八方塞がりであった。

 だが、

 先日の御手紙なのですが。と黒髪の乙女は徐にそう言い、

「その、勝太郎さんがお花を携えて訪問なさってくださった折、私は丁度実家に帰っておりまして、留守にしていたのです」と首を傾げながら言ったのだった。

「しかし、確かに明かりがついてました……それでは……誰が……?」

 私も乙女と同じように首を傾げた、二人揃って同じ方向へ首を傾げている風景など、端から見れば、なんとも面白い絵だろう。

 もしかして……。と乙女は視線をテーブルに落とした。

 そしてそれから玉響の間があり、彼女は大學から家に帰って来ると開けた覚えのない箪笥が開いていたり、果物が無くなっていたり、下着が廊下に落ちていたりと、明かに『不自然』な事象が続き、恐くなり実家へ難を逃れた旨を話してくれた。

 私は明瞭に腑で劫火を燃やしたことは言うまでもあるまい。咲恵さんのような妙齢たる乙女にお近づきになれぬからと言い、男子のいや人としての尊厳をうち捨て、そして独女たる乙女の家に土足で踏み入れ、消して触れてはならぬ白の園をいじくり回すとは言語道断。私の頼りない鉄拳にて制裁してくれる!そうだ、頼りなくとも流星の早さで私の拳は唸りをあげることだろう。私は「咲恵さんが無事で本当に良かったです」と優しく語りかける一方でその不埒者に今世紀最大の激昂をくべていた。

 お心遣いありがとうございます。乙女は、小さく頷いてそう言った。

「お話はかわってしまいますが、御手紙にも記しました、あの日、お姉様もお母様も御礼を込めて、夕餉をご馳走する算段だったそうですよ」 

「御礼と言われましても私には覚えがありませんできっと何かの勘違いですよ……ですから、御礼にはおよびません。ですが、その勘違いのおかげで咲恵さんとお話ができましたから……瑞穂さんたちの勘違いに感謝しなければなりません」

 私は顔から火が出る勢いだった。なんと木っ端恥ずかしいことだろうか、本心ゆえに嘘偽りは皆無ながら、真実ゆえに恥ずかしい。私は俯いてしまったが、

「まあ」

 私の言葉に乙女も小さくそう言うと俯いてしまった様子であった。

 その後、どちらが話し出すでもなく俯いたまま、少しの時間が流れ、「おまちどおさまでございました」と言いながらウェイターが珈琲を運んでやってきた。

 時の氏神と顔を上げた私。その向かいでは乙女も私の顔を上目遣いで見ながらゆっくりと顔を上げていた。

 私はその視線に心臓が破裂してしまいそうになったため、急いで珈琲に大量の砂糖とミルクを流し込んでスプーンで竜巻のごとく掻き回した。その際カチカチと音を立ててしまったのはもはやご愛敬であろう。

「あの」「あの」

 私が意を決して切り出すと、こともあろうに乙女も時を同じくして切り出したのだった。

 何という偶然だろうか。私はそんな偶然に戸惑いつつも、どうしたものかと口をつぐんでしまったのだった。

「勝太郎さんからどうぞ」

「いえいえ、咲恵さんからどうぞ」 

 どうして、乙女の言葉に甘えなかったのだろうか……

「それでは私から、お姉様が改めて御礼を申したいとおっしゃっておりましたから、後日、日を改めて、お時間をよろしいでしょうか」

「そんな、御礼だなんて……恐縮です」

 私の豆腐のような頭の中には、天使のような笑みを浮かべながら頬に淡くチークをのせた瑞穂さんの顔が浮かび上がっていた。

 今でも思い出すと、胸辺りが熱を宿す。髪の毛がもう少し長ければ、そして胸元が小山であれば、私はたちまち虜となっていたのである。忘れろという方が無理難題であろう。

 失礼にも黒髪の乙女を前に姉妹たろうとも別の女性のことを思い浮かべてしまった私は、ついついぼーっとしてしまい、

「勝太郎さんの番です」と乙女に言われてしまった。

「八月の一日に祭りがあるのはご存じでしょうか」

「はい。存じておりますよ。生駒神社のお祭りですね」

「そう……そうです。それで……」

「それで……何でしょうか?」

再び首を傾げる乙女。私は生唾を大量に飲み込む、緊張あまって体は温度を失いまるで石像のようになってしまった。

 しかし、これだけは言わなければならないのだ。毎年八月の一日を苦々しく思っていた、だが、今年はそうなるまいと思いたいのである。だから私は意を決して言った。

「その、その祭りに……私と一緒に行きませんか」と。

「一緒にですか?」 

「はい、是非とも咲恵さんとご一緒したく」

 乙女は私の誘いに目を大きくしてきょとんとしていた。その間、私は恥ずかしいやらもどかしいやらで、そわそわとし、慌てて「美味しい林檎飴屋を教えて差し上げます」と付け加えた。

 乙女はいつしか大きく見開いていた目を下げて視線を泳がせていた。そして、過去のいつの日か私を虜としてようにほんのりと頬に紅をのせ、口をすぼめた表情で「ご一緒します」と小さく言ったのだった。

 その一言を聞いて私は、強張っていた全身からまるで筋肉と言う筋肉が流れ出るように脱力し、ぼんやりと天井を見上げていた。それはもう穴が開いてしまうほど、やはりぼおっと天井だけを見上げていたのである。

 乙女はそんな私に、少し熱っぽいのです。と言って自分の額に手をやった。

「夏風邪をひいてしまったのかもしれません」と続けて言うと莞爾として笑ったのであった。 

      ◇


 本日は、乙女は薄い萌葱色のワンピースに純白のブラウスで出掛けることといたしました。少しばかし気軽すぎやしまいかと、思いもしましたけれど、私はお姉様から頂いた林檎のブローチを勝太郎さんに見て欲しかったのです。

このブローチは陶芸倶楽部にも所属してらっしゃいますお姉様が林檎の好きな私を想って私にプレゼントするため、私のためにのみ拵えて下さった一品なのです。ですから。私は、早くこのブローチをつけてお出掛けなどをしてみたいと思い、夜も眠れないほどだったのですが、大學夏期休暇の始まったばかりですから、大學へは行けませんし、本屋街へお買い物へ行くのに身に着けて行くと言うのも、お姉様に申し訳ない気がしてならず、結局、枕元にずっと置いたままでした。

 だって、お姉様の想いがこもったブローチですよ、特別な日に目見えさせたいと思う気持ちは誰にでもわかっていただけると思います。

 ですから、勝太郎さんと喫茶をする本日を選んで初お目見えを決めたのです。

 朝早くから身だしなみに余念無くいたしましたし、朝食もお腹がぽっこりしてはいけませんから、少なめにしました。もう姿見の前に何度立ってみたことでしょう。

 朝早くから起き出してしまいましたので、お約束の時間まで随分と余裕がありました。ですから、私はソファに座ったり寝転んだりしながら読みかけのグリム童話を読んでおりましたけれど、一向に集中できず、ページを捲る度に柱時計を見上げてはそわそわとするのです。

 とにかくじっとしていられなかった私は、玄関に出て思い切り背伸びをしました。今日も良いお天気です。蝉も活き活きと蝉時雨とて聞き慣れた季節の合唱でしょう。

 ふっと地面を見やりますと、雑草がちらほらと生えております。これは、外からみたなればとても不細工でしょう、と私は膝を折って雑草を引き抜きました。するとどうでしょう。うまく引き抜けなかった雑草が地面に散らばって余計に汚してしまったではありませんか。

 私は眉を顰めて頬を膨らませてみましたが、私がしでかしたことですし、この家には私しか住んでおりませんから、私が片付けなければ誰も片付けをしてくれません。

 外回りの掃除をしている場合ではないのですが……と思いつつ、ご飯の上に振りかけをまぶしたように細かい緑色が散乱した地面を見やりますと、どうしても掃除をしなければと頭が痛いのでした。

 私は竹箒を取りに家の裏の物置に向かいました。私がこの家に下宿が決まった時にお父様がわざわざ拵えて下さったものなのでしたが、実のところを申しますとそんなに開けたことはないのです。何せ、小屋の中は昼間でも薄暗いですし、天井には蜘蛛の巣が所狭しと張ってあります。以前に開けた時など、鼠が私目掛けて駆けてきたのですよ。そんなこともあって、小屋に収められた道具とてほとんど新品のままですし、竹箒など使用頻度の高いものは小屋の手前に置いてあるのでした。

 私は恐る恐る小屋の引き戸を少し開けると、後は腕だけを入れて手探りで竹箒を探して、手に当たると無理矢理引っ張り出して、急いで引き戸を閉めました。そして、野球帰りの子どもがバットを肩にのせるように竹箒を肩に勇ましく玄関まで帰って来たのでした。

 これで恐いものはありません。早速地面をはき始めた私でしたが、どうにも力が入りません。雑草が生えてしまうまでほったらかしにして、掃き掃除を疎かにしていたせいで、箒の扱い方も忘れてしまったのでしょうか……それは恥ずかしいことです。私は、うんと力を入れて箒を走らせました。

 するとどうでしょう。

「あ……」

 バターがとろけてしまうように、箒の先がぽてんと倒れてしまったのです。慌てて、寝転んでいる先っぽを手にとってみると、しっかり折れてしまっていました。

 無理矢理引っ張りだしたり、剣道の真似事をしてみたり、時には野球の素振りなども真似をしたことがありました。ですが、致命的だったのは、やはり家の前の溝掃除をした後に乾燥させずに片づけてしまったのがいけなかったのでしょうか。

 私は無惨な竹箒を見つめながら「ごめんさい」と呟きながら、優しく、折れた断面を合わせて差し込んでみました。すると、見た目には立派な竹箒に戻ったではありませんか!

 もちろん私は治ったと内心では喜々として笑いたい気持ちとなりました、けれど、指でつついてみますと、すぐに先っぽが取れてしまうのです。

 何度となくそれを繰り返した私でしたが、「ごめんさい、ご苦労様でした」と再び謝り、労を労った後に、先っぽを差し込んだままドアの横に置いてある傘立てに差しておきました。

 すっかり汗をかいてしまいました。

 私は柱時計を見上げて安堵の息をついてから、濡れた手拭いで体を拭いてから自室のベットの上に出しておいた洋服に着替えました。色々な方向からおかしいところはないでしょうかと一頻り眺めた後、最後にお姉様から頂いた林檎のブリーチを胸元につけました。

 まだ、お約束の時間には早かったのですが、これ以上家の中に居ては、また何かを壊してしまうかもしれませんし、余計なことに気を回して結局お約束の時間に遅れるようなことがあってはいけません。それに、遅れるよりは早く到着しているほうが良いに決まっているのです。

 私は戸締まりをしてから、家を出てフロリアンへ向けて歩き出しました。お約束の刻限までには十分時間がありますから、時間をつぶす意味も込めて、遠回りと竜田橋の方向からフロリアンへ向かうことにしたのでした。

 お昼前の一番暑い時分、地面には逃げ水がふよふよとしております。

 私は遠回りなどせずに、フロリアンの中で待っていればよかったとしみじみ思っておりましたが、竜田橋の上に見たことのあるマントを羽織った男性を見つけると、遠回りをしてよかったと思い直し、そっと近づいて声を掛けたのです。

「勝太郎さん」 

白昼堂々、婦女から殿方に声を掛けるなどと一目を憚りますから、できるだけ小声で勝太郎さんにだけ聞こえる声でした。

「これは咲恵さん、奇遇ですね」

 勝太郎は別段驚く様子もなく、振り向いて、小さくお辞儀をして下さいました。

 私もお辞儀を返してから、

「少しばかり早く出てしまったと、思いましたけれど、勝太郎さんと出会えましたからよかったです」私のお洋服を見て下さいます勝太郎にそう言ったのでした。

 本当に奇遇です。まさかこんなところで会うことができるなんて!勝太郎さんは私の胸元を見やった後、目元をとろんとしてずっと私の顔を見つめてらっしゃいました。

 相手が同性であっても、面と向かって見つめられると恥ずかしいものです。ですから、異性である勝太郎さんに見つめられると、恥ずかしいなどと言う程度のお話しではありませんで、私は恥ずかしさあまって「私の顔に何かついていますか?」と首を傾げたのでした。

すると勝太郎さんは、「いえ、本日も随分と暑いですから、早くフロリアンへ行きましょう」と早口で言うのです。

「はい」

 とお答えした私でしたけれど、今日のお洋服は……取り立ててブローチには自身がありましたから、ほんの少しでもよいのです。乙女心にも褒めて頂けたなら、どんなに嬉しいことでしょう。

 けれど、勝太郎さんが褒めて下さらないかぎりは、褒めるに至らないのかそれとも、私の一人の独りよがりだったのでしょうか…………

 口唇を尖らせていた私ですが、横目で勝太郎さんを見ますと、何か物思いに耽って居る様子です。何か悩み事でもあるのでしょうか。もしかしたら、私のお洋服にブローチに気を止める余裕さえない程に悩み藻掻いているのでは……そう思うと、私は尖らせていた口唇を緩めて微笑みをつくったのでした。笑顔は伝染するのです。ですから、私は笑顔をつくったのでした。

 フロリアンのドアを開けて下さった勝太郎さんに私は感謝の気持ちを込めて、笑顔で見上げました。すると、勝太郎さんも微笑み返しをして下さるのです。やはり笑顔は伝染するものなのでしょう。

 本日は、窓側の席ではなく店の奥、壁側の席に案内されました。腰を降ろす間際に勝太郎さんが「今日は何を飲まれますか?」と聞いて下さいましたので「珈琲で結構です」とお答えしました。

 その席からは観葉植物や外国の風景でしょう、風景画が見ることができましたし、窓側の席で慎ましくも談笑を楽しむ男女の姿も見ることができました。私もあのように饒舌になって勝太郎さんと面白可笑しく談笑ができたら、どれだけ素敵なことでしょうと思いながら、風景の中心にいる勝太郎さんの顔を見るのでした。

 そして、先日の御手紙のなのですが、と私は話しを切り出しました。

「その、勝太郎さんがお花を携えて訪問なさってくださった折、私は丁度実家に帰っておりまして、留守にしていたのです」そう首を傾げながら続けて言いますと、勝太郎さんも「しかし、確かに明かりがついてました……それでは……誰が……?」と私と同じ方向へ首を傾げたのです。

 二人して同じ方向へ首を傾げているのですから、それはオモチロイ格好でしょうと思いました。けれど、もしかして、と気が付くと、私はどうしようもなく不安になって、俯いてしまいました。

 今更、勝太郎さんに打ち明けても仕方のないことでしたが、どうしようもなく不安になってしまった私は、実家に帰る前におこった不自然な出来事をお話しました。

 すると、勝太郎さんは、まるで自分のことのように憤怒してくださったのでした。顔色こそかえられませんでしたが、硬く握り締められた拳はわなわなと震えていたのです。

「咲恵さんが無事で本当に良かったです」

 激昂の心中においても、愛情細やかに私の事を案じて下さいます。勝太郎さんは心優しい殿方なのですねと私は言葉にできないながらも、そう思いました。

 これ以上お話をしても、どうすることもできませんし、勝太郎さんの心中を無駄に騒がすのも気が引けますから、「お心遣いありがとうございます」と慎ましく御礼を述べた後に、「お話はかわってしまいますが、御手紙にも記しました、あの日、お姉様もお母様も御礼を込めて、夕餉をご馳走する算段だったそうですよ」と私の方から話題を変えたのでした。

「御礼と言われましても私には覚えがありませんできっと何かの勘違いですよ……ですから、御礼にはおよびません。ですが、その勘違いのおかげで咲恵さんとお話ができましたから……瑞穂さんたちの勘違いに感謝しなければなりません」

 勝太郎さんはそう言った後、俯いてしまいました。

 私も「まあ」と俯いてしまいます。私とお話ができただけですのに、そんな……

 それから、私と勝太郎さんは時折聞こえてくる談笑の声を耳にしながら、少しの間俯き合ったままでしたが、「おまちどうさまでした」とウェイターの方が珈琲を運んで来て下さいますと、何となく話し出す切っ掛けができたように思えました。

 勝太郎さんは、カチカチと音を立てながらスプーンで珈琲をかき混ぜてらっしゃいましたが、私は話し出す機会を窺っておりましたので、それどころではありません。

 そして、勝太郎さんがスプーンを置いた時を見計らって、

「あの」「あの」  

 と言ったのですが、ものの見事に勝太郎さんと声が重なってしまいました。 

「勝太郎さんからどうぞ」

「いえいえ、咲恵さんからどうぞ」

 また口をつぐんでしまいそうでしたが、折角のお話の席をですのに、黙り合っているのは面白くありませんし、私はもっと勝太郎さんとお話がしたかったのです。

 ですから、「それでは私から、お姉様が改めて御礼を申したいとおっしゃっておりましたから、後日、日を改めて、お時間をよろしいでしょうか」と差し出がましくも私の方からお話をしたのでした。

「そんな、御礼だなんて……恐縮です」 

 勝太郎さんはそう言うと珈琲を覗き込んでしまいました。それから、少しの間にやにやと何やら思いを巡らせている様子なのです。

 そんなにオモチロイことなら私にも教えてほしいと思うのが一般的ですけれど、それを聞いてしまっては乙女の慎みに欠けますので、私はあえてお聞きせず「勝太郎さんの番です」と言うにとどまるのでした。

「八月の一日に祭りがあるのはご存じでしょうか」

「はい。存じておりますよ。生駒神社のお祭りですね」

 ようやく、お話らしいお話になりそうです。お祭りでしたら、毎年お姉様と御一緒に出掛けておりましたし、林檎飴とお面と綿菓子は必ず買っておりました。

「そう……そうです。それで……」

「それで……何でしょうか?」

 私はいつ、お面のお話や林檎飴や綿菓子のお話などをしましょうかと、勝太郎さんの言葉を待っておりました。

 すると「その、その祭りに……私と一緒に行きませんか」とおっしゃるではありませんか……「一緒にですか?」ついそう聞き返してしまいました。 

「はい、是非とも咲恵さんとご一緒したく」

 私は目を大きくして口を鯉のようにぱくぱくさせていました。

「美味しい林檎飴屋を教えて差し上げます」

 勝太郎さんは取り繕うように慌てて、そう付け加えました。

 ですが、私はまだ冷静になれないでいたのですした。何せ、私は林檎飴やお面に綿菓子の話しをしたくてうずうずしておりました。ですから、その用意しかしていなかったわけでして……よもやお祭りのお誘いを受けるなんて、誰が予想などできたでしょうか…… 

 私は混乱をしておりました、誠に混乱をしていたのです。こんな時にお姉様になんと言ってお断りをしたらよろしいでしょうと考えてみたり、今更ながら自分でこしらえた浴衣に自信がなくなってきてしまったり、大凡明後日の方向へ向けて私は思慮を巡らせていたのです。

 そして、一回りして『是非とも咲恵さんとご一緒したく』と言う勝太郎さんの言葉が蘇ったのです。

 そうなのです。お姉様へのお断りや浴衣の善し悪しなど、ただの言い訳でしかありません。

 お祭りと言えば、毎年お姉様と一緒に行くのが通例でしたから、殿方と夏祭りに行くだなんて、行くだなんて!

 少しでも夏の星空の下を林檎飴や綿菓子を手に勝太郎さんと歩く絵を想像してしまうと、顔が真っ赤になってしまうようでした。ですが、もう遅かったのです、顔はすでに火照ってしまっていましたし、知らずのうちに口元をすぼめてしまっていたものですから、

「ご一緒します」そのおかげで、声が小さくなってしまいました。

 勝太郎さんは私の返事を聞くと、どうされたのでしょう、ぼぉーっとして天井をずっと見つめていました。口をあんぐりと開けているものですから、もしや急な睡魔に襲われたのではとも思いましたが、私がすっかり温くなってしまった珈琲を二口ほど飲んでいますと、ようやく視線を私の顔に戻しました。

 そして私の顔をずっと見つめるものですから、私はつい恥ずかしくなって、「少し熱っぽいのです」と熱を測るように額に手をやりました。

 すると、勝太郎さんは何か言いたげに口を開いて、困った表情をされましたので、私は続けて「夏風邪をひいてしまったのかもしれません」と言いながら向日葵にも負けない笑顔になったのでした。

 

      ◇


 前途は多難にして、その後のお話しは誠に弾んだ。ゴムボールのごとく弾んだのである。

話題はと言うとお祭りであり、瑞穂さんの話しやもちろん乙女の自身の話もあった。毎年のように金魚すくいや射的に挑戦していることや、正月でもないのに神社にておみくじを引くことなど、私は終始聞き手にまわっていたのだったが、向日葵のように燦然と話す乙女を見ているだけで私の心は清められていった。

 そして深く後悔したのである。どうして私は祭に出かけなかったのだろうかと……八月一日と言えば、浴衣姿の乙女に同じく浴衣姿の男が仲良く我が居城である流々荘の前を通り過ぎるのを四畳間の窓から羨ましくも妬ましく……苦々しく見下ろしていたにすぎなかった。

 ささくれだった私の心中が時に一目も憚らず腕を組む浴衣の男女に唾棄せよと、唾を吐きかけたこともあった。

 幾星霜と間違えた祭の過ごし方をしていた私である。乙女のように楽しくも悦楽な思い出があるわけもなし、少しも共感できないことが虚しくも寂しかった。

「ごめんなさい。今日は私ばかりが喋ってばかりでした」

 私が後悔の念に苛まれていると、隣を歩く乙女が不意にそう言った。それは私の願望と男子の義務と乙女を家まで送る旨を伝え、これを乙女が了承してからほんのわずかが経った頃であった。

「いえ、私はとても楽しい時間を過ごせて満足ですよ。あまりに咲恵さんが楽しそうにお話しをされるものですから、私まで楽しくなってしまいました」

 事実である。

 それに、そもそも、私が乙女を家まで送りたいと思ったのは、義務というのはあくまでも建前であり、往々にして私の願望が本音なのだ。もう少し乙女の話を聞いていたいと思ったに相違ない。

「そう言っていただけると心苦しさも幾ばくかは穏やかになります。けれど、勝太郎さんも何かお話し下さい。私は勝太郎さんのお話しもお聞きしたいのです」

 そう言って私を見上げる乙女の瞳には明確な罪悪の後悔が見て取れた。

 私の話など乙女にの口には断じて合うまい……それに味合わせたくもない。大學に入学してより、私はとにかく乙女とは路線を格別した場所に身を置き、良くて荒み悪くて絶望の日々のみを過ごしてきたのである。

 黒髪の乙女と文通を交わすようになって、私にもようやっと明光が差したのだから。

 だからそこ、私は乙女の純粋にかつ悦喜として語られる、まるで林檎飴のように甘酸っぱい話しの方が耳に優しく心身ともに癒される。

 やはり私が出しゃばって口を開けばたちまち、咲恵さんの忌諱に触れるだけなのである。

 だが、「私の話など面白くもなんともありませんから、どうぞ、お話しを続けてください」と私が言っても、乙女は頑として口を開かず、飽くまで私の顔を見上げているに止まっていたのであった。

 それこそ、乙女は意外と頑固であり沈黙を厳守し続けたのは、家の前に至までであった。

 仕方なし。私は乙女と竜田橋で会った時より思っていたことを喋ることにした。

「今日の洋服は咲恵さんに良く似合ってますね。特にその林檎のブローチは可愛らしくて愛らしくて……咲恵さんそのものだと思います」 

 このようなことは、出会い頭に言っておくべきだと我ながら思った。少なからず別れ際に伝えることではなかろう。

「そんな、私が……可愛らしく愛らしいだなんて……」

 乙女は目に見えて照れていた。両膝を擦り合わせてもじもじとしながら、新雪の頬に南天の実を添える。まるで雪ウサギのように可愛らしいその姿を見ていると自分で口走っておきながら、私も照れて言葉を探すよりも先に手を頭をやっていたのであった。

 きっと私の顔も赤く色づいていたことだろう。だが、幸いにして私の顔は無条件に赤いはずなのだ。

 何せ、正面の遥か空には朱光を讃える落日が輝いていたのだから。

「勝太郎さん!」

 私が感傷に浸っていると、乙女が急に青ざめた声と共に、私の後ろに隠れた。

「どうかされましたか?」

 虫でもいたのだろうかと思ったのだが……

「家の灯りが……灯りがついています」

 と指を差すのである。

 見やると確かに明かりが灯っていた。そんなはずはない、家の主である咲恵さんがここにいて、真っ昼間からフロリアンにてお茶を楽しんでいた私たちなのだ、気でも違わないかぎりは昼間から部屋の明かりなど灯そうはずがない。

「……」 

 私は息を飲んだ。これぞ、まさに喫茶の折りに聞いた狼藉者の所行ではあるまいか。乙女は胸のところで両手を握り小さくなって、心なしか震えていた。

 私はそんな乙女を今一度一瞥してから、むんと胸を張り、門柱に手を掛けたのである。「勝太郎さん」  

「咲恵さんは外で待っていてください」

 私は言った。迷いもなくそう言った。清々しくもなんと男らしく格好の良いことだろう。まるでキネマの主人公にでもなったような面持ちである。

 だが、本当のところは恐怖で精一杯だった。私は武術の心得もなければ日々精神肉体ともにまったく磨きをかけていないのだ。

 その私がどうして勇ましくも、得体の知れぬ不道者と対峙と退治ができると言うのだろう。それでも、玄関の傘立てに差してあった竹箒を片手に施錠の解かれたドアに手を掛けたのは、一重に背中に注がれる乙女の視線と、自分で切った大見得の後始末に困ってしまったからであった……

 靴を脱ぎ玄関から入った私は、足音を立てまいと抜き足差し足忍び足で廊下を歩き、居間へと繋がるドアの側面の壁に背を張り付かせ、深く息を吐きそして吸い込み、苦しくなってまた深く吐き出した。

 部屋の中からは物色している物音が聞こえてくる。それが生々しくも私の鼓動と脂汗を促進させた。汗ばむ昨今において、背中には悪寒と冷や汗でびっしょりである。

 勝負は泣いても笑っても一回こっきり。不意打ちでのみ相手を倒せなければ大凡私の勝ち目は無に帰すだろう。幸いにしてドアは半分開いており、私は部屋の中を覗くことができた。

 明るい室内には手ぬぐいをベルトに通した後ろ姿が見てとれる。手ぬぐいとズボンの一部しか見あたらなかったが、それだけでも相手が恰幅と言えず貧相であることがうかがい知れた。困窮迫っての悪行だろう。

 よりにもよって我が心のオアシスである咲恵さんの家に押し入るとは、迷惑千万にしてやはり許し難き悪辣漢である。

 私は幾ばくかの安心と頼りない自信を得ると、額に浮いた油汗を拭い、いざ勝負っ!とドアを勢いよく開けて竹箒を先頭に池田屋へ切り込んだ新撰組がごとく、狼藉者へ斬りかかったのであった。

 が……竹箒を振り下ろす前に、どういうわけか、箒の先が離脱して飛んで行ったのである。箒の先はこれまさに私さえも予期せぬ不意打ちとなって、不埒漢へと飛んで行ったのだが、「ふひゃ」と男が妖怪の断末魔の声を上げ尻餅をつきながらもこれを既の所でかわし、目標を失った箒の先は見事な回転を見せながら、ものの見事に酸漿が飾られた花瓶に命中した。その後、刹那に花瓶は緩やかに落下すると、軽調なれど耳に痛い叫び声を上げて破片を床の上に四散させたのである。

「あぶないなあ」

「おっ!お前何をしているんだ」

 古平は「いちち」と尻をさすりながら立ち上がると、「おやおや、これは珍しい所で会いましたね」と気色の悪い笑みを浮かべ、「でも先客は私ですよ」と続けた。

「靴を脱げ!そして今すぐに出て行け!」

「靴を脱ぐ律儀な泥棒がどこにいますか……って、本当に脱いでやがる。あなたは類い希なる本物の阿呆だ」 

 けけけと古平は腹に手をやって私を笑った 

「やかましい。今すぐ出て行かないと、この箒で打ち据えてなますにしてやるぞ」

 私は本気であった、柄である竹のみとなってしまった箒は見れば、所々に虫食いの穴が開いてあったりカビが生えていたりと一撃くれてやれば裂けてしまいそうなほど、脆い姿であった。しかし!今の私は自他ともに認める正義の味方なのである。いや乙女の味方、しいては咲恵さんの味方なのである!古平ごとき妖怪と同じにされてたまるか!

「それをぶち殺すっていうんですよ」

 呆れたようにまるで臭いモノでも見るかのように眉をひそめ、鼻をつまんでみせた古平は、箒の柄を構える私を気にもしない様子で、再び物色を始めようとしていた。

「古平」

「なんですか、僕は忙しいんだ、あなたのチャンバラに付き合ってる暇はないんですよ」

「梅雨の中頃、やはりこの家に忍び込んでいたのか」

「忍び込んでたかもしれませんね。梅雨入り頃から出入りしてましたし、そう言えば、梅雨の中頃に、忍び込んでる時分、家の主が帰って来たのかと思って冷や冷やしたことがありましたかね。家の前に花を持った男がのぞき込んでたものですから」

 それは私だ。

「まあ、よくよく考えてみれば、この家は女の一人住まいですから、差詰め、花を口実にその女に会いに来た、阿呆男だったんでしょうけどね」

 それも私だ。

「やはりぶち殺す」

 私は本気で箒の柄を振り下ろした。憎っくきむらりひょんを成敗する気で振り下ろした。

「笑えないですよ。僕は急ぎで亀甲印のタワシを探してる途中なんだ」

無論、私は古平を笑わせるつもりはなかったが、

「人の家い闖入してまでも、手に入れねばならんモノなのか」古平が自ら危険を冒すのであるからして、金儲けの他にありえまい。

 もちろん。と胸を叩いて、古平は高々と説明をした。

 何でも亀甲印のタワシと言う珍物は樹齢百年以上のシュロの毛を用い極秘の生産技術をもって作られたと言う、決して金物屋では手軽に売っていない代物であるらしかった。そして、このタワシはどんな頑固な汚れであろうとも洗剤を使用せずして摩訶不思議な洗浄力において洗い流すのだとも言った。

「ゲジのじじいの仕事か」

「それをあなたに言う筋合いはない」

 古平の目つきがかわった。真剣みを帯びたと言うよりは憤りに色が変わったと言うべきだろう。

「そうだな。今の私には興味のない話しだ。さあ家違いだ出て行け、今すぐうせろ」

「そうですね。この家はあらかた探し終わりましたし、箪笥を開けても女モノの下着しかでてきませんし、この家は諦めますよ」 

 私は激怒した。怒髪天のごとく髪の毛を逆立てて激昂した。

 清楚でありかつ純粋無比たる咲恵さんの下着に手を掛けるなど言語道断!まして、咲恵さんの話では下着が廊下に落ちていたと言うではないか。古平許すまじ、今この瞬間にその首私がもらい受ける!!

「俺がこの場で切り捨ててやる」

 私は再び古平に向けて箒の柄を振り下ろした。

 古平はそれをひょいと軽い足取りでかわして「箒で?」といやらしい笑みを浮かべた。

 私は古平の足元に落ちている三角形に近い白い布を見つけて目元を痙攣させ、我が手に宿る獲物は紛うことなき妖刀村正であると思い込むと、一心不乱に振り回した。

 それはもう振り回した、柱に当たって幾ばくかの竹片が宙を舞ったが、逃げ回る古平を仕留めるまで私の箒の柄捌きは止まる気配を見せなかった。

「勝太郎さん、ひどい音がしましたけれど大丈夫ですか?」

 阿修羅とかした私の手を止めたのは玄関から聞こえて来たそんな乙女の不安そうなか細い声であった。

「しまっ」 

 私が油断した隙に古平は台所にある勝手口から脱兎してしまったのである。夏夜にこぞって動き出す黒い虫よりも厄介な奴である。

 私は箒の柄を床に置くと「大丈夫です」と乙女に返事をしながら、床の上に散らばった花瓶の破片とユーラシア大陸のように広がった、水溜まりを袖などを使って片付けていた。

「本当ですか」

 乙女は恐る恐る。本当に恐る恐る、ドアから顔だけを出すと、部屋の中に私の姿のみがあることを確認してから、ようやく私の元へ歩み寄って来たのである。

「泥棒は私が成敗しておきました。逃してしまいましたが、男の姿があるとわかればもう二度と来ることはないでしょう」

 そして「格闘の最中、咲恵さんの大切な花瓶を割ってしまいました」と嘘をついたのであった。

 そんなこと、と咲恵さんは言うと、私の足元に落ちている白い布を急いで拾い上げるとポケットに隠して、

「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいのでしょう。そのようなものは私が後で片しておきますから」そう言いながら私と肩を並べて、花瓶の破片を広い始めたのだった。

 その時、偶然にも私と乙女の手が触れてしまった。張りのある白い指先はまるでマシュマロのように見えた。きっとそれに相違なかろう。しかし、私が触れたのは運悪くも中指での先であり、丁度、ペンだこの部分であった。

 だが、私と乙女はとっさに触れた手を引き、それはもうまるで磁石のように……その後、私は幾ばくか淡くも今にも逃げ出したい面持ちとなってしまった。私は不可抗力にも乙女の家の中におり、そして、初めて乙女の肌に触れたのである。

 私の中の一片の理性やら倫理やらそれに準ずる精神的抑制のたがが外れてしまえば、今すぐにでも乙女を押し倒してしまいそうである。そこまでの意気地はないとしても、口唇の貞操を奪ってしまいかねない……

「それでは、私はこれにて」

 私はそれだけ言うと静かに立ち上がった。

 夕暮れにして桃色の妄想を抱きかけた私だったが、指先に触れられただけで、その手を胸の前で抱くようにしてフランス人形のように沈黙してしてしまった乙女の姿を見ると、どうしてか、不潔な妄想すら抱くことに萎えてしまった。

 私は男子として、男子らしい生粋の阿呆である。だが、だが……愛してやまない意中の乙女の前でだけは最後まで正義漢でいたいと切に思ったのかもしれない……

「お茶などいかがですか?美味しいお紅茶があるのです」

 乙女は私を引き留めるようにそう言って立ち上がると、私の返事を待たずして、はぐらかすように台所へ駆けて行ってしまった。

 私はそんな乙女の小さな背中を見つめてさぞかし恐かったことだろうと思った。誰とも知れぬ暴者が住居の中へ押し入っていたのである。もしも乙女のみが鉢合わせしていたならば、その時、暴者が古平でなかったとしたなれば……乙女はきっと多くのモノを失っていたに違いない。

 年頃の娘は純情にしてそれだけ尊くも多くの大切なモノをその身に宿しているのだ。

 私は咲恵さんに同情するとともに、やはり古平は後日成敗せなばなるまいと心に誓った。

そして、床に散った花瓶の破片をひとまとめにしてから、

「それには及びません。こんな時分にこの家に男が出入りしておりますと、咲恵さんの沽券にかかわります」と潔くも堂々と退散することにしたのであった。

 慌てて玄関まで駆けて来た咲恵さんは「本当にありがとうございました」と端麗なお辞儀をしてくれた。

「いえいえ、咲恵さんのためになれて男冥利に尽きます」と私は照れ隠しと頭を掻いた。

「また、私と喫茶をご一緒してくださいませね。その折りはどうか私にごちそうさせて下さい」 

 神妙な面持ちであった。どうしてこの黒髪の乙女はこれほどまでに愛くるしいのだろう。

これほどの真善美を宿した女性がどうして、今だに独り身であり恋人の一人もいないのだろう。私を除いて世の男子どもは皆、余程の節穴しか持ち合わせていないらしい。

 申し訳なさそうな表情を浮かべる乙女を前に私はそんなことを考えていた。

 帰り道、枯れ木も山の賑わいと粗末な街灯に照らされながら、私はペンだこながら繊細で汚れ無き乙女の指と触れた自身の汚れた手をまじまじと見つめて流々荘へ向かって歩いていた。夜のとばりが降りはじめた帰路の途中、何度も電柱に頭をぶつけたが、痛みと言う感覚は皆無であり、私は色を濃くした月に向かって更なる誓いを立てた。

 この手は一生洗うまいと! 

 

      ◇


 勝太郎さんは本当に頼りになる殿方です。私は勝太郎さんと触れてしまった指先を見つめて恍惚となっておりましたが、やがて一人の時間が長くなると次第に、寂しくも不安になってしまったのです。

 勝太郎さんは二度と来ることはないとおっしゃいましたが、不埒漢のことですから、気まぐれに思い直して、再びやって来るかもしれないのです。私は厳重に厳重に戸締まりをしてから、水差しを手に自室へ逃げ込んでベットの上で縮こまっていたのでした。

 眠れぬ夜を過ごした私は、窓から差し込むささやかな陽のベールに今日を生きる希望を見たような気がして、ひと夜とはこんなに長いものだったのですねと。夜中を安眠できる幸せを噛み締めました。

 一睡もしていないのですからきっと青い顔をしているでしょうと洗面所へ行って顔を洗って鏡を見てみましたが、血色良くいつもと同じ顔色でした。

 私は少しがっかりしてから、目を擦りながら台所へ行くと、林檎の皮を剥いている時に、はっとなって果物ナイフを持ったまま身構えたのです。

 もしも泥棒がいたなら、この家に勝太郎さんはおりませんから私が戦わなければならないのです。なのになのに……私ったら、一番危険な居間を素通りして台所で呑気に朝餉の準備をしているなんて!

 このような後悔をしている暇があるのですから、居間にも台所にも誰もおりませんでした。

 それでも一抹の不安を払拭すべく、客間や離れ座敷にも行きましたし、念のためにお手洗いも覗いて見ました。

「ふぅ」 

 私は誰もいないことを確認すると、汗を拭うように果物ナイフを携えた手で額を拭いました。

 すると、不意に玄関のドアが開いたのです。私は驚きのあまり、その場に座り込んでしまいます。

「どうかしたの?お手洗いの前で座り込んだりして……?それに何ですか、果物ナイフなんて持って危なっかしい」

 朝日を背に、玄関に立っていたのは旅行鞄を携えたお姉様だったのでした。

「安心しました」 

 私は緊張やら安堵やらを混濁して一緒に吐き出しました。

 それから、私はお姉様と一緒に朝食を食べて、お姉様が黄金比率にて淹れて下さった。紅茶を飲みながら、お姉様の顔をまじまじと見つめました。お姉様のことですから、きっと私の意図を理解してくださることでしょう。

「実家には居づらくてね。お父様は私に新しい相手をと四方に手を尽くしておられるようなの。だけど、三行半を突き付けたことが響いて、すっかり私は〝泥つき〟なのですって…………別に私が望んでいるわけでもないのにね」

 お姉様は苦笑しながら、そう答えてくださいました。

「お姉様が悪いわけではありません!」

 そうなのです。今回の破談は松永先輩の粗悪な所行が終始なのですから、お姉様はむしろ被害を被った婦女なのです。私は憤りました。殿方は婦女遊びは男子の嗜みと鼻に掛けると言うのに、どうして婦女は『泥つき』などと不名誉にも蔑まれねばならないのですか!

憤る私を見て「 咲恵が怒ってどうするの」とお姉様は微笑みを浮かべました。

「その気持ちは嬉しいけれどね。別に私は何と呼ばれようともかまわないわ。そのお陰で望もしないお見合いや婚姻をしなくてすむのだもの。それに、それをも抱き締めて下さる殿方でないと私は体を許すつもりはないわ」 

 さすがは私のお姉様です。淑女たるもの余裕がなくてどうしますか。とお母様に口酸っぱく言われておりますけれど、お姉様のこの余裕はまさにその淑女たる美徳と言うに相応しいのでしょう。

「そんなことよりも、咲恵。そう言う意味ではあなたの方が危険なのよ」

「私ですか?」

 首を傾げる私にお姉様は呆れた表情で、

「お姉様方も丁度、咲恵と同じ年頃に婚約したの。だから、私の縁談がうまくいかないとなれば、先に咲恵の縁談が持ち上がる方が自然だもの」

「そんな……私……」

 今度こそ私は顔を蒼くしました。お年頃の乙女であることは自覚しておりましたが、そんな婚約だなんて……私は今のままが楽しいのです。特に昨今などは……取り立てて楽しい日々が続いていると言うのに……

「そう言えば、勝太郎さんとはどうなの?」

「どうなのと聞かれましても」

 そう聞かれましても正直に困ります。ただ、時折お会いして、ぎこちなくお話をするだけなのですから。

「手など握ってもらった?」

「いいえ、そんなことはありません」

「そう!咲恵が婚約したら、勝太郎さんは私がお相手して差し上げることにしましょう」

 いやらしく嬉しそうなお姉様。このような表情の時は決まって、私をからかって遊んでいるのです。ですから、私も本気にこそしませんでしたが、

「指くらいは触れたことがあります」とついつい強がってしまったのです。

「指?」

 お姉様はそう言うと首を捻ってから、部屋の中を見回します。その最中、私は昨日のことを思い出し、すっかり恥ずかしさあまって俯いてしまっていたのでした。

「そう言えば私が贈った花瓶が無くなっているけれど……もしかして、二人きりで勝太郎さんを家に……」

「違います!」 

 きっと私は顔を真っ赤にしていたことでしょう。必死に身を乗り出してお姉様の言葉を遮ったのです。その拍子に膝をテーブルにぶつけてしまい、私とお姉様の紅茶が少しこぼれてしまいました。

「紅茶のことは後で良いですから、その話を聞かせなさい」 

 台所へ台ふきんを取りに行こうとした私にお姉様が表情を強張らせてそう言います。刹那と脳裏には、はぐらかすことが浮かびましたが、すぐに沈んで行きます。

 私はソファに座りなおすとお姉様に昨日の事件の仔細を話ししました。

「ふう、勝太郎さんが居て下さって本当に良かったわね。でも、物騒なお話だこと」

 お姉様は私の話を聞き終わると強張らせた肩と頬を柔軟にして息を吐きました。

「しばらくは私もこの家に住まうから良いとして、それでも施錠は新しい物と交換しなければならないわね」

 お姉様は下唇に指をあてながら、そんな独り言を言いながら台所へ行くと、台ふきんを持って帰り、テーブルの上にこぼれた紅茶を拭き取ります。

「お姉様、どうかお母様には……」

「言うつもりはないわ。この家がなくなると私も困るもの」

 と言って下さいましたが……

「でもね咲恵。年頃の婦女には失うモノがあまりにも多いのよ。だから、私には必ず相談して。失ったモノはもう二度と戻って来ないのだから。約束して頂戴」

「はい、お約束します」

「もしも、更なる危険が伴う場合は二人して実家に帰りますからね。これは、私のためでもあり咲恵のためでもあるのだから」

「わかりました……」

 私は、すっかり温くなってしまった、カップを両手で包み込むようにして口もとへ運びます、気持ちはこんなに落ち込んでいると言うのに、舌の上に滑り込んだ紅茶は爽やかにして甘く、とても美味しいのです。それはもう嫌みなほどに……


      ◇


 昨日より私は一睡もできていません。ですから朝餉を食べて、お姉様とお話をしていると、お腹と心が満たされて、ついつい眠気に襲われてしまい。その挙げ句はソファの腕置きを枕に意識を失ってしまったのでした。

 珍しくも夢を見ませんでした。次ぎに目を開けたのは鼻腔をくすぐる甘酸っぱい香りのせいでした。

 時計を見ますに、もうお昼過ぎではありませんか、私は目を擦りながらやっと起きあがると、

「よく寝ていたわね。昨夜眠れなかったのでしょう?」と相変わらず対面に腰を降ろしているお姉様が言います。

「はい。恐くて朝までベットの上で丸くなっていました」 

 私はそう言うと台所へ向かいます。するとどうでしょう、テーブルの上にはなんとオムライスが置いてあるではありませんか。

「お姉様がこしらえて下さったのですか?!」

「丁度トマトと卵があったから、気に入らなかったら食べなくてもいいのよ」

 なんて意地悪なことをおっしゃるのでしょう。

「是非頂きます!」

 そうして私は寝起きにとても美味しいオムライスを頂いたのです。ぐっすりと眠って起きたばかりだと言うのに、温かいお料理が食べられるなどこれほどの幸せなことはありません。

 私が夢中で頬張っていますと、「そんなに急いで食べなくても逃げたりしないわよ」とお姉様は刺繍をテーブルの上において、私の隣の席に腰を降ろしました。

「美味しい?」

「はい、とても美味しいです。ほっぺが落ちてしまいました」

 私は少々大袈裟に言いました。けれど、美味しいのですから仕方ありません。

「もう、咲恵はいつまでたっても子どものようね」

 とお姉様は言いながら、私のほっぺについたご飯粒を人差し指で掠め取ると、ご自分の口へと運びます。

 そして、「咲恵が私の妹で良かったわ」と小さく呟きながら私を抱き締めるのでした。

お姉様の髪の毛からは桃のような微にですが、さり気なく心地の良い匂いがしました。

「私も瑞穂お姉様がお姉様で良かったよ思っておりますよ」

 本当のことでしたが、お姉様に向かって言うとなるとやはり照れくさいのです。

「ありがとう。お祭りでは何でも買ってあげるからね」

 私の首に回した腕を解いて、笑顔でそうおっしゃるお姉様……私ははっとしました。そうなのです、お祭りです。

「お姉様。私はお姉様に謝らなければなりません」

 私はお姉様の手を取ってとにかく謝りました。

「藪から棒に何?どうして咲恵が私に謝らなければならないの?」

「生駒神社のお祭りにご一緒するとお約束していたからです……その……お姉様と一緒に行けなくなってしまいました。」

「あら、用事でもできたのかしら?」

 お姉様は訝しむどころか、不思議とでも言いたげな表情をされています。

「いえ、そうではないのです。えっと、その……」

 思わずなんとご説明しましょうかと、私は指を絡ませてみたりテーブルの上に『の』の字を書いたりとしてするしかありません。

 私がそんなことをしていると、

「わかった。誰か他の人とご一緒するのね」と、お姉様が快哉とおっしゃったのです。

「はい……」

「そのお相手と言うのは…………勝太郎さんではなくて?」

「どうして、どうしてわかってしまったのですか?」

「そんなの簡単だわ、嬉し恥ずかしの様子が見て取れるもの。咲恵は陰ひなたがないからわかりやすいわ」

「そうなのです。この前、喫茶をご一緒した際に、お誘いされてしまいました。美味しい林檎雨屋を教えて頂けるのです……だから……」

 恥ずかしさあまって嘘をついてしまいました。林檎飴などは小さくて赤くて丸く姿見よろしければどのようなものでも良いのです。ですから、特別美味しい出店で買わなくともかまいません…………かまわないのです……

「そう、それでは致し方ないわね。そうだ、咲恵知っている?」

「何をでしょうか?」

「夏に年頃の婦女が浴衣を着ると、魔法が使えるようになるのよ」

「それはどのような魔法なのですか?」

 私は魔法と聞いて恍惚となりました。魔法とはかぼちゃを馬車にしたり、お菓子の家を建てたりすることができる魔女だけが扱える奇跡ではありませんか。

「殿方を虜にしてしまう夏だけの魔法よ」

「虜にしてしまうのですか」

「ええ、もう勝太郎さんはきっと咲恵の浴衣姿にたちまち虜になってしまうはずだわ」

 私は悪戯な笑みを浮かべるお姉様とは対照的に口許をすぼめて「そんな……」と呟くにとどまってしまいました。勝太郎さんを虜にしてしまったら、お祭りの夜はどうなるのでしょう……もしや手など繋いで……もしや、もしや……!

 私は両手を頬にあてて、目眩く桃色の世界に一人興奮していました。虜にしてしまった私が悪いのでしょうか。それとも虜になってしまった勝太郎さんが悪いのでしょうか。

 そんなくだらないことを本気で考えていたのですから、とんだお笑いぐさですね。

 待ち合わせは竜田橋の上です。私は勝太郎さんにお話しすることをすでにもう決めておりました。

 そうなのです、先日の喫茶の折りお話しできなかった林檎飴やお面に綿菓子のお話しをしようと…………


      ◇


 私は祭を楽しむために甚兵衛を買いに質屋街へ赴いて見たが、どの店にも見あたらなかった。内心ではほっとしてしまうのは、甚兵衛を買ってしまうと乙女と共に出店を巡り歩くには財布の中身が心許なくなってしまうからだろう。

 祭の夜くらい、黒髪の乙女が傍らにいる時くらいは金の算段など頭の片隅へ追いやりたいものである。だが、それができない身の上はなんとも情けない。

 それでも私は黄金に輝く朝日を連日拝むまで、一日を一食にしてどこにも出かけず内職にのみ勤しんで来たる八月一日に備えて精一杯の努力をしたのであった。

 そして、祭を明日に控えた七月の末日。私は一日中四畳間にて時を忘れて意識を悠久の園へ飛ばした。全ては明日、万全にて乙女と楽しい一時を過ごすためである。

 翌昼まで死んだように眠り続けた私は、這うようにして炊事場へ向かうと水道の蛇口にかじりついて馬謖鯨飲と腹一杯水を飲んだ。ついでに、まな板の上に取り残されてあった人参をもかみ砕いて飲み込んだ。

 腹が膨らむと私はまた四畳間へ戻り、惰眠に落ちたのである。

 背が痛い。胸が痛い。肋骨に響くように痛い。やはり煎餅布団では長時間の惰眠すらも叶わぬか。

 私は夕方まで数刻を残して、ようやく起きあがった。起きあがらざる得なかった。眠り過ぎた後遺症か、頭がもやもやふわふとする。それでも背や胸が痛いかぎりこれ以上は眠るは禁じ手であろう。

 私は内職を少ししてから、思い出したように押入を開けて物色を開始した。そして、見つけた卑猥図書を紐解いて、すっかり目を覚まし悶々とめくるめく官能の世界に思いを馳せた、そして馳せた。馳せて馳せて馳せ過ぎて疲労を覚えた。

 眉間のところを指でもみほぐしながら、卑猥図書を押入の奥へ放り投げると、さらに奥からこぢんまりとした蜜柑箱を引っ張り出した。私が大學へ入学したてほやほやと初々しかった頃、購入した過去の遺産である。

 整髪料の瓶とやらの奥に腕時計があった。

 手にとって見たが、長針と短針は微動だにしない。期待通りと言おうか予定通りと言うか……壊れているらしかった。

 それでも私はその腕時計を腕につけると、そのまま押入の戸を背に窓から注ぐ陽の光を見上げていた。

 

      ◇


 微睡みを何度か繰り返して、私は窓から差し込む光が茜色であることに気が付いた。

 かくして出陣の時である。

 私は壊れた腕時計を左腕に宿し、凛と胸を張って待ち合わせ場所である竜田橋へ歩いた。

まだ宵の口には早いと言うのに、浴衣姿の華やぐ乙女たちやら、はしゃいで父や母の手を引く子どもの姿など、眼福と微笑ましい情景が隣り合わせとしている。毎年このように華やぎ心静かにと、晴れやかになれるのであったなら、胸の内をささくれだたせて、窓からのぞく睦まじい男女に、唾を吐きかけるなどと愚行に身をやつさず、一人なれども出店を見て歩いていればよかった。祭とは縁日とは、情緒を楽しむのが本来なのかもしれない。

 竜田橋には乙女の姿はなかった。

 はたして、今は何時なのだろう。腕時計をみやっても長針と短針は見事に3の文字盤を示して重なりあって止まっている。

 橋の上には、巾着を携えた浴衣の妙齢な婦女や同じく若い男が、待ち人が来るのを心待ちにしている様子であった。

 男子が待つ身は当然なれど、婦女を待たせるとはけしからん男である。

 私はそんな憤りを覚えながらもそれすらもどこか嬉しかった。『待たせても待つ身になるな』と言う格言があるが、待つ身でありながら私は喜々とした心持ちだったのである。

 待ち人がいると言うことは、こんなにも心中がうきうきとするとは……これは、いずれ黒髪の乙女がやって来ると確信があるからであろう。古平などであったれば、私は問答無用ですでに出店の群れに足を踏み入れているところだ。

「 お待たせしてしまってすみません」

 橋の上に見あたった想い人を待つ身の上の男女らを差し置いて私の元に意中の乙女はやって来た。

 私は乙女の姿を見た刹那、どうしていいのかわからなくなった。すらっと細身であり、足とて羚羊のごとくの乙女は洋服も良く似合っている。似合っているが金魚の柄の浴衣を身に纏った乙女は、輝いていた。それはもう朝日よりも一層輝いていた。黄金ですら色褪せてしまうくらいに……

 「いえ、待つのは男の嵯峨ですから」と言った私は、続けて「金魚柄は涼しくてよろしいです。咲恵さんに良く似合ってますよ」と言った。言えたのである。

 私がそう言うと、乙女は「実は、この浴衣は私が初めて縫ったものでして、そう言って頂けるととても嬉しいです」と俯き加減に頬をすぼめて莞爾として微笑むのであった。その笑顔とてまるで黄金のように輝きを放っていた。それはもうまるで魔法を全身から漂わせているような、そんな不思議な感覚である。私はすでに咲恵さんの虜である、今すぐ川に飛び込めと言われれば迷わず飛び込むだろう。

 浴衣は乙女を彩るのだ。

 手作りではないですけれど、と乙女は前置き、

「この巾着もお揃いの生地なのですよ」と嬉しそうに、彼女は姿見可愛らしい巾着を顔の横に持ち上げて見せてくれた。

「本当に可愛らしいですね」

 私はそう言って、口許を緩めた。本当はすでに緩みっぱなしだったのだが、それ以上に緩めたのである。

 夏は夏らしく。花火も祭りもそうだが、やはり目には屋台、乙女浴衣に巾着袋。洋服も良い、しかし、やはりどうして、浴衣の方がずっと眼に映えた。


 夏祭りの夜。乙女は浴衣にかぎるのである。


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