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黒髪の乙女  作者: 畑々 端子
4/9

前略


 昨日、酸漿【ほおずき】を購入いたしました。衝動買いと言えるでしょうね。それと言うのも、以前、浅草界隈に住処がありました頃、浅草の酸漿市などへ出掛けては姿見の良い季節の植物に風情を感じていたのを思い出したのです。

 風鈴のかわりと愛でるも良し、提灯の趣と玄関に飾るも良し、とにかく雅致【がち】深い酸漿ですから、家中に飾っております。

 勝太郎さんは酸漿はお好きでしょうか?もしも、お好きなのでしたら、どうぞ遠慮なくおっしゃって下さい。次の機会にも差し上げようと思います。

 お付き合いをしているわけではございませんゆえは、幾度とお誘いするのは婦女の恥じらいと致しますれば、お誘いしたくとも心中もどかしく、どうしたものでしょうか。そのように考えを巡らせておりましても、私は勝太郎さんと今一度お会いしたく存じます。ですから、今度は、私の住居へおこしくださいませんでしょうか。

 外でお会いするのも大変よろしいのですが、このような季節ですから、小雨は風情のうち、いつ大雨になるやもしれません。ですから、紅茶でも飲みながらゆっくりと、お話がしとうございます。

 先日、とても美味な紅茶葉を手に入れましたので、是非とも勝太郎さんに振る舞って差し上げたいと思うのです。

 私は年頃の女性にて、勝太郎さんのお部屋へお邪魔するこは、乙女の慎みと憚らねばなりません。ゆえに、私の家へご招待致します。


 この手紙をしたためる乙女心をどうかお察しください。そして、是非ともお越し下さいませ。 

 心よりお待ち申し上げております。


草々

瑞穂




 やはり落ち着いた美しい文字である。文字からすれ心地よい香りがするほどである。

 それはともかくとして、家にお誘いするとの旨。そんなことが許されるわけがない。

 瑞穂さんが年頃の乙女とするなれば、私はさながら盛りのついたドラ猫であろう。聖域たる乙女の家などへ一歩足を踏み入れた途端、ドラ猫から色々な変化を遂げ、ついに狼へなり果てるやもしれない。

 そこのところは我が誠に置いて大袈裟な自信があった。だがしかし……大衆の眼を逃れ二人きりの異空間へ旅だったその時、未だ体験したことのない劇中において、全てのたがが外れてしまわない確証などと何処を浚えば手に入れられるだろうか。

 私は便箋を取り出す前に、畳みの上に寝転んだ。

 二人の乙女に心揺れる私はなんと贅沢な阿呆だろうか。一目惚れにて虜となった咲恵さんとの赤い縁はもはや首の皮一枚として残っておるまい。しからば、瑞穂さんとならば、うまく縁とて結ばれるやもしれない。

 黒髪の乙女との文通は月始めを最後に途絶えたままとなっている。それに比べてみれば、いや比べるることなどできないモノなのだが、瑞穂さんときたら、この私をお住まいへ招待しようと言うのである。

 『……少々強引な癖があるようですので』と語っておられたが、なかんずく、この文はその性分が先走った結果なのだろうか。

 まして、傘を譲ったがごとき安っぽい男気に惚れたなどと言うのも故事付けである。瑞穂さんたろう淑女なれば、私よりも紳士らしい紳士との交際とて経験してらっしゃるのだろう……

 私は徐に立ち上がると、まだ湿り気しか残っていないズボンに足をねじ込むと、部屋の外へ駆け出した。

 そしてそのまま、町中を駆けだしたのである。このもやもやとしたもどかしさを身体的疲労にてなんとかやり過ごそうと考えついたのだった。

 私は駆けて走った。梅雨の風情と小雨の中を無の境地に至るまで走り続けようと思った。

夕日が見えるならば、夕日に手が届くまで走り続けようと思った。

 内燃力ににて動力が得られると言うなれば、燃料空っ欠の私がそうそう走り続けることなどまかり通らず。竜田橋の上に立つ頃には息が切れ、どうしようもなく腹が減ってしまった。

 全力でないながらも疾走した時間は数十分にも満たず、これで精神の錬磨がなされるはずもなく、まして無の境地へなど入り口へも辿り着くには遠すぎる。私は竜田橋を渡りきった竜田川沿いの道にあるベンチに腰を降ろすと、松の葉を伝って落ちる水滴に背中を濡らしながら葛藤に噎び喘いだ。

 芙蓉の眥を揃えた乙女二人の間で揺れ動く男心……これは実に喜ばしきことではないか。女っ気の塵すらも見えなかった私だったのである。ここに来て、いやこの数ヶ月にて、私は咲恵さんと瑞穂さんと言う容姿端麗な令嬢とお近づきとなってしまったのだ。きっと私の人生における運と言う名の目に見えぬ力を爪の先まで使い果たしての結果だろう。しかし、まだ結末は杳として知れず。

 これが一番厄介なのだ。私は松永先輩のような不埒漢ではない。ゆえに、ここで一人に絞らねばならない。一目で私の心を鷲掴みにした黒髪の乙女。対するは全ての者を虜とにしてしまう、笑顔と巨大な浪漫を持ち合わせる林檎の乙女。

 私は乙女の二人の間に立って、両方から腕を引っ張られる図を想像して思わずにやけてしまった。まさに大岡裁きである。だが、これとて男子なれば一度は夢枕にも憧れる妄想ではあるまいか。乙女に体を裂かれようともそれこそ本望である……本望であるが、本当に裂かれるわけにもいかない。ゆえに、私は常住坐臥とベンチに腰掛けたまま頭を抱え、とにもかくにも輾転反側とした。

 四畳間へ帰ったとて、これは逃れるに逃れられず。ただ、数時間と雨に打たれた体は蒸し暑い昨今でさえ、よく冷えた。頭は冷やせたが肩口より寒気がするかぎりは、やはり万年床へ潜り込まねばなるまい。

 私は病魔にて、ようやくこの葛藤から暫しの忘却を手に入れたのであった。

 

      ◇


 夢を見てそして夢を見た。深夜に一度眼が覚める前と、空が蒼白くなりゆく際にもう一度。

 彼方では私は瑞穂さんと共に肩を並べ、トーキーに入って行くのである。それは末恐ろしい妖怪ものである。最高潮を迎えると共に、眼を閉じた瑞穂さんは隣に座る私の手を強く握り、最後には腕にすがりついたのである。私がそっと視線をやると、暗幕において頬を淡い桃色に染めた瑞穂さんの表情があり、上目遣いの視線と少しあいた口がなんとも色っぽかった。桃色遊戯とそこまで現実味を帯びておきながら、なぜか私は、瑞穂さんに酸漿を贈り物として渡し走り去ってしまったのだった。私の夢でありながら、どうして私の望む展望とならざぬのか。

 此方、咲恵さんとの一時はとても不可思議であった。黒髪の乙女は酸漿を持って現れたかと思えば、徐に取り出した狐の面をつけたのである。私が何かを尋ねると。乙女は「私が狐でも愛をくれますか」と言うのだ。

 私はそんなはずはないと思いつつも、やはり酸漿を贈り物として差し出して言うのである「咲恵さんであれば私はかまいません」と……

 それこそ意味不明なままに私の夢は終幕を終えてしまった。

 夢でまで瑞穂さんと咲恵さんと会えたことは悦楽の境地であったが、どうせ夢であるならばもう少し我が念願と妄念を兼ね備えた甘美たる時間を過ごしてもよかったのではなかろうか。

 どうしようもない私である。夢の中までもたがをはずせず、実直に接しようとするなどと……やはり私は大阿呆者だ。

 天井を見上げて私は胸の辺りを掻いた。そして、最後に風呂に入ったのはいつだろうと

遠い日の記憶に思いを馳せたのだった。

 確か、風呂に入ったのは一年前だったと思う。古平の儲け話にのって、牛糞を集めた後、髪の毛一本にまで染みついたあまりの匂いに根を上げ、やむなく銭湯へ直行したのだ。

 久しく銭湯の厄介にもなっていない。誰を気にするでもない、と眠れないほどの異臭を体が放つか余程汚れた日には冬も夏もなく深夜、炊事場で行水をしてやり過ごしてきた。

 端的に銭湯にかける金が勿体ないと思ったからである。だが、私とて夢と希望を抱いて大學へ入學した初々しい当初は、垢抜けた淑女たちの前に田舎臭さを、たとえ相手にされずともせめて身だしなみをと一週間に三度は銭湯の暖簾をくぐっていた。そして、番台に娘さんが座している時などは、人知れず恥ずかしく思ったものである。

 入學してから一月ほど経った桜の散る季節、そろそろ葉桜が出揃うだろうと、桜並木を歩いていた時に私はテニス場にて球拾いに勤しむ黒髪の乙女を初めて見た。

 彼女はラケットを片手に先輩が打ちこぼしたボールを一心不乱に拾っていたのだった。

 その時、私は乙女を見初め、講義の傍ら桜の大樹に隠れて乙女の姿を見守っていた。彼女は先輩の指導を素直に聞き入れ、みるみる腕を上達させ、その年の冬を前にコート上に立って見事なラケット捌きを披露していた。たまに空振り、恥ずかしさあまって小さく舌を出す仕草などは、まことに可愛らしかった。

 そのうちに私は、彼女に声を明日こそは声を掛けてみようと決意を毎日新たにしながら、いつでも臨戦態勢と銭湯に毎日通い、体の隅々まで清潔に保ち、乙女に話しかけるその時を虎視眈々と尾っぽを巻き込みながら、やはり桜の大樹に隠れて乙女を見ているだけだった。

 思えば、あの頃は楽しかったし、乙女の姿を見ることさえ出来ればその日一日は至福のうちに終わっていた。

 だが、皮肉なことに黒髪の乙女とお近づきになるために、通っていた銭湯で古平と出会ってしまい、それからと言うもの、思わず拍手をしたくなるほど見事なまでの転落の大學生活とあいなってしまった。

 初めて古平の儲け話にのったは、何も生活のためではなかったのだ。その時は実家から仕送りをしてもらっており、質素ながら人並みの生活をおくれていたのだから……それでも、儲け話にのったのは……悲しいかな乙女に何か贈り物をしたかったのだ。テニス倶楽部は特にカネモチ部員が多いと有名であり、そのような高嶺の花に対して私のような田舎者が釣り合うはずもなく、ゆえに見栄のひとつも張って高価な贈り物をして、乙女の気を気を惹こうとしたのだ……

 古平の儲け話は、憎き松永先輩の画策よって的をはずし二人して多額の借金を背負うはめとなってしまった。私が払えぬとわかると、実家へ矢の催促が飛び。結果、借金からは逃れられたが、そのかわりに仕送りは諦めざる得なくなってしまった。

 そして、自暴自棄とささくれだった精神と荒んだ生活にて、一年間を過ごし、再び四季の鼓動が一巡の息吹を吐き出した桜の頃、私は遠の昔に忘れていた黒髪の乙女との再会を、いや、彼女からすれば出会いを果たしたのである。

 思えば思うほど遠回りをしたものである。

 声を掛けようと香水や整髪料を買い込み、そして、銭湯に通った日々……席を共にして珈琲を飲むなどと夢の夢であったとと言うのに……

 私は、布団の中を這うようにして足側から顔を出すと、押入のを開け、何の変哲もない蜜柑箱を引っ張り出して来た。

 すっかり、忘れていた。これも私には乙女との出会いは皆無である!と自暴自棄と言い訳を込めて異性との交際を諦めたがゆえだろう。蜜柑箱の中には私が初々しかった頃の遺産とも言うべき品々が収められてあった。髭剃りに香水、整髪料にカフスボタン。腕時計までもあるではないか。

 私は久しく忘れていた、大切な気持ちを思いだした。

 そして、蜜柑箱を押入の中へしまうと、机へ向かったのである。

 



 謹復


 先日は、楽しい時間をありがとうございました。瑞穂さんに無用なお気遣いをさせてしまったのは、私の不徳とするところであります。

 東京に住まわれていたのですね。酸漿市など、とても情緒があって一度私も行ってみたいものです。実はまだ、一度も東京を訪ねたことがありませんので重ねて楽しみです。

 酸漿はぷっくりとまるで植物ではないような趣ですから、、頂けるのであれば眼に珍しく部屋に飾ってみたいと思います。

 乙女のみぎわ恥を忍んでのお誘いを頂戴し、光栄の極みであります。ですが、瑞穂さんの住まいへ行くことは私にはできません。

 またフロリアンへお茶をするのであれば、喜んで参上いたします。しかしながら、年頃たる瑞穂さんのお宅へお邪魔したとあれば、瑞穂さんの体裁もよろしくないばかりか、私自身も後悔をしてしまうやもしれません。

 私は日々、誠を以て身を修め、忠孝を重んじ、貧賤に己を曲げぬようにと戒めをもって生きております。けれど、私も明瞭たる男子なのです。

 不埒漢と罵られ蔑まされるやもしれませんが、瑞穂さんを前にして、私の中に眠る男子を果たして封じておけるかどうか、自信はありますが、実際にはどうなるやもわかりません。

 瑞穂さんが恥を忍んでいただいたかぎりは私も恥などかきすてて申し上げます。

 もう一つ、申し上げたきことがございます。私には心淵より恋いこがれる女性がいるのです。無論、瑞穂さんには一切関係のない話でありますが、私の性分はとても単純であり、それと同時に不器用なのです。

 ですから、瑞穂さんと友人として交際することも是としない自分がいるのです。私は阿呆です、思い込みの激しい男なのです。ですから、瑞穂さんのような美しい女性と友人としてでもお話の回を重ねますと必ずや瑞穂さんに対して良からぬ感情を抱くことは必定でしょう。

 ですから、次にお会いするのを最後と致したく思います。

 不躾な独りよがりを吐き並べ、瑞穂さんの気分を悪くされたかと思いますが、どうか私の阿呆さ加減に免じてご容赦ください。


                              敬白

勝太郎



 私は余計なことまで書いた。誠に余計なことまで書いたのである。瑞穂さんの家にお邪魔することを断る文言で結べばすればよいものを、妄想漢の血迷った弁まで書き殴ってしまった。

 私は生粋の阿呆だ。別段、友人の間柄でも良いではないか!それでは異性は全て恋の対象であるのか!

 男子たろうとも女子と面白可笑しく友人の間柄を謳歌している者は山ほどいる、それに、それこそが常日頃の風景なのだ。

 私は書き終えた便箋を前にして、何度となく破り捨て新しい便箋に書き直そうとした。しかし、手を伸ばそうとしても体はいかんともせず……正直に言うと私は大いに葛藤していた。不毛な葛藤であったが、なんとも歯がゆい葛藤でもあったのだ。誰に話すでもないと言うのに、私は自分を欺くために、どうしたら瑞穂さんと友人でいられるかと思案しつつ、これを良しとしない私に妥協案を提案するのだ。

 結論をみることのない不毛な議論は平行線をただなぞり続け、俄にその終焉を感じさせなかった。

 だが、そこでついに、私は憤懣したのだ。どちらの私であるかはもはや言うまでもあるまい。

 詭弁など糞食らえだ!私は女性と仲良くなりたい、そして、一緒に歩き語らいそして手などをつないで一時を過ごしたいのだ。だたそれだけだ、その行く末は恋人をも欲しいと思うだろう、いや今欲しい、願うなら今すぐこの瞬間に欲しい。

 寂しい男と笑うがいい!情けない男と貶すがよい!

 それでも私は、この誠だけは曲げまいと実直に生きてきたのだ!多くをねじ曲げ正義は

遠のいた。だが、これだけは、これだけはたとえ希望が見えずとも頑なに曲げまいと一本気をまかり通してきたのだ。

 私は誇らしげに胸を張るだろう。不動たる己が心中に錦の御旗を掲げるならば、例え眉を顰められようとも笑い者にされようとも!凛として進むだろう!

 私は万感胸にせまり、涙してしまった。なんと清々しい涙だろうか。男泣きなれど誰に見られなければ万事良いのだ。

 軟弱な私への咆哮が終わったところで、私は封筒に便箋を入れると、昼を前に郵便を出したのであった。

 これがいかような結果に転ぼうとも佳麗なる勝利であると信じたい。

 私よ私に栄光あれ!


      ◇


 梅雨明け間近となりまりて、ようやっと私の浴衣は完成を見そうです。お姉様の浴衣は早々と完成し、衣紋掛けに掛けられ部屋の中に優美な花火を咲かせております。お姉様は嘘つきです、縫い始める時などは「浴衣なんて簡単にできるわ」とおっしゃっていたと言うのに。これがどうしてなかなか難しく、今でこそ縫い針で指を突くことは少なくなりましたが、縫い始めの頃など仮縫いだと言うのに、私の両指には無数の絆創膏が捲かれてありました。

 和裁は初めでしたから、致し方ありません。

 それでも、えっちらおっちらと縫い続け一ヶ月近く経った本日。ようやく私の金魚も水を得ることができたのです!

 外は梅雨空とぱっとしませんでしたが、最後の本縫いをめでたく迎え、針を進めるほどに私の胸は高鳴り、今までの苦労の日々が走馬燈のように頭中を駆けめぐります。創作と言うものは相当の時間と努力、そして労力を伴いますが、それが報われる時!すなわち完成の暁には感無量の悦楽が待っているのです。

 私は針山に縫い針を立てると、嬉しくなって完成したてほやほやと湯気が立ち上っている浴衣を洋服の上から羽織り、姿見の前に立ってみたり、回ってみたりと、まるで新しいお洋服を買ってもらった女の子のようにはしゃぎました。いいえ、それ以上に感慨無量なのです。なにせ私が……全て私が手作業にてこしらえたのですから!

 折角、仕立て上がったのですから、お姉様やお母様に披露したくなりました。ですから、私は階段を一段とばして駆け下りると、お姉様とお母様がお茶をしていますでしょう、サロンへ向かいました。

 ドアのノブに手を掛けますと、「……そう、咲恵が……」とお姉様とお母様の声が漏れ聞こえてきます。はっきりとは聞き取れませんでしたが、私の名前が聞こえましたかぎり、どうやら私を話題にお話をしているの様子です。

 これまで箪笥の引き出しを入れ替えみたり、林檎の絵をところかまわず描いたり、カーテンを無理矢理引っ張り降ろしてドレスと言い張ってみたり……ろくでない悪戯をのみしてきた私が、婦女の嗜みと和裁に勤しんでいることを褒めているのでしょうか、と私は、盗み聞きこそ心苦しかったのですが、もしも褒められているならばこれほど喜ばしいことはありませんから、そっと聞き耳をたてたのです。

 何を隠しましょう、私は褒められて伸びる女の子なのですから。


『 

 

「今時珍しい硬派な殿方ですね。このような文をくださるなんて」

「そうかしら、私は少しばかり仰々しいと思いますけれど……」

「不器用なところなど、お父様そっくりよ」

「まあ、お母様はお父様のそのようなところに好いてらしたのですか」

「私が出会った頃は、純粋に硬派で阿呆な殿方だったわ。でも、まっすぐに私だけを見て下さっていたもの、本当に脇目もふらずに……それは婦女にとっては幸せではなくて?」

「そのようなのは……もう時代遅れですわ」

「あら、私がそのような男性に惹かれ惚れたと言うことは、瑞穂や咲恵の好みでもあると言うことでもあるのよ」

「……いいえっ。私はお母様と違って、多くの殿方と交流がございますもの、それに、もっと素敵な殿方を知っております」

「それはそれは……それで、あなたの見立ては?」

「まだ、数えるほどしか会っておりませんが、軟派の多い今時では呆れるくらい誠実な人です。そして、お父様と同じで脇目も振らずただ一人だけを愛することでしょうね。その手紙が何よりに証拠です」

「振られたのが気に入らないのかしら。言葉に刺がありますよ」

「お母様っ!」

「ふふふっ」

「…………妹のためとは、酷いことをしてしまいました」

「それは二人して謝らねばなりませんね。たとえ、咲恵のためとはいえども……」

「覚悟はできておりますわ」

「むぅ」

 私は静かになった部屋の外でドア越しに頬を膨らませました。どうしてこのドアはこんなにも分厚いのでしょうかと駄々も捏ねました。

 風に揺れる窓ガラスの音と雨の音で結局、何をお話になっていたのか盗み聞くことは叶わなかったのです。どうして今頃、夕立のように雨脚が強くなるのでしょうか。

 私はしっかりと空を睨みました。けれど、私の睨みだけでは力不足ですので、雨脚は弱くなるどころか一層強くなっていくようでした。

「ふぅ」

 梅雨の前に私は非力なのです。ですから今度は小さく溜息をつきました。そして、私はドアを開けてサロンの中に入ったのでした。

「見て下さい。やっと浴衣が縫い上がったのです」

 私は縁日にはしゃぐ子どものように、お母様とお姉様の前でくるりくるりと回って見せたり、意味もなくお母様に抱きついてみたりしました。

「あらあら、そんなにはしゃぐと、せっかくの浴衣が破れてしまいますよ」

「はしたないわよ咲恵」

 本日はお母様はご機嫌がよろしい様子でしたが、お姉様はご機嫌斜めのようです。

 ニヒル婦女と紅茶の注がれた紅茶茶碗を口もとへ運びながら、あっさりとそうい言いますので、

「私は嬉しいのです」と今度はお姉様に抱きつきました。

「咲恵は和裁の才能があるのかもしれないわね」

 すると、いつもの微笑みで私にそう声をかけて下さったのです。

「破けてしまっては大変だから」  

「はい」

 私は浴衣を脱ぐと、洋服と同じ要領で折り畳み膝の上に置きました。やはり、和服と洋服とでは少々手前が違いますから、分厚くなってしまいました。

「咲恵。一度、下宿先へ行ってみましょうか」

 お母様は唐突にそうおっしゃいます。

 えっ、と私は思わず注いでいた紅茶をこぼしてしまいそうになりました。

「ですが……」

「もちろん心細いでしょうから、しばらくは、瑞穂と私が同居することにします。あなたも大學がありますから、いつまでもこちらに居るわけにもいかないでしょう?梅雨が開けるまでは、こちらにいて、梅雨が明けたなら三人で一度行ってみましょう」

「お母様が居て下されば、鬼に金棒です」

 私は安心しました。もしや、家に帰ったその時、家の中に不審者が居たなれば私はどうすることもできず、悲鳴さえも上げられずにその場に腰を抜かしてしまうことでしょう。ですが、お姉様も居て下さり、まして合気道有段者であるお母様が居て下されば心強いこと折り紙付きなのです。

「まあ、鬼だなんて。親に対して鬼なんて言う娘に育てた覚えはありませんよ」

 そう言うとお母様は着物の袖を額にあて、涙を拭う仕草をしました。

「私はそのようなつもりで言ったのではありません。私はお母様のことは大好きですし、鬼などと思ってことはだたの一度もございませんもの」 

 私は慌ててお母様の元へ駆けるとそう言いながら、お母様の手を取りました。

 知っていますとお母様は言いました。

「少し眼を離した隙にこんなに大きくなってしまって。お母さんは少し寂しいです」

 そう言うとお母様は私を抱き寄せて額を擦りつけるのでした。


      ◇


 我が錦の御旗をはためかせ、林檎の乙女に手紙を出してから、数えて一週間と少し。私はほぼ流々荘からでることなく、蒸し暑さといつまで経っても灰色の空にげんなりし、どこかのスピーカーでも壊れたのではなかろうかと、明けても暮れても耳に触る雨音にまるで気力を奪われほとんどを畳みの上にて過ごした。

 気分は常に色褪せた写真のようである。あの手紙以来、瑞穂さんからの手紙もなく、まして黒髪の乙女からの手紙も来なかった。再び寂しくなった私の郵便受けは今頃、雨宿りと集まった蜘蛛の巣窟となり果てていることだろう。

 かくして私はまた寂しい男の国へ帰化したのであった。

 ただ、希望がまったくないと言えば、あるのだった。首の皮一枚になんら変化こそ得ることは難しいだろうが、繋がってさえいればいずれ修復が叶う日も来るかもしれない。

 私は二週間目の朝、快晴となった青空に私は思わず外へ駆け出し、途端に軟弱な白い肌を小麦色に焼くであろう太陽光を全身に浴びた。

 病魔に襲われると、治癒する間に気弱になる。三日も寝込めば、永遠とこの病から抜け出せぬのではなかろうか、私はこのまま土へ還って行くのだろうかと、とかく気弱になるものである。

 私は一ヶ月以上も続きかつ、不躾にも勝手気ままに延長をし腐った梅雨前線によって、梅雨から季節は抜け出すのだろうか。四季がこのまま巡ることなくずっと蒸し暑く雨ばかりの日が続くのでは……しいては、このまま黒髪の乙女とも何一つ先に進めぬではないかと思わぬ思考の飛び火をする始末であった。

 ゆえに、快晴となった今日、『これは梅雨明けぞ!』と私はギラギラとほくそ笑む太陽を見上げて「久しぶりではないか」旧友に相見えたように呟いたのであった。

 そして、再び階段を駆け上がると、食い物はないかと炊事場へ向かい食いかけの鯛焼きを見つけると、迷わずカワセミのごとく掠め取り空腹に押し込みながら部屋へ戻ったのである。

 思い込みだが、天気晴朗が持ってきた本日こそ、黒髪の乙女にことの仔細を説明せねばならない。私は過去に瑞穂さんからの手紙と共に郵便受けに入っていた封書を手に取ると、「いざ行かん!」

 太陽に負けぬ気概で外へ躍り出たのであった。  

 私は切手貼り忘れられた封書を手に咲恵さんの下宿先へ向かった。

 貼り忘れたのは誰でもない私である。弁解へと血気逸って文面にのみ勘案と力を注いで、肝心な切手を貼り忘れてしまったのである。

 気力の弱りきった私は、すでに皮一枚とて千切れてしまっているかもしれぬと、杞憂と天井を見上げていたのだが、最後の足掻きとしてせめてこの手紙を読んでもらおうと思ったのである。

 このまま美談で終わらせるや良し。だが、私は天の下に正直でありたいと願う聖人志望であるからして、このままに終わらせるわけにもいかない。本当のところは瑞穂さんとの文通にて買い置いた切手を全て使い果たしてしまっただけであった。蓋を開ければまことに情けない話しであるが、内職も納品していない限りはオケラの無一文である私は、切手を買いに行くことは考えず、咲恵さんの郵便受けに直接届けることにしたのである。

 あわよくば咲恵さんと会って、仔細の弁解を心みたいところだが、物事はそうそううまく好転することはまかり通るまい。

「これはこれは、お花はどうですか」

 竜田橋上で聞き覚えのある声が聞こえた。見れば、いつぞやの花売りの男ではないか、前回同様に笠で口もとしか見せていない。

「この前の桔梗は喜ばれたでしょう。季節の花ですからな。どうです桔梗なら半値にしときますよ」

 花売りは、そう言うと口もとを緩ませて私に桔梗の花を一本差し出した。

「生憎だが、あの桔梗は最悪だった」

 私はそれだけ言うと呼び止める男を無視して歩みを進めた。

 善意の疫病神。あの桔梗を買わねば、私がつきまといなどと変質者と勘違いされず、ついては今日に至るまで疫病に感染したかのように煩悶と生きねばならないこともなかったのである。もしや、桔梗は口実にと買ったような気もするが……疑わしきは罰せず、やはりあの桔梗が、ひいてはあの花売りが根源なのである。

 私はバス停から入る道の真反対側から乙女の下宿先へと向かっていた。この世に神も仏もいると言うのならば、一目でも乙女の向日葵のような笑顔を見たい。

 数十分にして、汗ばむ陽気に飽きてきた私は、照り付ける日差しに発狂しそうであると、夜な夜な彷徨う霊魂のようにだらだらと歩いていた。

 夕方前だと言うのに逃げ水が私を嘲笑っていた。

 光の屈折風情が私を嘲笑うなど笑止!私は逃げ水を踏んづけてやろうと、乙女の下宿先への途中で奮闘していた。そして、ついに捉えたのである。ざまあ見ろ!と渾身の力で踏みつけたそれは、はたして逃げ水ではなく本物の水溜まりであった……瞬く間に私の革靴は色を濃くし、大袈裟に飛び跳ねた泥水が大層ズボンの裾を汚した。

 頭を冷やした……いや足が冷えたわけだが……とにかく、冷静になった私はこんな阿呆なことは咲恵さんにお許しを頂いてからにしようと、再び逃げ水を苦々しく見ながら歩き始めた。

 すると、丁度、咲恵さんの下宿先近くに、こちらに向けて歩いて来る三つの影を見たのである。三者共に女性であり和服の婦女を中央に、その左右を洋服の乙女が並んで歩いていた。

 そして、左右の乙女は私にとって嬉しくもあり、なんとも波乱の予感を漂わせる顔ぶれだったのだ。

 右に側には我が意中の君である咲恵さん。そして左側には瀟洒な美艶たる瑞穂さんだったのである。

 私は思わず逃げようかそれとも、隠れようかと密かに狼狽していたのだが、三者はとても仲が良く、気さく過ぎるほどに話しをしながら微笑んでいる。中央の和服の女性といい黒髪の乙女といい、林檎の乙女とて、 芙蓉の眥は同じく小さくともぷっくりとした唇とてうり二つなのである。

 私は眼を閉じて首を捻った。もう少しで首が折れてしまいそうなほど捻った。それでも私の首が折れなかったのは、

「もしっ、勝太郎さんではありませんか?」と黒髪の乙女が私を見つけ声を掛けてくれたからであった。


      ◇


 昨年よりも、二週間近く梅雨は長く、一向明ける気配がございませんでした。下宿先へ戻る都合が決まったと言うのに、この曇空ではどこか喜ぶに喜べません。

 風邪をひいてより数日の時をベットの上で過ごしますと、もうずっとこのままなのではないでしょうかと気力が随分と弱まってしまいます。私は元気でしたが、元気であるにもかかわらず、外を縦横無尽と闊歩できないのは病床にて臥すに同じ心境となるのです。

 下宿先より持って来た、海底二万里もすでに読み終えてしまいました。刺繍や浴衣に精を出したり、お姉様所蔵の教本を読んでみたりと、なんとか読破してしまわないようにと、大切に読んでおりましたから、今はどこか寂しいようなそれでも、物語の顛末を知り得た興奮も相俟ってしどろもどろなのです。

 いいえ、物語はとても面白く次のページを捲る度にわくわくしたものです。折角読み終えたと言うのに、この本を推薦して下さった勝太郎さんに感想の一つも御手紙にてお知らせできないのが残念なのでしょう。

 また、喫茶などの折、この興奮とアトランティスについてお話をしたいと思ってしまいます。すると、私の顔は焼けぼっくりのように熱く熱を帯びるのでした。

 この雨はもしかしてやむことはないのかもしれません……蛙やでんでん虫は大喜びかもしれませんけれど……

 そんな風に窓の外を見つめていた私でしたから、翌日の朝、差し込む陽の光で眼を覚ました時はカーテンを思い切り開いて青空を見上げると、「梅雨明けです!」と食卓に座するお姉様とお母様に大きな声で言ってしまいました。

 「あらあら」と言って微笑むお姉様と対照的に「寝間着ではしたない。早く着替えておいでなさい」とお母様は眉間に皺を三本つくってそう言いました。 

 私は「着替えてきます」と再び部屋へ戻ると、ぎらぎらと輝くお日様を見上げて「お久しぶりです」と呟いたのでした。

 朝食を足早に済ませた私は部屋に帰ると、散らかしていた荷物をリュックサックに詰め込んで軽く部屋のお掃除をしました。

 そして、お姉様の部屋へお邪魔をして私がこしらえた浴衣を風呂敷に包んで自室へ持ち帰りました。

 私の帰り支度は終わってしまいました。朝食の際、お母様は「お昼を済ませてからね」とおっしゃっておられましたから、食後のお茶を急かしたとしても、出立はお昼過ぎになってしまいます。

 ベットに寝転んで何度も寝返りを打って、水泳のごとく手足をばたばたとさせてみたり、午前中は何をするでもなくただ、逸る気持ちに従順に時間を潰しました。そんな私がやっと睡魔の子守歌にうつらうつらとし始めた時分に、お姉様が「昼餉の時間よ」とわざわざ呼びに来て下さいました。

 私が顔を洗ってから食卓へ向かいますとすでにお姉様とお母様が着席されておられましたので、私は「お待たせしました」とお母様の顔色を窺いながら言います。

 特にお母様には下宿先へ同行してもらわねばなりませんから、ご機嫌を損ねるようなことがあってはいけません。すでに、怒らせてしまっていたならばどうしましょうと、お姉様にご機嫌伺いをしますに、逸る私の気持ちをご理解くださるお姉様は苦笑を浮かべ、軽く頷くのでした。

「お母様。本日も午後のお茶をするのですか?」 

「当たり前です」

「そうですか……」

「どうしてそのようなことを聞くのです?」

「いえ、それは……」

 私は言葉に詰まってしまいます。何せ私のわがままをまかり通して「早く出立しましょう」とは口が裂けても言い出せませんでしたから……

「咲恵は早く出立したくて仕方ないのよね」

 俯いてしまった私の代わりにお姉様がお母様にそうおっしゃって下さいました。私は、はっと顔を上げてお姉様に感謝の意味を込めた笑みを注ぎました。さすがは私のお姉様です、言わずもがな以心伝心と私の心中を汲み取って下さったのですから!

「そんなに急がなくても、下宿先は逃げたりしませんよ。淑女たるもの余裕がなくてどうしますか」 

 お姉様の言葉を聞いて、お母様は笑顔を浮かべる私に向き直って、呆れるようにそう言うと、お水を一口飲みます。

 ばつの悪い顔をするお姉様。怒られてしまったではないですか!と私は頬をぷっくり膨らませてそれをお姉様に向けました。

 まるで余計なことをなんでするのですか!と言わんばかりですが、それは私のわがままです、ですから代弁してくださったお姉様には感謝こそすれ、八つ当たりなど筋違いもいいところです。ですから、頬を膨らませ私は差詰め駄々っ子が拗ねてしまった様子でしょう。

 私はしばらく頬を膨らませておりましたが、午後のお茶の段となる頃にはすっかり機嫌を直しました。

 そうなのです。何ごとも良い方向にかつ前向きに考えなければいけません。ここ二週間と家に籠もりきりで、大學へも行けずにうじうじとしていました。下宿先に帰りたくても帰れないそんな煩悶とジレンマの日々です。私は二週間も我慢しました。ですから後、数時を我慢することなど、もはや我慢の内にも入らないではありませんか!

 後、数時間さえ我慢すれば、明日からは大學へ行けます。そうすれば、小春日さんや倶楽部の方々ともお会いできますし、下宿先にはお母様とお姉様が居て下さるのです。まさに、待ちに待った日々ではありません!

 それに忘れてはいけません。イの一番に私は万年筆を手に便箋に向かうことでしょう。もちろん御手紙を差し上げるのは勝太郎さん以外の誰でもありません。そこまで考えた私は、団栗眼で両手を頬にあてて、いやいやと首を左右に振りました。

 もしも……もしも……郵便受けが勝太郎さんからの御手紙で膨れあがっていたらどうしましょうと、夢のような想像をしてしまったからです。

「どうしたの咲恵?歯でもいたいの?」 

 お姉様がそう心配して声を掛けて下さいましたが、

「いえ、歯は痛くありません。毎晩寝る前に磨いておりますから」と私は一生懸命はぐらかしました。

 さてもさても、そのようなことはありませんでしょう、と冷静に落ち着いた私は、内心をやきもきさせながらその時を待ち侘びておりました。

 お客様が来たらどうしましょうと気を揉む私を涼しい顔でお母様が「そろそろ、出掛けましょうか」お母様はソファーに根をおろしたお尻を上げて、ようやく出立の準備に取り掛かりました。

 私はお母様の鶴の一声をお聞きしてから、一番槍にて自室へ戻るとすでに荷造りを終えたリュックサックを担いで玄関まで駆けたのです。

 次ぎにお姉様がボストンバッグを抱えていらっしゃいました。

「お母様のことだもの、昨日のうちに用意しておいたの」

 とおっしゃったお姉様。さすがは私のお姉様なのです。

「あらあら、いつになく用意が早いのね」

 最後に少し驚かれたお母様が風呂敷を携えて来られました。

「お車があればいいですのにね」  

「お父様に、もう一台お願いしましょうかしらね」

「バスがあります。早く行きましょう」

「まあまあ、咲恵ったら」

 実家には自動車が一台ありましたが、お仕事へまたはお付き合いパーティーへと毎日のように、お出掛けになるお父様がお使いになります。ですから、あってないのが自動車なのでした。

 ですけれど、私はバスや徒歩の方が多いですから、別段自動車がなくても一向に困らないのです。

 バスを乗り継ぎ、汽車を揺られてようやく最寄りの駅へ到着致しました。

 蚊柱は出ているでしょうかと、竜田橋を通るのを楽しみにしていたのですが駅を出たところで「タクシーに乗りましょう」とお母様が言いましたので、竜田橋を通ることはできなくなってしまいました。

 昨日まで連日の雨に道は所々泥濘、大きな水溜まりが出来ており、バスよりも大変よく揺れました。言うなれば、三条通を闊歩した夜に乗ったタクシーの趣でした。

 もよりのバス停で降りた私とお姉様は顔色の悪くなってしまったお母様を気遣い、お母様の左右に別れて歩くことにしました。

「お母様大丈夫ですか?」

「ありがとう、大丈夫よ。外の空気を吸えば楽になったもの」

「乗り物酔いをなさるなら、タクシーはやめておけばよろしかったですのに」

お姉様が背中をさすりながらそう言います。

「咲恵が少しでも早く帰りたいだろうと思ったのよ」

「お母様……」

 私は、感謝の気持ちを込めてお母様の腕に腕を絡めました。

「二人ともありがとう。もう大丈夫だから」

 お母様とこのように歩くのは一年ぶりでしょうか。私は幼少を懐かしんで、お母様の肩に髪を触れさせて寄り添いました。

 「咲恵、歩きにくいわ」そうお母様はおっしゃいましたが「今日の私は甘えん坊なのです」私がそっと微笑みかけると「あらあら」お母様は目尻を下げて笑っていました。

 下宿先近くになると、水溜まりに片足を突っ込んでいる人が見えました。その人は項垂れてから、私たちの方を向くと一度眼をひんむいて、今度は眼を閉じて首を傾げたのです。

 それこそ折れそうなほど傾げるものですから、私は思わず、このままでは首が折れてしまいます。と思い、

「もしっ、勝太郎さんではありませんか?」と呼びかけたのでした。


      ◇


 私は、思いも寄らぬ非常事態に実に借りて来た猫であった。面の皮が分厚いぬらりひょんあたりにでも弟子入りしておけばよかったと座り心地の良いソファーに腰掛けた私は、林檎の乙女を対面に目玉だけを動かして、桜花の園の中を窺っていたのである。

 誠に申し訳ないことである。私の汚らしい男汁の染みこんだズボンにてこのソファーは必ずもれなく汚れることだろう。

「お紅茶でよろしかったでしょうか」

「いえ、お構いなく。紅茶でも緑茶でも水でも私は結構です」

 私の目前には湯気を讃え、鮮やかで澄んだ紅褐色の紅茶が注がれたティーカップが置かれていた。

 もちろんこれは瑞穂さんが直々にその御手にて淹れて下さった紅茶であることは言うまでもあるまい。

 真理と言うものは往々にして飛躍を伴うものである。であるが、私は高級であろうソファーに腰掛けてなお、五重塔から一気に若草山山頂へ飛び移ったかのような飛躍を現実のものとして受け止められずにいた。

 黒髪の乙女一向と出会した私は思わず逃げ出してしまいそうな衝動をやっとこさ抑え、好青年に見えるかも知れないと深々頭を下げた。

 すると、瑞穂さんが「咲恵、この方をご存じなの?」と言い「私たちにも紹介なさい」と和服の女性が言った。

「こちらは、筒串 勝太郎さんとおっしゃって……その、大學のご学友……です」

 少し困った表情を浮かべてそう言う乙女であった。

 きっと、ラケットの件は言い出せない……もとい言ってなかったのだろう。

「あら、咲恵ったら、知らないうちに殿方と仲良くなっていたのね」

 白々しくも瑞穂さんがそう言うと「からかわないで下さい。勝太郎さんが迷惑です」

 頬を膨らませて瑞穂さんに詰め寄る乙女。そんな微笑ましい乙女の同士のじゃれ合いに愛想笑いの一つも浮かべたいところだったが、狙うかのような和服の女性の視線に私は瞬き一つままならない有り様であった。

 だが、その狩人眼と私を見据えていた和服の女性がこともあろうに、私を桜花の園へ招待したのである。

 私は思わず「へ」とまことに「へ」と呆れるほど間抜けな声を漏らしてしまった。

 この私が、神聖にして聖域たる黒髪の乙女の下宿の中に足を踏み入れることになろうとは……無論、私は断った。一度だけ断った、社交辞令であっとするならば糠喜びに小躍りした阿呆漢にして私は非常識者の他になく、咲恵さんがいる手前、うまく立ち回らねばさらに軽蔑された上に墓穴を掘って二度と這い上がれなくなってしまう。

 危惧しつつ、慎重にかつ冷静に、できるだけ平静を装いながら、言葉に詰まっていると「さあさぁ、早くおいでなさいましな」   

 と瑞穂さんが私の元へ歩み寄り、片目を閉じて見せたのだった。

 そして、半ば強引に家の中へ迎えられた私は既視感のある玄関を通り、これまた見たことのある絨毯を経て居間へと通された。

 歩けば沈む絨毯の敷かれた居間はドアを開けると、間に机を挟み対面に置かれた大きなソファー。その横には、イーゼルがあり林檎を手前に置いてカンバスには桃のようなデッサンがされてあった。

 続きの台所だろう部屋は蛇腹で半分程が遮られてある。

「お掃除もしておりませんのに恥ずかしいです」と廊下から咲恵さんの声が聞こえたが、「あら、あなたの部屋より、綺麗だと思うわ」これは瑞穂さんの声である。

 辺りを見回していた私は台所から帰って来た和服の女性に訝しまれないと視線を正面に固定した。

 女性は物腰柔らかく、美しくソファーに腰を降ろすと、外では決して見せなかった優しい表情をつくり。

「八重と申します」

 と短く言うと軽くお辞儀をした。

「筒串 勝太郎と申します」

 私もオウム返しにお辞儀をする。

 そんな様を見て八重さんは笑いを堪えている様子であった。何が面白可笑しいのだろうか……もしや、先程水溜まりに足を突っ込んだ際に顔に泥でも跳ねたのだろうか。

「お二人と目元がそっくりなのですね」

 私は意を決してもの申した。これはいち早く確認しておきたいのだ。

「あら、お気づきになられましたか。私はそのように似ているとは思っておりませんのよ」

 あの子たちは私の娘ですわ。と八重さんは口許に手を添えて上品に笑った。 

「それでは……」 

「ええ、あの子は咲恵の姉です」

 私は大凡予感していた言葉に思わず目元を引きつらせておまけに痙攣させていた。予感していたからと言って傷つく精神が緩和されるわけではない。

「私も久々に若い殿方と文を交わして、学生の時分を思い出しましたわ」

 その笑顔は瑞穂さんの笑顔であり、ひいては黒髪の乙女の笑顔そっくりであった。目元にできた笑い皺とて、どうして佳麗ではないか。不思議である。

「瑞穂が喫茶店の前で殿方と一緒に歩く咲恵を見かけたと言うので。少しばかり……ねっ」

 硬直する私をよそに、八重さんはますます楽しそうにそう話した。

 私の心八重さん知らずであろう……

 そして、語尾には忘れずの意味深な笑いである。それ以上は語らないが、何が言いたかったのだろう。もしや私は手の平の上で踊らされながら、かつ、不埒な振る舞いをみせるや、即座に手の平を返される運命にあったのでなかろうか……

 あな恐ろしや……女性はやることが陰険でありどこまでも手が込んでいる。それに聞けば、瑞穂さんは先週婚約したばかりだと言う、恐れ多くも天下の人妻となろう娘を囮につかうなど、危うく私は不埒者の烙印を押されたあげく、背徳と言う奈落の底に落とされようとしていたのか……あな恐ろしや……あな恐ろしや……

「咲恵ったら、恥ずかしがって廊下で縮こまって動きませんわ」 

 身の毛も弥立つ百物語を早口で聞かされた面持ちで鳩が豆鉄砲をくらわされた口許でいると。

 そう言いながら、瑞穂さんが入って来た。

「仕様のない子ね。内弁慶なのだから……瑞穂、私は咲恵と御夕飯の買い物に行ってきます」 

「わかりました」 

 そうして、瑞穂さんと八重さんは替わりばんことソファーから立ちあるいは腰を降ろしたのだった。


      ◇


 私は茶褐色の水面を水面に視線を落としてこの間をどうしたものかと、やきもきしていた。はたして瑞穂さんは咲恵さんの姉であり姉妹であったのだ。そして、八重さんの物言いからするに、口が悪いが瑞穂さんは私にとってしてみれば、とんだくわせ者であったわけだが……この場合、私は目前に佇む瑞穂さんに怒髪天ばりに激昂するべきなのだろうか。

 結果からすれ、私は弄ばれていたわけである。詐欺と言い切ってよいほどに乙女の親族によって弄ばれたわけなのだ……

 だが、ここまで華麗にかつ華麗に弄ばれてしまっては種明かしの後、もはやぐうの音も出ない。それに私の中にあったのは憤怒や憎しみと言った負の感情ではなく、ただ、安堵感一辺倒だったのである。

 もしも、八重さんの手紙に対して下心のみ煎じて筆を走らせていたのであれば、今頃…………そう考えると、深層深海から沸々と無限の安堵が湧き上がって来るのであった。

「咲恵も居ませんし、存分に憤慨してください」

 瑞穂さんは真剣な眼差しを私に向けてそう言い切った。

「どうして私が瑞穂さんに憤慨しなければいけないのですか?」

「私と母は人として勝太郎さんに酷い仕打ちをしましたもの、頬を平手で打たれたとて、私は誰にも申しませんわ」

 婦女の頬を平手で打つなど、そもそも、女性に手をあげるなどと男子の風上にも置けない唾棄すべきであろう。たとえ、それが他人の目に触れる恐れがないこの密室において、私の体裁が保証されるしても、私は腕を動かすことすらない。

 確かに、瑞穂さんには喫茶にて、八重さんに手紙にて翻弄され煩悶と無用な葛藤をしいられたわけだが、今となってしてみれば丁度よかったのやもしれないと想えるのである。咲恵さんと文通を重ねられないことに絶望の片鱗を日々と垣間見た私のささくれだった心中を癒さないながらも絶望の暇を奪いさり、美しい二人の乙女に大岡裂きされると言う、男子垂涎の夢も一時ながらみることもできた。

 実際には手紙の返事を一度間違えば、私の渡る石橋は脆くも奈落のそこへ崩壊していたわけだが、苦あれば幸あり。雨降って地固まると瑞穂さんや八重さんとも相見えることもできたわけである。終わりよければ全てよろしいではないか。

 男子たるが婦女のお茶目な悪戯を海容と受け止め許すことができずしてどうしますか!

 普段は前向きに思考することの稀な私であったが、今回は最大の前傾姿勢にてこれを飲み込むことに決めた。 

 私は瑞穂さんや八重さんに対して怒りの矛先を向けたくなかった。良い方向へ考えさえすれば、万事、怒ることも憤懣することも皆目見当する必要すらないのだろう。

 何より、私の心中に怒りが霞ほども見当たらぬのだから、やはり、激昂する必要はない。

「なんと言えば良いか……言葉が見当たらないのが身こそばゆいのですが。とにかく私の心中が水を打ったように静かでありまして……その……つまり、何一つ怒っていないのです」

 ただ、端的に『怒っていません』と言ったら、はたして瑞穂さんは信じてくれただろうか……私は本当に憤ってはいない。だが、それを伝える明瞭たる文言も台詞も持ち合わせていなかったのである。

 もしも、私が瑞穂さんの立場であったなれば『怒っていません』と言われれば、疑うことなく『腑を煮え繰り返しております』と受け取るだろう。案の定、その後も瑞穂さんと私の間で大凡、最果てまで平行線を辿る言葉の掛け合いが続いた…………

 その言い合いに終止符が打たれたのは「ご用件がその旨でしたら、私の意思は何度もおつたえしましたので、失礼させていただきます」と私が飲み頃の紅茶を一気飲みをしてからであった。

「本当に申し訳ありませんでした。その寛大なお気持ち、私は何よりも嬉しいです」とすでに何度も拝見した綺麗なお辞儀をした瑞穂さんはそう言うと、おかわりを持って参りますと、台所へ立ったのであった。

「お茶菓子もお出ししないで、私ったら」 

 瑞穂さんは、そう言いながらお湯を注いだポットを机の上に置くと、再び台所へ戻って行く。少しの間、水屋や冷蔵庫の中を探していたが、

「すみません。妹の下宿先ですから、私には勝手がわかりません」と諦めた表情で申し訳なさそうに言い直してソファーの上に腰を降ろした。

 そして、机の上に一枚の便箋を置いたのであった。

「これは……」

 その便箋もその便箋に書かれてある文言の私にとっては懐かしくも、鮮明に記憶にある物であった。

 眉を寄せる私の表情を見つめながら、瑞穂さんはなぜか微笑んだ。そして、

「私のご学友のお話なのですけれど、これの告発文のお陰で不埒で粗忽者と一緒にならずにすんだのですよ」と唐突に話し始めたのである。

「はい……えっと」

 私は言葉に詰まった。窒息しそうなほどに詰まった。混乱していたと言って正しいだろう。

「図書館のとある図書の間に挟んでありましたのよ。私がお父様にお願いして、色々と叩いて頂きましたら、埃やら塵やらが出るわ出るわ。それはもう肺を病んでしまうほどでした」

「それは、ご学友が救われたと言うことですね?」

 私は半信半疑ながら、そう問い掛けた。当たり前であろう……これは私が忌まわしき松永先輩の醜態を暴露すべくもてる財力を放出し、さらに借金をしてまで印刷屋に頼んで作った告発ビラだったのである。

 猫は死んでから四十年後に舌を出してちゃっかり主人をかみ殺すと言うが、これいかに……てっきり、松永一派によって私の仕掛けた芽は綺麗サッパリ刈り取られていたと思ったが、幾星霜と図書の中に潜みて今頃になって花を咲かせようとは……

「はい。近日中に三行半を送りつける算段ですのよ」

 瑞穂さんは天使のような笑みを浮かべてそう言うと、ほんのりと頬に朱をのせた。

「ですから、この告発文をおつくりになられた方に是非とも御礼を申し上げたいのですけれど、勝太郎さんはどなたかご存じありませんか?」

「さて、心当たりはありませんね。今時、稀にみる正義漢です」

 私は自画自賛した。誰がどう言おうと私は自画自賛したのである。私が仕込んだ物であると、口に出してもよかった。現実に私が資財を投げ打ってつくったものなのだから、だがしかし、声に出してしまうと品がない。

 ゆえに、私は知らぬ存ぜぬを決め込むことにしたのであった。

 あら、と開いた口もとを手で隠し、

「古平さんとおっしゃる方にお聞きしましたら、その正義漢の方を勝太郎さんがよくご存じだとおっしゃっておられましたけれど?」と瑞穂さんは確信の笑みを浮かべて、そう続け、そして、恥じらうように口もとをすぼめたのである。

 その仕草はまるで、咲恵さんを見ているようであった。髪型が同じであれば、胸元がもっと小山であったならば……私は再び忽ち虜となっていたことだろう。

「古平は生粋の嘘つきです。私はそんな義賊を知りませんよ」

 私はこれまた嘘をついた。仮面を被った義賊は決してその素顔を見せたりしないのだ。 己が善行をひけらかしたようでは、ただの高慢ちきでしかないのである!

瑞穂さんは一貫した私の言葉に、少し驚いた表情をして見せたが、諦めたように目尻を下げると、

「私は、是非とも御礼申し上げたいのです。何せ、ここ数ヶ月の憂鬱を春一番のように綺麗に拭い去って下さったのですから……これで人生にも光明が差したと言っても過言ではありません、ですから……」

 そう言うと瑞穂さんは下げた目尻を再び上げ、私に何かを願うように胸元で指を絡ませのであった。

 その意図はなんとなく、以心伝心の界隈であったものの……私はそれ以上に狼狽していた。

 瑞穂さんの言葉の真意を探るに、私はかの晩冬の婚約の席で、すでに瑞穂さんを見ていたことになるではないか。麗人と称するに値する彫刻は私の前に立ち据えている瑞穂さんだったのである。縁は異なもの、合縁奇縁と言うがこれまさに……そう言った意味で私は戦慄していたわけである。

「瑞穂さん……」

「はい」

 瑞穂さんはついに、私に向けて一歩踏み出した、現実には机があるため、横に一歩移動しただけなのだが……

 もしもっ、私は舌を噛みそうになった。

「もしも、私がその義賊であるならば、この折を好機と瑞穂さんの純情を盗んでいるかもしれません。残念ながら私はそのような自分に素直な男なのです。ですが……再三再四申しますが、私はそのような義賊ではありません」

 そうですか、そう瑞穂さんは力無く言うと、 

「それは残念です。二人きりでしたら、口づけなど、私の純情を差し上げても良いと思っておりましたのに……」そう続けて、ソファーに腰を降ろしたのであった。 

 瑞穂さんには私がいかように写っただろうか……鼻の下を伸ばした類人猿に見えていないだろうか……もちろん私には自信などは皆無であった。

 顔じゅうが火照りまるで、焼けた豆炭を押し当てているようである。そして、うら若き華麗な瑞穂さんの胸元に思いを馳せて私の貧弱な胸は鼓動を激しくもはや高揚を抑えられるところではない。

 「私はこれにて失礼いたします。咲恵さんと母上様にはよろしくお伝え下さい」ろれつに自信を失いながら私は早口にやっとそう言うと、急いでお辞儀をして間髪入れず、玄関へと脱兎した。まことに情けないことに、私は逃げ出したのである。

 悲しいことに私は今までの生涯を残渣を舐めるようにして振り返ってみたところで、瑞穂さんのような美しい乙女と密室にて完全なる二人きりとなったことが無かった。誠に悲しくも恥ずかしい話しでもあろう。

 ゆえに、私は瑞穂さんに対しても、高揚し続ける私の胸中に対してもどうのように対処して良いのやら、皆目検討がつかなかったのだ。

 紅茶を飲みながらの世間話などであれば、咲恵さんと八重さんの帰りを待つまで間を持たせることなど造作もあるまい。しかし、『口づけを差し上げても良い』と言われて、冷静の体を保っていられるはずがない……

 だから、私は逃げ出したのである。

「お待ちになって」

 つかさず瑞穂さんは廊下まで私を追って飛び出し、靴を両手にドアに手を掛けた私を呼び止めたが「美味しい紅茶をごちそうさまでした」と私は外へ躍り出たのであった。

 もどかしいことこの上ない。あの笑顔は必殺必中の武器である、かのロンギヌスの槍よりもよほど恐ろしい。

 喜々に傾かずかと言って哀愁に傾くこともない。優しさと真善美に裏打ちされた真心以外の心持ちを私は感じてしまった。それは、人が恋心や好意の眼差しと称する誠にやっかいな部類であろう。

 私が男子であるかぎりは、必ずやこれは勘違いであって都合の良い解釈でしかないことは明白である。しかし、しかし、私自身が意図せずとも勘違いの深淵にはまってしまったかぎり、はたして、冷静と真理に立ち戻ることなど不可能であり、後ろから咲恵さんにバケツ一杯に詰まった氷を投げつけでもしてもらわなければ、祭り騒ぎの心中に静寂を取り戻すことはできないだろう。

 真理とは冷や水と静寂の中にこそ生まれるのである。

 

      ◇


 お姉様もお母様も、何をお考えになられているのでしょうか。婦女たるもの慎みを以て身を修めねばなりません。ですから、お知り合いとなって間もない勝太郎さんを家にあげるなど……取り分け、お母様は堅実な女性です。ですのに、そのお母様がどうして、ああも易々と勝太郎さんをあげてしまったのでしょうか……私は腑に落ちません。

 それよりも何よりも、お姉様もお母様も酷いのです。私はここ数週間と実家で生活をしておりました。ですから、こちらの家には居なかったのです。居なかったのですから、お掃除もしていなければ、お茶菓子とて買い置いてありません。

 それなにの……それなのに、勝太郎さんを導き入れてしまうなんて!あちこちに積もった埃などを見て、勝太郎さんが私のことを掃除すらもしないできない、そんなふしだらな女子と思われてしまったらどうしましょう。そもそも、どう責任をとって下さると言うのですか!

 私は頬を膨らましながら廊下でぷりぷりしておりました。すると「もう咲恵は本当に恥ずかしがりやさんね」とお姉様が楽しそうにおっしゃりましたので「私は今日初めて、お姉様とお母様を嫌いになるかもしれません」と呟きました。

 その後、お姉様は「咲恵ったら、恥ずかしがって廊下で縮こまって動きませんわ」と言いなが居間へ入って行ってしまいました。

 恥ずかしいわけではありません……恥ずかしいわけでは……私は独り言のように呟きながら壁に背を預け天井を見上げました。

 鹿の顔のように見えなくもない模様が、私を見下ろしているようで不気味でした。はて、あのような模様はあったのでしょうか。と首を傾げていると、「咲恵、お客様の前に出ないのなら、夕餉の買い物についておいでなさい」お母様が部屋から姿らをあらわし、仏頂面の私にそう言ったのでした。

 夕食のお買い物に出かけた私とお母様はバス停の方へ向かって歩いておりました。

「咲恵、あの方とはどういうお知り合いなの」

眼を細めて、そう聞いたお母様は少々怒っている様子です。どうして私が怒られるのかはわかりませんでした。むしろ、言い迫りたいのは私の方です。ですが、そのようなことは出来ませんから、

「私の大切な物を探し出していただいたのです」とお答えしました。

「あなたの大切なもの?」 

 お母様は思わず足を止めます。私は今頃になって、どうして「ただのご學友です」と言わなかったのだろうと後悔しました……厄介なことに後悔とは先だってできないものなのです。

「お母様がお考えになられているような事ではありません……」

 私は慌てて、そう言いました。

「どういうことか説明しなさい」

「それは……」

 俯いてしまった私に、お母様は鼻先が触れてしまいそうなほど、顔を近づけます。もちろん、私と勝太郎さんの間にお母様が勘違いなされているようなことは一切ございませんし、きっと勝太郎さんはそのような不埒な人ではありません。

 しかし……だからと言って、お母様の大切な大切なラケットを盗まれてしまいました。などと、言うに言えなかったのです。

「言えないのならば、仕方ありません。お父様に相談するしかなさそうです」

 そう言うとお母様はつんけんと前を向いて歩き出してしまいました。

「違います!」

「何が違うのです?何もなければお話なさい」

 うぅ、と私は軽くため息をつきました。

 お叱りは受けることでしょう。でも……でも、ラケットは私の手元に戻ってきたのですから、きっとお母様も許して下さいますでしょう。

 私は深呼吸をしてから、ラケットの子細を言葉を選んで説明しました。そして、何度も勝太郎さんのおかげで私の手元に戻って来たことを強調したのでした。

「そう、そのようなことがあったの」

「はい、あったのです」 

 私は上目遣いで、お叱りの一言を待っていましたが、お母様はそう言うに止まり、それ以上は何もおっしゃりませんでした。

 そのかわり、

「だから、二人きりで喫茶に出かけたと言うのですか」と的はずれなことを言うのでした。

「私も大學生ですから、ご學友とお茶ぐらいはします」

 私はお代のかわりに喫茶にお付き合いした旨はお母様にはお話ししませんでした。なんと言っても私は説明下手なのです。ですから、きっとお母様は交換条件にて勝太郎さんのお誘いを私が受けたと勘違いなされるのは火を見るよりも明らかです。

 私は私などとの一時の喫茶にてお代を受け取ることをしなかった勝太郎さんの心意気を大切にしたいと思っておりますし、私が大事としたい気持をお母様であろうとも悪く言われるのは気持がよろしくありません。

 だから、あえてお母様にその詳細をお話しなかったのです。

「そうですけれど、あなたは嫁入りに前の娘なのですよ」

 お母様はわざわざ振り向いて強くそうおっしゃいました。

「でも、お姉様は私よりも多くの殿方と交友していらっしゃりますよ」

 そうです。お姉様も私と同じ嫁入り前の乙女なのです。ですが、お姉様は殿方と交友を楽しんでおられます。もちろん、お茶をご一緒するだけですけれども……なら私だって。

「瑞穂さんは、その日の子細をちゃんと話してくれます。あなたのように内密に殿方と相まみえたりしません」

 私は揚げ足を取るかのように食い下がるお母様に対して、どうしたものでしょうと考える傍らで、やはり頬を膨らましていたのです。

 その後、商店街に到着しましたが、そこにはお母様の後ろを頬を膨らませたまま、口もと二枚貝のようにした私の姿がありました。私は年甲斐もなく、お母様に対して無言の抗議を実施していたのでした。

 後はお母様が私に話しかけさえすれば、私は頬を風船のように膨らませることでしょう。そして、お母様は私の物言わぬ反抗に気が付くのです。

 気が付くはずだったのです……

「どうして、私に話しかけないのですか」

 八百屋、精肉店、豆腐屋、そして魚屋を回って一頻りお買い物を済ませた、お母様は終始、私に話しかけなかったのでした。お豆腐を買ったところから不安になって来た私は、頬を膨らまし続けるのに疲れて、鉛を口まわりに貼っているようになってしまった口許を両手で揉みながら、ひょっとしてお母様の逆鱗に触れてしまったのではないでしょうか、とついに、帰路に向かうお母様の背中に声を投げ掛けたのでした。

「どういうこと?」

 眉間に皺をよせて、お母様は首を捻りました。

「いえ、先程のお話で怒っているのかと思いまして……」

「あら、咲恵はお料理しないでしょ。作るのはお母さんと瑞穂なのだから」 

 今度はきょとんとした表情をして言いました。

「私だって少しくらいはお料理ができます」

 下宿をはじめてから私は自分の食べる分は自分でお料理していたのですから!

「はいはい」

 ですが、お母様はまるで相手にしていないと言わんばかりにあしらうのでした。

「やはり、先程のことを怒ってらっしゃるのですか?」

怒ってません。とお母様はまずおっしゃい、

「怒ってはいません。ただ、可愛い娘がどこの誰ともわからない殿方と、会っているなんて心配でしょう。それに話してくれないなんて、寂しいじゃない」そう続けたのでした。「お母様。心配をさせてしまってごめんなさい。でも、勝太郎さんは誠実な方ですよ。とても筆まめな方ですし、お母様が気を揉むような方ではありません」 

 私は嬉しくなってお母様の腕に自分の腕を絡めました。そして、お母様の顔を見上げてそう話したのです。

「それでも心配するの。私は咲恵の母親だもの、子どもの心配をするのは親の特権なのよ」

 今度こそお母様は私に微笑んでくださいました。

 ですから「それでは心配させるのは娘である私の特権ですね」と微笑み返したのでした。

 私はお母様に、お願いをして帰り道は遠回りながら、竜田橋を通る方を歩いてかえることになりました。もちろん、私は久しくご無沙汰していた蚊柱を一目見たいと思ったのです。

 お母様は虫が嫌いですから、きっと良い顔をなさらないでしょうけれど、私は見たかったのです。

「咲恵、何をしているの、早く帰らなければ勝太郎さんが帰ってしまうわよ」

 私が、橋の上で立ち止まって蚊柱を見上げていますと、お母様がせかすようにそう言いました。

「勝太郎さんもお夕飯をご一緒するのですか!?」 

 私は純粋に驚いてしまいました。

「少しばかしの罪滅ぼしです」

「えっと……」

 罪滅ぼしと言うのは罪をつぐなうと言う意味です。勝太郎さんと初対面であるお母様がどうして、罪滅ぼしなのでしょうか?今度は私がきょとんとしていると、

「婦女には色々と秘密があるのですよ」

 とお母様は困った笑みを浮かべたのでした。

 要領を得ないままでしたが、婦女の秘密と言われてしまえば、無理強いして聞き及ぶことはできません。私にも幾つか人に言うには忍びない秘密がございますから、お母様の秘密とて聞くことはできないのです。

「お母様、私はもう少しここにいますから、先に帰っていて下さい」

「勝太郎さんはどうするの」 

「私よりもお姉様の方がお話がお上手ですし、勝太郎さんもお姉様が相手の方が楽しいと思います。すぐに追いつきますから」

「困った子ね。早く帰ってくるのですよ」

 私は言い出したらきかない子供でした。三つ子の魂百までと申しますから、その性分はかわりないのです。

 お母様の背中を一瞥して私は再び、蚊柱を見上げました。数週間ぶりに見上げるのですが、一期一会と同じ形はなく、微風に揺れる洗濯物のようにゆらゆらと棚引いています。もしやイッタンモメンと言う妖怪の正体はこの蚊柱なのいかもしれませんと思ったりして、少し楽しくなりましたが、すぐに哀愁の瞳にてため息を空に向かって吐きかけてしまいました。

 そうなのです。このようなちんぷんかんぷんなことばかりを考えている私などとお話をするよりは、弁長けたお姉様とお話をした方が楽しいに決まっているのです。

 以前、勝太郎さんとこの竜田川沿いの道を歩いたことがありました。その時も、私に話題を合わせてくれる勝太郎さんにかまけて、夕日に照らされた雲の造形美に見とれていたのです。

 それは一期一会だからです。その時その瞬間に見上げた造形美はきっと、私の生涯において同じものを見ることはありえないでしょう。ですから、尊くも美しいと、勝太郎さんにお話しました……お話しましたが、きっと勝太郎さんは私のことをつまらない婦女だと思ったに違いないのです。

 もっと、流行の歌謡曲やキネマを話題とした方が年頃相応なのでしょうから……

 だから、お姉様とお話しする方が楽しいに決まっているのです。


      ◇


 門柱を出たところで、私はしずしずと靴に足をねじ込んでいた。背中にこれ以上、瑞穂の声が追って来ないことを願いつつ、心の片隅ではそれを望みながら……

「あら、お帰りになられるの?」

 急用でも?と八重さんが私の傍らに立ち据えて居たのである。着物の袖から覗く白く細い腕には、夕餉の買い物だろう紙袋が抱えられてあった。

「えっと、その、とにかく、そう言うことです」

 日本語にして文法を無視して、私は浅瀬で溺れる犬のように手をじたばたとさせた。

 そして、深々とお辞儀をして、走り去ろうとしただ……

 だが、「ちょっとお待ちになって」と後ろ襟を捕まれるように声をかけられた私は、半身のみを捻って、恐る恐る振り返った。

「はい、何でしょうか……」

「一言だけよろしいです?」

「はい」

 私はきびすを返して、微笑みを浮かべる八重さんに向き直った。

 八重さんはそんな私に「知り合いとは言え、嫁入り前の娘の家にいきなり尋ねてくるような不躾は二度となさらないでね」と目元に力を入れて言ったのであった。

 口許だけは精一杯の微笑みを携えていたが、やはり眼が笑っていなければ、それは笑顔ではないのである。

「すっ、すみません。二度とこのような所行は繰り返しません」

 私は大袈裟に頭を下げた。お辞儀ではなく、謝意を込めて頭を下げた。

「そうそう、咲恵は今頃、竜田橋を歩いている頃かしらね」

「……?」

 私は顔を上げた。それは何を意図するお言葉なのだろうか……

「あら、私の独り言ですから、お気にされませんこと」

 八重さんはそう言いながら、すっきりとした横顔を残し、門柱を開けると玄関へ続く石田畳みを歩いて行ってしまった。

 私は思いきり口を開けて疾走した。そして竜田川に掛かる橋の上に黒髪の乙女の姿がなかった暁には、渦炊く蚊柱に突っ込み、まるでオキアミを喰らうヒゲクジラのごとく鯨飲することだろう。

 どこぞの原住民は虫を喰らうと聞き及ぶが、はたして美味いのかもしれん。けして食用には向かないだろうと思いしつつも、これも実学のうちであろう。そして、美食趣向の私の口の中に、よくも入ってきたものだとゆらゆらと幽霊のごとく揺らめく蚊柱を見上げ憤慨することだろう。

 とは言え、咲恵さんを見初め。四百四病以外の恋煩いの病に陥ってからは、竜田川の橋を通る時など、川の上へ舞台を移した蚊柱を見上げながら、たとえ雌が飛び込んでこようともこれだけの内、一匹しか本懐をとげられぬ境遇は、まさに私とうり二つではないか。と思いなおしてみると、先に苦々しく思っていた私だったがもし蚊柱との意思疎通がまかり通るものならば、同じ境遇の者同士堅く手などを握りあい。友として明日から友に歩きたいものであると友愛すら浮き上がって来る始末であった。

 半信半疑ながら疾走した私は橋の袂にてようやく欄干に手を置き茜空を一人見上げる乙女の姿を見つけた。

「これはこれは、昼間ぶりで」

「夕暮れ時だが、安くなるか」 

「また桔梗ですかい」

 橋の袂へ花桶を移動して商いを続けていた、花売りの男はそう言いながら前歯の口でいやらしく笑った。

 むろん、桔梗でもよかった。花であるならば何でも良かったのである。だから桔梗でもよかったのだが……

「そこの酸漿を一輪くれ」

 私はあえて酸漿を所望した。怪我の功名と言うわけではない、むしろ巧妙であったわけだが、私は不意に八重さんの文を思い出したのである。『季節にはその時節にこそもっとも美しくも情緒のあるものがある』一期一会を尊ぶ咲恵さんなら、きっとこの奥ゆかしきをわかってくれるだろう。

「こいつぁ、安くできませんぜ」

口許を堅くして言う花売り。

「誰が安くしろと言った。私を見くびらないでもらいたいな」

「そんな台詞は靴を新調してから言いなさいな」

 底のすり減り、すっかりくたびれた靴を煙管で示して言いながら、花売りは再び欠けた前歯を露わとした。

「それよりも今は酸漿なんだ」

 私も口許を緩めると、ポケットから小銭を取り出して、男に渡し、酸漿を一輪受け取った。なるほど、ぷっくりと大きすぎず小さすぎず膨らんだその様は姿見良く、風情があるではないか。

 私は酸漿を後ろ手に隠すとゆっくりと乙女に気取られぬように近づいてから、「こんばんわ、奇遇ですね」と乙女の背中に声を掛けたのであった。

「これは勝太郎さん、こんばんわ」

 乙女は驚いた表情をしていたが、私が隣へ歩み並ぶ頃には、つつましやかな微笑みを浮かべていた。

「今日も威勢良くうごめいてますね」

 本日も燕やらコウモリやらの来襲を受けてなお変わりなく、まるで妖怪イッタンモメンのように空中を漂っているではないか。

 そうだ、と私はあくまでも偶然の体を装って乙女の方を向いた。

 そして、のけぞった……何を言ったでもしたでもないと言うのに、乙女は瞳を輝かせて私を見上げていたのである。  

「あ、その……すみません……」

 乙女も私が急に顔を向けたことに驚くと急いで視線を足元に落としてしまった。

「いえ……」と私も、まことに清々しい意味で出鼻をくじかれたわけだが「この季節は酸漿の季節だそうですよ」と乙女に酸漿を差し出したのである。

「これを私に?」

 乙女はそう言って再び私の顔を見やり、私が無言でうなずくと、ようやく、やうやうしく白く細い指で酸漿を掴んで愛でるのであった。

「一輪で賑やかさに欠けますけれど」

「いいえ、そんなことありません。酸漿は一輪だからこそ姿見がよろしいのですよ。私のお母様が昔、梅雨の季節になると、酸漿を沢山買って家中に飾っておりました」

 懐かしい思い出です。とぷっくりと膨らんだ酸漿の果実を指でつつきながら彼女は完爾として笑うのである。やはり、咲恵さんの笑顔は素敵である。よほど『あなたの笑顔の方が素敵ですよ』と口に出したかったが、口に出さぬからこそ品があると言うものなのだ。

 そして、私は阿呆にも本気で思ってしまったのである。全ての何よりも美しくも風情漂う優しいこの笑顔を、彼女を何もかもから守れるものであるなれば、この身がどうなろうとてかまうまいと。

 私の細くか弱き腕なれども、守ってあげたいと思ったのである。

「夏風邪でもひかれたのですか?顔が赤いですよ」

 乙女の笑顔の虜となっていた私に、彼女が首を傾げながら言った。

「いえ、その、夕日が水面に反射したのですよ。だから、咲恵さんの顔も赤いです」

 私は嘘をついた。これこそ正真正銘本物の真っ赤な嘘である。もちろん私の顔が赤かったのは乙女の笑顔に惚れ惚れとしていたからに相違ない。

「本当ですか」 

 乙女は自分の手を両頬にあてて「本当です。ほっぺが温かいです」と純粋に驚いて見せた。

「これからお時間が許せば、お茶でもいかがですか」

喫茶店は皆無であるからして、私は橋を渡りきり、少し川沿いに入った所にあるベンチを指さしてそうお誘いの言葉を吐いた。缶ジュースなど買って飲んだとてお茶にはかわりあるまい

 夕暮れ時分からして、婦女をまして乙女を誘うなどと失礼にあたるやもしれないが、私は咲恵さんと話しがしたかった。これも嘘である。ただ、少しだけでも側にいたかったのだ。

「梅雨明けそうそう、夕暮れの川沿いなど小粋ですね。喜んでご一緒します」

 不躾なお誘いであったが、彼女は二つ返事でこれを了承してくれた。やはり、咲恵さんは心持ちが海のように広い女性である。


      ◇


 久方ぶりにお母様の優しさに触れて、私の心持ちはこの茜空のようにきっと紅く色づいているに違いありません。一期一会の出会いであればこそ、私には素敵に思えるのです。 しかし、この気持を分かり合える人に出会って居ないのは、どこかジレンマです。

 欄干に手を置いて、私は一人、時折吹き抜ける微風に髪の毛を靡かせながら蚊柱を見上げておりました。  

 一寸の虫にも五分の魂と申します。ですからきっと一寸よりも小さい虫にも幾ばくかの魂があるのでしょうから、消してバカにしてはいけないのです。 

 その日、私は走っておりました。とても嬉しいことがあったからです。竜田川に架かる橋の上を駆けておりますと、突然目前に黒いもやがかかり、俊敏ではない私は顔から突っ込んでしまいました。よもや別の世界への入り口であったならどうしましょうと思いましたが。黒いもやの正体は蚊柱でした。

 目と口を咄嗟に閉じましたが、残念ながら鼻は閉じることができません。私は生まれてこのかた鼻の閉じ方を教わったことがなかったからです。物知りの姉様やお母様に問いかけてみましたが二人とも『大人になればわかる』と口を揃えます。未だわからないかぎり、私は大人になれていないのでしょう。

 ですから、鼻の中に虫が入りました。鼻の奥がむずむずとくすぐったいことと言ったら。

一寸にみたない虫にも魂がありますからこれを無碍にするわけにはいきません。ですが、くすぐったいのは我慢できないのです。

 私はくしゃみをしました。続け二度も……誰かが私の噂をしているのではと思いつつ、きっと良い噂だろうと捨て置き、まだくすぐり続ける虫についに、私は鼻から息を逆噴射しました。

 幸運にも私は風邪を引いておりませんでしたので、鼻水はでませんでした。それは虫にとっても好都合だったことでしょう。胸の中が空っぽになった頃、私の小さな鼻はくすぐられることはなくなっておりました。


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