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黒髪の乙女  作者: 畑々 端子
2/9

     ◇


 私はさっそくそのベルトに墨で名前を書きました。ハンカチや下着などには墨では文字は書けませんから、名前の代わりに林檎の刺繍をするのです。私は、何を隠そう小さくて丸いものが大好きなのでした。食べても美味しく姿見も良い。まるで私のためにある果実ではありませんか!ですから林檎なのです。

 お姉様にもお母様にも、雨が降れば消えてしまうでしょう、と小馬鹿にされるのですが、私は墨で名前を書くのです。消えればまた書けばよいではないですか。消えたと言うことは雨と出会ったという証ですし、書いても書いても消えてしまう、それがまた一期一会の趣であり一興なのです。 

「刺繍がお上手なのですね」

「林檎だけしかできませんけれど、ですから林檎には自身があります」

 本日の昼下がり、私は小春日さんと芝生の上で閑話などをしておりました。小春日さんは淡い黄色のスカートにイヤリング。、さらに唇には紅をのせております。女性の嗜みとお粧しをされているのでしょうか。

 私はと言うと、いつも通りお化粧もせず、傍らには先日頂いたばかりのベルトと図書が置いてあります。ベルトは男性ものでしたから、私が腰に通すわけにもいきません。けれど、留め金が気に入っておりましたので、本を束ねるのに使いましょうと、丁度よい所に穴を開けて、本を束ねられるようにいたしました。ですが、針では歯が立ちませんで、無理矢理裁ち切りばさみをねじ込みましたから、穴が少々粗末に大きく開いてしまったのが残念です。私は根は不器用なのです。

 ですが、これで私の密かな憧れが叶うのです。柔道着を丸め、それを帯でしばり肩に掛けるようにして持つ様の勇ましくも格好の良いことと言ったら!柔道着は持っておりませんでしたので、私は本で真似をしようと思ったのです。けれど大手を振っては、お行儀が悪いですから、校内に入ってから芝生までの桜並木を私は小粋にベルトで束ねた本を背に、ベルトを肩に端を手に持って、意気揚々と歩いたのでした。とても強くなれた気がいたしました。今なら熊でも猪でもなんでもござれと言った面持ちなのです。嘘です。熊や猪はやはり恐ろしいですから、猫や小犬などでしたらなんとかなるかもしれません。

「これから、お茶でもいかがですか」

 せっかく仲良くなったのですから、珈琲などを飲みながら色々と語らいたいと思いました。同じ女性であってもお姉様やお母様には相談出来ない、乙女同士でなければ不用意にお話できない事もあるのです。

「せっかくですが、またの機会にお願いできませんか」

「ご予定があるのでは仕方ありません、また後日に日を改めましょう」 「すみません。今日はその……お誘いされまして……」小春日さんはは目線を逸らして、口許をきゅっと引き締めました。そして、

「これから、男の方とお茶を頂くお約束がありまして」と話されたのです。

「まあ」 

 驚いて見せる私の隣で、小春日さんは口を小さくして頬を鮮やかな桃色に染めています。

「倶楽部のご學友ですか」

「いいえ」洗い立ての犬のように首を振った小春日さんは恥ずかしさあまって顔を両手で覆ってしまいました。

「まあ」私はそう言うと、頬を桃色にそめます。倶楽部以外の殿方とお茶だなんて、殿方とお茶だなんて! 私は羨ましくも嫉妬してしまったのでしょうか。傍らにあったベルトを小春日さんの足下へ投げ出すと、

「大変です。足元に蛇がいます」と言ってしまったのです。

「ええっ」

 小春日さんは紅潮した顔のまま立ち上がると、足下のベルトを見て「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたかと思うと図書館の方へ逃げて行ってしまいました。

 私は性根がひん曲がった酷い人間です。ご學友にこのような悪戯をするのですから。

 私はなんと大人げないのでしょうと顔を紅潮させ、それを隠すために本を開くと急いで顔をおしつけました。

 小春日さんごめんなさい。


      ◇


 次ぎに意識が戻ったのは、窓から伸びた陽の光が私の身体を程よく温めてくれていたころであった。気持ちの良い目覚めのわけがない。三日ぶりに脳髄を休めていると言うのに、突発的な偏頭痛が私頭の中で和太鼓叩いているのである。どうして寝ていられようか。私は万年床の上に胡座をかいて頭を掻いた。眼球の奥がずしりと重いような奇妙な感覚である。よもや顔が崩れているのではと、あらぬ想像を巡らせ首をぐるりと回してから、私は立ち上がった。なぜか、ラケットが襖に刺さっていた。

 頃合いとしては、納入期限に確実に遅刻しているだろう。本当は今一度、愛してやまぬ万年床の上にて意識を桃源郷の彼方へ飛ばしたかったのだが、遅刻を理由に賃金を減らされてはかなわん。

 内職の入った麻袋を担いで竜田川に掛かる竜田橋を渡り、地道を少し進んで長屋を通り抜け、右を見て左を見てさらに右を見て線路を横断し、畦道を歩いて肥溜めの脇を更に進めば、そこは急に開けた商店街となっている。私は『本屋街』と呼んでいた。商店街の片側の全てが古本屋が軒を連ねているからである。 

 私はさっさと、納入を済ませ、あの手この手で技巧を凝らした嘘を並べて遅刻を取り繕った。我が舌先三寸も大したものである。おかげで賃金を減らされずにすんだ。

 懐が少しでも暖かくなれば気持ちも大きくなるというもの、近道をせずに道路沿いにのんびりと帰っていると、珈琲の芳しい香りが漂って来るのである。最近新しくできた伊太利【イタリア】風喫茶店、その名を『フロリアン』と言った。いつでも珈琲の良い香りを漂わせているこの喫茶店には仲の良い善男善女がカップを片手に、楽しげに語らいの一時を過ごしているのである。羨ましいことこの上ない。

 かようなお洒落な店に男一人で入ってたまるか、乙女とご一緒してこそ真価があるというものであろう。糧を得てなお薄っぺらい財布に勇気づけられ私は胸を張った。とかく頭は痛かったが、三日も寝なければ頭とて抗議の一つもしたかろう。

 本日は隣人の夕餉の献立なんだろうと思いながらフロリアンを通り過ぎた所で、意外な物を見た、珍しい生物である。

 それは古平であった。古平ごときどうでも良い、奴はいつも悪巧みをほざいてはあっちこっちに火種を蒔いて歩いている男なのだ。しかし、古平は乙女を隣に連れていたのである。よもや……と思ったが私は冷静になった。これ以上にないほど冷静になり、そして願った。歩幅の大小で偶然並んだだけであると…………

「ふひゃ」

 驚愕のあまり舌を噛んでしまった。なんと、偶然並んだはずの二人がフロリアンへ入って行ったのである。私は頭を抱えてその場に座り込んだ。そして念仏を唱えるようにして、コレは悪夢であるコレは終末であると繰り返した。

 そして、私は天に向かって懇願したのである。神と仏よ私とお面の乙女を残して世界を滅ぼしたまえ!と。

 流々荘に戻った私は藁人形を作るか不幸の手紙をしたためるかと悩んだあげく、藁もなければ便箋を使うのは勿体ないと万年床へ潜り込んで三日分の睡眠をしゃぶりつくすことにした。  


      ◇


 私の本分は学生です。ですから、講義の合間などには図書を小脇に抱え、桜並木を臨望む芝の上で読書に耽るのです。どなたかが演奏なさるのかは知りませんが、カノンの旋律は耳に心地よく読書に勤しむにはこれ以上ない環境なのです。最近読み始めたフロイトさんの著書は一風変わっていて、ページを捲るたびに眉を顰めます。

 ほとんどが難解で理解にいたりません。何かの暗号なのではと目を凝らして何度も読み返しますが、エニグマでも持っていない限り私には解読することができそうにありません。 私は、はしたなくも両足を怠惰に投げ出し、大きく背伸びをしました。このまま寝転びでもしたら気持ちが良いかもしれません。

 ですが、私はそれができませんでした。目前に面白い方を見つけてしまったからです。

その方は桜の樹に登っては天辺の蕾を摘んでいるのです。ベルトをなさっておられないのでしょう。ずり落ちそうなズボンを片手で押さえながら器用にも桜の樹を登って行くのです。これには私もどきどきとしました。見えそうで見えないと言うのは大ぴらげるよりも欲情を掻き立てるものなのですね。

 私は首を傾げました。けれど、すぐに浪漫をお持ちの方なのだと口もとを緩めます。

 きっと、太陽の光を一番高いところで独り占めした蕾を、煮立ててお茶などにするのでしょう。そして、それを意中の女性と談笑をしながらテラスで飲み交わすのです。なんて素敵なことでしょう!桜の天辺の蕾などお金では決して買えませんから、世界で唯一の味を賞味できるのです。お相手の女性は世界一の味に舌鼓を打てるのですから、文字通り世界一の幸せものです。

 フロイトさんの著書を忘れて、私は蜜蜂のように蕾に最終に勤しむその方をずっと眺めておりました。その必死な様は愛情の表れでしょう。私は膝に肘を立て、顎を手にのせて恍惚となりました。

 そして、ふっと思ったのです。あの方はどのような方なのでしょうと。


      ◇


 久しく大學へ赴いた私は、校内を走り回り、古平を捕まえた。もちろん、昨日の仔細は喉から手が出るほど……聞いてやってもよい。だが、その前に私の取り分をもらわねばなるまいと思い出したからである。

「ああ、あれなら川に捨てました」

 食堂で捕まえた古平は天麩羅うどんをすすりながら、あっさりとそう答えた。

「なんでだ」

 なんでお前は昼飯に天麩羅うどんなどと贅沢品を喰らっているのだ。嘘つけ、どうして

ラケットを川に捨てる必要がある。前後が逆になってしまったが、それは気にしないでほしい。

「よく見ると、あのラケットの一本一本に名前が彫り込んであったんですよ。書いてあるだけでも値が下がるってのに、彫り込んであるんじゃ質屋は買ってくれませんからね」

 盗品と勘違いされますから。と蓮根を私に見せつけて古平は続けた。

「昨日の乙女は一体なんだ」

 本末転倒であるが、古平を捕まえた本当の目的であるがゆえにいたしかたない。この際ラケットの詳細は捨て置いてやる。

「うじ虫から出歯亀に転落ですか。人畜有害で性根まで腐ったとあっちゃ、もうどうしようもないですね」

 取り繕うように毒舌してみせた古平であったが、箸に掴んでかき揚げの残骸を落としたかぎりは微かにでも動揺したらしい。

「死にそうな顔して困ってたんで、助けてあげたんですよ。そしたら、彼女の方から御礼がしたいからって」

 彼女は小春日さんと言うらしい。

 どうしてか理由までは話さなかったが、小春日さんの窮地を古平が救って差し上げたと言うのだ。見え透いた嘘をと罵ってやりたかったが、二人して喫茶店に入ったことは悲しいかな、誰であろう私が生き証人なのである。

「それで喫茶店か」

「貧乏人には縁のない話しですけど、あの喫茶店の珈琲一杯の値段であなたなら三日は生きられますよ」古平はそう言うと刻み葱をつけた前歯を覗かせて私を笑った。

「僕にはあなたと違って高貴な雰囲気が漂ってるんでしょうね」どこまで調子に乗り続ける古平、さすがに私の堪忍袋も腹八分目である。

「好奇の間違いだ」

 私は古平が汁を飲み始め頃を見計らって頭をひっぱたいてやった。

 無様に古平は、咳き込み襟元を汁でひたひたとさせる姿を見ることなく、私は咽せ込む声のみに優越を感じて食堂を後にした。

 さて、私が四畳間に引き籠もっている間に、桜の蕾はぷっくりと美味しそう飴玉の趣である。私は腕まくりをすると、桜の樹に登り始め、一番高い場所にある蕾をむしり取った。

同様の行為を何度も繰り返しながら、桜並木を猛進していると、遠目に我が意中の黒髪の乙女が芝生の上で読書に勤しんでいるのが目に入った。

 清涼感のある黒髪と真善美うち揃ったその姿、読書に興じる乙女の横顔はどうしてこうも美しいのだろうか。だから私は余計に桜の蕾を必死になって収拾した。よもや古平に先を越されることはあるまいと高を括っていた私はあっさりと先を越され、さらに私にはその気配すらないのである。こうなれば一切の手段を選んでいる場合ではない。媚薬だろうが漢方薬だろうが、たとえ呪いであっても、全てにすがってやるまでだ。

 好奇の目が私の尻に注がれたが私はお構いなしと作業を続けた。郷里を離れやせ細った私の身体には大きくなってしまったズボンが頼んでいないというのに勝手気ままにずれ落ちてくれるのである。私はついに羞恥心をも捨て去ろうとした、だが、黒髪の乙女の前でだけは、ずれ落ちるズボンを片手で押さえて、恥じらいを捨てきれず、好奇の視線たろうともせめて格好の悪いとこだけは見せまいと慎重にかつ命懸けで桜に登った。


      ◇

 

 さすがに恥ずかしいと気が付いた私は、昼間の作業を控え、夕暮れから桜に登ることにした。無論、昼間に私以外の物が桜の樹に登ろうものなら、それを阻止しなければならないので、私は白昼、桜の巨木に身を隠し顔だけを覗かせてテニス場を眺めていた。最近、我が意中の乙女の姿が見当たらないのが残念でならなかったが、それでなくとも乙女たちが飛んだり跳ねたりと躍動する様を眺めるのは眼の保養になると言える。

 私はのんきに構えていたわけである。

 そんなこんなで数日間をかけて、大体の蕾を収拾した。しかし、雨が降るたびに季節が移り変わって行く、私がのんびりとしている間に蕾がどんどんと大きく膨らみ、中には開花しているものまで出てくる始末。焦った私は、白昼だろうと気にする余裕するらなくして桜の樹に登るはめになってしまったのである。

 白昼はいつ何時、黒髪の乙女が私のはしたない姿を眼にするかもしれぬ、と思うとズボンを気にせざる得ない。樹上を寝床とする猿ではない私が片腕を戦力外にして木登りがうまく出来るわけもなく、蕾集めは困難を極め。詰まるところ早朝から作業を開始せざる事態へと発展を遂げた。

 何度としてその意味と問うた。媚薬など人類が英知を授かってよりの、不毛な夢であり全男子の悲願なのである。そのような人類の宝とも言える薬がこのような蕾で完成を見るとは腑に落ちないことこの上ない。ただ古平の欺瞞心に惑わされ奴の汚い手の上を転げ回っているだけではなかろうか。

 だがしかし、私には打つべき布石が見当たらないのである。貧乏、顔面微妙、不潔。これでどうして高嶺の花に手が届くだろうか。何度と私は自身を阿呆だと思い桜の樹の上から、學生の本分に勤しむ同胞たちを見て改心しようと思ったことだろう。その中に可憐な乙女を傍らに歩く古平の姿さえ見つけなければ私はすぐに頭の毛を剃り落として、四六時中講堂の椅子を温め続けたことだろう。

全ては明日出会う乙女のため、未来に出逢う黒髪の乙女のため!

 この不毛な日々とて栄光へとのみ続く道なのである。

 挫折と発起を繰り返し、私は最後の一本の前に立った。当初から最後と決めていた桜の大樹である。その紡いで来た年輪と年月に敬意を表して私は昼休み前の時分、幹の手を掛けたのである。

 すでに何百本近く登って来た私である。思い起こせば私の身体を預けるには心許ない枝振りの樹もあれば、乙女の肌のようにつるつるすべすべな皮の樹もあった。それらを片手で、時には下着を露わとしながら登りこなして来た私に、これほどの大樹で、足も掛けやすければ、私の体重ごときで折れてしまう枝とて見当たらない。

 私は栄光の明日を、希望に満ち足りた日々をついに我が手に……

 そして、私は最後の蕾に手を添え、綿毛を掴むように優しく慈しみをもって蕾を手に入れたのである。

 これでようやく私にも夜明けが訪れる。天辺からの景色は見慣れた風景に砂糖と蜂蜜を混ぜたように、新鮮であり、この場所からならグランドを挟んだ校舎二階の窓から部屋の中が窺える。まるで巨人になった気分である。なんと清々しいことだろう。

 だが次の瞬間に私は、地団駄を踏みたくなった。いや樹の上で地団駄を踏んだ。また忌々しい古平と乙女が眼に入ってしまったのである。おのれ、ここまできて私の心をささくれ立たせるとは良い度胸である。私は更に高い所に登り、睥睨【へいげい】のついでに古平に唾でも吐きかけてやろうと一念発起し、力強く枝に足を掛けた。

 とっさの出来事である。ふいに枝に掛けたはずの足が空を掻き、私の身体が綿菓子のように軽くなったかと思うと、顔やら手やらを大いに猫の群集がひっかき回し、空が遠くなって行く。私は落ちていたのである。挙げ句の果てには背中を何かで強打した上にもんどり打って、身体の裏側全てを地面に打ち付けた。その際「きゃっ」と小さな悲鳴と何かが地面に落ちた気がしたが、意識がも朦朧とする私には気にしている余裕などどこにあるといえようか。

「大丈夫ですか?」 

 焦点が定まると、私を覗き込む乙女の姿あった。垂れた黒髪を片手で耳にかき揚げ、芙蓉の眥【なまじり】にて私を見下ろしている。日の光に照らし出された乙女の頬は白くまさに雪のようである。それは最近テニス場に姿を見せず、芝生の上にて読書に耽る文学乙女であり、我が想い人である黒髪の乙女であったのだ。

「大丈夫です。それよりも、あなた様に腕などあたりませんでしたか」

 確か、私が背を打つ間際、小さな悲鳴と共に何かが地面に落ちる音が聞こえたはずである。よもや彼女の所持品に打撃を与えてしまったのであれば、なんと言って謝ればよいのやら。 

 いえいえ。と乙女は言って、

「驚いてしまったものですから、つい本を落としてしまったのです」と本を胸に抱いたのである。

「それはすみませんでした」 

 私は背やら腰やらが相当痛んだが、とりあえず腰を撫でながら立ち上がり、頭を下げた。

「そんな、私ものんびりとしておりましたし、お怪我がなくてなによりです」

「今日も読書ですか」

 私は彼女の抱える本を見てそう聞いた。腕に包まれたその本がどのような本であるかは定かではなかったが、きっと私には理解不可能な専門書なのであろう。

 はい。彼女は小さく頷いた。

「先日も拝見したのですが、桜の蕾を集めてらっしゃるようですけれど……」

 私は彼女の意外な質問と好奇心に輝く瞳に鼓動を早くした。やはりズボンを押さえながら登っていて正解であった。と深く感慨した。

「この桜の蕾を煎じると万病薬になると言うので集めているのです」

嘘である。だが、意中の乙女に口軽々と『あなたを虜にするための媚薬です』などと言えてたまるか。  

「まあ、もしかして、ご両親かご友人かがご病気なのですか?」

「いえ、商売ですよ」

 私がそう言うと、乙女は細長い指を顎に触れさせ、何かを考えていた。商売などと軽蔑されたか……と内心どう取り繕うか考えていたが……

「万屋さんなのですか」彼女そう言ったのである。

「そんなところです」 

 まさか、そのような発想をするとは思ってもみなかったが、これは棚からぼた餅である。聞くに落ちず語るに落ちる。単純な私のことである、想像力を追求される展開となれば苦し紛れに最高秘密をうっかり喋ってしまうかもしれん。

「それでしたら、是非、私のご依頼も受けて下さいませんでしょうか」

「なんでもござりませ」 

 私は二つ返事でこれを快諾するつもりであった。

「私はテニス部に所属しているのですが、最近、私のラケットを盗まれてしまいまして、困っております。大切な物ですので、なんとか探し出してほしいのです」

 彼女は初対面の私に懇願したのだ。私は探偵でもなければ万屋でもない、ただの男である。だが、男子たるは乙女の懇願を無碍【むげ】に断れるはずがない!

「わかりました、お引き受けいたします」

 私は堅く決然と頷くとずれ落ちそうになったズボンを密かに押さえて、痛む背を曲げずに「それでは」と乙女の前から立ち去ろうとした。

「もし、万屋さん」

 そんな私を彼女が呼び止め、私が振り向いて見ると、それよりも早く乙女は私に向かって小走りにやって来たかと思うと、

「これをお使い下さい」黒いベルトを差し出したのであった。

「ですが」

「いいのです。私が持っていても、使いませんから、どうぞお気遣い無くお受け取り下さい」

「それでは……遠慮なく。その……ありがとうございます」

 私は惚けて、ベルトを受け取るとその場に立つ尽くしてしまい、やっとそれだけが言えたのだった。

「それでは、ラケットお願いいたしますね」

 彼女はそう言って、芝生の方へしずしずと歩いて行ってしまった。

 

      ◇


 私は流々荘へ息せき切って帰ると、自室へ戻り、乙女から賜ったベルト四畳間の上に並べてまず、全体を眺め、そして細部を眺め、それからベルトに通そうと、まるでひつまぶしの風情にて思わぬ贈り物に感涙していた。

 ベルトは黒い革製であるらしかった。光沢の気品にしては見れば見るほどに安っぽい仕様であり。漆であると喜び勇んで買ったはいいが後に、エナメルであったと落胆すると言った趣である。

「むう」

 私は首をひねった。そのベルトは漆黒の色合いであり、碇を思わせる留め金具だけがその気品を思い出させている。そうなのである。このベルトは私が用具倉庫で見つけ、ラケットを束ねるのに古平に貸したそれに瓜二つなのである。

 しかし、そのベルトは今はラケットを束ねたまま竜田川の川底に沈んでいるはずである。

地上に、まして黒髪の乙女の手元にあるはずがない。

 きっと別物に違いない。私はベルトの中央部分に、まるで裁ち切りばさみで剔【えぐ】り開けたような不細工で大きな穴が開いているのを見つけそう確信した。私の小指なら容易に通るくらいである。この広い世界には私に似た可哀想な男前が三人もいると言う、ならばベルトとて同じ物が三つあって然るべきであろう。それに、これは黒髪の乙女が私にくれた品であって、彼女の御手に触れた物であれば、たとえ石ころであろうとも、たちまち翡翠に様変わりするのだ。万人がそれを石ころと断言しようとも、私は最後まで翡翠と言い張るだろう。

 とにかく、私にとってこのベルトはこの四畳間にあって、唯一の宝なのである。

私はベルトをズボンに通すと、ずれ落ちなくなったズボンに万感胸に迫ると、急に姿見が欲しくなった。手鏡一面だけでは全身を映すことはままならない。なんとか、映せないものかと四苦八苦してみたがついに、本懐を遂げるに及ばなかった。

 となれば、相場はふて寝と決まっている。古平はラケットを竜田川に捨てたと言っていた。ならば、明日辺り竜田川を探せば容易に見つかるだろう。『まあ、なんて早いのでしょう。惚れ惚れいたします』などと、乙女から賞賛を受けることまちがいなし。そうなれば万事良し。喫茶店を手始めに、キネマや動物園などにお誘いすれば、やがて黒髪の乙女が私の『恋人』へと昇華すること請け合いである。

  黒髪の乙女の所望するラケットは竜田川にあり!蓬莱の玉の枝、龍の首の珠、燕の子安貝などを所望された平安貴族がなおのこと不憫【ふびん】でしかたない。

私は沸々と湧いては消えて行く妄想の中、素晴らしい面持ちで眠りについたのであった。

だから、翌昼、私は清々しい目覚めを迎えることができたのである。起きあがって背伸びをしてみれば腰にはベルトがあり、襖には刺さったままのラケットがある。万事幻にあらず!

 あまりにも、夢が現実と似通っていたため、少し混同してしまったが、やはり現実と言うものは良いものである。私は、朝飯兼昼食を食べに共同炊事場へ行くと、丁度、調理台の上には握り飯が大皿の上に山盛り置いてあるではないか。これぞ、天の啓示と私は握り飯を抱えられるだけ抱えると一時、四畳間へ退避し、シャツにひっついたご飯粒を食べながら、机の上に握り飯を置いた。これで夕飯の心配もなくなった。憂い無きこととはなんと天晴れなことかな。

 風呂敷に握り飯を包み込んだ私はそれを首に巻き付け、次ぎに便所の下駄をこっそり失敬して、誰にも見られぬ間に流々荘を飛び出した。

 川の中に入るのである、さすがに一足しかない革靴を犠牲にするのは勿体ない。そこで便所下駄である。今頃便所に赴いた隣人どもはどうして便所に入ろうか思案していることだろう。しからば、余剰金にて新しい下駄を公の為に購入するか、私がラケットを手に流々荘に帰るまで便所をがまんしておればよい。なあに夕方までの辛抱である。人間それくらい辛抱できなくてどうしますか!

 私はラケット見つけるのだ。そして、黒髪の乙女の賞賛を賜り、尊敬の眼差しを賜って、花実の咲いた薔薇色の大學生活が幕を開けるのだ。私の妄想の中ではすでに乙女との口づけまで秒読みとなっている。これはあくまでも妄想であって、現実的には何も始まっておらず、これから始まろうとしているのであったが。

 もはや、妄想にこそ活力を求めんとする私を大いに蔑むがよい、よい子ぶって格好をつけていたら物事など飄飄踉踉と流れ流れて流れ着くことなく永久に流れ続けるのだ。それならば、時に妄想にある時は現実にと、ただ盲進したほうが何処かに辿り着けると言うものなのだ。

 そして私は靴を川縁に揃えて置くと、便所下駄に履き替えて、川の中へ入っていったのである。

 

      ◇


 あの方は万屋さんでした。てっきり、恋人の乙女のために蕾を採取してらっしゃると思っていましたのに。私は少し残念な気持ちになりました。ただ、桜の蕾が万病薬になると言うのは初耳でしたので、これはこれで一つ賢くなりました。

 今頃、万屋さんは私のラケットを探して下さっているでしょうか。物思いに耽りながらふと窓の外を見やると、塀の上を悠々自適にお散歩をしている三毛猫と目が合いました。私が微笑むと、猫は無愛想にそっぽを向いて歩いて行ってしまいます。三毛猫は雌しか生まれないと言いますから、同族嫌悪でしょう。

「ふぅ」 

 私は軽く溜息をつき肩を落としてしまいました。林檎の皮が途中で切れてしまったのです。イーゲルの前に腰を降ろして数時間になりますが、お昼ご飯を食べたにもかかわらず、お腹が空いてしまった私です。モチーフとして置いていた林檎がどうしても食べたくなり、台所から果物ナイフを持ち出して、皮を剥いていたのです。

 丸くて小さなものは姿見が良いですから、林檎は大好物なのですが困った性分でもあります。何せ絵が完成する前にモチーフを食べてしまうのですから……

 また新しい林檎を買いに行かなければなりません。私は新記録樹立を目指して皮を剥いていたのですが、半分剥き終わったところで切れてしまいました。私ったら!いくら三毛猫が可愛いからといって、よそ見をするなんて!しかし、後悔先に立たず、新記録樹立は成りませんでしたが、この上は美味しく頂くしかありません。

 私は林檎を台所へ持って行くと、芯と種を取り除き食べやすいように切り分けると、爪楊枝を刺してまずは一口、甘味の中の酸味が口の中に広がると、私は目を堅く閉じて唇を尖らせます。酸っぱいものは苦手な私ですから、梅干しや檸檬などを目前にすると、口の中は唾液の洪水のようになり、口の中へ運ぶまでかなり足踏みをしてしまうのです。ですが、林檎は甘味が優しいですから、その後の酸味ははずれクジだと思って我慢できるのです。だって、林檎は甘い果実でしょ?たまには、はずれクジも引かなければ当たりをを引いた時の感慨が薄れてしまいますもの。

 私は五度、唇を尖らせた後、お買い物かごと御財布を持ってお買い物に出掛けることにします。またイーゲルの上カンバスの林檎の完成が遅れてしまいますが、モチーフがないのでは描き続けることはできませんし、丁度、お砂糖やお味噌が切れそうでしたので、林檎を買いに行くついでに、本屋街と異名を持つ商店街をぶらぶらしようと思ったのです。


      ◇


 川はごみ捨て場ではない!私は全身濡れ雑巾となって激昂していた。

 橋のたもとを探し始めた私は、徐々に川を遡って行った。水量は私の脛のあたりであり、遡上を開始してからズボンを捲り上げておけばよかったと後悔した。しかし、橋の上から見るに清流に見えなくもない竜田川であるが、いざ川の中へ入ってみると、ところがどっこい、川底はまるでごみ溜のようであった。目に付くのは空き瓶や割れた食器であり、首を捻ったのは、自転車や鍋であった。

 世の中には大尽が以外と多いのではなかろうかと思っていた矢先、私の前に突如黒く波打つ物が現れたのだ。私は勿論、逃げようとした。それが蛇蝎【だかつ】以外の何ものでもなかったからである。そして私は川底の一升瓶にけつまずいて顔から川に倒れ込んでしまったのである。

 水を打ったように冷めた私は、こうなれば対峙してみせようと、濡れた髪から水滴を飛ばしながら勇ましく振り返った。忌まわしき蛇め、今晩の食糧にしてくれる、なんでも蛇は鰻の味がするらしいとの噂なのだ。

 振り返った私の目前にはやはり黒い物がゆらゆらとまるで泳いでいるようにあ身体をくねらせている。私は落胆して、再び竜田橋の方へ視線をやった。水面にはどんぶらこと私の小汚い足から、汚い便所から解放された便所下駄が大海原を目指すべく流れて行くのが見えた。

 なぜに、なぜ川にベルトなどを捨てるのだ…………

 私は革靴を履きに戻ろうかと考えたが、ラケットを見つけ出した暁には、黒髪の乙女との甘い一時が待っているのである。それを考えると革靴を履いて川に入ることは良しとできまい。ゆえに私は裸足にて、我が足裏を信じてさらに川を遡上したのである。


      ◇


 竜田橋から竜田川を見ておりますと、まるで清流のようであります。川幅は狭いようで広いような。中くらいと言えば正しいでしょうか。このように綺麗な川にごみを捨てる人はいないでしょう。一度汚れてしまえば、汚すことは躊躇いませんが、綺麗なものを汚すのには躊躇うものなのですから。

 そのように眺めていたのです。ですから、下駄が流れて来た時には私は眉を顰めて口を尖らせました。なんて心得のない人でしょうか。私は頬を膨らましたまま橋を歩きます。ふと土手みますと、履き疲れた革靴がきちんと並べられているではありませんか。私はもしや!と思い川を見ました。けれど、そのような人はおりませんし、この川は浅いですからそれは無理だろうと思いなおしました。きっと、寒中水泳などで精神と肉体の鍛錬に励んでおられるのでしょう。

 私は寒中水泳の様を想像して身を震わし、両肩を抱きました。私には到底できそうにありません。

 そして、無性に味噌煮込み鍋が食べたくなったのです。


      ◇


 辛酸を嘗めるとはまさに私の境遇であろう。遡上する過程でさらに二度転けた。

一度目は陶器の破片が足に刺さったからで、二度目は苔の生えた石に足を滑らせたのである。私はどこもかしこも冷たい身体を引きずるようにして川をのぼっていた。首に巻き付けておいた風呂敷はずしりと重く、首を絞められている感覚である。いっそ捨ててやろうかと思ったが、中には私の間食か晩飯になりうる貴重な食料が入ってるので、容易く捨てられるはずもない。

 足裏の感覚がなくなったきた頃、私はようやく、革靴を履いてくるべきあったと猛反省した。季節柄素足で川遊びに興じる子どもとて人っ子一人おらず、そんな中、私はといえばただ頑なに川を遡上しているのである。

 膝下のみを水に浸しているといえど、小一時間もその状況が続けば頭の先まできんきんに冷えてきた。仕舞いには鼻水が出て来る始末である。私は両肩を抱くと背筋をひっきりなしに駆け抜ける悪寒と全身の震えに耐えられぬと、這うようにして川岸へと退避した。

 このような時は我が内燃力機関に燃料をくべて体温と気合いの回復に努めるほかない。私はくしゃみを連射をしながら、伝家の宝刀である風呂敷を広げた。風呂敷の中には垂涎の握り飯が収まっているはずだった。

 これは私への戒めだろうか、はたして私がいつ天に向かって唾を吐きかけたというのだ。酷すぎるではないか。私は風呂敷でおじやのようになっている白飯を見下げて、思わず天を仰いだ。私の握り飯はどこへ行ったと言うのだ。おじやを風呂敷に包んだ覚えはない。 私は無気力に風呂敷を足元に残すと、再び川の中へ入って行った、伝家の宝刀は竹光であったのだ。このまま土に帰ることを切願し、汗と涙にて白米を育てあげたお百姓に謝罪をしたいと思う。

 もはや、私に残っているのは黒髪の乙女との甘い一時のみ、希望を持てねば人など生きて行けるものか。往々にして飛躍した弁を胸に私は川の中を闊歩した。瓶の破片を踏めば大袈裟に川へ飛び込み、意味もなく倒れ込んだりもした。こうなれば自棄である。心頭を滅却せずとも水もまた温しを証明してやろうではないか!

 私は鼻水を垂らしくしゃみをし、そして身体を震わせながら、ただ前進したのである。

 

      ◇   


 今晩の夕食は味噌煮込み鍋をしようと決めた私は、お砂糖を諦めてお味噌を多めと、後は白菜や長葱など、お鍋の定番食材を買いました。お肉も欲しいところでしたが、學生の身分で一食に贅沢をすることは許されません。ですから、油揚げを買ってお肉である!と言い張ることに決めました。八百屋さんで色々とお買い物をしてから、隣の青果店へ行き、林檎を所望いたしますと、お店のおじさんが「お嬢さん可愛いからおまけしてやんよ」

と二つのところを四つも下さいました。私は「ありがとうございます」と高揚する胸中を隠して淑女を装いましたが、商店街を一歩出るととたんにスキップをしてしまいました。

大好きな林檎が四つもあるのです、両手に持てるのは二つまでですから、私の腕も四本なければ持てないのです。とは言え、せっかくお買い物籠を持って来ているのですから、私は林檎を大切に買い物籠の中に入れて、意気揚々と帰路をスキップしていたのでした。 

 本日の夕日は燃えるよう赤く、とても情熱的です。私はスキップをやめて竜田橋の上から暫時そんな夕日を眺めておりました。こんなことなら遮光板を持ってくればよかったと思いました。太陽もそうですが夕日も実は丸くて小さいのです。ですから遮光板を通して拝見するになんと可愛らしいことでしょう。ですが、平時は眩しすぎて見つめられないばかりか、目の前に残光がちらちらとつきまといますから、なんとも気分がよろしくありません。

 私はいつも通り、残光がちらちらとなった目を休ませようと夕日に背を向け、橋の欄干に手を掛けました。すると、夕日に象られた私の影が橋の影と相俟ってとても愉快な予兆を与えてくれます。もちろん私は恥ずかしがり屋さんなので、大手を振って何をすると言うわけでもありませんでしたが、人通りが途切れた好きに籠を肘に掛けて、両手を器用に組み合わせて影絵などをしてみました。狐や蝶なども試して見ましたが、一番わかりやすく面白い具合に水面に投影されたのは馬でした。

 折角の折りなのですが、私は普段から影絵を嗜んでいるわけではありませんで、あっという間に芸を出し切ってしまいました。ですからその後は、首を傾げてみたり腕を伸ばして見たりと、もう一人の私を応援してみたりしていたのですが、そろそろ帰りましょうと思い、ふと土手に視線が及びますと、行きに見当たった靴がまだ置いてあったのです。

 私は感心しました。この外気は春近しと言えど、さぞ水は冷たいことでしょう。その中にあって、まだ寒中水泳にて精神と肉体の錬磨に励んでおられるのですから。私など、起き掛けなど、顔を洗いますと「ひゃ」とあまりの水の冷たさに変な声を出してしまうのです。情けなしとそれを思い出すと、やはり私は感心するのでした。

 感心をした私は、姿こそ見ぬその豪者に敬意と慰労の念を込めて、靴の中に林檎を置くことにします。靴は二足ありますから、林檎も二つ。片方に一個では姿見がよろしくありませんから、やはり二つなのです。

 青果店のおじさんが下さった林檎ですが、私は二つあればそれで良いのです、私の腕は二本しかありませんから。それに、この幸せを私だけが一身に賜っていると言うのも、心こそばゆいですから、ここは幸せのお裾分けと言う趣なのです。

 きっと、鍛錬から帰って来た方は、林檎を見て目を輝かせることでしょう。そして次の瞬間には夢中でかぶりつくのです。豪快に両方の手に林檎を持って交互に囓るのです。

 私はそんな様を思いめぐらして、爽快となりました。そして、再びスキップしながら家に帰ったのです。


      ◇


 夕陽が背中に暖かい。私は竜田橋から遡上すること半里を経て、上流の橋の下へ到着したばかりであった。燃えるような夕日は情熱をのみ私へ届け、ここまでの旅路の困難を思い出しては私は思わず涙したくなってしまう。何度として陶器の破片を瓶の破片を足裏に突き立てたことだろう。何度、石に躓いて転びそうになって川砂で踏ん張れずやはり転んだことだろう。

 川と平行する土手を見上げるに、どうして私は、わざわざ川の中を進んだのだろうとか思った。土手を行けば半時もかからずにこの場所へ到達できただろうに、どうして私は困難を承知で川の中を進んだのだ。心底から湧き起こる精神と肉体への自己欲求を満たすために敢えて果敢にも挑戦したのだろうか。

 私は夕映えに照りかがやく風景を遠く竜田橋に乗っかるように見える夕日を見ながら、そんな風に一人呆然としてた。

 あの女性は何をしているのだろうか。丁度、夕日の中央に佇んでいる御仁はスカートの裾を泳がせながら、腕を伸ばしてみたり首を捻ってみたりしているではないか。ひょっとして私を呼んでいるのだろうか。もしや、寒中において鍛錬に勤しむ私に感化され、抱擁の一つも差し上げると私を呼んでいるのではないだろうか。

 私は頭を掻いた。ご都合主義かくありき、何の希望もない昨今において、まだ妄想において無理矢理希望を見出そうとできる自分に呆れたのである。そんなはずがなかろう、傍目からみれば、季節はずれの冷たい川の中に入ってただの阿呆漢なのである。もしかしたら、入水して果てんと深みを探して歩く幸薄き男にも見えたかも知れない。

 橋の乙女が黒髪の乙女であったならどれだけ励みなるだろうと思った。もっと言えば、お面の乙女も黒髪の乙女であったなればどれほど良かっただろうか。後者に至っては家まで送り届けたのである。気が動転していた私は洋風の家という認識と、朧気な外観しか覚えていなかったが。あの躍動をもう一度味わいたい。

「黒髪の乙女」私は呟いた。

 そして思い出したのである。私は乙女のラケットを探すために川に入ったのだ、幾星霜と学業も含め精神も肉体も一切の鍛錬をしてこなかった私が、今更、どうして急にこのような意味不明な荒行に勤しまねばならんのだ。朝食兼昼食兼夕食として風呂敷に包んだはずの握り飯が、おじやへと早変わりをし、それに絶望して自棄となった私はラケットを探すことを忘れ、いつしか、川を遡上することが目的と思い込んでしまっていたのだ。

 半里も川の中を歩き、やっと本来の目的を逸脱したことに気が付いたのである。笑うならば含まず素直に大声を出して笑うとよい。私自身、狂乱して笑い死にたい心境なのだから。

 私は、疲労と空腹の色を濃くして、川から上がると、土手の草の上を歩いて帰った。たとえ白粉を施したように白くふやけた足にとて萌える草の葉は優しく、加えて温度のある地面は心地よいことこの上ない。

 目前には夕日を背景に橋の上をスキップなどに興じているお茶目な乙女の姿が見えた。長い髪を波打たせていかにも愉快そうである。乙女の幸せぶりに感化されて私が一時でも幸せな面持ちとなることはなかった。ただ絶望の淵にいて福眼と唯一の光明となったことは事実である。

 落ち武者であった私はようやく竜田橋の元へ帰って来た。後は靴に足を押し込んで、流々荘へ落ちのびるだけである。しかし、私の靴には赤い実りがちょこんと鎮座していた。それは林檎であった。思わず天を仰ぎ見た私は、頭上には松の枝しかないことを確認すると、静かに丸くて小さな姿見の良い果実を両手に持ち、次の瞬間には宗家の犬のように林檎にかぶりついたのである。それはもう夢中で両手の林檎を交互にかぶりついた。腹が満たされるとは至福に他ならない。私は種もかみ砕き芯とてむしゃぶり獣のように喰らった。

 そして、口の周りから仄かに香る甘酸っぱい余韻をお供に、不毛な苦労が報われたと無理に勘違いしたのである。

 感謝感激雨あられとはまさにこのことであると心の奥底から、誰ともしれない恩人に感謝したのであった。

 

       ◇


 次の日の雨を挟んで、二日連日を日和見病にて万年床で過ごした私は、四日目にしてようやく起き出し、本分を思い出した回遊魚のように義務とばかりに大學へ向かった。

 微熱に悪寒にと苛まれた三日間。明確に私は風邪をひいて寝込んでいたと自覚しているのだが、やはり川に入ったのがいけなかったのだろう。不本意とはいえ、川の水に全身を浸しての水遊びである。むしろ風邪だけで沈静してよかったと幸いを喜ぶべきだろう。

 私をほったらかしにして桜の花はますます旺盛に咲き揃いつつある。講堂に入ろうかと思ったが、私は桜並木を歩くことにしたのだ。芝生の上で春の息吹を感じながら日向ぼっこというのもおつなものであろう。

 唇を震わせながら、何気なく思ったのだが、ラケットがどうして川の上流にあると思ったのだろうか。鮭や鮎ではあるまいし、ベルトに縛られたラケットがどうして遡上すると言うのだ。ただ川底を転がり下るだけではないか……他にも幾つか侮蔑の弁を吐きかけてやりたかったが、いかんせん、心身共に弱っている真っ直中に真綿で首を絞めるような行為を自身でせんでもよいだろうと、反省会はそこそこに我が愛しき隣人の夕食を馳走になるために炊事場へと向かった。

 それも今となっては懐かしい最悪な思い出であろう。

 私は性悪な日和見菌に犯され再起を図った空っぽの心身を癒すべく、桜の大樹に身を隠して、せめてもの祝福をと黒髪の乙女の姿を探した。テニスコートでは、善男善女が微笑みを宿しながら球技に勤しんでいる。その中に黒髪の乙女の姿はなかった。 考えてみれば、ラケットを盗まれた彼女がコートの上に立つはずがないのである。それにしても、ラケットを盗まれたと言うのに、すでに大半がラケットを新調しているとは。私は憤った。お前たちの辞書には愛着という言葉はないのか!。それに引き替え、乙女の純情なことと言ったら、生まれ持った分別の良さに真善美うちそろった品性、カネモチどもめ、彼女を敬いそして身の振りを正すがよい!。と私はラケットを盗んだ一味でありながら仰々しく物言わぬ憤慨を焚き付けていた。

 すると、

「万屋さん、奇遇ですね」

 と乙女が声をかけて来たのである。

 無我夢中で狼狽した私は、阿波踊りのような格好のまま硬直して「どうも奇遇ですね」と返事をした。

 再三言うが、彼女はラケットを失っているのだ。ゆえにコートの上に立つことはできないのである。ならば、學生の本分と文学乙女に徹するのは無為自然であろう。

「ラケットは見つかりましたでしょうか?」

 私にはそう聞いた彼女の眼が希望に輝いているように見えた。それがとても辛かった。次ぎに私が口を開けば彼女は希望を失い眼から輝きを流星のごとく消してしまうだろうと思ったからだ。

「いえ、まだ見つかっていません」

 嘘でも乙女の笑顔が見たかったが、それは叶わず。私は誤魔化しと鼻を袖で擦ってから真実を真摯に述べるに止まった。言い訳など見苦しく、お膳立てと花を飾ってみても所詮は花でしかなないのである。彼女は花を所望しているのではなく料理を所望しているのだ。

 まして嘘などと片腹痛い。嘘と言うものはその場しのぎには有効であるが、所詮は急ごしらえの泥船なのである。事ある事に水漏れさせまいと泥を塗り重ね塗り重ねし続け、めでたくも泥の塊になって沈没するのだ。

 嘘を隠すためにまた嘘をついて、堂堂巡りとその繰り返し。いずれは沈む定めであるならば、潔く真実を述べた方が後腐れがない。

「そうですか……」

 やはり予見したとおり、乙女は一様に落胆したように、一歩後ぞさってから視線を私の腰元まで落とした。

「見つかりませんか……あのラケットはお母様から頂いた代用品の見当たらないとても大切な物なのです……」

 彼女はそう続けた。

「必ず見つけて見せます!男に二言はありません」

 私は、落胆する彼女に力強くそう言った。

 依頼を受けてから約一週間を経て私は実質一日しかラケットの捜索をしていない。竜田川を遡上したあの日一日だけなのである。

 したがって諦めるには早すぎる。まだ、少ないながら、探すあてもあれば今度は竜田川を降河魚よろしくと流れて行けば自ずとラケットに行き当たるだろう。

「ありがとうございます。とても心強く思います」 

 乙女はそう言って精一杯口もとを綻ばせた。

 そして三日後の正午、この桜の大樹にて待ち合わせの旨を彼女に伝え、私は勇んで竜田川へ出陣したのであった。


      ◇


 雨の日がありましたので、その日は一日中家に籠もってデッサンをしておりました。途中でお昼寝や童話などに脇目を振ってしまいましたが、それでもまるまる一日あったのです。捗【はかど】るも捗らないも、カンバスの林檎は林檎と言うよりは……ふっくらとまるでお姉様のお尻のように可愛らしく書き上がりました。私のお尻も可愛らしいと自分では思うのですが、お姉様よりも小さく「尻つぼみね」と小馬鹿にされたこともあります。……まあ、恥ずかしい。お尻だなんて。お尻だなんて!

 私も淑女の端くれですから、ここは黄桃と表さなければならないところなのです。

 後はでんでん虫の角のようなヘタを描けばめでたく林檎は完成するのです。ですが、私はここで木炭をイーゼルの上に置いてしまったのでした。

 雨の日はとにかく体調が優れません。どこが痛いわけでも気分が悪いわけでもありませんが、どことなく体調がよろしくありません。病は気からと申しますから、憂鬱と降りしきる雨を見ていると生気が衰えるのでしょう。お姉様やお母様は「気のせいよ」と笑っておられましたが、やはり私は心身相関と溜息が出てしまうのです。

 お昼の残りに火を通して簡単に夕餉を済ませた私は、銭湯に行きましょうかそれとも、ラヂオでも聞いてゆっくりと読書をしましょうかと迷いましたが、気持ちが落ち込んでおりましたし、外の雨の止みそうにありませんでしたので、ラヂオのダイヤルを回してから読みかけの『ぐりむ童話』を携えままベットの上に寝転がったのでした。

 ラヂオからは手風琴【アコーディオン】の軽快な旋律が途切れ途切れでしたが耳に心地よく。銭湯に行かなくてよかったと思ってしまいました。

 翌日は昨日の雨が嘘のように青天となりました。

 淑女たるもの毎日とは言わずとも二日に一度はお風呂に入り清潔でなければなりません。ですが、私は雨のせいにして、ついに三日間お風呂に入りませんでした。もちろん下着やお洋服は毎日着替えておりましたけれど、やはり髪の毛などのお手入れは粗忽になってしまっています。

 雨が悪いのです。ですが、お母様は私をお叱りになるでしょう。今日は大學へ行く日であると言うのに!

 私は、背中まで伸びた髪の毛を顔までもってきて、匂いを嗅いでみました。もしも、悪臭を放っていれば、私の後ろの席に腰掛ける人に迷惑をかけてしまいますから、大學へ行く前に銭湯へ行かねばなりません。

 私は念入りに何度も匂いを嗅ぎました。石鹸の匂いこそしませんでしたが、悪臭もしませんでした。

 ふぅ。と胸をなで下ろした私は、大學へ出掛けました。朝からお昼頃まで講堂で知恵熱を出してから、お昼からはいつも通り芝生の上で読書でもしましょうと桜並木を歩いておりますと、桜の大樹に万屋さんがいるではありませんか、それも、誰かを捜すかのようにテニスコートを見つめているのです。

 私はもしや、と足を速めます。もしや、私のラケットが見つかったので、私を捜しているのではと思ったのです。

「万屋さん、奇遇ですね」

 私から声を掛けました。

 すると、万屋さんはまるで阿波踊りでも披露するように手足をくねくねとしてから、私の方を向いて、「どうも奇遇ですね」と言いました。

 なんと面白い方なのでしょう。

「ラケットは見つかりましたでしょうか?」

 万屋さんはラケットを持っておりませんでした。ですから、まだ見つかっていないのでしょうと思いましたが、微かな希望を込めて私がそうお聞きすると、万屋さんは私の眼を見つめ、そして力無く視線をさげて「いえ、まだ見つかっていません」とおっしゃったのです。

 その折、なぜか万屋さんは鼻を袖で擦られます。鼻炎でもおもちなのでしょうか、とふいに思いましたが、次の瞬間には恥ずかしくなってしまいました。もしかしたら、私の身体から衣服をもすり抜けた不摂生な匂いが鼻腔を痛めつけたのかもしれません。

「そうですか……」 

 私は恥ずかしいやら悲しいやらで、少し落胆をしつつも半分以上を恥じらいのために一歩後ずさってしまいました。

 不潔な際どうして殿方のお顔など見られましょうか。私は恥ずかしさもあまって顔も赤くしていましたから、視線を万屋さんのベルトに固定します。するとどうでしょう、ベルトには碇を思わせる留め金具が窺えたのです。

 高慢な私が思いつきにて中途半端な場所に不格好な穴を拵【こしら】えたと言うのに、万屋さんは私の差し上げたベルトを身につけて下さっていたのです。嬉しいと思う傍ら、このような急ごしらえの粗悪品を差し上げた自分は粗忽者であると反省いたしました。

「見つかりませんか……あのラケットはお母様から頂いた代用品の見当たらないとても大切な物なのです……」

 それでも私はラケットの事をお話しました。まずはラケットを探して頂かなければ、お母様にも申し訳がたちませんし、もしも、見つけて下さった折には謝礼は元より、新調したベルトを差し上げようと思いなおしたのです。

「必ず見つけて見せます!男に二言はありません」

私の心を知ってか知らずか、万屋さんは強い眼光で私にそう誓って下さいます。なんと心強いことでしょう。それはまるで、「二言すらば腹を切る!」と言わんばかりの気迫でした。

 ですから「ありがとうございます。とても心強く思います」と私は胸の内のままを口に出しました。昨日、銭湯に行っていれば、もう二歩は歩み寄れていたでしょうに、誠意にかけてしまいます。私は微笑みを浮かべながら、雨は大嫌いです!と後悔しました。

 それから万屋さんは、三日後の正午にこの大樹の下で待ち合わせの胸を残して、駆けて行かれてしまいました。

 今更で恐縮ですが、万屋さんは、落ち込むであろう私を見越して、阿波踊りのように戯けて私を元気づけようとしてくれたのです。なんてお優しい心遣いの方なのでしょうか。

 人の優しさに触れてその温もりに感じるのはいつだって過ぎ去った後なのです。

 私は万屋さんの背中を見つめながら、その優しさや温もりを過ぎ去る前に気がつけることのできる、そんな女性になりたいと強く思ったのでした。


      ◇


 私は竜田橋の中央に立ち欄干から川を見下ろすと、猛々しく咆哮をあげたくなった。全身を巡る熱き血潮が今すぐにでも「いざ!飛び込まん!」と嗾【けしか】けたのである。 だが、死ぬことはないだろうが、骨を折って花実が咲くものかと、私は冷静に自身を窘【たしな】めた。

 私は乙女に堅く誓ったのである。

 もしも、川の冷たさに、空腹に、貧賤に二言と言い訳しようものなら腹を切って果ててみせる!私はついに雄叫びをあげた。

 煮えたぎる血潮はマグマのごとく熱く、全身を強張らせた私は立ち眩みに似た、意識の朦朧をおぼえたが、それは消して昨日の昼から何も口にしていないからではない。

 男子ならば乙女との誓いを全うして然るべき!と私の至情が叫んだからである。

 そして、気が付いた時には私は欄干に足をかけ情熱の翼を背に夕日に向かって羽ばたいていたのであった。

 幸い死んでもいなければ、骨も折れていなかった。全身がずぶ濡れとなってことと、顔面を川底に打ち付けた際、しこたま川砂を食べてしまったことを覗けば、なんら問題はない。口の中がじゃりじゃり言って気持ち悪いが、川の水で濯ぐ気にもなれなかった。

 興奮の最高潮で川へ飛び込んだ私であったが、焼け石を海に投げ込んだがごとく、煮えたぎっていた血潮は冷えかたまり、熱血激情を広げた翼もすっかりもぎ取られてしまった。

 見上げれば野次馬が数匹、さも珍しいモノでも見物するかのよう私を見下げている。当然見せ物ではなかったが、ここはあえて一声も鳴かないことにした。

 そっと橋の下へ移動した私は、日が暮れる前になんとかラケットを探し出そうと、本丸である橋から下流の捜索を始めたのであった。

 先日降った雨のせいで流されたのではあるまいかと、考慮しつつも堅実に橋の袂から川底に視線をくべていた私であったが、やがては頭痛を催すほど足元が冷たくなり、大股で下流を目指すことにした。

 この度は硬い靴底の革靴を装備している。ゆえに、茶碗やガラスその他もろもろの破片に怯えることもなく、威風堂々と行進できたのであった。便所下駄などに頼らずとも、根本的に、私が壮大な信頼をおいている革靴にを足に宿して川を捜索すればよかったのだ。小を惜しんで絶大を逃しては本末転倒である。

 好奇の眼差しを受けながら私は川の中で奔走した。実際はずっしりと重くなったズボンが足を引っ張り、奔歩としかなりえなかったわけだが、気概だけは千里のごとくと鵜の目でラケットを探し続けたのであった。

 日が落ちるまで探しあぐねた結果。ラケットは見つからなかった。


      ◇


 翌日、日が高くなる前にから川に入った私は、橋の下から川底を掘り返しながら進んだ。雨による増水で、よもや土砂に埋もれたのではあるまいかと考えたのである。

 千里には遠く及ばないながらも、堤まで下った私の出した妙案であり可能性であり、最後の賭けでもあった。

 もし、川底を掘り返してもなお、ラケットが出て来ない場合は……そこまで考え及ばないながらも、今は、今だけ私は乙女のために獅子となり奮迅と川底を掘り返さねばならぬのである。シャベルなど持ってくれば容易であったと後悔するなら、あかぎれた木蓮のような私の両手は嘆くであろう。いまさら何を言うのか!と。

 そもそも、シャベルなどと人知の文明を傍らに備えない私がいかようにしてそれを、この場に持ち参上できるだろうか。工事現場から拝借してくるより他にあるまい。

 私は幾分深さの増した場所にはなんと顔をつけ四つん這いとなり、山椒魚古式泳法にて川底を舐めるようにして浚った。

 古式泳法にて体力と体温の極限を凌駕して得たものはめでたいことに小銭数枚と使えそうな、こうもり傘だけであった。

 私だけに天が豪雨をもたらしたごとく全身から水滴を滴らせ、鉛の衣服を纏いなお倦怠感を抱き合わせた重量感はいかんともしがたく、私の絶望をより一層色濃く鮮やかに染めた。

「水も滴るなんとやら」

 脱力感と虚無感に再三見上げた落日を前に私は呟いて大笑いした。まさに私に相異あるまい。ありとあらゆる場所が濡れているのである。もはや、気まぐれな台風や暴風雨がたちまち現れたとて、私は狼狽えることもなく、むしろ好都合であると高笑いでこれをむかえうつだろう。

 私は橋桁に体をあずけ、注がれる怪奇の眼差しを背に受けて、安請け合いなどするものではなかった、棚からぼた餅、便所から金剛石。我が愛おしき意中の乙女とのゆくりもない、奇跡と偶然を混ぜ合わせた豈【あに】図らんや譚は、山も谷も最高潮すらないまま、『めでたし、めでたし』と漸降法において、必然であるとそもそも物語の体をなすまえに終わってしまうのだ。

 せめて、一度でも良い乙女の笑顔を面と向かって見たかった……


      ◇


「貴様にだけは負けてやるものか!」

 私は苦々しく路傍の人々を睨み据えながら、何度も呟いた。黒ペンキが靴裏から絶え間なく滲み出ているように、私の後ろには足跡が私の軌跡をわかりやすく残している。

 濡れ鼠になった私である。あるいは欲情にかられた阿呆漢でもある。体温も体力も底を尽きつつあり、満身創痍であるの身は誰から見ても明かであった。

 だが、何をやすやす諦めているのか。限界などというものは、他人に決められるものでも自分自身で決めるものでもない。もしも、限界であると自身で思ったのであれば、それは思い込みでしかないのだ。思い込みの限界などと片腹痛い!

 私は、決して希望を持たずに、乙女の笑顔を見たい一心で本屋街の裏路地へ向かった。

 この路地には質屋が軒を連ね、まっとうな商いから盗品の売買まで、五階百貨店の趣であった。

 古平はこの質屋によく盗品を売りさばきに行く。私の部屋にあった桃色図書を始はじめとする家財道具のいくつかもこの質屋街に消えていった。

 『質』と書かれた簡素な看板に腐った溝板、風通しが悪いせいだろう殺傷効能すら疑いたくなる異臭。とにかく、常人が踏み入れる世界ではない。

 そして、そこにやって来た全身ずぶ濡れの私とてとても常人でなかったのである。

 もちろん私は、片っ端から質屋へ闖入してラケットの仔細を主人から聞き出す算段であった。だが、そんな私の都合などお構いなしと質屋の多くは暖簾が降ろされており、ヘたな鉄砲も何とやら、一軒だけしか商いをしていなかった。

 迷っている暇もなく私は『馬陸質』と白抜かれた暖簾をくぐり、店の中へ入った。店内にはなるほど、武田の赤備えを彷彿とさせる当世具足が来店者を眼球無き眼で射抜き、その隣に並べられた刀剣類の数々など、どれも業物であろうと素人目にも計り知れた。

 私が家財道具をいれた質店とは様相が随分と異なる。店内には唐津物の壺やら皿やら、色彩豊かな硝子工芸品、そして薄気味悪い鹿の剥製と用途不明な緑青まみれの塊など、質屋と称するより、骨董屋と称した方がしっくりくるだろう。

「いらっしゃいませ」

私が鹿の剥製と睨めっこをしていると、店の奥から和装の麗人が姿を現した。身に纏うは、金糸銀糸で豪華絢爛を絵に描いたような着物。そしてその容姿は細い目元とぷっくりとした唇、結い上げた艶やか黒髪の後れ毛などはこれでもかと大人の色気を醸し出していた。大和撫子とはこのような佳人をさすのだろう。

「ここに男がラケットを売りにきませんでしたか」

 店内を何度となく見回してみたが、遠くラケットなどというモダンな遊戯道具などは見当たらず、遊戯で言うなれば貝覆いくらいなものであるが、この世は平安ではない。

「ラケットとおっしゃりますと、庭球をする時に使う〝アレ〟ですか」

 旅館の女将さん風の顔佳人【かおよびと】はそう言いながら、蓄音機の針を落とした。

なんと陰湿と哀愁のただよう楽曲だろうか、四六時中このような旋律を耳にしていたならば、すっかり猫背となり果てた背中辺りに茸でも生えてきそうである。

「そうです。その〝アレ〟です」

 含んだ言い方だが、この店に置いてあるのだろうか。

 私の期待とは裏腹に女性は叩きを手にすると私を煙たがるように、ぱたぱたと品物の埃落としを始めた。

「あの……」

 女性はまるで私が見ていないと言わんばかりに掃除をすすめて行く、いかに美人と言えどもこれは些か失礼ではあるまいか……私が訝しんでいると、

「あら、まだ居たのですか」確かにそう言ったのであった。

 なんと無礼なな大和撫子だろうか。頑陋【がんろう】と私を見る眼差しには確実に嘲笑いが込められている。

 私は生粋のフェミニストであり、できることなら、女性を罵倒することなどしたくない。一生そのようなことをするまいと、片隅では確信していた。しかし、この場はどうしたものだろうか。

「男がラケットを売りにきませんでしたか」

 仏の顔も三度までと言う。ならば仏には悠久と及ばない私でも二度までは微笑もう。

「これは、菊一文字則宗ともうしまして、かの沖田総司の愛刀とされている名刀なんですよ」

 女性は上品な口もとを緩めてそんなことを言い、徐に一本の刀を手に取った。

「ラケットは……」私は食い下がった。

 その刹那、居合いとばかりに私の首筋に冷たい何かが触れたのである。

 顔を仰け反らせながら、精一杯見やると女性は腰を据えた姿勢で刀を鞘から抜き放っているではないか。

「なんの冗談だ」 

 生唾を飲み込んで私は、震える声で言った。なぜ、私が刀を突き付けられねばならんのだ。このか弱き私が何をしたと言うのか!

「ほう、冗談とおっしゃいますか。なまくら模造刀ではそう言われても仕方ありません」

 女性は溜息をつきながら、刀を鞘へ収めると漆塗りの木台に刀を置き、かわりに中段にある鹿の角に安置されてあった刀を手に取った。

 よほど刀を好むと見える。なんだこの狂乱女郎は……

「私はやはり、村正が好みです」

 妖刀として名高い一振りを手に持った女性は目尻を下げ、口もとを一層緩ませた。なんと危険な雰囲気だろう。辻斬りに快楽を見出した高級武士でもここまでの面妖は醸せまい。

 そして得物はゆっくりと鋼を露わとし、曇った刀身が鈍く光った。

「この曇は……血を浴びるとできるのだとか……」

 眼が恐いぞ。

「なんのつもりだ」

「あなたこそなんのつもりです。ここには由緒正しい一品しか置いておりません。それを無知にも〝ラケット〟などと、そのようなお子様の遊戯道具を探すなど、冷やかしは問答無用で返り討ちです」

 そう言って、女性は刀を大きく振り上げた。

 何を勝手な!由緒正しい一品とな、先程の模造刀も由緒があるのか!私が何も吐き捨てることなどできずに、店を飛び出しのは言うまでもあるまい。私の目は節穴であった。なにが大和撫子か!和装の麗人は人にあらず、人の皮を被った鬼であったのだ。


      ◇


 万屋さんとのお約束の期日にはあと一日余裕がありました。ですが、この段になって私はとんでもない人間であると猛烈に反省したのです。

 他の損害にてラケットは私の手元から消失してしまったのは事実です。ですから、心の片隅では不可抗力である以上、私に責任はないと胸を張っていたのかもしれません。だからこそ、私は何一つ努力もせずに万屋さんにお願いしてしまったのです。

 何度となく熟慮してみれば、私の大切な物なのです。でしたら、その持ち主である私がラケットを求めて奔走しなければならないのが本来です。金銭任せに事情をご存じでない殿方に依頼などをするなど愚か者としか言いようがありません。

 私は後悔しました。後悔先に立たずと言います。ですから、後悔した今からでも遅くありません、私は、小春日さんをお誘いして伊太利風喫茶店フロリアンで待ち合わせをいたしました。

 本日も授業がありましたから、私は小春日さんをお待たせして、フロリアンへ向かいました。

 途中、本屋街へ続く道にまるで黒いペンキを靴裏に滲ませながら歩いたような足跡を見かけました。その足跡は本屋街の途中で路地へ消えておりましたが、それは遠い視線の先。

小春日さんをお待たせしている身の上、足跡の追跡をしている場合ではありません。

 私はフロリアンの屋根の風見鶏を見上げながら、ドアを開けました。

 中に入ると、可愛らしい給仕着を纏ったウェイトレスが私に声を掛けて下さいましたので、「ご友人と待ち合わせをしています」と私は答えて、店内を見回しました。

「こちらです」

 窓際の席に小春日さんはおられました。

「大変お待たせしてしまいまして、申し訳ありません」

「いいえ、私たちもついさっき来たばかりですから」

 小春日さんの向かいには殿方が腰を降ろしております。以前、この方が小春日さんをお誘いした殿方なのでしょう。

「こちらは、古平さんとおっしゃって、ラケットを見つけて下さった方です」

 小春日さんはどこか嬉しそうに、そう古平さんとおっしゃる男性を紹介して下さいました。

「えっとこちらは、私のご学友の……」

「紹介しなくても知ってるよ」古平さんは小春日さんの言葉を遮るようにそう言いました。

 お腹の虫の居所が悪いのでしょうか。古平さんはむくれている様子でした。

「早速で恐縮なのですが、私のラケットだけがまだ行方不明なのです。何か些細なことでもよろしいのですが、ご存じありませんでしょうか」

 私は、席に着くなり早速、古平さんにラケットのことを聞いてみました。

「しらないね」

 ぶっきらぼうにそうおっしゃいました。

 やはり、気に入らないご様子です。

「えっと……その……」

 そんな生返事の古平を見て慌てているのが小春日さんでした。両者共に波風が立たぬようにと気遣い下さっているのでしょう。そんな小春日さんは私から見ても愛らしい婦女なのでした。


      ◇


 私が残した足跡がまだ乾ききらぬうちに、また足跡を重ねることになろうとは……それにしてもあの女郎【じょろう】は何を血迷ったのか。安達ヶ原の鬼婆であろう。いや、それであればあの美貌は勿体ない。

 そんな阿呆なことに考えを巡らしながら、流々荘へ帰る道すがら、相変わらず珈琲の芳醇な香りをこれ見よがしと漂わせるフロリアンの店内を窓越しに眺めた。楽しそうに談話を弾ませる善男善女もしくは善女同士。あの中に私がいる現実は桃源郷の遥か彼方かもしれない。

 それだけでも双肩を項垂れる私を奈落へ突き落としたのは、またしても古平であった。

古平は窓際の席で以前見かけた乙女と向かい合っていた。それだけでも思わず発狂して今すぐに切り札である媚薬を使いたい衝動にかられると言うのに……と言うのに……その乙女の隣には我が意中の人である黒髪の乙女の姿があったのである。

 私は今この瞬間に闖入して古平の魔の手から黒髪の乙女を救い出さねばならぬ!と義務と正義漢が熱烈に訴えかけたのだったが、フロリアンは伊太利風喫茶店であり、とかくお洒落な社交場であった。

 店の中の乙女も男子も、清楚な香りのする出で立ちであり、古平ですら、アイロンをあてたシャツを着ていた。

 そのような庶民離れした空間に溝鼠のように成れ果てた私が入れるはずがなかろう。

 強盗か狂人かと勘違いされたあげく、勘違いの正義漢によって押さえつけられ床にはいつくばるのが関の山である。

 私の心傷を理解し癒すのは何人にも不可能だ。自信がある、たとえ菩薩であろうと女神であろうとも私を万年床より立ち上がらせ、そして、人としての営みに復帰させることは断固として私が拒否するのだから。

 この心淵の重傷を癒すことができるのは黒髪の乙女だけなのである……黒髪の乙女だけなのだ……

 しかし、その乙女は今し方、古平の正面にて珈琲を嗜んでいた。古平と愉快に可笑しく微笑みを浮かべながら、喫茶を楽しんでいることだろう。

 私は、全身に鞭を打って全力で駆けた。これが悪夢であると現実ではないと逃避したのである。そして、四畳間へ逃げ込むと、私にとって最悪最低な想像を巡らして、万年床へ逃げ込んだ。


      ◇


「僕は君に興味がないんだ。そして忙しい、小春日さんとの時間を邪魔しないでもらいたいもんだ」

 古平さんは、小春日さんとの時間を邪魔されたことにご立腹だったのです。

 私も邪魔などと、そのようなことをするつもりはございませんでした。ですが、実際にはお邪魔虫となっていたことは言い訳できません。

「それは申し訳ないことをしてしまいました」 

 私は。古平さんと小春日さんに向かってそう言い残して、席を立ちました。

「どうかお気を悪くなさらないで下さい。口は悪いですが、根は良い人なのです」

 大股で外へ出た私を追って来た小春日さんがわざわざそう言って下さいましたので、「いいえ、私が不躾だったのですから、小春日さんこそお心遣いなさいませんよう」と淑女を装って軽くお辞儀をしました。

 内心ではぷりぷりしておりましたから、私の口は自然とアヒルのように平べったく尖っていたことでしょう。

 私には仲の良い男性のご友人はおりません。ですから、これを機会に少し殿方との交友をと思っていたのです。私とて乙女なのです、乙女となったからには恋の一つもしてみたいと思うのは致し方ありません。来るべくに備えて私は異性との語らいを嗜んでおこうと思って何が悪いのでしょうか。

 古平さんは小春日さんのことを好いていらっしゃるのです。ですから、私が邪魔と思われるのも二人きりになりたいと想う気持ちもわかります……わかりますけれど…………

 あそこまで邪険にしなくてもよいではありませんか!

 私は乾ききらぬうちに重ねられた足跡の歩幅に合わせて歩きながら、頬をぷっくりと膨らませていました。

 乙女の心の際では、殿方との蜜月を望んでいるのでしょうか……それを不埒とはしたなしと思っておりましたから、倶楽部の先輩などからのお誘いも尽くお断りしてきました。

 交際とは一体なんなのでしょう……私は竜田橋の欄干に肘を立てて黄昏れに眼を閉じてみました。

 お姉様は、よく殿方と喫茶にお出掛けになられます。お姉様は人を見る目を持っておられますから、不純な方は一度お会いしただけで判別がついてしまいます。お姉様はその曇なき眼を養うためにも多くの老若男女とお付き合いした方が良いとおっしゃられますが、私はと言うと物心ついた頃より、お姉様の後ろについて回っているだけでした。小判鮫の趣です。ですから、自分からお声をかけることが少々苦手なのです。

 積極的にとは思っているのですが、性分を矯正するのはとかく難しく、三つ子の魂百までもといいますから、その困難さは想像以上なのでしょう。

 私はいつしか頬を膨らますことを忘れ、ふさぎ込んでゆっくりと歩き出しました。私を導くかのように点々と続いていた足跡も次第に消えてゆきつつあります。そんな儚い足跡に哀愁の念をくべながら帰路を行きます。

 明日もまた同じ日がくるでしょう……幸福はきっとこない。でも、明日は来のです、明日は来ることでしょう!

 明日はきっと至福の時がやってくるはずなのです、今日ふさぎ込むのは明日笑うためなのですから……


      ◇


 乙女は胸を高鳴らせ私がやって来るのを心待ちにしているだろうか……まだ生乾きの衣服を纏い、ナメクジに包まれているかのように気色の悪い万年床に寝そべる私は両腕を枕に天井を眺めていた。 

 ラケットを探さねばならぬ。私の使命感と善意と誠実がそう訴えたが、もはや脈無し!と激情の下心がそれらを一喝にて押し黙らせた。そうして、何をするでもなく無気力に寝転がっているのである。

 この上は、お面の乙女に一筋の希望を抱いてみようか……そんなことも考えてもみた。

浮気者と罵られようとも、黒髪の乙女とは交際もしていなければ友人でもないのである、『浮気者』と罵られたならばむしろ、喜ばねばなるまい。そうである、両手を高々と掲げて喜ばねばならぬ。

 そんな風に巡らす想いとてただただ虚しい。これがはたして、四百四病外の病、『恋煩い』と言うものであろうか……

 もしや、ただ古平に先を越されたことに焦り腹を立て、なんとしても私とて!と邪な対抗心を無駄に燃やしただけなのかもしれない。だとすれば、乙女には申し訳ない。

 ラケットの一件と私の恋煩いか対抗心か摩訶不思議な心中とは水と油なのだ。たとえ、乙女が私に興味を抱いてくれなくとも、ラケットは探し出したい、そして乙女の手元に返してやりたい……

 精神虚弱下では、まったくあらぬことを考えてしまうものである。罪ほろぼしなどと、そんなか細い精神でどうして生きて行けようか……私は強がった。

 涙を堪えて強がった。

 だが、天井に微笑む乙女の顔が浮かぶと、どうしようもなくもどかしくなった。今すぐにでも起きあがって駆け出したかった。そして、竜田橋から飛翔して川へ潜るのである。

そうしていれば、少なくとも自分自身には嘘をつかなくとも済む。報われずとも努力は決して嘘ではない、私が恐れるのはこのまま万年床より這い出せず、残された最後の一日を

欺瞞と失意の内に終えてしまうことだった。

 ことさら、回想することではないが、私はこの二年間同じような毎日を過ごして来た。

学生の本分を忘れ、ただ日々を生きることだけに奔走し、そのためであれば己が誠でさえも平気で欺いてきた。明日とてひねもすと部屋に閉じ籠もり、桜の巨木の下で待っているであろう乙女を等閑【なおざり】にしたところで何が変わろうものか。 

 明日もまた同じ日がくるのだろう……幸福はきっとこない。だが、明日は来る、明日は来るのだ。

 どんなに惹かれても見ているしかできなかった黒髪の乙女。やっと堂々と正面に立てると思っていたものを……

 私は深く溜息をついて、寝返りを打った。

 どれくらい、惰眠を貪っただろうか、そんな私の元へ妖怪が訪れた。

「どうしたんです。部屋中カビ臭いですよ。茸栽培でもはじめたんですか」

 古平はいやらしい笑みを浮かべて、私の傍らへ腰を降ろした。

「何のようだ」

 今、私が世界中で一番顔を見たくない男がどうして、時を見計らったように現れるのか。

「用事がなきゃ来ちゃいけないですか。どうせ僕しか来る人間もいないくせに、ほら、土産も持ってきましたよ。こんなに愛想の良いお客はまさに僕だけでしょ」

 古平は恩着せがましくそう言って、あたりめを差し出した。

 意図がなくとも忌々しい奴である。あたりめと言えば祝儀に用いる定番ではないか、憔悴した私の姿を祝いに来たのではあるまいな。古平であれば、あながちあり得ない話しでもない。

「昨日は何をしていた」

「そんなこと、あなたに関係ないでしょ」

 いつも通りの愛想のなさである。

「白昼堂々、女性二人と喫茶とはたいした身分だな」

 私は、古平の持って来たあたりめの足にかぶりつきながら、そう言った。

「のぞき見ですか。顔も悪けりゃ性格も溝のように汚いんですね」

 お前に言われる筋合いはない。

「それに、あなたの好いている方は勝手に来たんです、面見は良いかもしれませんが呼ばれもしないのに、不躾な女ですよ」

 私は明確に、青筋を立ててあたりめを振り上げた。確かに、噛めば噛むほどに旨味がにじみ出るあたりめはじつに美味かったが、それを盾に乙女を悪く言うなどと、今すぐに悪態つけぬよう、口を縫い合わせてくれる。

「あなたの交際相手でもないくせに、寝言は寝て言ってください。それに針も糸も持ってないでしょ」

 確信の笑みを浮かべた古平は我が四畳間に裁縫道具すらもないと、自信を持っている様子であった。「それみたことか!」と針と糸を両手に古平に襲いかかってやりたかった。しかし、悲しいかな、古平の見立て通り私は針も糸も持ち合わせていなかったのである。

 私は、無言であたりめを食いちぎった。

古平はよほど、乙女の参上が気に食わなかったのだろう。しばらく、あたりめをはむ私の前で爪を噛んでいたが「あの女はやめといた方が良いですよ」と捨て台詞を残して帰って行った。

 誰がお前の忠告など聞く耳を持つものか。私の目は節穴ではない!黒髪の乙女を悪く言うお前こそ、もっとどうにかなればよいのだ!

 あたりめを腹に入れたからだろうか、それとも生乾きの気色悪さから解放されたからだろうか。私は少し生気を取り戻した。

 窓の外を見やるに、すっかり黄昏時を過ぎている。

 しかし、私は力強く立ち上がるとこの二年間の陋習【ろうしゅう】を払拭すべく、部屋を飛び出したのである。

 全ては愛しの乙女のために!


      ◇


 空元気でベッドに横たわった私のお腹はきゅるきゅるとつむじ風のような音をたてて、空腹を促します。私は明日に向かうため、今日は早く寝ることにしました。もちろん、夕飯の容易や片付けなどをしていますと、それ相応の夜分となってしまうのです。ですから、私は夕飯を抜いて明日に向けて眠ることにしたのでした。

 明日はきっと万屋さんが私の大切なラケットを持って参上してくれることでしょう。そして、私は御礼を申し上げてから、お茶などにお誘いするのです。乙女である私から殿方をお誘いするなどとはしたなしと侮蔑されるかもしれません。その上で断られるかもしれません。

 ですが、今まで通りただ待っているだけでは、私に声を掛けて頂ける殿方を待ち侘びているだけでは、今まで通り睦まじくも慎ましく並んで悦喜の時を過ごす善男善女に羨望の眼差しをくべるだけの日々なのです。

 私はお姉様のように器用でもありませんし、積極的でもありません。お姉様から教授頂いた『男女の駆け引き』なるものとて私には到底、巡らせることはできませんし、そのような指南書があったとしても私は読み耽ることはないでしょう。

 御縁とは異なもの味なものなのです。もしも、万屋さんとのご縁がありませんでしたら、明日でお別れしますことでしょう。ですから、私がお誘いしようともなんら問題はないはずなのです。

 私は掛け布団を顔まで被って誰もいないと言うのに、火照った顔を隠しました。私が殿方をお茶にお誘いするなんて……お誘いするなんて!この世の常と婦女は口を閉じ、殿方からお誘いの声を掛けられるまで佇んでおくべきと思っておりましたから、相対する発想に困惑と羞恥心が遅れてやってきたのです。

 お母様やお姉様方も殿方をお誘いしたことがあるのでしょうか……

 いくら考えてもわかりませんでしたので、今度実家の方へ帰った時にでも聞いてみたいと思います。

 いつのまにか私のお腹に吹き荒れていたつむじ風は止んでいました。これで、眠ることができるでしょうと、顔を出してみると火照った顔に冷たい室温が心地よく、まるで氷枕をしているかのような趣でした。

 明日はきっと幸福の時がやってくるはずなのです。

 命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に……と歌もあるくらいです。生涯に一度の明日なのですから、笑っても後悔してもよいではありませんか、もしお断りされれば林檎をたらふく食べた後ベットに飛び込んで涙を流せばそれで精神の安定は保たれます。

 もしも……受けて下されば……

 私はそこまで考えて燃えるように熱い両耳を指で掴んでひらひらとさせました。

 私は阿呆なのです。お茶のお誘いを受けて下さっただけで、交際相手であるわけでもなく、ただ、面白可笑しく一時を共に過ごすだけではありませんか。熱い耳を左右に引っ張ってみました。

 飛躍を経て舞い上がった私はようやく冷静になることができました。交際への妙味はわかりかねますが、一度の喫茶くらいで成就するものではないでしょう。

 それに、私には少しばかし無理だと思います……


      ◇


 またしても満身創痍となって帰って来た私は、ご来光にむせび鳴くセミのごとく喉の奥から、嗄れた溜息をついて四畳間に倒れ込んだ。

 質屋街へ駆け、運悪くあの女郎に出会してたまたまた持ち合わせていたらしい、日本刀を抜刀され一言も発する前に追い返され、途方に暮れる間もなく、竜田川へ飛翔した。

 辺りはすっかり夜闇の真っ直中であり、私は誰にはばかることなく服を脱ぎ捨てると、下着姿に革靴を履いて川の中へ盲進した。さらに凍てつき度合いをました外気にまして川の水は冷たかったが、すでに期日を目前と迫って「冷たいからやめた」などと女々しいことをどうして言えようか。

 そうして、時間の概念を超越して空が蒼白くなる頃合いまでひたすらに川底を漁り続けたのである。

 口許の震えが止まらないながらも衣服が乾いていると言うことはなんと幸せなことだろうか、這って万年床へ退避した私は悠久とも思える時間を睡眠に費やすことに決定した。

きっと蒼白い顔だろう。私の顔をカンバスに押しつけたなら必ずや『不健康』と文字が浮かび上がると自信がある。

 それでも太陽は昇り、置き時計の針は進んで行く。雲の合間から差し込んだ高き陽の光を痛々しく浴びた私は、まるで亡者のようにもぞもぞと万年床から再び這い出すと、本懐を遂げんがため、気力のみを糧に腕を伸ばした。

 本日は乙女との約束の日である。

 ついにラケットを探し出すことは叶わなかった。思えば昨夜、古平が来た時になぜ、ラケットについて問いたださなかったのだろうか。後手に回ったものである。

 私は鉛みたく重い体を立ち上がらせるためにも、伸ばした腕の先にあった物に手をかけた。微塵の力を加えるとそれは襖の断末魔と共に私の手に握られたままそれは畳みの上に落ちた。首をもたげてみるとそれはラケットであった。

 そう言えば、このラケットにてテニス部へ入部を果たし、めでたく黒髪の乙女にお近づきになろうと目論んでいたのであった。畳水練と熱心に素振りをしていたところまでは朧気ながら覚えがある……だが、その先は記憶がまったくない。どうして襖に刺さっていたのだろうか。

 この際それは捨て置こう、川を浚っても質屋を巡ってもラケット一本手がかりの欠片も出てこなかった。

 灯台下暗しとはこれまさに。とは言え、このラケットが乙女の物である保証もなければ確証などは月ほどかけ離れている。乙女は代用品無比の大切な一品であると話していた。テニス部室から持ち帰った物であるがゆえに可能性はなきにしもあらず、しかし、大半を持ち帰ったのは古平であって、そちらの方がよほど確率は高いのは明白。これを差し出したところで泣きをみるのは火を見るよりも明らかであろう。

 考察を加えて、どうしたものかと一様考える体をとってみたが、この期に及んでしまうと選択肢は極みの二択しかなく、簡単に言えば頓死かやはり憤死なのである。後者の方が微かな望はあるものの、このラケットが彼女の探し求める物品である可能性は皆既日食がまるまる拝めるほど低いのだ。

 私は立ち上がると、時計を見やった。すでに約束の刻限近くを短針と長針が示している。

故障していてくれと私は一抹の願いを込めて何度か叩いてみたが、どうなるわけでもなく、次の瞬間にはまだしっかり濡れている靴に足をねじ込んで部屋を飛び出すはめになってしまった。

 息急き切って右に左にとふらつく視線を何度となく修正して私は桜の大樹まで駆けた。

桜花爛漫と生命溢れる並木道を駆けると、巨木を見上げる乙女の姿があった。

 微風に舞い散る桜の花弁の中、長く艶やかな黒髪を揺らしながらその髪を耳にかきあげた乙女はまごうことなく美しかった。

「すみません、お待たせしてしまいました」

 私はせめてものと荒い呼吸を押し殺すように、平素を装って声を掛けた。

「いえいえ、私も今し方来たところですから」

 彼女は大袈裟に手を振りながらそう言ってくれた。

 しかし、乙女は教本を抱えている限りは講義があるのだろう。「講義に間に合いますか」私が言うと、「いえ、講義よりもラケットの方が大切ですから」と私が持って来たラケットを見てから驚きにも似た笑顔を咲かせたのであった。

 私が恐る恐るラケットを差し出すと、

「本当に探し出して下さったのですね。ありがとうございます」と彼女は綺麗なお辞儀をするとラケット抱き締めた。まるで、赤子を抱く母のように感嘆の声をあげたのである。

「お引き受けしたからには、何とかするのが男子の務めです」 

 そんな口から出任せとて許されるだろう。ここ三日間はまさに死闘の様相を呈していたのである。蓋を開ければ、私が持ち帰ったラケットが黒髪の乙女の所持品であったわけだが……灯台下暗しと言ってしまえば、誠に身も蓋もない。

「ここの所に墨で名前を書いておきましたのに。掠れてしまってもうわかりませんけれど」

乙女は持ち手の底を私に見せてそう言った。

「墨ですか」

実は私も墨で名前を書くのです。そう続けたかったのだが、

「お恥ずかしながら」

 と小さな口をすぼめ頬を淡く桃色に染める乙女の愛らしさに見とれてしまい、言葉が続かなかった……言わずもがな、私はすっかり乙女の虜となってしまったのであった。

「それでお幾らになりますでしょうか?」

「はい?と申されますと?」

「何をおとぼけに、探して頂いたのですから、御礼はしなければいけません」

 面白い方。と彼女は首を傾げて微笑んだ。

 えっと。私は頭を掻いた。

「それでは、お茶にお付き合い願えませんか」

「お茶ですか?」 

「はい、それだけでかまいません」

 私は一生に一度の勇気を振り絞って言った。心中が掻き乱れ狼狽や混沌ともう何がなんだか不明であり、取り分け心臓の鼓動は大きく速く、まるで頭に心臓が移動したかのように脈を激しくうっていた。

「そのようなことでよろしいのでしたら、喜んでご一緒いたします」

 彼女はそう言って軽くお辞儀をしたのである。

 桃源郷の彼方へと薄れ行く私の意識を余所に、乙女は手帳に万年筆にて何かを流れるように書き終えると、ペーシを破って私に差し出した。

「ご都合のよろしい日などお知らせ下さいませ。学校でお会いできましたらよろしいのですが、お会いできませんでしたら、お手数ですが文などでお知らせ下さい」

「はい」

 もちろん私は小躍りを今すぐに始めたいほど感激したが、顔に出すと品がない。ゆえに、愛想笑い風を装った。

「本当にありがとうございました。それでは」 

 と乙女はまたしても非の打ち所のない華麗なお辞儀をして桜並木を歩いて行ってしまった。

 その紙には、住所が記載されてあった……

 私は、はたしてこれが現実なのだろうかと、自分の拳で脳天を思い切り殴ってみた……すると、眼から火の粉が出るくらい痛かった。それはもう痛かったが、痛み以上に深淵から込み上げる悦楽の嗚咽にただ立ち据えているしかできなかった。


       ◇


 これが信じられるだろうか?出たとこ勝負で携えて行ったラケットがはたして乙女の探していた物であり、どさくさに紛れてお誘いした喫茶には快く応じ、そして今、私の眼下には愛し恋しい乙女の住所まであるではないか。

 私は机を前にして、再度拳を脳天に打ち下ろした。

 またしても誠に痛かった。

 いやまて、一見してさも美談のように聞こえるが、私が一方的に盗んでそれを返しただけなのである。なんとも身も蓋もない……

 それでもこの幸福に罪悪感など無用。私は頭を掻きむしりながら、便箋を机から取り出して万年筆を片手に早速、文をしたためにかかった。

 しかし、私には文才がなかったのである。大學生らしく知的印象を与え、それでいて乙女の心をくすぐるそんな文面を目指し、常套句や故事などをふんだんに織り交ぜしたもの、これは文ではない!とやぶり捨てる。

 時に気楽過ぎたり、恋文の仕様となったり、畳みの上に丸まった便箋が山となり、やがては便箋も尽きた。

 初めて出す手紙であると言うのが厄介である。露骨であっても軽薄であっても、まして深すぎても返事は期待できないだろう。

 もはや私の印象などどうでもよい。ただ、お返事が頂ける手紙を書きたかったのだ。

 座布団に腰を据えたまま畳みの上に寝転がった私の背に、丸めた便箋の幾つかが下敷きとなった。

 便箋尽きて、さらには下書きするノートすらきれている現状ではぐうの音も出まい。

明日辺り便箋を買いに行かねばならぬ。どうせ購入するのなら可愛らしい便箋と封筒にしよう。

 昨日までの絶望が嘘のように私の頭の中には希望やら夢やら、とにかく愉快痛快と思わず微笑んでしまう心配や予定ではち切れんばかりであった。


      ◇


 翌日、小鳥たちの小合唱で心地良い目覚めを迎えた私はあまりの清々しさに、窓を開け、屋根へと続く梯子越しに電線でたむろする小鳥たちへ朝の挨拶をした。

 このような晴れ晴れした気持ちは久方ぶりである。何もかもが新鮮に見えるのは錯覚だとしても、襖に酷く開いた穴などはこれから奉りたい面持ちであった。

 そして私は商店の開店時分まで珍しくも部屋の掃除をした。それでもまだ少しばかし、余裕があったので、共同炊事場の掃除をもしたのである。

 その様をどんぐり眼で見据えていたのは、真上の住人である新妻であった。気でも触れたかと言わんばかりであったが、そんな奥様にも私は微笑みでもって爽快に朝の挨拶をするのである。

 今朝だけは誰がなんと言おうと私は好青年であった。

 好青年である私の腹はたいそう金切り声を叫んでいたが、今朝に限っては隣人の朝食を失敬することもせず、公明正大の旗印を威風堂々をはためかせ我が居城である流々荘を後に町へ繰り出した。

 竜田橋を渡り、本屋街を通り過ぎ、路線バスの通る大通りに出る。そのまま道形に歩いて行くと文房具店がある。私御用達と言うよりは、この辺りの庶民御用達の界隈では唯一の文房具店なのであった。

 私は混み合わない店内に入ると、鉛筆やら糊やら、もちろん便箋と封筒も手にとった。

必要であろう物を一通り手にした私は、その中から吟味を繰り返して、さらに最低限必要であろう品物だけを残して後は棚へ返した。

 手に残ったのは便箋と封筒だけであった。

 もちろん、便箋の吟味には必要以上に時間を費やした。できるだけ姿見のよい物を選りすぐったからである。地味であり素朴な便箋では私の気持ちにそぐわない。ゆえに、私が選んだのは丁寧にスミレの押し花が添えてある上品でありながら見ているだけで良い匂いが漂ってきそうな便箋であった。

 だが、その便箋を譲らなかった代償として糊も鉛筆も買えず、まして封筒は茶封筒しか手に入らなかった。

 重要なのはあくまでも手紙なのである。それを覆う封筒などに重きをおいてもしかたあるまい。そう、重要なのは宝箱ではない。その中に収められたる金銀財宝なのである。見るに侘びしい封筒を見てから私は誰に言う出もなく、誇らしげに胸を張って深く頷いた。

 昨日、便箋が底を尽き何をするでもなく、ただ乙女から賜った直筆のメモ帳を見つめ、愛しの君の住所を暗唱して、頭にたたき込み、そして頬刷りをして懐に入れて添い寝をした。 

 帰り道、不意に見上げた停留所名はもどかしいことに、乙女の住所の地名であった。忍び寄るつもりはなかったが、気が付いた時にはもう私の足は着実に乙女の住居へと向いていたのである。

 今一度、断言しておく、私はつきまとうつもりも、住居が判明したところで待ち伏せをするつもりもない。むろん、偶然を装って家の前を往来することもしない。

 バス停から程なく脇道へ入り、そのまま電信柱に打ち付けられた地番を便りに歩いて行く。どことなく、なんとなくだが、一度歩いたことがあるような既視感を感じたが、そんなはずもなく。同じような長屋ないしは木造家屋が建ち並ぶ界隈であるからして気のせいだろうと、口笛を吹きながら呑気に歩いていた。

 交錯する相対する心中は、地番が住所に近づいてゆくにつれて、大いに高鳴っていった。

引き返すべきか、このまま愚進するか否か……そのような正義と凡愚の狭間で煩悶とするなら良し、あろうことか、私は根底から意味不明にしてお子様のようなことを考えていたのである。

 もしも、彼女の住居とは私の住まう四畳間よりはさぞ居心地がよいことだろう。むしろ、それでいてくれなければ私が困る。程度で言うなれば十畳間。それくらいの格差であるならば、裏打ちされた安堵とて得られるだろう。

だが、私が暗唱した乙女の住居であるはずの番地には、この辺りでは珍しい二階建て洋風造りの家屋が堂々と根を下ろしていた。屋根瓦だけが唯一、和の香りを残している。

 あの若さにして、一城の主であらせられるとは、私の燦々たる四畳間とはまるで次元が異なるではないか……

 私は首を捻り、以前似た台詞を吐いたような……と再び奇妙な既視感に苛まれ、絶望をする間もなく、見て見ぬふりを決め込むと彼女の家の前を後にしたのであった。

 ただ後にしただけではない、逃げるように後にした。なにせ、私が乙女の家をまじまじと見つめていると、急に庭から続く窓を覆うカーテンが激しく揺れたのである。乙女であればまだ軽傷で済むだろうが、その他であった場合、私は漏れなく不審者の烙印を尻に押されることになる。それでは、これ以降、誰にも貧相で可愛らしい私のお尻を見せることができなくなってしまう。

 冗談はさておき。

 後付となるが、煩悶とする以前は期待と不安胸を膨らませていたのだ。よもや、ばったり乙女と遭遇するやもしれないと、心の片隅で願いつつ。はたしてそれは叶わなかった。

 鈍重な足取りで我が居城へ帰った私は、いつも通り、精神の安定を図るべく万年床へ身を隠そうか思案してみたものの、便箋と封筒を机の植えに置くと、そのまま座布団の上に座して万年筆を手に取ったのでる。

 冷静であり、心中はいたって凪いでいた。

 正直なところ、化粧気はなかったが身だしなみなど仔細整った黒髪の乙女なのである。幾星霜とその姿を追いかけてきたかぎりは、乙女の住居が豪華であろうと、それはすでに暗黙と折り込み済みだったのだ。私からして乙女の想像はいずれかの令嬢であり、当然カネモチであろう。そういう像であった。

 その妄想寄りの想像が、はたして具現化されていた結果を受けて、今更いかほどの衝撃を受けるだろうか。 

 川に石を投げ込んだ後、波紋が流れに消えて行くように私にはいつか投げ込まれるであろう大岩を見越して深淵の片隅にその大岩専用の穴を深く深く堀おいていたのである。

 私は落ち着いた面持ちで窓の外を眺めながら、鼻の下に万年筆をはさんで、上唇で反芻する牛よろしく、もごもごと口許を動かしていた。

 何を隠そうたいへん古典的であるが、私は手紙を書くのが大好きで、文通というものに昔から憧れていた。相手が意中の黒髪の乙女であればなおさらである。

 憧れは憧れのまま、手紙は出せども梨の礫が常であり、文通などという高みへの道は清々しいほどに遠い。

 とは言え、今回は事情がことなり、至極、私に有利なのである。なにせ乙女はすでに私の申し出に頷き、そして、今頃は私からの手紙を心待ち……いやただ待っているはずなのである。

 内容は当たりさわりのないものが良かろうと考えるぐらいの良識をあった。ゆえに、恋文やそれに準ずる文面が目前に迫れば、即座に便箋を丸めて捨てた。

 四月の終わりの丑三つ時。私は深く重い溜息を吐いてから新しい便箋を手に取ると、余計な文言を削ぎ落として、必要事項のみを主とした文章を書き上げた。

 我ながら、侘びしくも情の籠もっていない手紙であると、再び溜息をついてみたものの、最後の一枚の便箋であるからしてどうすることもできまい。

 そして、私は『糊』を調達するために、炊事場へ赴いた。すると、私の思惑通り洗わずに放置されたガス釜の中には隣人の食べ残した冷や飯が残ってあった。それを根刮ぎ頂戴して、手で丸めながら部屋へ帰った私は、その全てを腹の中へ流し込み。指に残ったご飯粒を丁寧に押しつぶして封筒の口に塗りつけると、インクの乾いた便箋を寸分たがわぬ三つ折りにしてから、封筒に収めた。

 後は実家へ手紙でも書こうかと、気まぐれに買いおいた切っ手を貼り、私は封筒を携えて草木も眠る時分に郵便ポストへ向かったのであった。


      ◇


 私もついに殿方からお誘いをされてしまいました。ただ一時、お茶にお付き合いするだけなのですが、私の動揺はカレー粉が溶けて行くようにじわじわと、胸の奥をざわめかせて、その日の夜はなかなか寝付くことができませんでした。

 私は年頃を迎えた乙女です。ですから、殿方と二人きりで一時を過ごすことは、嗜んでおくべきなのでしょう。けれど、初めてである私は嬉しさ余ってやがては不安になってしまいました。

 万屋さんはきっと悪い方ではないと思います。死力を尽くして私のラケットを探し出して下さったにもかかわらず、その御礼が私とお茶をするだけでよいと申されるのですから、

意図されたのでしょうかと思い返してもみました。ですが、私が「……お幾らになりますでしょう……」と言うと、思わぬ申し出と言わんばかりに間抜けた顔をされたのです。

 もしかしたら、本当に御礼のことをお考えになられていなかったのかもしれません。

 そんなことを考えていると、やはり、万屋さんは悪い方ではない。と、なぜか自信がもてたのです。そして、万屋さんから御手紙が届けば、すぐにお返事が書けるようにと便箋も封筒も切手も一式机の上に用意してあるのでした。

 郵便配達さんがやってくる時分が待ち遠しくも、本日では早過ぎるでしょうと頷いてみましたが、やはり、内心そわそわとしてしまうのはどうしたものでしょうか。

 そんなお昼近く、私がお昼ご飯の準備を始めましょうとエプロンを纏っていますと聞き覚えのある旋律が家の前から聞こえてきたのです。

 それは口笛でした。

 私は声に出さず口の形だけで「セブン、セブン、セブン!」歌いながら急いで、窓へ駆けて行き、カーテンを開けて見たのです。

 ですが、その頃には口笛もその奏者の姿も杳として知れず。もしや、三条通で「ラヂオ体操セブン」を歌っておられた方ではと思ったのでしたが……

 肩を落として台所へ戻りますと、急に哀愁の念が私を包み込みました。湯気をあげる薬缶と切りかけのお野菜、そして私が居ると言うのに水を打ったように静かな室内。下宿に憧れた頃から、このような寂しさは覚悟しておりましたし、今までだって一人で乗り越えてきたのです。

 私はお気に入りのカノンを口ずさみながら包丁を手に持つと、憂鬱と溜息をつきました。

 嘘です。私一人で乗り越えて来たわけではありません。いつだって、困ったことがあった時はお姉様が傍にいてくださったのです。だからこそ台風の夜も雷鳴にお布団を被って縮こまっていても、なんとか耐えることができたのです。

 お姉様はとても不思議なお姉様なのです、私が困っているとなんの前触れもなくひょっこりと顔をだして、真心を私の下さります。もちろん、私はお知らせもしませんしお便りもした覚えもありません。ですが、お姉様はお土産を持ってやって来てくれるのでした。

 私は包丁をしまうと、居間のソファーに腰を降ろし、膝を抱えてざわめく心中をどうすることもできず、膝に顔を埋めてお姉様が来て下さるのをただ待っておりました。


      ◇


「もう、いつになっても甘えん坊さんね」 

 お姉様は夕方近くになって、すき焼きの材料を携えて訪ねて下さいました。やはり私のお姉様は不思議なお姉様なのです。

「甘えん坊は妹の特権ですよ」

 私はお姉様の荷物をお持ちしながら、お姉様の腕に私の腕を絡めました。そうなのです、お姉様は来て下さったのです。

 お姉様は私の頭を撫でながら「今日は関西風にする関東風にする?」とおっしゃいましたので私は「関西風にしましょう」と言いました。

 すき焼き鍋を用意してからガス釜用のコンロをテーブルの上に置いて私のすることは終わりです。後は手際よくお野菜を切り分けてゆくお姉様の手が止まれば、準備万端、めでたくすき焼きが食べられるのです!

 私はお昼ご飯を食べておりませんでしたから、今にもお腹と背中がくっついてしまいそうです。

「お姉様は手際がよろしいですね」 

 何を隠しましょう私はお姉様に林檎の皮むきで勝ったことが一度もありませんでしたし、私はいつも途中で皮が切れてしまうのでした。

「私だって花嫁修業をしているもの、誰だってお料理を習えばこれくらいになれるわ」

 お姉様はまず牛肉を焼いてから、鍋の中に具材と割り下を注ぎました。香ばしい音と牛肉が焼ける垂涎の匂いは思わず涎をたれてしまいそうです。お昼を抜いた私ですから余計に目の前で跳ね踊る油や割り下を見ているだけでもお腹が悲鳴をあげるのです。

「花嫁修業はやはりお忙しいですか?」卵を割りながら私がそうお聞きしますと、

「ええ、それはそれは大変よ。でもそこに愛があれば苦にならないと思うわ……」

 そう言いながらお姉様は困ったような表情を浮かべました。

「えっと、このお肉は、たいへん美味しいですね」 

 私としたことが、うっかり失言をしてしまいました。お姉様のように婚礼を間近に控えた婦女は一時的に気分が落ち込むことがあるとお母様からお聞きしました。ですから、「あなたも気遣ってあげなさいね」とお母様から言付かっていたのです。

「ええ、お肉屋さんで一番のお肉を奮発したのだもの」

「それでは美味しいはずです」

 私は微笑んだお姉様を見て胸をなで下ろしました。折角来て下さったと言うのに、私がお姉様の機嫌を損ねてどうしますか。『この不届き者と』誰かに叱っていただかなくてはなりません。

 それから暫時、私とお姉様はすき焼きに舌鼓をうちながら久方ぶりにたわい無いお話しに花を咲かせました。乙女同士のお話ですから男子禁制、桜花の園のお話なのです。

 お腹が大きくなった私とお姉様は片付けは後回しにして、ソファーに腰掛け、すき焼きの余韻に浸りながら食後のウィンナーコーヒーを頂きながら束の間和んでおりました。

 すると、お姉様は私の顔をじっと見つめて、

「それで、今度は何を悩んでいるのかしら」と言うのでした。

「それは……」 

 私はどうしてわかったのでしょうと、コーヒーカップを両手で覆って顔の前まで持って来ると目元を残して、口と鼻を隠しました。なぜ、目を隠さなかったのでしょう……

「気になる殿方ができたの?」

目は口ほどにものを言うのを忘れていたのです。

「いえ、気になると言うのではありません」

 私は慌てて、言いました。

 当たらずも遠からず……表面上では狼狽していながらも内心ではほっとした面持ちでした。

「その、お姉様は殿方にお茶の席をご一緒する時、何をお気をつけになられますか」

「そう。お茶のお誘いをされたのね」 

 とうとうバレてしまいました。

「はい、つい最近なのです」

「私は嬉しいわ。こんなに可愛い妹だと言うのに、誰も声を掛けないのだもの。周りの男子は節穴揃いかと思ってたくらいだもの」

 お姉様は楽しそうにそう言うと、カップを持ったまま、私の隣に移動してきて「格好の良い方?」とおっしゃいました。

「いいえ」

 私はすぐに答えました。万屋さんは疲れているご様子でしたし……このようなことは思いたくもありませんが……倶楽部の殿方と比べてみますと、随分と見窄らしい雰囲気を纏っておりましたから……  

 そう、とお姉様はおっしゃって、

「でもね。決して外見だけでは判断しては駄目よ。身だしなみは見なければならないけれど、やはり、その人の内面を見る努力をしなければならないわ。外見で恋に落ちるなど乙女の恥ですもの」そう続けて言ったのです。

「はい、それは心得ているつもりです。ですが、どうして内面を見れば良いのでしょう」

 私はお姉様と違って内面を見る眼を研ききれておりません。ですから、どうしても外見だけで全てを見た気になってしまうと思うのです。

「そんなことは私にもわからないわ。もしも、それがわかると言う人が居るならば、それはただの高慢なだけだと思う。相手の方も自分も、お話をしてみて楽しければ、まずはそれで良いのではないかしら」

 お姉様は顎に指をやって、少し考えてから意外なことをお話下さいました。てっきり、お姉様は百戦錬磨と一度お会いさえすれば、相手の善し悪しを見破ってしまうと思っておりましたから、余計に驚いてしまったのです。

「ですが、『男女の駆け引き』をご教授してくださいましたでしょ?」

「あれは、お母様からの受け売り」

 お姉様はそう言うと無邪気に笑ってみせます。

 私は黙って頬を膨らませました。崇高な教えとノートに書き取り、暗唱できるまでしっかりと覚え込んだと言うのに!お姉様が実学にて学び得た知識であると思っていたのに!

「そんなに怒らないで、婦女の慎みとしては覚えておいても悪いものではないもの」

「それはそうですけど」

 私はやはりぷりぷりしたまま言いました。

「でも、頬を膨らませた私の妹はなんと愛らしいことでしょう」

 お姉様はそう言うといきなり私を抱き締めると頬擦りをするではありませんか。

「お姉様。私は怒っているのですよ」

 そう言いました。

「そうね。でも、泣いても叫んでも助けはこないのよ」

 と婦女の敵のような台詞を吐いたかと思うと、お姉様はやがて私の上に覆い被さるようにしてソファーの上に私を押し倒し、なおも頬擦りを続けるのです。

 この愛情表現は幼少の頃からでしたので慣れたものでしたが、私の胸に押しつけるお姉様の大きな果実に気が付くと、やはり、不公平です!と私は一層にぷりぷりと頬を膨らまそうと頑張るのでした。

 その日、私はお姉様を独り占めにして、床に枕を並べると夜遅くまで色々とお話をしまして、翌昼。お姉様は帰られましたが、行き違いに郵便受けには私宛ての封書が届いておりました。

 お姉様を呼び止めようかと思いましたが、折角昨日から足かけ一日と激励を頂いたのです。この期に及んでお姉様に頼ることはできません。私は婦女ですが、それでも女々しいではありませんか。

 私は茶封筒を抱き締めると、靴を脱ぎ散らかしたまま二階の自室へと駆け込むと急いでドアを閉めました。あまりに階段を駆け上がり過ぎましたので胸が苦しくなりましたが、それもご愛敬なのです。

 机の椅子に腰掛け、封を開けて見ますとスミレの押し花が可愛らしい、素朴ですが品のある便箋が一枚だけ入ってありました。スミレの良い香り漂ってきそうな趣です。

 便箋には、簡素と待ち合わせの場所と日時が記載されてありました。少々物寂しさを覚えましたが、季節の御手紙でもなければご機嫌伺いでもございませんもの、文面に感情を込める必要はありません。まして、私は万屋さんの大切な婦女でもありませんから……

 けれど、私は一抹の寂しさを胸に「ふぅ」と息をつくと、便箋を三つ折りにして封筒に戻し、その手で机の引き出しの中へしまいました。どのような御手紙であれ、手書きにて頂いた御手紙を捨てるなど私にはどうしてもできません。

 御手紙は贈り物のようなものだと私は思っております。封筒を開ける時のわくわくとした高鳴る気持ちは、プレゼントの包装を開ける瞬間に似ているではありませんか。ですから、私も御手紙を書く時は、これを読む相手の気持ちも考えて筆を走らせるようにと、いつも気遣います。

 どうせ贈るのであれば贈り物を開けて喜んで欲しいですから!

私は季節のご挨拶の後、まず、ラケットの御礼を書きました。これは何をも差し置かねばなりません。それから、お誘いの詳細を承知の旨を書き。私は鼻の下に万年筆をはさんで、上唇で反芻する羊のように、もごもごと口もとを動かして悩みましたが最後に、この度のように殿方と二人きりにてお茶をご一緒することが初めてであり、粗相の際はご容赦の旨を結びの句としました。

 私も人間ですから、見栄の一つも張りたいものです。この年頃となってなお殿方とお茶さえもご一緒したことがないなど、笑われてしまうかもしれません。ですが、ないのですからどうしようもありません。

 張りぼての見栄など、軽薄な嘘と同じなのです。嘘とは誠に厄介なもので、一度嘘をついてしまいますと、それを取り繕うために新しい嘘をつかなければならなくなります。後はその繰り返し……同道巡りと嘘を嘘で塗り重ねて、行く行くは雪崩のように何もかも崩れさり、全てを失ってしまうのです。

 でしたら、余計な見栄などは張らずに無為自然と正直にあった方がなんと清々しいでしょう。もしも、そんな私を笑う人がいましたら老若男女問わず、私は胸を張って凛と訣別を申し上げることでしょう。

 

      ◇


 後悔先に立たず。私は便箋の残量に託けて簡素にして無情な文を送ってしまった。せめて結びの句に、お誘いを受けてくれたことへの感謝言葉一つでも書くべきだったのである。

 投函して後、激しく後悔の念のかられた私は、なんとかポストから奪還できないかと、腕を突っ込んでみたり、錠を蹴ってみたりしたのだが、やはり無駄であった。それよか、投函口へ無理矢理ねじ込んだ腕が抜けなくなって、一時はどうしたものかと焦りに焦った。

 後は野となれ山となれと、ぶっきらぼうに路傍の石に八つ当たりをして、その日はふて寝を決め込んだ。

 発作はその次の日にやって来た。空腹を紛らわすために昼間まで万年床に寝転んでいた私は、起きあがると、そろそろ手紙が届いてしまうのではないかと、いまさらどうしようも手段がないと言うのに酷く狼狽した。

 空腹も忘れ、四畳間の中を歩き回った挙げ句、机の前に正座し眼を閉じて黙想に耽り、きっと乙女は私からの手紙を読んで眉を顰め、ただの一度頷いてから返事などは毛ほども考えることもなく。右から左のゴミ箱へ捨ててしまうことだろう……

 彼女はそんな白状な乙女ではない。私の片隅がそう激情したが……全ての起因は私にあるのだ。

 私は混沌とするもどかしさを紛らわすために、内職に勤しむことにした。

 翌日、私は眠たい眼を擦りながら、内職に勤しんでいた。珍しく規則正しい生活をしていると自負しながら、日暮れと共に床についた私は、夜も明けきらぬ時分に目が覚め、以後眠れなくなってしまったのであった。全ては夢見騒がしにて。なんと、乙女からの返事が届いた夢を見てしまったのである。

 諦めようと思う一方、もしかしたらと微塵の期待を捨てきれないでいる自分の未練がそんな夢を見せたのだろう。

 未練がましい男など男子の風上にも置けぬ、私はもっと図太くなるべきなのである。

 納期をほど遠くに内職を終えてしまった私は、便所に向かうため部屋の外へ出ると茜色が廊下へ伸びていた。もうそのような時分かと、用を足した私は、込み上げる衝動を抑えきれずに項垂れながらも郵便受けへ階段を降りた。

 年中空の郵便受けには蜘蛛の巣でも張っているのではと、仕様もないことを考えつつ郵便受けを開けて見ると、なんと一通の封筒が入っているではないか。

 宛名さえも綺麗な文字である。私はつり上がろうとする口もとを冷静になれとわざわざ力を込めて無表情を取り繕うと、一度炊事場へ駆け向かい、石鹸にて手を三度洗い、自然乾燥にて手の湿気がなくなるまで待ち、満を持して封筒を郵便受けから取り出したのであった。

 部屋へ持ち帰ると、私は翻筋斗【もんどり】を打って、全身でこの奇跡を表現し、あるいは歓喜に狂った。

 その間、便箋で膨らんだ封書は机の上に安置し、どこかの原住民が喜びの宴で披露する舞の模造を私は額に汗して舞続けた。

 おかげで、机を前に正座して封筒の封を切ったのはすっかり宵の口を過ぎてからとなってしまった。

 宛名同様に便箋には麗しくも流れるような読みやすい文字が並んでおり、季節の挨拶にはじまり、ラケットの礼、そして待ち合わせの了承と続き、最後に、異性と茶の席を共にすることが初めてあり、粗相の際は容赦のほどをとうやうやしい結びの句にて手紙は終わっていたのである。

 私は今一度、文面を読み返すと、心のそこから申し訳ないと頭が自然と下がった、そして、『ありがとう』と感謝した。

 人は心から感謝をした時、本当に謝罪したいと思った時は自然と頭が下がるものなのである。

 私は再々度一度文面を読み返した。一つ一つに真心が込められた言の葉は私の荒んだ心を癒すようであった。この世には名声をなした文豪が数多くいる。だが、これほどまで私を感動させ心中に温もりをくれた文豪はまだいない。

 静寂に包まれた部屋の中で私は一人、言の葉を噛み締め、眼を閉じて涙を流した。手紙程度で涙など男子の名折れであろうと、罵られようとも私は一向にかまうまい。

 感慨に触れてこれほどのうれし涙を流したのは四半世紀近く生きてきて初めてなのだ。罵る者どもに私は言いたい、声を大に叫びたい。

 お前たちは手紙に心を震わしたことがあるか!と。

 影で流す涙は許されるのである。

 男子に涙は禁物と言うなれど、男とて人間なのである。涙も流せる、流せる以上は流す時が必ず来るのである。幼少の頃、母は言った。人を見送るとき、最後の別れのとき、嬉しいとき、感謝のとき、そのときは涙を流す姿とて恥ずかしむものではないと。時として涙を見せねばならぬ時もあるのだと……

 涙が感情表現なればこそ、悔し涙を除いては泣かねばならぬと。

 私は泣いた、母の教えに従って泣いた。声こそ出さなかったが、止め処なく流れ出る涙はとても心地よかった。この様な気持ちは幼少の頃以来ではなかろうか……

 手紙から万年筆を走らせる彼女の姿が連想出来た。やはり、乙女は紛うことなき真善美うち揃った美しく可憐な女性である。私の目に狂いはなかった、節穴でもなかった。

 古平は「あの女はやめといた方が良い……」と言った。まるで、汚らわしい女郎のごとくと蔑んだ物言いをした。そのかぎり古平、お前の眼は節穴なのだ。断言してくれる。

 文字と文章にはとにかく、その人間の知性や性格など内面がありありと現れる。ゆえに、手紙とは諸刃と厄介であるが、人柄を伝えるにはやはりこれが一番の方法なのではなかろうか。 

 そして私は、畳みの上にそのまま倒れ込むと、ゆっくりと眼を開けた。天井には埃を被った電球と、木目の粗い天井が見える。

 そのうち、私は大笑いを始めた、全てが愉快で仕方なくなったのである。どうして、こうも涙が止まらぬのか。どうして電球は明るいのか、天井の木目すら鹿の顔に見えて笑えるではないか。

 こういうのを至福と言うのかもしれない。


      ◇ 


 私の心は弾んでおりました。嬉し恥ずかしとはこういう心中のことを言うのかもしれません。

 思えば、万屋さんのお名前も聞いておりませんでした。なのにどうしてでしょうか。以前にお会いしたことがあるような、摩訶不思議な既視感があるのです。そう、あの三条通の一夜にすら出会っていたのではないかと思ってしまうくらいに……

 それはそうと、折角、殿方とお茶をするのですから、慎ましくも着飾るのが乙女の嗜みなのです。私はお洋服や小物を新調しましょうと、隣町にあるデパートへお買い物へ行きました。

 私のお洋服もそうですが、万屋さんへ贈るベルトも新調しないといけません。

 どちらが、本来ですかと問われますと、「どちらもです」と私は即答することでしょう。

私は明るい茶色の革ベルトを購入いたしました。万屋さんの趣向にあえばと思うのですが、端的にこの色合いが私の好みであっただけなのでした。次いで自身のお洋服を買いに行きました。何度も試着を繰り返したみたのですが、その度に善し悪しいかなるものでしょうと、私は私自身の味わいや思慮に自信が持てず結局、すでに家にあるようなスカートとブラウスを購入するに止まってしまいました。

 お姉様がいらっしゃれば、きっと、良い助言をしてくださったことでしょう。

 

      ◇


 満を持せないまま家に帰った私は部屋の箪笥からお洋服を全て引っ張り出すと、居間へ姿見を持ち出して、一人で着合わせをしました。私は赤色を好みをしておりますから、お洋服の趣向も大体が温色でした。

「どうしましょう」 

 私は、はしたなくも下着姿のまま溜息をつきました。ソファーを見ても床を見ても、一目惚れをして購入したお洋服で埋め尽くされていると言うのに……どれを着てみても納得がいかないのです。

 どうしたものでしょうと悩んでおりますと、

「ドアの鍵はかけておかないと物騒よ」とお姉様がいらっしゃったのです。

 まあ。お姉様は下着姿の私を見て、そう呟いて悪戯な笑みを浮かべました。

「お恥ずかしいかぎりです」

 私は手近なお洋服でなんとか上半身を隠すと床の上に座り込みました。同じ婦女と言えどもやはり恥ずかしいものは恥ずかしいのです。

 私はとりあえず、寝間着を着込むと、お姉様にどのようなお洋服を着て行けばよろしいでしょうと、尋ねました。

 すると、

「乙女が輝く時にはね、全てが色褪せてしまいものなのよ。だから、あなたがどんなお洋服を着てみても、得心がいかないのは仕方がないと思うわ」

 手に携えた紙袋を床に置きながらお姉様は私の頭に手を置いてそう言いました。

「私は輝いているでしょうか」

「それはもう素敵に輝いているわ」 

 面と向かってそうおっしゃってくださるものですから、私は嬉しいやら照れくさいやらで、俯いてしまいました。

「素直で可愛らしい妹ですこと」

お姉様はそう続けると、紙袋からスカートを出して「私ならこれを着て行くわ」と私に差し出してくださいました。

 その新品のスカートは、腰回りは細く、それでいて膝下でも細くしぼられているスカートです。裾にはアコーディオンのようなひらひらが可愛らしくついており、私は一目見て

すっかり気に入ってしまいました。

「なんて素敵なスカートでしょう!是非これを私に貸して下さいまし」

 私はお姉様に迫ってお願いしたしました。

「あらあら、そう言うと思っていたわ」とお姉様は快くも笑みを含みながらそうおっしゃってくださいます。

 お許しを頂いたからには、さっそく試着をしなければなりません。私は姿見の前でスカートに足を通しました。すると、腰回りは大丈夫でしたが、お尻の辺りが少々きつく、生地がありありとお肌に触れてしまっていたのです。

「お姉様、少しきついみたいです」

「あら、そのスカートはそのようなものよ」

 残念そうに声を漏らした私にお姉様は、さも当然とそうおっしゃいました。

「そういうものなのですか」

 てっきり、私の粗忽で怠惰な日常が祟って無用なお肉が体についてしまったと思ったのですが、そういうものであるならいたしかたありません。  

「ええ、もうお尻の格好から下着の形までくっきり。さぞ、殿方はあなたのお尻にどきどきすることでしょう」

 私の後ろ姿を見ながらお姉様は嬉しそうでした。 

「そんな」

私は何とかして、後ろ姿を見てやろうと悪戦苦闘しましたが、どうしてもお尻を見ることができません。ですから、両手でお尻を触ってみました、すると、お姉様のおっしゃるとおり、小山を覆う下着の際がくっきりと触れるではありませんか、まるで三角州のようです。

「お姉様はこのような恥ずかしいスカートをお履きになるのですか」

「ここぞと言う殿方の前に出向くときわね」

片目を閉じてそうおっしゃるお姉様でした。私はその様を想像しただけで、羞恥心が先立って顔がみるみる火照ってゆくのがわかりました。

「恥ずかしいです」私にはお姉様のような大胆に女性にはなれそうにありません。

「それは違うわ。婦女たるもの自分を美しくかつ魅力的に見せる義務があるのよ。きっと殿方だって口には出さないけれど、それを望んでいるはずだもの」

 いつになく真剣な表情で助言を下さったお姉様ですが、どうしてでしょう。私には目元が笑っているように見えてなりませんでした。もちろん、真剣なお姉様には失礼ですから、そのようなことは口が裂けても言うことはできません。

「ズロースにします」

 そう言い残して、私は自室からズロースを取ってくると、それを履いて再度スカートを履いて見ました。すると、三角州は見事になくなりましたが、今度はごわごわとまるで下半身に綿を詰め込んでいるようでなんとも不格好なのです。こればかりは姿見を見ずともわかりました。

 どうやら、このスカートを履きこなすことはできないようです。私は未練のみを残して、デパートで購入しました深紅色のスカートと桃色のブラウスを着ることにしました。

「お姉様、私にはこのスカートを着こなすことはできません」

 どうしても、羞恥心と不格好が引き立ってしまうのです。でしたら、涙を呑んで諦めるしかありません。

「残念」お姉様は苦笑するに止まりました。

 ですが、私がお茶の準備をするために、台所へ向かっておりますと、居間ではお姉様がスカートを履くために苦戦をしておられるではありませんか。

 お姉様は私よりも安産形ですから、まことに申し訳ないのですが、お尻がスカートに収まるでしょうか、と少し興味を惹かれてしまいました。

「やっぱり小さすぎたみたい」

 ふぅ。と息をついたお姉様は小さく舌を出して見せます。

「それはお姉様のではないのですか?」

「いえね、可愛い妹が殿方とお茶に行くのだから、その恋路が成就しますようにと、私なりに考えて小さいスカートを買ってきたのだけれど」

「恋路だなんて」

「でも、顔にかいてあるもの」と莞爾として笑うお姉様はやはり嬉しそうでした。

「これは私のお気に入りよ」

 真心の籠もった柔らかい表情をこしらえたお姉様はそう言うと、紙袋から深紅のカチュウシャを取り出して、私の頭に飾ってくださいました。

「きっと、赤いスカートにすると思って持ってきたの。好みの色が一緒ですものね」

「はい、姉妹ですもの」

 私は赤い色が好きですからお姉様からのカチュウシャをお借りすることにしました。

 

      ◇


 黒髪の乙女との約束の前日、私は一張羅にして、一着だけのズボンを洗濯することにした。さすがに我が男汁にて酸味の行き届いた悪臭を放つ着物を着て乙女に相見えるなど、世間知らずも甚だしい。ゆえの洗濯であった。

 炊事場へ行った私は、流し台の上にパンツ一丁になって石鹸をこれでもかとなすりつけたズボンを時折、水をかけながら一心不乱に踏みつけた。

 昼餉の準備に現れた新妻がそんな私の色気ただよう姿を見て、鍋を落として走り去って行った。

 何を今更。毎日、夫の下着の洗濯に勤しむ婦女が、私の下着を見たところで珍しくも恥じらい一つ浮かべまい。

 もはや私に羞恥心などありはしないのである。洗濯を終え、窓の外に梯子にズボンを干して、その日は下着姿のまま一日を過ごした。

 次の日、ついに乙女との再会の日を迎えた私は、床屋へ行くこともせず、起床するなり、本棚の奥に隠しておいた油紙の包みを取り出した。大切に保管しておいたのはなんであろう桜の蕾である。

 あれほどぷっくりと、思わずつついてしまいそうになるほど膨らんでいたというのに、今ではすっかり皺枯れてしまい、なかには茶色く変色してしまっているものまであった。

 だが、これは来るべく日に備えて取り置いた媚薬であり、私の必勝の切り札なのである。

これを使用して、誰彼かまわず私の虜にしてもそれはそれで良かったのだが、やはり、私の恋すべきは黒髪の乙女であり、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、崇高なる情欲の元に使うことをしなかった。 

 しかしながら、この水気の無い蕾をどう絞れば、精髄を取り出せるだろうか。私の全体重を持ってしても、汁一滴とて出てきそうにない。

 しばらく考えあぐねた結果、私は蕾を薬缶の中に入れ、それに水を張って火に掛けることにした。

 しからばやがて沸騰し、そのままぐらぐらと煮詰めたが、何のことはない。色も出なければ香りとて微塵もなかった。

 古平に喰わせる朝顔の種をどこから手に入れるか算段を始めつつ、薬缶を冷水に浸し、時間をかけて人肌まで温度をさげた。

 そして、朝の冷え込みなんのその、私は遊女とて舌を巻く脱ぎっぷりで流し台の上に仁王立つと、桜の蕾汁を頭からかけたのである。余すところなく行き渡らせるため、わざわざ時間をかけてゆっくりとかけた。

 途中、新妻がか細い悲鳴を上げて鍋を落として駆け去って行ったが、私には関係ない。あったとしても無関係なのである。

 夫よりも幾分華奢な体躯と言うだけである。夜ごと夫と情を交わす新妻たるが、いまさら私の可愛らしい尻を見たくらいで何を小動物的悲鳴をあげているのだ。

 真下で毎夜、睦言の終始を聞かされる私の身にもなってみろ!

 そうして私は、手拭いで全身を拭きながら四畳間へ戻ったのである。その途中、不意に思った。

 乙女は今頃、支度途中だろうか……と……。

 

      ◇


 とうとう今日が来てしまいました。着て行くお洋服も用意しましたし、万屋さんに贈るベルトの包装も念入りに何度も確認いたしました。

 早朝から起き出した私は、とにかく何をするでもなくそわそわとしておりました。ついに今日がきてしまったのです。何度も申しますが私は殿方とお茶をご一緒するのは初めてなのです。それだけではありません、昨日、お姉様が「デートね」とおっしゃったものですから、私は拍車をかけて顔を紅くしてしまいました。デートだなんて、デートだなんて!

 ですから、昨日の夜は眼が冴えてしまってなかなか寝付くことができませんでした、お手洗いに行ってはお茶を飲む、を何度となく繰り返してようやく眠ることができたのです。ですのに、今朝は日の出と共に眼が覚めてしまいました。

 二度寝は本来ではありません。ですが、万屋さんの前で居眠りをしてしまうのは誠に無礼ですし、そもそも、本日は大學の講義もございますから、まして寝不足はよろしくありません。

 そう思って、お布団の中に顔を埋めてみましたが、私の眼はぱっちり開いて、到頭、眠るどころではありませんでした。

 朝食もそこそこに、珈琲豆から挽いて珈琲を淹れてみましたし、ソファーの上に正座して朝露に光る芝を見つめてみたりしました。

 私の心の中はふわふわしてしまって、どうしようもありません。気球ならば、砂袋を重しとできますが、私には重りがありません。ですから、正座して不意な風に飛ばされないようにと口もとを硬く結んでいたのです。

 はたしてこれはデートなのでしょうか?私はいつの間にか叩きを持って家のお掃除をしておりました。

 とにかく何かをしていないと落ち着かないのでした。部屋のお掃除を済ませ、手持ち無沙汰と次は何をしましょうと部屋の中を見回して見ました。すると、お庭に生えた雑草が目に止まったのです。

 お庭の手入れに勤しめば暇を持て余すことはなくなしますが、さすがに朝っぱらから土にまみれては、大學へ行く前に銭湯へ行かねばなりませんから、それは遠慮しておきました。

 そんなこんなで、時間を潰しておりますと、そろそろ出掛けなければならない時刻が近づいてまいりましたので、待ってましたと自室へ向かい、桃色のブラウスと深紅のスカートにもちろんお姉様からお借りしましたカチュウシャも頭に添えて、昨日抱えて上がった姿見の前で入念に身だしなみを整え、深呼吸をしてから居間へ下りました。

 今頃になって気が付いたのですが、お恥ずかしながら、私はわくわくして仕方がなかったのです。

 居間のテーブルの上に用意しておいた、余所行きの鞄にベルトの入った箱を携えると私は、いざ行きましょう!と廊下をスキップをしながら玄関へ向かいました。すると、ドアが開いたのです。

「よかった。間にあったのね」

 お姉様でした。

「こんな早くにどうかされたのですか?」

「何を言ってるの、殿方とお茶に出かけるのに口紅の一つもささない乙女がどこにいますか」

 お姉様はそう言うと私の背中を押して、強引に居間へ引き返すではありませんか。

「お姉様、大學に遅れてしまいます」

「外に車を待たせてあるから大丈夫よ」

 私は、台所の椅子に腰を降ろすと、縮緬の巾着袋から化粧品を取り出すお姉様を見ておりました。

 お姉様は、腕を組んでじっと私の顔を見つめますので「そんなに見つめられると照れてしまいます」と私が言いますと「こんなにお化粧のしにくい顔は初めてだわ」と息を吐かれたのです。

「そうなのですか」

 お化粧をしたことがあると言えば、女学校の時分に近くの神社にて三が日に巫女のお手伝いをした時だけです。

「肌は白いし、目元もぱっちり、小さいくせに桜の蕾のようにぷっくりとした唇は本当に羨ましいわ。これだけうち揃ってしまうと、お化粧する隙がありません!」

 お姉様は意地悪そうに、眼を半分閉じてそうおっしゃいましたが、心ばかり褒め言葉に聞こえたのは私の勘違いでしょうか。

「でも、口紅くらいはささないとね」

「はい」 

 私はお姉様に、控えめな赤の口紅を小さな唇にのせて、お姉様と一緒に車で大學へ向かったのでした。


      ◇


 見慣れた今日だが、なんだか漂白されたように白っぽい陽射しがやけに清々しく感じた。

 しかし、私の足取りは重かった。鉛をたらふく飲んだように胃の辺りがやけに重い。彼女が来なかったら場合のことを考えれば気が重くなり杞憂と今日にかぎって空が落ちてきやすまいかと一抹の不安を思った。

 彼女が来た場合のことを考えるとなおさら気が重くなり、少しは気が紛れるだろうかと不要な回り道もした。

 この期に及んで腑抜けたことを言うようだが、私にはどう対処すればよいのか分からなかった。世の男女が二人きりで会う時、彼らは何を喋っているのであろう。

 まさかずっと睨み合っているわけにはいくまい。かといって、人生や愛について白熱の議論を繰り広げるわけでもあるまい。彼女は博学才女であろう。相対性理論について議論を求められたならどうしたものだろうか。ひょっとすると、私には手に負えない繊細微妙な駆け引きがあるのではないか。小粋なジョークで笑わせる一方。たんなるお喋り男に堕さず、毅然たる態度で彼女を悩殺する……そんな不可解事ではなかろうか。

 私は明朗愉快で機転の利く男ではないのだ。このままではたわいもないことを話し、延々と珈琲を飲むだけになりかねない。そんなことをして楽しいか。私は彼女を眺めているだけで楽しいにしても、彼女はそれで楽しいのか。彼女の貴重な人生の時間を悪鬼のように食いつぶしては申し訳ない、じつに申し訳ない。そもそも、私は彼女の姿を前にして銅像以外でいられるのだろうか……

 女々しくも大人しく桜の大樹の陰から眺めていた方が、気楽で楽しかったかもしれない。ああ、困ったことになった。桜の幹から顔を覗かせて彼女を見ていた頃が懐かしい。あの栄光の日々に戻りたい。

 私は深く溜息をついて頭を垂れた。


 彼女は……彼女は今頃、講義の真っ最中だろうか。



      ◇


 私の本分は學生ですから、講義は真剣にかつ真面目に受けなければなりません。でしたが、今日ばかりは、ご講義くださる教授先生の言葉はまるで上の空。わくわくとしていた心持ちも、いつしかどきどきと鼓動は高鳴ってまいります。

 果たして何をお話しましょう……そればかり考えてしまうのです……

 講義の終わりが近づいた頃、そうです!と三条通での摩訶不思議な一夜についてお話ししましょうと思いつきました。

 そんな頃合いで、ご学友の小春日さんが「今日は随分と粧し込んでらっしゃいますのね」

と、耳元に声をかけてくださったので私は「はい、本日は殿方とお茶をご一緒するものですから」と小春日さんの耳元で返事をしました。

 すると小春日さんは「まあ、素敵なことですわね」と名にたがわぬ温かい微笑みを下さいました。小春日さんはとても淑女です。私など、嫉妬か悔し涙とベルトを投げ出して「足元に蛇がいます」と脅かしてしまったというのに。

 お恥ずかしいかぎりですと、視線を足元にやっていると、やがて講義の終わりを告げる鐘が鳴りました。


      ◇


 手打ちの鐘が鳴り、學生が電灯に吸い寄せられる蛾の大群のように食堂へ押し寄せていった。私はテニス場越しに、講堂の出入り口を固唾を飲んで凝視していた。そうなのだ、私はいつもこうして彼女の姿を眺めていたである。

 彼女は桃色のブラウスに深紅のスカート、頭にはスカートと同色の髪留めをしていた。 控えめな紅は彼女の黒髪によく映えている。彼女は波間に翻弄される花弁のように人並みに困っていた。彼女の周りには何名かの乙女が歩いていたが、彼女が全てに勝って輝いていたのである。

 彼女はまっすぐこちらへ向かって歩いて来る。

 来るべくして時は来た。時は熟せり。たとえ私の気持ちの準備ができていなくとも。熟してしまったのだ。

 後数分の間合いで、私は彼女と挨拶を交わすことだろう。未だ自信などは微塵も湧いてこない。早朝より切り札である桜蕾の媚薬汁を全身に浴び、洗濯したズボンを履いて、誠の一張羅である黒マントを羽織り、これ以上ないくらい誠実と身だしなみに気を使った。足らずと言うなれば、散髪に行けなかったことだろうか……いや、銭湯に行かなかったことだろうか…… 

 私は桜の幹に手をあて、今一度深く溜息をついた。頭垂れた視線の先には腐った枝の残骸があった。私はその残骸を徐に拾い上げると、「よく腐っていてくれた、感謝する」と呟いて、再び根本へ落とすように放り投げた。

 そして、私は桜の樹を見上げ、呟いたのである「縁は異なもの味なもの」と……やがて彼女の姿が近くなると、私はやはり銅像のようになってしまった。

 至極ぎこちなくも私は精一杯の笑顔でお辞儀をした。

 すると彼女も慎ましい笑顔でお辞儀をしたのである。


「筒串 勝太郎です」

「鴻池 咲恵と申します」


 私と彼女はそう言って再びお辞儀をしあったのだった。






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