縁は異なもの味なもの
まずこのような語りを冒頭にせねばならないのは私のご都合である。
給仕役に徹する私が苦々しく見つめる幸せそうな二人とてその深淵を知るにとてもいたたまれぬ気持ちになり、憤慨に腑を煮えたぎらせねば私はとても人間ではあるまい。この世に仏がいるというならば、いまこそ私が逃げ出した後に雷の雨を降らせるべきなのである。
◇
その日の夜が大層賑やかであったのは、田舎町の一角を貸し切って行われた婚約した二人のお披露目会が仰々しくも絢爛豪華に催されていたからである。
未来の新郎は私の通う大学の先輩であり、名を松永と言った。謎多き部活動の先輩であり、親玉でもあった彼は、自身は〝影の暗躍者〟であると思い込んで疑わなかったようであるが、その正体は吹聴して回るまでもなく瓶底の残渣【ざんさ】まで露呈しきっていた。松永先輩は生粋の目立ちたがりだったからである。
多くばかりこの松永先輩について語りたいと思う。語らねば私の腹の虫が溢れ出して燦々たるありさまとなるだろう。菓子など片手の読者諸賢におかれては食欲減退は必至である、そうそうに皿の上に置かれるがよろしかろう。
松永先輩は郷里を遠く東に置いて、わざわざ地方に出て来た変人であるが、細身の体躯と清涼感のある顔立ちには、初見の私もどうして男に生まれてきたのだろうかと疑問に思ったところであった。家柄もよくとかく金に困らないこの先輩は後輩の面倒見もよく、私もことあるごとに酒の席に誘われてはただ飯をかきこんだものである。その際に拝聴した高尚たる『松永論』に何度も深く頷いた私は、結果として泥沼に積極的かつ派手に飛び込み大學生活の半分を溝に捨ててしまった。
一方では器量の大きく博学の男であり、もう一方は婦女に優しい紳士であった彼は、私が知る限り、初々しい新入生に手を出しては常に顔の違う女性と肩を並べ繁華街を闊歩していた。容姿が端麗な先輩を女性の方が放っておかなかったのであろう。
だが、この男の本性は一言では筆舌に困る悪徳にも唾棄すべき不埒者だったのである。
松永と言う上級生のお付きになり、後塵を拝すようになってから数ヶ月が経ったある日、大學内の地下倉庫にてキネマ研究会主催の宴会が催され、出資者である先輩は言われるまでもなく、その中央に座していた。酒が入り目が据わった頃合い、先輩は突然高らかにかつ明瞭に宣言したのである。「俺は田舎の女が好きなのだ!」と。すれた都会の女性よりも田舎の清らかかつ純粋な乙女が良いらしく、その後の話しから、わざわざ女性を口説くために郷里から出て来たと言うことを知った。それが化けの皮が剥がれ落ちた瞬間でもあったのだ。
それからと言うもの、金をばらまいて得た人脈を駆使して、あらゆる部の部長に居座り、好みの乙女と見るや、垂涎と近づいてその毒牙にかけるのである。清らかな顔に誠実な皮
をかぶっている人相であるが、その本性たるや、純情な乙女のお乳と桃色本が三度の飯よりも好物な奸邪の変態だったのだ。そんな変態にかぎって女性には不自由しないのである。誠をもって身を修め、たとえ貧賤に喘ぐとて己を曲げまいと生きる私が一度として乙女と懇ろになっていないというのは些か不条理な話しであろう。
世の女性はそんなに綺麗な顔が良いのだろうか。
一時は私とて嗜み程度に変態臭を漂わせてみれば、たちまち乙女との恋路などに恵まれるだろうかと血迷ったこともあったが、残念ながら私に変態などという要素を加えようものなら、寄ってくるのは蠅と警察官だけである。それに人恋しさに唾棄すべき輩の真似事などに興じたくはない。
正義漢たろうとした私は、松永先輩の内に秘めたる悪意を密かに吹聴して回った。ある時は掲示板に文章にて警告し、またある時は屋上から手書きのビラを捲いたのである。乙女の味方、獅子身中の虫、埋伏の毒となりまさに〝影の暗躍者〟として、大學に秩序と平穏を取り戻そうと奮闘したのだ。
だが、孤高な正義漢であった私は、図書館の蔵書全てにビラを挟んで回っているところを松永一派に現行確認され、瞬く間に吊し上げられたあげく、破門のごとく大學内から放り出されたのである。私はそれから三日間、四畳間の自室で嘆いた。
かくして、孤高たる正義はここに潰えたのであった。
お口直しに、忌々しい男の隣に恭しく鎮座されている淑女をご紹介したいと思う。名前など仔細の一切は知りおかないが、とにかく美人であった。肩までで切りそろえられた黒髪は艶々しく、前髪で目元は見えなかったが、鼻筋の通った端麗な顔立ちに小さな口許。麗人と称されるためにある彫像のようである。
私は天に唾を吐きかけたくなった。なぜ、かのよう男にこのような美人と一緒になる権利があるのだ。そして、この後の幸せな行く末を思い描く無垢な乙女に深く同情した。
「あなたには無理ですって。美人と一緒になりたきゃ、これが必要ですから」
気持ち悪い顔を歪ませて、指で円を象ったのは古平【こだいら】である。私の悪友にして損友である。
「何を言う。本質も見抜けない女に興味はない」
「強がりはおよしなさいって、松永先輩のことが羨ましいくせに」
手に葡萄酒の瓶を持った古平は首元の蝶ネクタイをなおしながら言う。男子であれば、容姿端麗な乙女と懇ろになりたいと願うのはいかんともいがたい欲望であろう。
「やかましい」私は言った。
でしょうね。と古平は笑ってから、
「仕事はして下さいよ。せっかくの機会なんですから」
「もちろんだ、幸せのお裾分けをしゃぶりつくしてやる」
「僕は骨の髄まで食べますよ」
古平はそう言うと口許を袖で拭う真似をして見せた。
私が追放されてから一年ほどが経った頃。私の元へ手紙が届いた。それは松永先輩が婚約したのを祝うためのお披露目会の招待状であった。何を今更と破り捨てようかと思ったのだが、かような男の奸策に落ちた哀れな乙女の姿を一目見てやろうと、指定された場所へ赴いた。しかし、私を待っていたのは丸机に純白のテーブルクロスを飾った席ではなく、
蝶ネクタイと銀色の盆だけであった。それは紛れもなく給仕役の出で立ちであり、忌々しくもどうして私が封豕長蛇【ほしちょうだ】のごとく、悪者の為に身を粉にせねばならないのか。これは辱め以外の何ものでもなかろう。憤怒を宿して、踵を返した私の前に立ちはだかったのは誰であろう古平であった。
人気の無い場所へ連れ出された私は、招待状の仔細を聞き、そして古平を殴ろうとしてとどまり、口許を綻ばせたのである。
古平の悪知恵は私にとって腹の虫を宥める好機だったのである。
◇
私は果実酒が好みでして、葡萄酒をとくに好いておりました。お姉様は糖蜜酒を愛しており、朝から牛乳のかわりに腰に手を当てて、一瓶をあけてみせると豪語するほどです。
お父様もお母様も三人のお姉様方もお酒を愛し、取り分けお母様はお酒を愛し過ぎるほどお強い婦女です。ですから、私も随分とお酒には強く一度として酔いつぶれてしまったことはありません。『酩酊するなかれ』初めて私が、ご学友と酒場へ赴くことになったその出掛け頭、お母様から頂いたご教授です。お酒に飲まれると、眠れる私が目を覚まし、はしたしと暴れ回るやもしれませんし、その場に寝息を立ててしまいますと、同じくお酒に飲まれた殿方に何をされても文句の一つも言えません。知らぬ間にお嫁に行けなくなるのは大変困ります。私は将来、是非ともお嫁にいきたいと思っておりますから。
歳の離れた二人のお姉様はすでにお嫁に行ってしまい。年子である一つ上のお姉様とはとても仲がよろしく、よく二人でお買い物やお酒を嗜みに出掛けました。
時には羽目を外して飲み比べなる精神戦を繰り広げたこともありましたが、私もお姉様もほろ酔いになる頃には御財布の方に翳【かげり】りがみえてきましたので、いつも痛み分けで終わってしまうのです。
お姉様と二人きりの時は、私も無手勝流にお酒を嗜みました。葡萄酒に限らずブランデーやら焼酎やら、もちろん麦酒も……お店の方は鯨飲するそんな私を見て目を丸めていました。お恥ずかしいかぎりです。
お姉様は糖蜜酒を愛しておりましたから、終始、糖蜜酒を一途に愛し続け、契りを交わします。色々な相手に手を出す私とは違って、落ち着いた大人の女性なのでした。
そんなお姉様も縁談がまとまり、晴れてご婚約をなされました。ですから、今、私の隣にお姉様はおりません。寂しいですけれど、生涯の伴侶を得たお姉様を妹である私が祝福せずして誰がお喜びを申し上げますか。
お披露目会の後、私は丁重に二次会をお断りして、夜の三条通に出ました。お姉様は、大人になると一人でお酒と向き合って語らいたい時がある、とおっしゃっておりました。きっと私も大人に近づいているのでしょう。今宵はその気分だったのです。
大好きな人が傍からいなくなると言うのはなぜにどうして、このように虚しい気持ちになるのでしょう。おめでたい二次会の席で一人だけ悄然としてお酒のお供をするなど、私にはできません。ですから、私は一人でお酒と語らおうと思ったのです。
◇
お披露目会が流れ解散となり、給仕役を賜った男女が清掃要員へと姿をかえつつある頃、私と古平はそれぞれにリヤカーを押しながら宵の口の三条通りを歩いていた。荷台には騒がしく身を擦り合う洋酒瓶と麦酒瓶がすし詰めであり、さながら卸酒屋の丁稚【でっち】の気分である。そんな私たちの横を妙齢な黒髪の乙女が通り過ぎて行く。令嬢と言うに相応しく、顔は見ていないが背まで伸びた黒髪から察するに相場は美人と決まっている。夜の繁華街には似つかわしくない清女であった。
「洋酒は特に高く売れますよ」と私に囁いたのは私の隣で同じくリヤカーを押す古平である。私に招待状なる忌まわしき物を送りつけたのは古平であったのだ。軽薄に考えても、卑しい先輩が旧敵である私に海容と、塩を送るはずがないのである。
さすがに他人の幸席の給仕役を無賃でかって出る人間は少なかったらしく、旧敵たろうとも、私が給仕役を拝命したいと進み出ると先輩一派も易々とこれを受け入れた。所詮は皆、述懐奉公なのである。松永一派どもがこれほどまで衰退していようとは思ってもみなかったが、これも正義漢たる私が投じた一石の賜であろうと鼻高々であった。古平が話した本来の真相は捨て置くとして、私の仕掛けた時限爆弾はようやく日の目を見たのである。
感慨に水を差したのは古平の悪知恵であった。私の得意とする埋伏の毒となって、この祝の席から酒を盗みだそうとそそのかしたのである。給仕役である私も古平も、酒蔵のように酒がケースで山と積まれている舞台裏への出入りは至極当然自由であった。古平に懐柔されたようで気に食わなかったが、この際、憎っき我が仇敵であり乙女の天敵である先輩に一矢報えるのであれば、古平であろうが天の邪鬼であろうが、喜んで協力してやる。
先輩はやはり阿呆である。祝いの宴と言えども、洋酒から焼酎まで山のように買い込んでどうするつもりなのだ。いっそのこと酒屋でもはじめればよい。
「ここです」
古平が足を止めて指さした先には旅館があった。老舗を思わせる風情は京都か奈良町の格子の家のようである。『稲荷』と檜だろうか一枚板の看板に黒墨で堂々と書かれてあり、『神社』と加え書きしたくなるのは私だけではあるまい。
「僕は女将さんに話しをつけて来ますから、リヤカーを裏木戸にまわしといてください」
油断許すまじ、笑顔を浮かべて、古平は「ごめんください」と旅館の敷居を跨いで行く。
私は渋々、目算ではなんとか通れるだろう路地をリヤカーを押して通抜けると、裏木戸の手前でリヤカーを止めた。汗ばんだ額を拭い、荷台を見やって一本飲んでやろうかと喉の渇きを訴えたが、古平のリヤカーを運ばねばなるまいと思い出してやめた。
世の中とはわからないものである。一見して俗世間の混沌とは孤立無縁に見える老舗旅館の佇まいとは別に、我々のような盗人猛々しい輩から出所も知れぬ酒瓶を仕入れるのである。一見さんお断りと札を掲げておきながら、常連客に安い酒をだすのであるからして末恐ろしい。
古平のリヤカーを裏木戸へ運ぶと、『稲荷』と白抜かれた半被を着た男数人が荷台の酒瓶を旅館へ運び込んでいた。
「そこらへんに置いておけばいいですよ」
後ろから古平が現れた。随分と涼しい顔をして私を見るではないか。言っておくが、私はお前のお使いになったわけではないぞ。
「儲けは山分けですから、心配しなさんな」
私の視線から殺気を嗅ぎ取ったのか、ますます目尻を下げてそう言う古平。古平は人間らしい人間であり、人の幸せは腹の底から妬み、人の不幸を付け合わせにと丼三杯は食えるいやらしい男である。
真っ新な封筒を受け取った私は迷わず中身を確認した。
「まさか、相棒を裏切ったりしませんよ」
「裏切る奴にかぎってそう言うものだ」
「そんなに疑り深いと友達なくしますよ」
「私は慎重なだけだ。それに友人を失ったのはお前のせいだろ」
「またそんな突拍子もないことを」
「嘘ではない」
図書館で私が松永先輩の卑猥さを知らしめるべく、図書の間にビラを挟んでいるまさにその所行を現行確認し、それを先輩本人に報告したのは誰であろう古平なのだ。
「そんなこと言って、僕も巻き込もうとしたのはどこのあなたでしょ」
「当たり前だ、私一人だけ吊し上げられてたまるか」
結果的には古平の媚びが勝り、私だけが一派による厄難を一身に背負う羽目になったのだが。
「もう過ぎたことでしょ。さあ、そろそろ行きましょう。これからの方が重要なんです」
「それに異論はない」
小休止の言い争いの後、私と古平は連れだって裏木戸から旅館の中へ入った。
◇
酒を舌の上で転がしてその味がわかる人間はそこそこいるらしい。下戸の私にはどうでもよいことであるが、できれば酒の味がわかった方が良いかもしれないと思ったのは大吟醸と焼酎の違いに戸惑ったからだった。
「酔っぱらいに味なんてわかりません」と言い切る古平は手際よく、目の前に並んだ種々の酒瓶を交互に手に取っては、足の裏で挟んで固定している一升瓶の口に添えた漏斗に流し込んで行く。
「麦酒と洋酒はさすがにばれやしないか」
珍しく古平と意見の一致を見た私でも、麦酒と葡萄酒を平気で混同する古平の手元を見て一抹の不安を覚えた。麦酒と葡萄酒はもはや別次元の飲み物ではなかろうかと思うのである。香りとほのかな甘みを楽しむ葡萄酒、炭酸の爽快感と苦みを味わう麦酒。同じ酒でありつつ、この二つが混ざり合った時の芳味たるや、想像の範疇を易々と超越する。
「大丈夫です。この前ハブ酒と泡盛を混ぜたら、とてつもない異臭を発する酒ができあがったんですが、漢方酒だと言ったら、素直に売れましたから」
厨房の外に並べられた客の飲み残した酒を『大吟醸』と焼き印され組紐で釣られた札の掛かった一升瓶に、移し替える作業に多忙とする私は、古平の話しに耳を傾けつつ、精査と熟慮していた。麦酒と葡萄酒のいや、及ぶのであれば酒と名の付く全ての飲料に共通するものを見出せればその根拠になりうるのではなかろうか、と考えついたのである。
その解答は、一本作り上げる前に呆気なくも容易に判明してしまった。手がかりが目の前にこれだけ揃っているのだ、わからぬまま迷宮入りさせる方が難しかろう。酒飲みと煙草飲みは舌がばかになっていると言う、ようするに酒の種類に関わらず酔っぱらいはエチルアルコールさえ入っていれば味など二の次なのである。
「面白おかしくつくってやる」
「大吟醸は少し残しておいて下さいよ。僕が飲みますから」
「知るか」
大吟醸だろうがビンテージだろうが知ったことではない。下戸である私からすれば腹も膨れぬ酒などに浪漫はないのだ。
酒臭い衣服を纏ったまま、一升瓶を抱えて再び三条通りに戻った。繁華街らしく、夜をこよなく愛する善男善女がほろ酔いの頬を垂れて、上機嫌で次に金を落とす店を探している。
大吟醸と焼き印された札をかたかたといわせながら一升瓶を抱えるのは地味でありながらこれがまた重労働である。だが面白いことに、何軒かの立ち飲み処を回って行くと、店の中から時折中年の男性が顔を出して待ってましたとばかりに、二つ返事で雑多酒を買ってゆくのである。その爽快さといったらデラメにかつ悪意を持ってこしらえた私が罪悪感に苛まれるほどである。
常連客です。と古平は前置いてから、
「中嶋さんと言うんですが、あの人達は生粋の酒飲みですから、その辺は折り込みずみなんですよ」と言った。
生粋の酒飲みと言うことはまさにエチルアルコールにのみ浪漫を求める雑食愛飲家なのだろう。
「後で追いかけられても知らんからな」
「言ったでしょ、あの人たちは承知で買ってるんです。酒の飲みの端くれなら大吟醸がこんなに安くないことぐらい知ってますからね」
「どれくらいするんだ」
「少なくともあなたの家賃は凌駕します」
「やはり酒飲みは阿呆だ」
いずれは排出されてしまう酒にそんな大枚をはたくなどと、たかだかエチルアルコールではないか。同じ一時の快楽に陶酔するなら、私は腹が膨れる肉の方が断然よい。
雑多酒を売りさばき、懐と心持ちが温かくなりおまけに一升瓶から解放された双腕をぶらぶらとしながら、最後の一本を抱えた古平の傍らを私は歩いた。古平が抱える一升瓶は色酒が一切入っていない、純粋透明な酒だけで構成されていた。それこそ焼酎と大吟醸のみ、我々がこしらえた雑多酒の中では一番高価な代物だろう。
「まさか、それはお前のが飲むわけではあるまいな」
「いえいえ、これは上客に売る酒なんですよ。少しばかりその客は厄介でしてね」
私は古平にそれ以上、言及はしなかった。俗世間の客であろうが上客であろうが、雑多酒が紙幣に化けるのであれば万事よいからである。
しかし、私は後に、なぜ古平に言及しなかったのだと後悔した。大いに後悔することとなっのだった。
◇
私は二次席会に向かわれる方々と鉢合わせをしないようにと気を配りながら、夜の三条通を歩いておりました。未だ宵の口ですから人通りも疎らです。繁華街が花開く前、それは蛹【さなぎ】から蝶へ変態をとげるように、または子どもから大人に成長するようで、私はその境目である宵の口がとても好きなのでした。ですから、お姉様とお酒を嗜みに出掛ける時なども、わざわざ宵の口に出掛けて行ったものです。
正直に申しますと、私は一人で三条通を歩いたことがありません。お姉様は知り合いも多く、繁華街のことをよくご存じでしたから、私は腰巾着のようにお姉様の傍らにひっついていただけなのです。ですが、これからはそのお姉様を頼りとするわけにはいきません。ですから、今宵は、私が一人で三条通を闊歩する記念すべき夜なのです。
鼻息を荒くして、気合いを入れた私は、道行く人に気概だけは負けまいと両手を大きく振り、いつもより大股で歩きました。私の得意な〝ロボット歩き〟なのです。お姉様はそれが〝難波歩き〟であると教えてくださいましたが、私はロボット歩きと称してここぞと言うときにのみ使うことにしているのです。
発条【ぜんまい】仕掛けのブリキロボットは難波歩きをしながら、胸から光線を出します。なんと堂々と凛々しい姿でしょう。もちろん本当に光線を出すわけではありません。胸元が赤く光るだけなのですが、子どもながら私は目を丸めてその様子を眺め、私もこのように堂々と凛々しい出で立ちを真似できたらと感化されたのです。
ロボット歩きのまま三条通を進んで行きますと、荷台にお酒をすし詰めと積んだリヤカーを引く殿方の後ろ姿が見当たりました。卸酒屋の丁稚の方でしょう。私たちがお酒を嗜むことが出来るもの、この方々のようにお酒を運んでくださる方がいるからなのです。私はロボット歩きをやめて、追い抜き様に感謝と労りの心を込め、小さくお辞儀をしました。『小さき感謝と勘違いは清く正しい人生を彩る』お母様が教えてくださりました。乙女の心得として感謝の心はいつでも真心と一緒に胸の真ん中に置いておくものです。
丁稚さんたちは旅館の前にリヤカーを止めていました。私はなんだかほっとして、どのお店にしようかと暖簾のかかった立ち飲み処などを覗いてみましたが、やはり尻込みをしてしまいます。何軒か回って通りを右往左往してみたのですが、結局、他のお店へは、次の機会に必ず挑戦してみましょうと誓って、通りの中程にある行き付けのお店へ行くことにしました。
そのお店は路地を少し入ったところにひっそり佇むお店でして、煉瓦づくりの外装と喫茶店のような窓がお気に入りだとお姉様はおっしゃっておりました。店内は洋風で、深紅の絨毯と深紅の椅子。カウンター席とテーブル席とがあり、お座敷はありません。変わった造形のブロンズや羅針盤などの調度品で目を楽しませ、店内奥に置かれた蓄音機からは巷【ちまた】で流行っている歌謡曲や落ち着いた洋楽まで、幅広い楽曲で耳までも楽しませてくれます。私も一度来ただけですっかり気に入ってしまいました。
「葡萄酒と糖蜜酒を下さい」
私は奥からカウンター席に腰を落ち着かせると、グラスを研いていらっしゃる顔なじみのご主人に注文を済ませました。
「今夜はお一人ですか」
「はい、そうなのです」
私としたことが、今日はお姉様がいらっしゃらないと言うのに、お姉様の愛する糖蜜酒まで注文していたのです。目の前に並んだグラスからは芳醇な香りと甘酸っぱい香りが私の鼻腔をくすぐります。どちらからいただこうかと首をメトロノームのようにして悩んでいましたが、やはり私は葡萄酒を愛しておりましたので、葡萄酒からいただくことにしました。
「やあ、お嬢さん。何か悩み事でもおありかな」
私が葡萄酒に舌鼓を打っていますと、にかにかと愛想の良い笑顔を浮かべた男性の方が、私の隣にお座りになられました。
「どうしてそのようなことがわかるのですか」
私はお姉様のことで少し憂鬱としておりましたから、傍見からでは悩み、落ち込んでいるように見えたのかもしれません。
「横顔はね。口ほどにものを言うんだよ」
得意げに指を一本立ててそうおっしゃいます。その方は中嶋さんとおっしゃって、古美術の商いをされているそうなのでした。
「手を見せてご覧なさい」
糖蜜酒を一口いただいたところで私に中島さんが言いました。
「はい」
私は、グラスを置くと右手を差し出しました。
「うむ、良い手だ」
「そんなこともわかるのですか」
「ああ、こんなに柔らかくて白くて細くて、上品な手が悪い手のはずがない!」
中嶋さんは鼻の頭を赤くされておられ、すでにお酒をめされているご様子でしたが、半分瞼に隠れた瞳で真っ直ぐに私にそう言うのでした。私は、少し嬉しくなりました。なぜなら、幼少の頃、同じことをお父様に言われたことがあったからなのです。私は間食に出された林檎や梨の種を庭の端にいそいそと植えておりました。こんなほくろのようなものから大樹の元が生えるなんて!と子どもながらに信じられなかったのです。
初めて芽が出たのは林檎でした。私は嬉しくなって、種と見るや片っ端から庭に植えました。お姉様も面白がって私と一緒に植えましたが、お姉様が植えた種からは到頭、芽が出ることはありませんでした。摩訶不思議なことに私が植えた種だけから芽が出るのです。それをお父様にお話すると『優しくて良い手だからなのだよ』と褒めてくれたのです。
それは私の自慢でもありましたから、手を見るだけでそのような事がわかってしまうなんて!と、私は中嶋さんがとても良い人であると思いました。何より愛そう良い恵比須顔がそう思わせるのです。
「若いんだから、悩みなんて飲んで忘れてしまいなさい」
そう言うと中嶋さんは、注文したビールをぐぐっと喉に流し込みました。
「はい」
私も糖蜜酒を一気に飲み干すと、景気よくカウンターの上に音を鳴らしてグラスを置くと、さらに葡萄酒をお願いしたのです。
「よろしいよろしい。それでこそ若さだ、若さゆえに悩むのである!」
私と中嶋さんは乾杯を何度もしながら次々とお酒を楽しみました。こんな風に愉快なお酒をお姉様以外の方といただくのは初めてです。笑い上戸でいらっしゃる中嶋さんは赤い顔で頬を緩ませながら、
「若かさ若さとはなんだ!」と何度も私に問います。
「若さとは若さとは!なんでしょう?」
若い私にはその答えはわかりません。
「若さとは阿呆たることだよ。下手な浅知恵をつけて物事を決めてかかるより、好奇心のままに阿呆のごとく!まずは、飛び込んでみることだ。そうすれば物事の本質が見えてくる」
「阿呆ですか」私は目を丸めました。
「そうだよ。私はね、こう見えて今までに何度も偽物を掴まされて大損をして、泣き面をかいてきたんだよ。でもね、何度も泣いたからこそ、今の私があるわけだ」
中嶋さんは人生のなんたるかとご教授くださいました。私はまだまだお子様ですので、年配の方の人生経験は教本とすべく大切なお話なのです。私は何度も頷きながら中嶋さんの弁を一言一句聞き漏らすまいと真剣に拝聴しました。
「今日は良い気分だから、特別なお酒を振る舞おう」
すっかり赤ら顔の中嶋さんは、私の飲みくさした葡萄酒のグラスを取ると、中身を飲み干してから、カウンターの上に足下から取り出した一升瓶を自慢げに置きました。瓶には大吟醸と焼き印された札が組紐にてかかっております。大吟醸と言うお酒を私はまだ賞味したことがありませんでしたので、素直に心が躍りました。
「特別なお酒をよろしいのですか」
「いいんだよ、今夜はあなたのような美人と出逢えたことだし、これはめでたいことだ」
そう言って中嶋さんは瓶口に押し込まれてあったコルク栓を引っこ抜きました。相当酔っていらっしゃるのでしょう。私のことを美人などとおっしゃるのですから。
中嶋さんは「さぁさぁ」と言いながら、私の手の中にある空のグラスに大吟醸を注いで下さいました。グラスに注がれたそのお酒は一見して葡萄酒のように見えましたが、グラスの底からは気泡がゆらゆらと立ち上り、加えて糖蜜酒のような甘い芳醇な香りがするのです。
「私が口をつけたグラスです」
中嶋さんがグラスに注ぐ前に私がそう言うと「そっちの方が美味しくなるから」と笑っておられました。これには少し私の方が恥ずかしく思ってしまいます。
その後、私は中嶋さんと乾杯をしてから大吟醸をいただきました。
その時の感動は一生忘れることはでしょう。舌の上に流れ込むや、糖蜜酒の甘い香味が鼻腔へ上がって来るのですが、舌の上では麦酒のごとく苦く、かといってすぐに葡萄酒のような甘酸っぱい味わいが広がるのです。なんと言っても、炭酸の喉越しの良さと言ったらまるで三鞭酒のようなのです。私はこのようなオモチロイお酒をいただいたことがありませんでしたので、驚いて空になったグラスを眺め間抜けに口を開けていました。
「どうだい、面白い酒だろう?」
「はい、このようなお酒は初めてです」
そうだろうとも。と中嶋さんは私のグラスに大吟醸を気前よく、こぼれそうなほど注いで下さるのでした。
そして声を潜めて、
「この酒はね。幻の酒なんだよ。世界に二つと無い酒!作り手の気の向くまま腕次第で、味が二転三転するんだから」
と私にこっそりと教えて下さったのでした。
◇
下直な雑多酒を売りさばいた私たちは三条通を南下して、やがて通りの終点まで歩いた。
高直たる〝大吟醸〟を至宝と懐に抱える古平は、私の傍ら何度も嫌みな笑みを浮かべ、終点を示す赤煉瓦の駅舎が見えてきた頃には気持ちの悪い声までも漏らす始末であった。
「何を笑ってるんだ、気色悪い」
「そうですか?これでも緊張している体なんですけど」
緊張している者が「キシシシ」などと毒液を煮る魔女のような声を出すものか。
「まあ、今にわかりますって」
古平は妖怪のような顔を向けてそのように私に言った。
何を考えたのか、古平は無人の駅舎の中に入ると、一目散に便所へ向かう。「……今にわかりますって」とは便所に行きたかったのか。私はもう少しで憤慨するところであった。だが、まるで宮大工が建てたような頑丈そうな便所。屋根には鬼瓦まで備わっている。「何してるんですか」鬼瓦と睨めっこなどに興じていた私を古平が訝しんだ声で呼んだ。
線路に沿って作られた屋根とてトタン板だと言うのに、便所にこれだけの資材を投じてなんとする。
まだ一度として利用したことのない駅舎に文句を垂れながら、便所の中へ入ってみると、なるほどそこは便所であった。かけ離れた外装の中は、私にもなじみ深い悪臭が充満し、裸電球には蛾や蠅が群がり天井にはそれを喰らう蜘蛛どもが軒を連ねている。足下には蚰蜒が数匹、迷惑そうに私の前を通り過ぎて行った。身体のわりに足が長く、見てくれが悪いこの虫が家屋内の害虫を喰らう益虫であると滾々【こんこん】とかつ懇切丁寧に教授賜ったとて私は信じないだろう。
とにかく気色が悪いのである。
私が額に縦皺をこしらえている前には慣れた様子の古平が掃除用具の収納場所のような安っぽい合板だろうドアの取ってに手をかけていた。便所にしては銀色の金属製ノブなのである。いちいちこの便所は仕様が曖昧だ。
「留守かな」と古平が取っ手をガチャガチャとやっていると、「はいりなさい」嗄【しわが】れた声が聞こえたかと思うと、ドアがそよ風に撫でられたようにふんわりと開いたのである。
「お久しぶりです」
古平は会心の笑みを浮かべながらドアの中へ消えて行く。むろん私もその後に続いたわけだが、やはりこの便所は仕様が曖昧であると、私は今度こそ大いに首を傾げた。ドアを通り抜けると、そはまるで別世界。暗く汚い便所がまるで桃源郷に早変わりした趣である。目前には旧家を思わせる広い部屋であり、畳みの良い香りが開け放たれた障子から流れ込む風によって運ばれてくる。簾が揺れ、その先の背景は真っ青である。庭と思しき場所には向日葵が燦然と花を咲かせていた。
そんなバカなことがあるか。私は今の今まで夜の街を歩いていたのだ、それに菖蒲が咲き始めたばかりで、紫陽花の季節にすら早い。
「わしはな、夏という季節が大好物なんじゃよ。立ち話もなんじゃまず座りなさい」
揺れる簾の前にちょこんと座している老人が嗄しわがれた声でそう言った。煙管などを吹かしてなんとも粋な老人である。
私の足下にはいつの間にか、尻を乗せた次の瞬間には転げてしまいそうな南京のように分厚い座布団が敷かれてあった。
「お元気そうで何よりです」
「古平か。久しいな、今日はその酒か」
「はい、ついに幻の大吟醸が手に入りまして、僕が飲んでもよかったのですが、若い時分から舌が肥えてしまっても仕方ありませんから」
座するに苦戦する私を尻目に古平は手慣れた様子で南京座布団に座ると、早速、得意な口先八丁を唱えはじめた。
老人は「幻の大吟醸か」と一言呟いて、器用にも煙管の先に幾重にも煙で円を描いて、何やら思慮していた。
純和風の室内にあって、天井には満艦飾がはためいている。もしやこの仕様の曖昧さ……もしや便所もこの老人の所有物なのではあるまいな。
「ありがとうございます」
私が借りてきた猫よろしく、部屋の隅々にいたるまで鵜の目鷹の目と巡らしていると、ぬらりひょんが静かにそう言って、酒瓶を畳みの上にゆっくりと置いた。
古平がそうい言うからには、暗黙の内に売買の決着がついたと言うことだろう。雑多酒が大枚に化けたのであれば万事良い。しかし、少しは私にもわかるように交渉をしてほしいものである。これでは私がただの間抜けではないか。
「あなたは間抜けではありませんよ。むしろあの場では賢明だと僕は賞賛しますね」
再び、汚く臭くて蚰蜒の巣窟である便所へ戻ったところで、私の心の中を見透かしたように古平が言った。
「なんのことだ」
「下手になにか喋られた方が僕は困りました」
古平はそう言いながら、札束を扇のようにして見せたのである。いつ手に受け取ったのかなど色々と聞き及びたかったが、ともかく大枚に化けたのである、万事良しとせねばなるまい。この際、些細な疑問質問などは明後日の方向へ投擲【とうてき】するとしよう。
便所から出た私は今一度、鬼瓦を見上げるべく顔をもたげた。すると、緑青まみれではあったが長方形の銅板に『蚰蜒商会』と書かれてあるのがなんとか読み取ることができた。
◇
大吟醸を頂く傍らで、中嶋さんはますます饒舌となられ、人生の妙味、それに加えて古美術の魅力について語って下さいました。
「絵画の良さはわかるかね」
「私は風景画が好きです」
私の実家の応接間には西班牙【すぺいん】のラ・マンチャを描いた大きな絵画が飾ってあります。それは美しい絵画なのです。白壁の家や風車が点在する風景。先日読破いたしました、セルバンテスの小説『ドン=キホーテ』の舞台であると知り、並々ならぬ縁を感じたものです。
「うむ、風景も良い。しかしだね、絵画の真骨頂は裸婦画だよ」
語尾につれて甘く囁くようにおっしゃる中嶋さんは、そっと私の肩へ手を回しました。
「裸婦画ですか」
私は裸婦画を見たことがありませんで、今ひとつどのようなものなのか想像に欠けました。ですが。裸婦と言うのですから一糸まとわぬ女性の裸体を描いたものなのでしょう。
私は、見ず知らずの者にご自身の身の上話や人生のなんたるかを語ってくだる中嶋さんを尊敬しておりましたから、当然、中嶋さんは、いやらしい意味でお話されているはずがないと、疑うこともしませんでした。
「そうとも、裸婦画こそ浪漫と芸術の塊だね」
そう語りながら、中嶋さんはもう一方の手を私の太股の上に優しくのせます。
「今、私のことをいやらしい卑しい男だと思ったね!思ったろ!」
突然のことです。中嶋さんはそれまで私の耳元で囁くように裸婦画の妙味について語っておられたのですが、私の身体を揺さぶりながら少々声を荒げて、まるで赤子が駄々を捏ねるようにおっしゃられたのです。
「どうされたんですか?」
私は母親になったことがありませんので、駄々を捏ねる赤子のあやし方など心得ておりません。ですから、中嶋さんに揺さぶられるまま、そう言うしか出来ませんでした。
その夜、私は新調した洋服を着ておりました。スカートです。ですから揺さぶられますと、太股に当てられた中嶋さんの手がスカートを少しずつたくし上げ、ブラウスに伸ばされた手には、私のお乳が触れるのです。中嶋さんは美術を愛しお酒を愛し、明鏡止水の心をお持ちの方ですから。このような公衆の面前で破廉恥な行為に及ぶわけがありません。きっと、酔った折りに手元が狂われたのだろうと私は羞恥心よりも先んじ、くすぐったくて仕方ありませんでした。
「……あの手が……」
「手?」
「はい、手が私のお乳に当たっております」
「ああ、これはすまない。酔ってしまったかな」
そう言って、素面に戻られたように手を引っ込める中嶋でしたが、しばらく裸婦画に春画にと深く熱意をもって語られていますと「軽蔑しないでおくれ」と再び母にすがる赤子のように私のお乳と太股に手を伸ばされるのです。「軽蔑などしておりませんよ」と私は髪の毛を揺らしながらお答えするのですが、「嘘だ嘘だ」と信じてもいただけません。私はどうしたものでしょうと熟慮するのと同じくして、たくし上げられるスカートの裾をさり気なく直しては、お乳を揺らす中嶋さんの手がくすぐったいと身をよじって我慢をしていました。
すると、「またあなたですか、中嶋」と図太い女性の声が聞こえたのです。
「またとはなんだね。またとは」
中嶋さんと私が同時に振り向きますと、そこにはお姉様が立っていました。
「お姉様」と私は呟きます。
「なに、お姉様……」
誰よりも中嶋さんは驚嘆されますと、咄嗟に大吟醸を抱えました。
「そんなにお乳が好きなら、私のを揉ませて差し上げますわよ」
お姉様は同性である私が見ても息を飲むほど胸の辺りが形良くたわわとなっております。その胸を突き出すものですから、余計に大きく見え、ブラウスのボタンなどはち切れんばかりとなっております。その様子を拝見し、私は少し恥ずかしく思ってしまいます。同じお母様から生まれたと言うのに、どうして私のお乳はこんなに頼りないのでしょうか。
「そんなはしたない乳を私は好かん。慎ましいお乳が好みなのだ」
肩を落とす私の隣では中嶋さんがお姉様に向かいそう大声で話しております。「酒が不味くなる!」お姉様と言い合った中嶋さんは大吟醸を抱えて、さっさと逃げるようにお店を出て行ってしまいました。
「可愛い私の妹に手を出すなんて、信じられない」
中嶋さんが去った後、お姉様はドアに向かって舌を出し、そしてそう言いながら私の隣の席に腰をおろしたのです。
「お乳は減りませんよ」と私が言うと、
「一緒になる殿方以外の触らせても見せてもいけません」と怒られてしまいました。私が軽薄でした。
それはさておき、本日の主役であるお姉様が二次会を抜け出してもよろしいのでしょうか……私が口に出せないながらも目配せをしておりますと、
「無性に糖蜜酒が飲みたくなったの……外に車を待たせてあるから、大丈夫」とお姉様はお酒臭い息を吐きかけるのでした。
それから、お姉様をお相手に糖蜜酒をご一緒しました。乾杯をしてからお姉様がご馳走してくれるとおっしゃるので、私は嬉しくなって目に入ったお酒に手を伸ばして契りを結んで行きます。
お姉様はやはり糖蜜酒ばかりを楽しんでおられました。
しばらく飲んでいると、まだ数えるほどしかグラスをあけていないと言うのに、お姉様は虚ろな瞳でカウンターに横顔を触れさせ、私の方を見ました。おもむろにグラスの縁を指でなぞりながら、ほんのり桃色づいた頬をもたげて言うのです。
「ちゃんと恋をしなさいよ。恋をして本当に好きになった人と結婚するの。ずっと一緒に居たいと思える人とね」
私は悪酔いでもしたのだろうと思いました。ですが、もとより恋はしてみたかったので、「はい」と答えました。
「私みたいになっては駄目だからね」
お姉様の頬に涙が伝います。どうしたことでしょう。お姉様は今、寄り添って歩いて行くべく殿方と婚約を誓約され、幸せの絶頂にいらっしゃるはずなのです。なぜ涙などを流されるのでしょう。「私、今日は泣き上戸みたい」お姉様はそう続けておっしゃいましたが、お店中の糖蜜酒を飲み干すと豪語して私と熱く飲み比べをしたお姉様が酔っているとは思えませんでした。
「糖蜜酒に飲まれたような酔ったような。夢を見ているような心地で、なすところなくぼんやりと一生を終わらせたいわ」
糖蜜酒をこよなく愛されるお姉様らしい詩であると、私は感心いたしましたので、
「それは酔生夢死と言うのですよ」と私も負けじと生意気を言いました。
「さすがは大學生。私とは教養の質が違う」
「お姉様も大學生ですよ」
「そうだったわね」
私は後悔しました。年下である私がお姉様の詠まれた詩を汚すような教養をひべらかしたのです。能とはひた隠しにするものであって、自からひけらかすものではないのです。まして、親しき仲にこそ礼節が必要ですから、いずれにしても私の所行は大きく礼儀にかけているのです。
「ごめんなさい」私は謹直と素直に謝りました。
たとえ許して頂けなくとも、悔い改めんと思えばこそ、謝らなければいけません。真の愚者とは過ちて改めざる者を言うのですから。
「なんで謝るの?」
お姉様は不思議そうな眼差しで私の顔を見ておりましたが、私はこれはお姉様の優しさなのだとわかっております。
「お姉様は気分を害されていませんか。差し出がましいことを言いました」
「面白くて可愛い子ね、そんな妹が私は大好きよ。頭の良い妹をもって私は誇らしいわ」
お姉様は優しくそう言うと、私の頭を撫でてくれました。お姉様は私が褒められるようなことをすると、このように優しく頭を撫でてくれるのです。
私のお父様とお母様はとてもお忙しい身の上でして、私はあまりかまってもらえませんでした。ですが、幼少の頃からお姉様がいつも一緒に居て、私の相手をして下さいましたので、幸いなことに寂しいと思ったことはただの一度だってありません。
「でもね、私の方がお乳は大きいから」とお姉様はたわわと実ったメロンのようにぷっくりと膨らんだお乳を両手ですくい上げて私に言います。
「それは関係ありません」私はぷりぷりして言いました。
「あら、頭脳明晰には殿方は寄って来ないけれど、このお乳に殿方は喜んで寄ってくるのよ」
今日のお姉様は本当に悪酔いをされます。お姉様は普段、このような戯れは、はしたなしと、忌み嫌う淑女なのです。もしかしたら本当に酔われていたのかもしれません。
私はぷりぷりと怒っていましたが、久しぶりにお姉様とお酒を酌み交わし、内心ではとても楽しく思っておりました。でも、楽しい時間とは悠久に続くものではございません。終宴の時「私は帰るわね」とお姉様は席を立たれます。
もちろん親しき仲にこそ礼節は大切ですから、私は「ごちそうさまです」とお勘定に向かうお姉様にお辞儀をしました。そんな私にお姉様は、
「あれれ、御財布がない」と言いました。
「なんてことでしょう」
私は慌てました。お姉様にお勘定を甘えられると思ったからこそ、グラスを次から次へとやっつけたと言うのに、私のお腹の中に住まう鯨はどうしようもありません。
結局お姉様の御財布は出てきませんでした。
平常では決して大金の入っていない私の御財布にも、本日は祝いの席へ馳せ参じるとあって、予定外の出費があってはと大金が入っておりました。ですから、なんとか泣かずにお代をお支払いすることができたのです。
ですが、その代わりに私の御財布は大泣きです。これではこれ以上お酒を嗜むことはできません。バスで帰る運賃だけしか残っていないのですから。
でも帰れるのだからよいのです。そうです良いのです。私がお姉様にできる最後のお祝いなのですから。
◇
私は上機嫌であった。今世紀最大の上機嫌であった。思わず三条通に並べ広げたいほどの大金を手に入れたのである。古平が見せた紙幣扇は儲けの一部でしかなく、危うく私も騙されるところであったが、貧乏神が仕掛けた石ころに躓いて派手に転んだ古平のポケットから便所紙と見間違えるほどの札束が流れ出て来たのだ。
もちろん、私はその大半を拾い抱えるとそのまま脱兎と逃げようとした。だが「本来の山分け分はもっと多いです」と言う古平の言葉を信じて、踵を返した。
それは狡兎の企みであり、私が抱きかかえて逃げようとした紙幣からすると多少取り分は減ってしまったものの、依然として私の空財布に押し込んでも押し込められないほどの紙幣が手元に残ったのだった。したがって今、私のポケットは未曾有の金庫であり、いつ洗濯したかすら忘却してしまった汚いズボンとてこの界隈では最も汚くそして高価な代物へと変貌を遂げたのである。
読者諸賢。存分に私を羨んでほしい。
はたして、これを一枚一枚並べると何畳分あろうか、私の住処である四畳間よりは広いだろうか。だとすれば何ということか!紙切れごときに我が男汁の染みこんだ愛すべき四畳間を凌駕されてしまうとは!
私は浮かれていた。今世紀最大の浮かれようであった。
ゆえに歌も歌ったのである。作者も曲名も不明の名曲『ラヂオ体操セブン』である。この歌は、どこからともなく聞こえてきてどこからともなく去って行く。とても不思議な楽曲であり、詩なのである。私が入學したて、湯気が立っている頃より私の耳について離れず、ついには覚えてしまった。
「お前も歌え」
「それじゃ、僕は後から続きます。輪唱といきましょう」
「それは面白い」
この歌は輪唱でも独唱でも合唱でもなんでもござれの偏屈な楽曲であり歌でもある。
私と古平は肩こそ組まなかったが、輪唱でもって『ラヂオ体操セブン』を高らかと歌ったのであった。
今頃、どこぞの酒飲みが糖蜜酒と麦酒、葡萄酒と三鞭酒を混ぜた世にも奇妙な雑多酒をグラスなどに注いだ挙げ句、口にした次の瞬間には顔色を変えて吐き出していることだろう。そんな様を思い浮かべるとどうしようもなく愉快な気持ちになった。古平ではないが、他人の不幸とは、まことに蜜の味なのである。
酒飲みとはなんと阿呆なのだろうか!
私たちは『ラヂオ体操セブン』を十四番まで熱唱し、喉が渇いたので歌うのをやめた。
「古平よ。次ぎはいつだ」
こんな甘美たる汁ならば、毎日賞味にあずかりたい。いや、古平一人に吸わせるのは腑に落ちない。
「立ち飲み処へは近いうちにまた行きますよ」
「違う。蚰蜒商会へだ」
立ち飲み処での売買では割に合わなん。
「魯人にはもう売れませんよ。なにせ、幻の大吟醸と言って売りつけたんですよ。幻がそう何本もあるもんですか」
あの老人は魯人と言うらしい。
「次は伝説と言いかえれば良いだろう」
「わかってませんね」
何を言うのか、伝説と幻の違いくらい理解している。いずれも同義語であることも含めて。
「違います。あなたも僕と一緒に魯人の前に顔を出したからには、命綱なしで綱渡りをしているようなものなんです。万が一、あれが偽物だと気づかれたら、途端に僕たちの命は風前の灯火なんですから」
「待て、どういうことだ」
なんだその命綱なしの綱渡りと風前の灯火とは……そんな剣呑【けんのん】な橋を渡った覚えはない。こう見えて私の心臓は蚤よりも小さく、石橋など叩いて叩き過ぎた挙げ句、叩き壊す男なのだ。その私が生きるか死ぬか、一か八かの大勝負を挑むわけがあるまい。
「大丈夫ですよ。あの便所から無事に出られたんですから」
「答えになってないぞ」
「世の中には知らない方が幸せなこともあるんですよ」
意味深なことをほざきながら、せせら笑う古平を見ていると、冷や水を全身に浴びた心境となった私がバカであった。あの腰も立たぬ老人が全力で追いかけて来ようとも、一度走り出せば千里を駆ける赤兎馬のごとく、圧倒的な若さで勝る私が何を恐れようと言うのだ。私は天狗となって意気揚々と大手を降って歩いていた。懐が暖かいとはなんと素晴らしきことか。
意気揚々と三条通をひたすらに北上し、猿沢池の手前で、急に不思議な香りが私たちを取り巻いた。エチルアルコールのような、煙草のような、はたまた灯油のような、嫌悪感を感じつつも病みつきとなるような、そんな中毒性を窺わせる香りである。
「私は左に逃げますから、あなたは右に逃げて下さい」
「なんだ藪から棒に」
「もし捕まったら、あり金の全部を渡しさえすれば、明日も太陽を拝めますよ」
気色の悪い笑みを浮かべた古平はそう言うと、脇目も振らずに興福寺へ続く階段をひょいひょいと駆け上がって行ってしまった。
◇
私はお姉様と一緒にお店を出ました。三条通とは別方向に待たせてあった車までお姉様をお送りして、その別れ際「一緒に行く?」お姉様は私にそう聞いて下さいました。ですが私は「いいえ、今日はもう少し夜の街を楽しみたいと思います」とお断りしたのです。
「残念」
お姉様はそう一言だけを残して車を出しました。
私はお見送りをしてから踵を返し、再び三条通へ向かうことにします。すでに御財布は閑古鳥が鳴いておりますから、お酒を嗜むことはできません。ですが、せめて通りの雰囲気だけでも胸一杯にしたかったのです。
何せ今宵は私が一人で三条通を闊歩する記念すべき夜なのですから。
通りに出ますと、すっかり更けた夜の三条通には、善男善女が面白可笑しく通りを縦横無尽に歩いております。浴衣を着こなした旦那衆が格式高いお店の暖簾を潜って行きます。石畳の先にある優美は大凡私には想像もできない世界なのでしょう。片田舎と言えど、三条通は大人の大人による大人のための繁華街なのです。
私は南へ向けて歩こうと強く心に決めました。北側から歩いて参りましたので、今度は南側へ行ってみようと思ったのです。きっと私の度肝を抜くようなオモチロイお店が軒を連ねていることでしょう。
胸を高鳴らせて私が歩き出すと、不意にどこからともなく、愉快な歌が聞こえてきました。その歌は一様に「セブン!セブン!セブン!ラヂオ体操セブン!」と繰り返すだけなのですが、耳に残る軽快な曲調とさっぱりした音程。何よりも歌詞が覚えやすいのです。
私は中嶋さんの言葉を思い出しました。『若さとは阿呆たることだよ』そうなのです。私は若者ですから、阿呆でなければなりません。ですから、一度は南側へ向かうと心に強く決めましたが、このオモチロイ歌は北側から聞こえて来るのです。それでは北側へ向かわなければなりません。私は好奇心に背中を押されるまま、急いで振り向くと得意のロボット歩きにて愉快な歌の後を追いました。
私は痛快な歌を追って威風堂々と三条通を北上して行きます。はたしてどのような方が上機嫌で歌っておられるのでしょうか。気になります。耳を澄ませば、なんと輪唱をしているではありませんか。輪唱と言えばカエルの歌しか思い浮かびませんでしたから、とても新鮮に感じました。
声色から男性が歌っていることがわかります。もしも、私同様に年端も行かぬお方たちであれば是非とも、この歌をご教授していただきたく思いました。ですが、そう思った矢先、残念なことに猿沢池の手前で突然歌声が途切れてしまったのです。
私はロボット歩きをやめて走りました。もしかしたら、まだ近くにいらっしゃるかも知れないと思ったのです。私は走りました、ですが繁華街の始点であり終点でもある猿沢池には人っ子一人見当たりません。それはもう『三条通』と電飾の施されたアーチを境に別世界のようでした。
「お嬢さん。あなたもあやつらの仲間なのですかな」
後ろからそんな、嗄れた声が聞こえました。もちろん周りに誰一人いないのですから『お嬢さん』とは私のことなのです。
「いいえ。今夜は一人ですので、お仲間はいません」私は答えました。
「じゃろうな」
それは白い浴衣を着た御老人でした、背丈は私の腰辺りまでしかありません。それよりも私が気になったのは御老人の後ろに黒子が二人控えていたことです。歌舞伎などに登場するあの黒子です。
私は歌舞伎を拝見したことがありませんでしたから、初めて黒子を見たのです。
御老人は煙管を懐から出すと、合図を出すように指先を器用に動かして煙管を何度か回しました。すると、後ろに控えていた黒子が颯爽と駆けだし、私の前で華麗に二手に分かれたのです。二人の黒子が起こしたつむじ風に私はスカートと前髪をゆらゆらとさせながら、もしや黒子とは仮の姿で、その正体は伊賀者なのでは、と、すでに影も形も残っていない後ろ姿を探したのでした。
◇
私が異変に気が付いたのは、古平が逐電【ちくでん】して夜闇に溶け込んでからであった。何を今更を私が誰一人として見当たらない猿沢池を見渡し、最後に『三条通』と電飾が煌々と明るいアーチを見上げていた時であった。
アーチの脇の茂みから黒い塊が顔を覗かせたのである。黒い塊であるからして顔と言うのも些か意味が通らないが、人間であると仮定するならば、顔なのだ。その黒い塊は徐に立ち上がると、突然颯爽と私の眼前を通り過ぎたかと思うと、興福寺へ向かう階段を段飛ばしで駆け上がって行くのである。その正体は黒子であった。歌舞伎などで舞台上へ上がっておきながら姿は見えていない体で演者を支える、あの黒子である。
そして私は戦慄したのである。先程の黒子は古平を追って行ったに違いない。間抜け面にて佇んでいた私を差し置いてどうして古平を捕縛せんとしたのか不明であったが、これは私に逃げろという天啓に違いないのだ。
見れば三条通の方向から黒い髪の毛のような直垂のような、を靡かせながら走って来る人影があるではないか、私は脱兎した。古平とは反対方向へ駆けだしたのである。黒髪であったような、黒子の黒色ではないスカートを纏っていた気もしたが、今はそのようなことは関係ない。疑わしきは疑うべきなのだ。
猿沢池を半周して、奈良町に逃げ込むと、そこは廃屋が並んだ街のように水を打った静けさに包まれていた。石畳みの上を駆ける私の背中には確かに私以外の足音が聞こえるのだ。ここにきてなんだが、私は全力で前言を撤回をしなければならない。
私は赤兎馬ではなかった。千里など夢のまた夢であり、半里を駆ける前に胸に穴が開いてしまいそうな有り様であった。
ポケットが重い。風前の灯火となった私の命。黒髪の乙女と出会うことなく、また薔薇色の人生の欠片も見ることなくうやむやに消えてしまうのはどうしても合点がいかん。ならば、ズボンに重りなどを仕込んで肉体強化に興じている場合ではなかろう。
私は膨れるポケットの中に手を突っ込んだ。鉛が出るか、鉄くずが出るかと握られた紙切れを見ると、私は大いに顔を歪めることになった。鉛であれ鉄くずであれ、いや、この場面なれば缶詰であろうがカステラであろうが撒菱【まきびし】代わりにと平気で投げ捨ててやろう。しかし、尊敬すべき偉人とアラビヤ数字の印刷されたこの紙だけはどうしても投げ捨てることができなかった。投げ捨てさえすれば撒菱以上に撒菱らしい効果をもたらすであろうが、自慢ではないが私は欲望に忠実な人間なのである。
タクシーで我が愛する四畳間まで帰ってやろうと画策していた私である。明日辺りでも洋服を新調して乙女の集う喫茶店に行ってやろうと企んでいた私である。そして、フルーツ缶を押入に入りきらないほど、溢れるほど買い込んでやろうと目論んでいた私なのである!
ここで諦めてなるものか。タクシーも黒髪の乙女もフルーツ缶も諦められなかった私は、鉛のように重くなりつつある両足に鞭を打って走り続けた。
元興寺の門に背を預けて息を整えながら、追っ手の様子を窺った私は再び戦慄した。
なんと一呼吸の距離に黒子が大勢いるのである。狭い奈良町の道を塞ぐように騒然と群れる黒子ども。私はもう少し駆けようかと思案して次の瞬間にそれを諦めて、境内へと逃げ込んだ。
豆砂利が敷き詰められた境内に逃げ込んだ私は、武器になる物はと初めから自分自身に備わった四肢に期待することなく、辺りを見回した。そして絶望するのである。箒一本でも見つける前に、黒子衆に取り囲まれてしまったのである。キネマであるなら、ここで主役たる私が、愛刀虎徹を振りかざし華麗にかつ爽快に、ばったばったと黒子どもを切り倒して、決め台詞のひとつでも吐くところなのだろう。
だが、残念ながら、私の腰には虎徹もなければ立ち回る力も気力も残っていない。笑われてもいたしかないと思われるだろう。私はこの非常事態において『かごめかごめ』を連想してしまったのだ。
囲まれているのは鳥ではなく私であり、囲んでいるのは籠ではなく黒子なのだが。台風の来襲の中、外に放り出された灯火となりつつあるくせ、悠長にもそのように阿呆な余裕を醸すとは、私自身が気が付かないながら、潜在的には大物の素質を備えているのかもしれない。
この期に及んで自分を賛美してしまった私はやはり生粋の阿呆だ。
黒子たちは身動き一つせず、ただ私を囲んでいたが、やがて、顔を隠す直垂を握り、一斉にそれを夜空に投げ捨てると、素顔が明らかになった。おぼろ月夜の淡い光に映し出された素顔は獣であった。白地に三角形の耳が二つ、牙を剥かず上品に飛び出た口元。私は豆腐屋が開いていれば今すぐに油揚げを買って差し出せば、よもや解放してもらえるのではないかと目を疑った。みな一様に狐の面をつけているのである。
「面妖な」
私が呟くと、狐面どもは一斉に懐に手を忍ばせ「大人しく金を返せ、さもなくば大切な物を失うことになるぞ」とこもった声で言ったのだった。
「古平が全て持っている、私はしらん」
嘘も方便である。
「しかたないな」
明らかに不自然に膨れた私のズボンを見て狐面の一人が言うと「覚悟」とそれぞれが懐から得物を抜いたのである。
◇
「お嬢さんはお酒はいける口じゃろ」と聞かれましたので。「はい、特に葡萄酒を愛しております」とお答えしました。すると、「そうこなくてはのう」と魯人さんはおっしゃいました。
魯人さんに促されるまま、三条通を歩いて行きます。すると、魯人さんは何喰わぬ顔で旅館の中へ入って行かれました。その旅館を私は知っております。知っていると言えば烏滸がましいのですが、ご苦労な丁稚さんたちがリヤカーを置いたのがこの旅館だったのです。『稲荷』という名称であることもついさっき知ったところなのです。ですから、やはり知っていると言うのは間違いでした。
思わず『神社』と付け足したくなる名称だと私が一人で微笑んでおりますと、女将さん風の着物に金糸銀糸で可憐な花々を咲かせた女性が魯人さんと私を膝を折って迎えてくださいました。細い目元とぷっくりとした唇、結い上げた髪の後れ毛などはまさに大人の色気と言い表すに相応しいでしょう。長髪でありながら、私にはそう言った大人の色気がありません。親戚の方にお会いしても『可愛くなって』と言われるのです。嬉しいのですが、私とてお年頃を迎えましたので『麗しくなって』とお世辞にも言われたいのが乙女心なのです。
女将さんが直々に私をご案内して下さいます。お座敷の外を通るたびに三味線や歌やら笑い声など、あでやかで楽しげな様が伝い漏れております。これが甘美たる大人の世界なのですねと私が口元を綻ばしていますと、いつの間にか、大きなお座敷の中にいたのです。縦に長いお座敷の両脇は金色の襖で仕切られ、天井にはデパートで見たことがある万国旗がところ狭しとはためいています。まるで狐にでもつままれたようでした。
「おいでなさいな」
座敷の奥には魯人さんがすでにお酒を飲んでいらっしゃるではありませんか。お酌をするのはもちろん女将さんです。
「向日葵が咲いています」
南京のようにぷっくりと膨れ美味しそうな座布団の上に膝を折った私は、簾の外に黄色く燦然と花開く向日葵を見つけました。それだけではありません。今の今まで夜の街を歩いていたと言うのに、向日葵の上には真夏の青空が広がっていたのです。
「わしはな、夏という季節が大好物なんじゃよ」
目を丸くする私に魯人さんはそう言うと、くいっと絶妙に喉をならしておちょこを空にしました。
「お嬢さんは何を飲むかの」
「私は葡萄酒をいただきます」
私がそう言いますと。魯人さんは「大宴会じゃ」と大きな声を出して、膝をぺちぺちと打ち鳴らします。するとどうでしょう、両端の襖が一斉に開き、黒装束に狐の面を被った人たちが手に手に酒瓶やお料理を持ってお座敷の中へ入って来たのです。中には天井や畳みの下から姿を現すお茶目さんもいたりと、それだけでとても面白い見せ物でした。
私と魯人さんの前にお料理と酒瓶が並べられた後、すぐに半分以上の狐さんが襖に天井裏に畳みの下にと姿を消しましたが、残った狐さんたちは歌い出したのです。
「もしや魯人さんもこの歌をご存じなのですか」
「うむ、よう知っとるよ」
頬を赤くして気持ちよさそうに魯人さんはおっしゃいました。
狐さんたちは円を描いて、左手を腰に右手は拳をつくり高々と掲げたり肩まで下げたりと上下させながら、爽快に歌うのです。
「私もあのお仲間に入って歌いたいのですが」
「うむ、それではわしと一つ飲み比べをしようではないか、わしに勝つことができたら」そこまで魯人さんが言われますと、畳みの下から狐さんが、狐のお面とズボンを女将さんの前にそっと置きました。
「これをお嬢さんに差し上げよう」
「本当ですか!」
うむ。と魯人さんは頷いてから「じゃが、勝負に使う酒はこれじゃ」と私の前に一升瓶瓶をどっしりと置きます。その瓶には焼き印のされた札が組紐で掛けられてありました。
「大吟醸です」
「よく知っとるの」
知っているも何も、私は一刻ほど前に飲んでいたのです。糖蜜酒と麦酒、葡萄酒と三鞭酒を混ぜたような奇妙奇天烈な趣はまだ忘れるには早すぎると言うもの。私は是非もう一度、賞味してみたいと強く思って憧れておりましたから、まさに願ったりかなったりだったのです。
「わしはこう見えても、相当つよいぞ」と熊本生まれの熊本育ちであると自身の生まれを教えて下さいました。
ですが私は負ける気がいたしませんでした。もちろん魯人さんがご老体であり、私が今をときめく若者であるからではありません。私は今まさに狐さんの輪に加わり高らかに歌い踊りたいと切望し、大吟醸を心ゆくまで賞味したいと熱望していたのです。私は凛として言いました。
「私は必ず負けないでしょう」
◇
「それでは、勝負をはじめます」女将さんがそうおっしゃいますと、私と魯人さんは深く頷きました。大吟醸が湯飲みに注がれてゆきます。見た目は普通の湯飲みなのですが、その底には弓道の的のような模様が青色で描かれておりました。
「それではわしから」
そう言うと魯人さんは一気にお酒を飲み干し、湯飲みを逆さに向けて一滴も入っていないことをお見せになります。
「私ですね」
私は無色透明の大吟醸に少し落胆しつつ、色々種類があるのでしょうと、湯飲みを口へ運びました。その時の感動をいったいどのようにご説明すればよいでしょうか。一口、口の中へ流し込むと、辛くもなければ甘くもない。苦みもなければ酸味もない、そんな不思議な味わいでしたが、その軽妙な味わいの奥では鼻に抜ける芳醇な香りはまるで桜の花のようにほんのりと桃色に色づき、かといってしつこくなく。喉に感じる余韻は心地よく、その後、ゆっくりとお腹の中が微かに温かくなるのです。ほんのりと眠気を催すような極上の幸せを感じさせてくれるそんなお酒でした。
中嶋さんがくださった大吟醸のように面白く愉快ではありません。ですが、この大吟醸は高貴でありながら優しくまるで春の陽気のような素晴らしいお酒なのでした。このようなお酒を一息に飲んでしまうのは勿体ないと思いました。けれど、魯人さんをお待たせするのも悪いですので、私は一息に飲み干すと魯人さんに習って湯飲みを逆さ向けました。
「お嬢さんの知っている大吟醸とどちらが美味かの」
「甲乙つけがたいですが、こちらの大吟醸は幸せな味がいたします」と私が言うと、
「幸せのう」
魯人さんは気持ちの良いお顔で笑いました。
「はい、私の知っていた大吟醸は、とても面白くて愉快なお酒なのです」
「面白くて愉快な大吟醸のう」
魯人さんは湯飲みからお酒をこぼしながら、膝を打って大笑いされます。私はどうしてそのように大笑いをされるのかわかりませんでした。
「語る者は最も多く、口にする者は最も少ない。これがその大吟醸よ」と魯人さんはさらに声を大きくして笑います。その恵比須顔ったら、私も次第に楽しくなり、快哉【かいさい】ですと笑い声を上げてしまいました。
「愉快じゃ愉快じゃ」
「はい、それはとても喜ばしいことです」
そうです愉快なのです。口にするたびにお花が咲くように春の息吹が流れ込むように味わい深いお酒と、そのお肴には痛快な歌と踊りがあるのです。
「お嬢さんは酒の神に愛されとるのう」
「私もお酒を愛しておりますから、愛されているかもしれません」
「わしは振られてしょうもたわい」
そう言って空になった湯飲みを逆さに傾けられた魯人さんはその拍子に湯飲みを落とされてしまわれます。「大丈夫ですか」と私がお聞きしますと、「お嬢さんの番じゃよ」と懐から煙管と取り出して言われます。「はい」と私が湯飲みに注がれたお酒を飲み干すと、「あっぱれあっぱれ。わしはもう飲めん」
魯人さんは煙管を吹かしながら鷹揚と静かにそうおっしゃったのです。
「縁は意なもの味なもの」
魯人さんはそう呟かれましたが、私はお面をつけるのに必至でお答えすることができませんでした。
「行ってまいります」
私は晴れて、狐さんの輪の中に入って見よう見真似で踊りながら高らかに歌ったのです。
「セブン!セブン!セブン!ラヂオ体操セブン!」と。
◇
多勢に無勢、私は断言する。かの諸葛孔明であろうともこの戦況を打破するのは不可能であると。無論、私は精根尽き果てるまで戦い、死して名を残す奮闘ぶりであった。
狐どもは手に手に得物を持つとそれを一斉に私めがけて投げつけてきた。林檎くらいの達磨に水鉄砲、水風船に落花生、こんにゃく、中には一瞬油揚げかと思ったがそれは濡れ雑巾であった。とかく水分に完結する得物を私は一身に投げつけられ、たちまち私は濡れ鼠となった。しかし、私とて男子である。一方的にやられているわけにはいかない。足下にまたは頭に被さった悪臭を放つ雑巾や達磨や時には豆砂利とて投げ返してやった。腹が減ればこんにゃくと落花生を食いながら反撃に応じ、必要とあれば唾も吐いてやった。
このような不毛の上に不毛な争いを永遠と続け、いつしか私はもしかすれば勝利をこの手に掴めるかもしれないと勘違いをした。見事勝利したあかつきには門のあたりに黒髪の乙女が待っているのである。まさに大団円!誰もが立ち上がって拍手の嵐を私と黒髪の乙女に送るのである。そして私は大観衆の中で乙女の唇を盗むだろう。大観衆が大赤面することうけあいだ!
もはや錦の御旗はお札から黒髪の乙女との懇ろへと豹変し、のべつまくなしと応酬される不要品。私はとにかく息を荒くして力の限り投げた、私の投げた達磨が狐の面に辺り、「うにょ」とへんてこなうめき声が聞こえた。
「死にたい奴は前へ出ろ!」
私は得意になって咆哮をあげた。
しかしその直後であった、ふいに私の顔に白いものが覆い被さったのである。とにかく視界が真っ暗となる、そして運悪く振り払う前に私は息を思い切り鼻で吸ってしまったのだ。
するとどうだろう、酸っぱいような汗臭いようなとにかくこの匂いを筆舌することは文豪でも難しかろう。その匂いは何年も洗濯せず毎日、男汁を吸わせることによって完成する無比の激臭にして猛毒である。つけ加えるならば、私のズボンと同じ匂いであった。
そんな毒気を胸の最奥にまで吸い込んだ私は、河豚毒にあたった美食家よろしく、片方の手を喉にをあて、もう片方は手を門前で勝ち誇った私を待ち侘びている黒神の乙女に向けて伸ばし、そしてその場に倒れ込んでしまった。
投げるにことかいて、鼬の最後っ屁を投げるとは、それも予め用意してくるなどと、不届き狐め!男なら今この場で脱ぎ捨ててなま暖かいままを投げるべきであろう、それならば私とて敵ながらあっぱれと賞賛の中で力尽きることができただろう。私は「煮るなり焼くなりどうにでもしろ」と四肢を大ぴらげ文字通り、大の字となった。
豆砂利の上は妙に冷える。特に膝下が冷えた。
「このやろう、ばかやろう」
私は駄々っ子のように四肢をばたつかせて声をあげてみた。それは恐怖からではなく、何もしないでいることへのジレンマであったのだ。
そうなのである。すでに境内には狐どもの姿はない。そして私のズボンもなくなった。
悪辣【あくらつ】色狐どもめ、気でも触れたのか私のズボンごと金を持って行ったのである。 豆砂利かと思ったが、偶然、手の平の上に触れた異物を夜空の月と重ねて見ると、それは落花生であった。
「けしからん」私は激昂した。
そもそも、食い物を粗末にする所行からして許せん。八百万の神に頭を下げ、農家にどけ座し、そして私の前にひれ伏すがいい。そうでなければ、私は八百万の神と農家に成り代わり天誅を下す役回りを拝命することだろう。落花生はまき散らしたまま去ったくせ、こんにゃくはしっかり持ち帰っている。
なぜこんにゃくも捨てて行かん!落花生では腹が膨れんではないか!
私は怒った。しかし、パンツを露出した似非文明人の私の弁に誰が耳を貸すだろうか。不逞狐どもに天誅を下す以前に、私が社会的制裁を加えられる方がよほど現実的であり、実現性が高いのである。
ズボンを奪われた私は、玉響も休むべしとしばらく境内にて、まな板の上の鯉を演じていたが、湿ったシャツと豆砂利に背を殴られ、仕方なく立ち上がった。
恐る恐る門から外を覗いて見ると、そこに黒髪の乙女の姿はなかった。大いに落胆した私は、力無く双腕をたらして通りに出た。考えようによってはこんな破廉恥な姿を見られずに済んだのである。だが、愛し恋しい黒髪の乙女なのだ……一目この目に焼き付けたかった。
私は帰ることにした。
◇
盆踊りのように永遠と『ラヂオ体操セブン』に興じていた私ですが、さすがに少しお酒が恋しくなってしまいましたので、魯人さんの元へ戻り、さっそく葡萄酒をいただきます。あまりに気持ちが良いので、あっと言う間に一瓶を空にしてしまいました。
「お嬢さんはいったいどれくらい飲むんじゃ」魯人さんが煙管を吹かして私にそう聞きます。
その台詞は初めてお姉様とお酒をご一緒した際、お店のご主人がお姉様に向けて言われた台詞でした。その時、お姉様はさらにグラスを一杯、空にしてから勇ましくお答えになられました。その様はまるで女傑、一丈青のごとく。その姿に私は憧れておりましたから、「そこにお酒があるかぎり」私はむんと胸を張って言いました。
「心意気のよい娘さんじゃ」
私は念願叶った悦楽も相俟ってますます、上機嫌となって葡萄酒をいただくのでした。
魯人さんの傍らでは女将さんが大吟醸を嗜んでおられます。正座を崩して片手を畳みに触れながら、湯飲みの縁に紅を差した小さな唇を触れさせては少しずつ香味をお確かめになっておられるようです。
なんと妖艶な姿でしょうか。慎ましくも上品に、かといって華麗に、まさに真善美のなんたるかを語らずとも見せつけられた面持ちでした。私はお水のようにお酒を飲んでおりましたから、恥ずかし思うのです。
「縁は異なもの味なもの」女将さんは見つめる私に気が付いて、そう言ってふんわりと微笑みました。
「嬉しいかぎりです」私はお答えします。
今宵は私にとって繁華街を一人で闊歩した記念日でした。ですから、こんなにオモチロくも優美な宴に魯人さんや女将さんとのご縁に恵まれたことは喜ばしくも悦楽至極です。 これも中嶋さんの教授を素直に聞き入れ、阿呆たらんとしたがゆえの不思議な出会いなのでしょう。
私は確信したのです。若さとは阿呆たることであると!
夢のような宴は続いております。ですが乙女の慎みとして朝日が昇る前には寝床へ入っておかなければなりません。
「今は何時でしょうか」私が尋ねますと、
「三時十六分です」女将さんが袖から懐中時計を取り出して見せてくれました。
「申し訳ございませんが、私はそろそろ失礼させていただきます」
私は長い後ろ髪を引っ張られる思いでしたが、葡萄酒をぐいっと飲み干してから立ち上がりました。
「そうかい、それは残念じゃな」
「はい、折角の楽しい宴ですのに、本当に残念です」私は言います。
いかに楽しく愉快であろうとも、慎みを忘れては乙女の恥なのです。高貴たる必要はありませんが、乙女となったからには、慎みと恥じらいをもっておかなければいけません。
『小さき感謝と勘違いは清く正しい人生を彩る』のです。
「忘れ物じゃよ」
私が女将さんに続いて座敷を後にしようとした時、魯人さんが私を呼び止めました。私は頂いた狐のお面をしっかりと携えておりましたから吃驚して振り返ってみると、魯人さんは煙管で無造作に置かれたズボンを指しておられるのです。
「これも私が頂いてよろしいのですか」
「ちと臭うがな」
ズボンを持ち上げて、鼻を近づけてみますと、酸っぱいような汗臭いような、とにかく摩訶不思議な匂いがします。摩訶不思議な匂いではありましたが、それはやはり臭かったのです。このズボンの持ち主はお洗濯などしていらっしゃらないのでしょうか。それとも、お洗濯をする暇がないほどお忙しい身の上なのでしょうか。
私はズボンを折り畳むと、腕に掛けて「今宵は本当に楽しい宴をありがとうございました」と魯人さんと、いまだ踊り続けられている狐さんにお辞儀をいたしましてから、廊下へ出ました。
あれほど賑やかであった数々のお座敷は水を打ったように静謐【せいひつ】としております。
「皆様はお帰りになられたのですか」と私がお聞きしますと、
「ここは旅館ですから」目尻を下げて女将さんはそうおっしゃいました。
「すっかり忘れておりました」
そうなのですここは旅館だったのです。
「このような刻限ですから、もしお帰りの足がございませなんだら、その面を被ってお待ちなさい」
女将さんはわざわざ私を玄関口まで送って下さると、そう言いながら靴を履いた私にお面とズボンを渡してくださいました。
「お心遣いありがとうございます。ですが、バスで帰りますから大丈夫です」
私は女将さんにお辞儀をしてから、そっと通りに出ました。
繁華街と言えど、黎明の近づく頃となればお店の火も落ち、人通りもまばらとなっております。私は大吟醸の余韻と大好物の葡萄酒の余韻とが相俟って、とても心地よくバス停へ向かいました。そして「セブン!セブン!セブン!」と高らかに歌うのでした。お面とズボンがなければ、しっかりと覚えた振り付けで完璧な『ラヂオ体操セブン』を道行く方々に披露することができたのです、それが少し残念でした。
ですから、せめて高らかに歌いながらバスの停留所まで歩いたのです。
三条通りの途中を東側に曲がり商店街を抜けると、停留所があります。夜明け前のこの時分ではすれ違う人もいなければ、商店街を歩いている時などはまるで無人の野を行くがごとく人影がありません。私は武芸の心得もありませんし、とりわけ、幼い頃よりお化けがたいへん恐い性分ですので、ぼんやりとした朧月を見上げながら、寂しくないようにとさらに大きな声で歌いました。
商店街を抜けて、左側に曲がりますと、すぐ停留所のベンチがあります。私は、喉を休ませると同時にベンチに腰掛けて、バスを待つことといたしました。腰を据えるとお尻が安心したのか、ほろろと気持ちのよい眠気が上がってきます。このようなところで眠ってしまうのはよろしくありませんので、私はぐっと我慢しました。
ですが、眠たいものは眠たいのでした。バスが来るまでの間だけと、ゆっくり瞼を閉じて、すぐに開き、急いでお面を被りました。
もしも、通行人の方などに、涎などを垂らしている寝顔を見られるのは恥ずかしいことです。乙女の慎みに関わるのです。お面を被っていれば、そのようなことはありえませんから、安心して涎を垂らせるのです。
そうして、私はバスが来るまでも束の間、瞼を閉じていたのでした。
◇
奈良町へ踊り出た私は、この無軌道な姿を人に見られまいと看板に隠れ、電信柱に隠れ、と尾行する探偵よろしく誰もいない町の中をいそいそとバスの停留所へ向けて進んでいた。片田舎の嵯峨だろう、夜中ですら人影がなりを潜めるのである。こんな深夜に出歩く阿呆がいるはずがない。いや居た。それは私以外の何者でもない。その私は紛れもない変態の格好でかつ泥棒のようにこそこそとしているのである。
私は考えた。こそこそとしているからこそ、疑いを招くのであって、堂々としていれば、さもそれが当然であると傍見【ぼうけん】者たちは信じるだろうと。たとえ罵られようとも蔑まれようとも、それは私が先駆者であるがゆえの苦悩なのだ!
私は無理矢理にそう思い込み、隠れることをやめひっそりとひんやりとする奈良町の中を闊歩してやるとむんと胸を張った。
さすがに三条通を横切るのは末恐ろしいと、私は奈良町を南下して駅舎前の道路からバス停へ目指すことにした。
雨も降っていないと言うのに道には故轍【こてつ】の足跡が数多残っている。明かりの落ちた赤煉瓦の駅舎を苦々しく横目で見ながら、電飾が煌々と輝くアーチの手前で立ち止まった私は、いちよう通りに淑女がいないかどうかを確認すべく、顔を覗かせた。すると、私の顔のすぐ下に足があったのでとてつもなく驚いた。私は幼少の頃よりお化けがとても恐い性分なのである。
なぜにこのようなところで寝転んでいるのか。
見ればピエロのように鼻を赤くした酒飲みの成れの果てであった。酩酊したあげく、石畳の上で機嫌良く寝息を立てるなどと随分な身分である。太鼓腹まで覆われたズボンは容易にして疑いもなく私の下半身を覆うに事足りるだろう。私は何度も頷いてから、さっさと通りを渡った。
いかに下半身が冷えようとも私の誠はズボンごときに揺らいだりはしないのである。蚤の心臓にて心配していた私を尻目に、誰一人として人はいない。古の孫子の兵法書にある『まるで無人の野を行くがごとく敵するものなし』という趣である。
少し歩くとようやく、バス停を照らす裸電球の明かりが見えてきた。
「なんでだ」私は呻くように声を漏らした。
頼りない明かりの下には人影があったのである。ベンチに背を持たせた人影の膝辺りには、ひらひらと揺れているものが見当たるではないか。私はひとまず郵便ポストに身を隠して様子を窺うことにした。
乙女であるらしい人影は、微動だにすることなく人形のように端然とベンチに背を預け佇んでいる。
どうしたものか。このまま走り抜けても良いが、悲鳴の一つでもあげられたなら、たとえ顔を見られずとも、私の一番大切な部分が八つ裂きにされたあげく、ふやけた天かすのようになってしまうのは必定だ。かといってこのまま郵便ポストに隠れたままと言うのも下半身が寒くてかなわん。
私が眠気に蹂躙され、働きの鈍くなった脳みそを総動員して熟慮していると、脳天に水滴が落ちてきた。私が見上げると、それは雲一つない夜空から降ってくるのである。不思議なこともあるものだと軒下に避難すると、それと同時に、金タライをひっくり返したように、雨が地面を容赦なく打ち据えはじめたのである。私は眉を顰【ひそ】めながら、迷わずベンチの乙女を心配した。
しかし、乙女は雨に打たれていなかった。それは裸電球とてベンチとて同じこと。雨はまるで私の行く手を遮るように、降り頻っているのだ。家屋の住人がご丁寧にも二階から嫌がらせをしているのかと訝しんでみたりしたが、そのうち、三条通の方から鈴の音が聞こえてくると私は背筋に冷たいものを感じて、濡れるのもお構いなしに郵便ポストの影に身を隠した。
しゃんしゃん、と一定の調子で鳴る鈴の音。やがて、ほのかな明かりもあらわれた。それは提灯の明かりであった。奇妙であるのは、足下よりも遥か高いところに巨大な提灯が掲げられ、舌のような赤い布が垂れているのである。
鈴の音が目前に迫ると、提灯の明かりに照らされた狐の面が見えた。あの忌まわしき狐どもである。ここで飛び出して一矢報いてやろうかと、私が腑を煮えたたせていると、朱色の駕籠が通ったのである。大名行列でも見ているのかと私は目を擦って大きく見開いた。
駕籠について歩く振り袖を着た長い髪の女たちは結い上げた髪に鼈甲の簪をたいそう挿し、まるで花魁のように凄艶【せいえん】であったが、やはり顔には狐の面をつけている。私は気分が悪くなってきた。なんだこの現実ばなれした光景は。間抜けに口を開けている私はまもなく仰け反った。
華やかな行列が通り過ぎると、突然雨は止んだ。いや、消えた。地面にはその痕跡を残しておらず、私の髪の毛も衣服も何もかもが濡れていないのである。私はその場に胡座をかいて頭を掻いた。今夜は確か酒を飲んでいないはずだぞ。と首を傾げていると、その内、雷のような音を響かせて大八車がやって来た。
やけに明るいなと思って見ていると、どうも様子がおかしい。その明かりは明瞭に提灯ではないのである。しっかりと炎であり、ゆらゆらと前後左右を縦横無尽に飛び回っている。それが幾つも夜空を舞っているのである。暗闇の中を飛ぶ蛍のように……
そんなばかなと私は、だんだんこれは夢ではなかろうか、いや夢であろう。そう結論づけようとした。そんな頃合い、調度、大八車が私の目前を通り過ぎるところであった。大八車には一本の一升瓶が四方から縄でもって固定されてあった。その一升瓶には焼き印で『大吟醸』と刻印された札が組紐にてぶら下がっているのである。
「なんと」
声を漏らした私を誰が責めることができるだろう。あの大吟醸は古平と私が魯人氏に売った雑多酒ではないか。どうして狐どもの手に渡っているのだ。
大八車を引く狐面が私を見据えて足を止めた。車軸が軋み大きな車輪が回転を止める。面のくせに瞼が動くのである、気色の悪いことこの上ない。私も負けずと狐面を睨み返す。対峙するのであれば、私の方が肝が座っている。こんな醜態を曝してなお、羞恥心が薄れてゆく昨今はすでに開き直りの境地である。
しかし、狐面はいやらしく笑ったのだ。のぞいた並びの良い金色の牙、私も虫歯だらけの歯を剥き出してこれを牽制する。しからば、動いたのは謎の炎玉である。好き勝手に宙を舞っていたそれらは、意思の疎通をはかったがごとく、車輪の回りに一列に並ぶとたちまち車輪が燃えているかのようになった。それを待っていたかのように車輪全体が焼き餅のようににわかに膨らんだかと思うと、ある所は血走った目玉に、または筒を曲げたような口に、鼻に。みるみる間にひょっとこの顔ができあがったのだった。
それだけではない、ひょっとこの血走った目玉はそれぞれが時計回りにぐるりぐるりと回り、筒状の口からは舌の代わりに火柱が立ち上る。
私は仰け反った、そして持てる力を用いて後ずさった。俗に言う火車ではないか、私は亡者ではない。ゆえに地獄へ拉致されることはないだろうが、なんだこれは、これはなんだ。
狐面は恐れおののく私の姿を見て、無言にて腹を抱えて笑っていたが、やがて今一度私に金色の牙を見せた後、何ごともなかったかのように、大八車を引いて行った。
私はと言うと目元を痙攣させ、生唾を飲み込み、頬などを抓ってみたり頭をひっぱたいてみたりしていた。
◇
今晩は少し冷えます。ですから、私は手足の指先などが気になって時折、目を覚ましたりしておりました。ですが、お腹や顔などは近くにストーブがあるかのように火照っておりましたから、頬を撫でる冷たい微風と気持ちよく、また微睡んでしまうのです。私はせめてもと、両手をお腹のところへやります。
私はお腹の弱い子どもでしたから、寝間着に着替える時は必ず毛糸の腹巻きをしておりました。お母様の手編みの腹巻きです。その習慣からか、今でも腹巻きをしなければ眠ることができないのです。
お姉様は「お子ちゃまね」と笑いましたが、私は一向に恥ずかしくありません。なにせ、腹巻きをして寝ているおかげで幾星霜と寝冷えをしたことがないのですから。
もちろん、手元に腹巻きはありませんから、せめてもと手を置いたのです。
何度目でしょうか。目が覚めた時、目の前に狐のお面をつけた女性が立っておりました。
虹色の花々が咲き乱れる絢爛豪華な柄を宿した振り袖を身に纏っておられる女性は結い上げた髪に鼈甲の簪を何本挿しております。まるで花魁のように煌びやかでありました。
「もし、お乗りになられますか」
「はい。こんな夜分にご苦労さまです」
こんな夜分に運行されるバスガールの方でしょうと、私はゆっくりと立ち上がります。
「お頭にお気をつけ下さい」
それは私の知るバスではありませんでした。しいて言うなれば、キネマで見かけるお大名が乗る駕籠のようです。
「これは本当にバスですか」
私は瞼を半分しか開けられないまま、はっきりとお聞きしました。もしや、タクシーではないかと不安になったのです。乗せて頂くのはたいへん有り難いことですが、私の御財布には十分なお支払いができるだけの金銭がないのです。
「はい、夜分ですので特別なのですよ」
「そうですか」
私は安心して、添えられる手に助けられてバスに乗り込みました。中は真っ暗で何も見えません、ですが、背中もお尻もふわふわとして、まるでお風呂につかっている趣なのです。
「発車オーライ」
外からバスガールさんの声が聞こえますと、バスはゆっくりと動き出しました。狂騒と五月蠅いエンジン音もなければ縦に横にと激しく揺れることもなく、すばらしい乗り心地です。
「ご苦労様です」
私は感謝の気持ちを口にしてから、終点までの玉響を微睡むことにしたのです。
◇
悔しいが、これぞ狐につままれたと言う心境である。百鬼夜行が通り過ぎた後、後続は現れず、一駆けしてみたが大八車も大名行列も乙女の姿も神隠しのごとく姿をくらましてしまっていた。
ただ、ベンチの上に端正に折り畳まれたズボンが一、置かれてあったのである。乙女の忘れ物かと思いつつ、手にとって見ると、仄かに芳醇な太陽のような落ち着く香りが私の鼻腔を席巻し、私は恍惚【こうこつ】となった。そして確信したのだ、妙齢たる乙女の崇高たる香りに違いないと。
塗炭【とたん】な目にあったとて、八百万も神がいれば捨てる神があれば拾う神もいるのである。八百万万歳!
しかし、現実とはかくも厳しいものである。乙女の香りに私が癒されるのと間をずらして、怒濤のごとくと酸っぱいような汗臭いような、とにかく悪臭が闖入してきたのだ。そして私は確信した、この男汁の匂いは紛れもなく私のズボンであると。ポケットをまさぐってみると、紙幣は泡と消えており、出てきた見覚えのある財布の中身も小銭を残して紙幣は影も形もなかった。
とは言えズボンと財布を取り戻し現状回帰を果たした私は、我が愛すべき四畳間へ向けて歩き出したのである。どうせ一本道なのだ、この分で行けば歩いたとて夜明け頃には万年床へ倒れ込むことが叶うだろう。
私は次のバス停の明かりを目印に轍【わだち】を平均台に見立て、両腕を広げバランスを取りながらとぼとぼと歩き出した。
◇
「お気をつけてお帰り下さい」
「お心遣いに感謝いたします」
バスガールさんに手を添えて頂いて私は終点のバス停のベンチに腰を降ろしました。とても眠くて仕方がなかったのですが、せめて御礼の言葉くらいは言えないでどうしますか。呂律【ろれつ】には自身がありましたので、しっかりとお伝えすることができたと思います。
「それではいずれまた」
バスガールさんはそうおっしゃって、バスを発進させました。鈴の音が次第に遠のき、やがて聞こえなくなりました。私は少し寂しい面持ちとなりましたが、目の前が朦朧としておりましたから、余計に寂しく思えたのかもしれません。なにせ、親切なバスガールさんのお顔が狐に見えてしまったのです。なんと失礼な私なのでしょう。
「お嬢さん、こんなところで何をしているのですか」
「これは松永先輩ではありませんか。今お帰りですか」
着替えられたのか、浴衣姿の先輩がおられたのです。
「ええ」
「それでは同じバスだったのですね」
「そうだろう」
今夜お姉様と婚約された松永先輩が私の前に立っておられました。先輩はこんな夜分だと言うのに、お酒の匂いもさせずに佇んでいるではありませんか。
「随分と酔っているようだ、そこの屋台で休もうと思うが、いかがかな」
「ご一緒いたします」
先輩が指さす先には『猫』と書かれた赤提灯が下がった屋台が商いをしておりました。夜分に殿方のお誘いを受けるなどと、乙女の慎みに欠けるのですが、お相手がお姉様の婚約相手の松永先輩でしたから、私は先輩とご一緒することにしました。
白地に『油』と黒く染め抜かれた暖簾を潜ると、そこにはたいへん広いお座敷が広がっているではありませんか、両脇の襖は銀色に輝き、天井にはシャンデリアが煌々としております。雪見障子の向こうは愉快にもお魚が空を泳いでいるのです。
「空魚だよ」と私に先輩は言いました。
「初めて見ました」
昔、縁日の金魚すくいで私と出会った金魚に『ぱっちょん』と名前をつけて飼っていたことがありましたが、ぱっちょんは決して空は飛びませんでした。ですから、私はお魚は空を飛ぶ生き物ではないと思っておりました。ですが、この広い世の中ですから、空を飛ぶお魚の一匹や二匹がいてもおかしくはありません。
いえ、このお座敷から見ただけでも、数十匹はいました。
お座敷の中央には杯と一升瓶がおかれてあります。先輩は杯の前に腰を降ろすと、「あなたもどうです」と私を手招きました。今夜はお酒をたくさん頂きましたので、お断りしようと思ったのですが、一升瓶には組紐にて焼き印の押された札がかかっていたのです。何ということでしょう!私は並々ならぬ縁を感じずにはいられません。
大吟醸と焼き印された瓶の前に膝を折った私は、まず先輩の杯にお酒を注ぎました。
「このお酒はね。今し方〝稲荷〟から届けられた幻の酒らしい」
「お稲荷さまですか?」
「魯人と言えばわかるかな」先輩は杯を口に運んで言います。
「はい、魯人さんには今夜とても美味しいお酒を頂きました」私は手を合わせて言いました。
「そうだ、私と飲み比べをしないか」
「飲み比べですか」
私は困ってしまいました。今一度あの感動を嗜みたいとは思っておりましたが、仮にもゆくゆくはお姉様の花婿となられる先輩に妹である私がそそうをしてしまいますとお姉様を困らせることになるのです。
「もし、君が勝ったら、私はお姉さんとの婚約を破棄しようじゃないか」
先輩は私の前に置かれた杯にお酒を注ぎながら言います。
「何をおっしゃるのですか。そのようなことを冗談でもおっしゃってはいけません」
私は杯を畳みの上に置いて、凛として言いました。通わされた清く美しい想いを戯れの賭けにするなど不謹慎です!
「君も知ってるはずだ、お姉さんが私との婚約を望んでいないことをね。全ては君のお父さんの思いなのだよ」
口もとを綻ばせて言う松永先輩を私は心から軽蔑いたしました。いいえ、私は泣きたくなりました。真実であろうとも『愛している』と一言言い続けてくださればお姉様も幸せなはずなのです。乙女は幸せなはずなのです。
「松永先輩はお姉様のことを愛しておられるのでしょ?」
「あいにく俺は、女にふじゅうしたことがないのでね」
松永先輩はそう言い切ったのでした。
なんと言う不埒な殿方なのでしょう。私は顔に出さずともお腹を煮えたぎらせました。
会場での幸せそうな様子は嘘だったのです。微笑みかけていた先輩は偽物だったのです。ですから、お姉様は私の前で涙をお見せになられたのでしょう。
私は最低な妹です。お姉様のことを一番理解していると思っていたにもかかわらず、それはただの思い込みだったのですから。
「私は必ず勝つでしょう」正義女と燃えた私は杯を持つとそれを一気に飲み干して見せたのです。
「趣があるな」
と先輩は懐から猫のお面を取り出すと顔に被りました。そうでした、私はお面をつけていたのです。
お面をつけたままお酒は頂くことはできません。ですが、今宵は頂くことができたのです。まるでお面と私の顔が一つになったように、私が口を開けばお面の口がひとりでに口を開けるのです。それは先輩も同じ様子でした、ただ、猫の額よりも狐の額の方が大きく顎も長いですから、慣れるまではお洋服を汚してはと、私は杯を持ち上げてから躊躇をしてしまいました。
「君の腹の中には鯨がいるのだね」
「どうしてご存じなのですか」
「ここに来る前にもたいそう飲んでいたようだから」
私ははっとなりました。確かに私は先輩と飲み比べをする以前よりお酒を飲んでおりましたが、そのいずれの席にも先輩の姿はなかったはずでなのです。
「猫は額は狭いが、顔は広いのだよ」
「私は犬の方が好きです」私は言いました。
「狐の顔で犬とな。これは面白いことを言う」
私は君の方が好きだな。と先輩は高笑いをしました。私は「むん」と声に出して不快を顔に出しました。ですが、お面をしていますので、私の不機嫌は先輩に届かないことでしょう。
楽しくないお酒は愉快ではありません。
せっかくの大吟醸も魯人さんと飲んだものと味が格段に劣るのです。まるで焼酎で薄めているような、混ぜ酒をしているような。それとも、私の舌がおばかになってしまっているのでしょうか。
「私の百年の望だと言ったら負けてくれるかい」
先輩は呂律をはっきりとおっしゃいました。
「先輩が百年の望と言われるのら、私の勝利こそ乙女の悲願です」
乙女の純情は百年や千年では語れません。一生に一度、そう一生涯に一度しかないのです。ですから、私は負けるわけにはいきません。まして、負けて差し上げるなど言語道断なのです。
「私は必ず勝つのです」私は続けてはっきりと言いました。
「可愛い顔をして、油断した私が迂闊であったよ」
そう言うと、先輩は杯を手の上からぽとりと落とし「君に負けたんじゃない。君の飼ってる海獣に負けたのだ」と敗者の弁をも畳みの上に落としたのでした。
私はそして勝利を手中に収め、敬愛するお姉様の純情を身を挺してお守りしたのでした。
「ラヂオ体操セブン!」私は右腕を威風堂々と掲げ、勝利の咆哮をあげたのでした。
本来なら勝ち鬨をあげたいところなのですが、乙女である私に、いえ、私のお腹に住んでいる鯨に敗北してしまった先輩のお立場を考えると、素直に心情を発することは憚ります。ですから、私は覚えたてほやほやと湯気の立つ『ラヂオ体操セブン』を高らかに歌い、そして先輩の周りを踊り歩きました。
先輩は項垂れたまま、一度として顔をあげることはしませんでしたが、「チッ」先輩は舌打ちをしてやっと顔をあげました。しかし、その目線の先には私は居ません。なぜなら、私は丁度先輩の後ろで踊っていたのですから。
「大団円じゃな」
そう言ったのは魯人さんでした。彼は煙管の代わりに『天晴れ』とかかれた扇を片手に微笑んでいらっしゃいます。その隣には旅館の女将さんと花魁のような出で立ちの妙齢な女性が佇んでおりました。
「しかたあるまい」
先輩は娘さんを見つめておりましたが、苦々しくそう言うと立ち上がり、わざわざ魯人さんと女将さんの間を通り抜けて暖簾をくぐりました。
「何ということでしょう」
私は一部始終を見ておりましたが、ついに顛末を理解することができませんでした。ですが、先輩が座敷から姿を消した途端、天井から桃色の小さくて可愛らしい花弁がまるで雪のようにゆらゆらと舞い落ちてくるではありませんか。私は踊りをやめて、手の平を翳します、すると、無数の花弁が手の平の上にのっては溶けてゆきました。
このように心が洗われるほど感慨に浸ったのは幾星霜ぶりでしょう!
「これで、忌まわしき百年の盟約にて猫に娘を嫁がせずにすみました。なんと御礼を申し上げたらよろしいでしょう」
女将さんはそう言うと温順恭謙とお辞儀をするのでした。
「本当になんと言って御礼を申し上げればよいか……本当にありがとうございます」
女将さんと同じくお辞儀をする娘さんは私にそう言いながら、声を震わせて御礼を言うのです。
「最後に正義は必ず勝つのです!」私は拳を突き上げて言いました。
私はお姉様の為に飲み比べたわけですが、私の行いで娘さんをも救われたというのであれば万事は万歳なのです!
「これで百年は大丈夫じゃな」
「いいえ。乙女の純情は千年万年守られるのです」私は言いました。
かかかっ、と魯人さんが笑います。
「これからお嬢さんは猫に嫌われ、狐に好かれるじゃろうのう」魯人さんがそうおっしゃられますと「その通りです」と女将さんは口もとを綻ばせました。
「明日にでも稲荷神社に行って願でもかけれなされ」
そう言って魯人さんは、かかかっと再び笑いました。
「笑顔とはよいものです」私はお二人の笑顔を見ていると、嬉しくなり自然とそう口に出しておりました。
そして、魯人さんは先輩の座っていた座布団に腰を降ろすと、残ったお酒を杯に注ぎました。
「もう一杯どうじゃな」とお誘い下さったのですが「私は帰らなければなりません」私が帰宅の旨をお伝えすると、暖簾の際まで女将さんと娘さんが見送って下さり、別れ際に、
「縁は異なもの味なもの」
と声を揃えておっしゃいましたので、
「はい。縁は異なもの味なものです」と私はお答えしました。
いまさら、桜の花弁舞い散るお座敷を名残おしいと思ったのですが、夜明けまでには帰らなければいけませんでしたから、私は「それでは失礼いたします」と会釈をしてから、暖簾をくぐったのです。
外に出て見ると、静寂の中に頼りない裸電球とその下にベンチがあります。夢から覚めた面持ちをなった私は、もう少しだけ魯人さんのお相手をしてもよろしいでしょう。と振り返りました。
しかし、そこには暖簾がなかったのです。
暖簾だけではありません。屋台すら影も形もないのでした。
「なんてことをしてくれたんだ、これで私は百年も結婚できないじゃないか」
カエル泳ぎのように手で探っていますと、傍らに松永先輩が立っておりました。物言いからどうやら私を待っていたようです。先輩は怒髪天と髪の毛を逆立てており、お面から銀色の牙を剥いております。
ですが、
「最後に正義女は必ず勝ちます」私は胸を張って申し上げました。私は勝ったのです。不埒者とは言え先輩も男子です。でしたら二言などあるはずがありません。
「このうえは、お前の唇を盗まずにおれまいか」
先輩は牙を剥いたまま、私に迫って来たのです。言うに事欠いてなんと悪辣な所行でしょう。殿方の風上にも置けない乱暴狼藉っぷりです。
私は、両手に猫手をつくると、それを振り上げて和太鼓を打ち鳴らすように目をつぶって先輩の顔に向けて振り下ろしました。先輩はお面を被っておいでですから、私のひ弱な手では堅いお面に大方打ち返されてしまいましたが、私はそれでも怯みませんでした。
その時です。
「どうかされたんですか」と別の殿方の声がしました。
「どうか助けて下さいませ」
もはや暴漢となり果てた先輩に必至と抗いながら、私は大きな声でその正義漢の方に助けを懇願しました。
するとどうでしょう。先輩は「にゃん」と可愛らしい鳴き声を残して走り去ってしまったのです。
私は痛む手の平を擦り合わせながら、今度こそ「えいえいおぉ!」と勝ち鬨を上げたのでした。
◇
今夜は酷い目にあった。巡り巡って四畳間を出掛ける間際の格好に辿りつけたわけだが、本当に巡りも巡ったものである。空っ穴の懐で出掛け、一時は手にしたことのない紙幣で懐を熱く焦がし、今世紀最大のはしゃぎぶりで『ラヂオ体操セブン』を歌った。なんと懐かしきなか束の間の栄光。
その後はひたすら逃げてひたすら孤軍奮闘と投げ返して、ズボンを剥ぎ取られ、この世に神も仏もありはせん!とふせくされて帰路を歩いていると、神か仏の思し召しにて私の一張羅にして晴れ着であるズボンが我が下半身に帰って来た。
だが、それでは私は今夜何のために婚約披露宴で給仕をしリヤカーを押し、雑多酒を造り、高らかに歌い、逃げて、戦ったのだ。
そうだ、一番大切な部分が抜け落ちているのである。古平は儲け話があると言ったのだ。一時儲けても、それを家に持ち帰らねば意味がない。私はおもちゃ銀行の紙幣を触って喜ぶお子様ではないのだ。
本来ならタクシーで優雅にカネモチ気分を謳歌しているはずであったろうに、何が悲しくて、歩いてバス停巡りをせねばならんのか……私は時に憂い時に憤り、そしてあまりのあほらしさに笑った。そうして喜怒哀楽の全てを循環させながら、終点のバス停に迫ったのである。
こんな夜更けだと言うのに、面白い乙女に出でくわした。その乙女は裸電球の光に黒髪を艶やかせながら、なぜか狐の面を被り、何を思ってか薬屋の看板兼置物である招き猫の額を可愛らしい猫手で叩いているのである。
「どうかされたんですか」
狐の面はやはり気に食わなかったが、相手が乙女であれば話しは真っ向から別である。
「どうか助けて下さいませ」なにを思ってか乙女は大声でそう言ったのである。
私は思わず狼狽した。この現状でそのように叫ばれては、まるで私が暴漢のようではないか。いや、仮に乙女の声に呼応して家屋の外に飛び出した正義漢たちは、私が暴漢であると信じて疑うまい。そして、乙女の操と言う大義名分の名のもとに手に持った得物で私はしこたま打ち据えるだろう。私はこれ以上の厄難を一身に受けることはごめん被りたい。是非、古平のために残しておいてやるとしよう。
私が慌てて周りを窺っていると、つっかえ棒がはずれ乙女が危害を加えていた招き猫が横倒しとなった。張りぼてのようにぐしゃりと音を立てて倒れた招き猫の後ろから、「にゃん」と三毛猫が可愛らしい鳴き声を残して別の塒【ねぐら】へだろう逃げ去って行った。
乙女はその後、倒れた招き猫を弔うように両手を摺り合わせていたが、念仏ではなく「えいえいおぉ!」と勝ち鬨を上げたのである。
私は頭を掻いた。これはどうしたものだろう。ただの悪戯好きのお茶目さんなのか、それとも奇怪な狐どもの悪ふざけの続きなのだろうか。乙女は、勝ち鬨を上げてからすぐ、ベンチへ腰を降ろして頭を垂れてしまった。仕方がない、と私は招き猫を起こし、つっかえ棒でなんとか体を誤魔化してから、恐る恐るベンチに腰掛ける乙女に声を掛けたのである。
「こんな夜分にどこかへ行かれるのですか」
「いいえ、私は家に帰る途中なのです」
お面をつけた顔をもたげてそう言った乙女からは、芳醇な酒の香りが漂った。酔っていなければ、物言わぬ招き猫を打ち据えたりはしないだろう。
「よろしければ肩などお貸ししましょうか」
下心などない。人恋しさに打ち拉がれ妙齢たる黒髪の乙女と懇ろとなりたいと日々欲情をむんむんとする私であっても、酩酊する乙女を前にして鼻の下を伸ばしてどうする。美徳などと称するつもりはないが、例え記憶に残らぬとて、見えぬところにおいて紳士であるのが男子たる心得なのである。
よもや、連れだって歩いているうちに酔いが覚めることなど期待はして…………期待はして……いない。と思う。
「すみません、家までよろしくお願いします」
「道筋はわかりますか」
「はい、必要な場所ではご案内いたします。夜分恐れ入ります運転手さん」
今、運転手と言わなかっただろうか。いや言った。彼女はどうやら、さらに何かを勘違いしている様子であった。私を見つめる狐の面がやけに恐い。
かくして、私は運転手と呼称を改め人力車ならぬ人力者にて乙女を家まで送る運びとなったのである。
全身から芳醇かつ繊細で清楚な石鹸の香りを漂わせる乙女を背におぶり夜道歩く。おぶりなおす度に背に触れる柔らかい二つの果実が私の欲情を激しくかきたてた。だが、日頃、肉体の鍛錬を怠っていた私の下半身は錆びた歯車のように金切り声を上げ少し歩いたところでそれどころではなくなってしまったのであった。
一見したとおり彼女は軽かった。私が日々肉体の鍛錬に余念が無ければ、早く酔いがさめぬものかと胸中をときめかせていたかもしれない。しかし、口もとから香る甘いエチルアルコールからして彼女はタクシーにでも乗っているつもりなのだろう。
酩酊していなければ、このような妙齢たる乙女が見ず知らずの男の、私のような男の背に身を委ねるはずがあるまい。
彼女は真っ直ぐであれば「直進です」。曲がり道であればはるか遠くから「左です」「右です」。と背中で指示を出した。これほど明確に指示を出してもらえれば迷うことはないだろう。だが、ここまで明確に指示をされると逆説で疑いたくなる。彼女は本当に酔っているのだろうか。
「運転手さんは、物持ちがよいのですね」彼女が言った。
「ええ、まあ」
なにを思って彼女がそう言ったのかは杳として知れないが、何を隠そう私の物持ちのよさたるや。決して誇れないながらも人よりも抜き身出ていることは確かだろう。郷里を離れて幾年月。衣類をはじめ家財道具の一切に金を出したことはない。洗濯板に擦りつけるがゆえにシャツが破れるのだと悟るや、早々に洗濯の一切を放棄した。石鹸など消耗するものは大學からこっそりとくすねる……いや、拝借してくる。念の入れようである。
前言通り私は肉体の鍛錬の一切をしてこなかった、ゆえに細身の乙女一人おぶり続けることが困難となりつつあった。私はそれでもここで男をみせねばどこで見せるのだ!と生命維持にかかわる領域をも総動員して、歩みを止めまいと奮闘したのである。
「ここです」
ボロではあるが、自分自身は撥条【ぜんまい】仕掛けのオートマトンであると必至に思い込み、難波歩きにてなんとか歩みの体を保っていた。ゆえに、彼女がとある一軒家を指さしてそう言った時はあやうく膝から崩れ落ちそうになった。
この若さにして、一城の主であらせられるとは、私の燦々たる四畳間とはまるで次元が異なる。白壁にアーチ状の窓が幾つか並び、そして煉瓦造りの煙突が屋根から伸びている。この辺りでは珍しい二階建て洋風造りの家屋である。屋根瓦だけが唯一、和の香りを残していた。
彼女は私の背から降りると「ありがとうございました」風に揺らめく洗濯物のようにゆらゆらと身体を左右させながら、お辞儀をするのである。
「いえいえ」
泥酔していようとも礼儀を忘れず。どこぞの三条通で眠り転けていた阿呆とは、やはり育ちが違う。
人助けとは良いものである。その結果満身創痍となってしまったが、相手が乙女であればそれとて光栄の極みである。下心において善行の心地よさを噛み締める私の眼前では千鳥足で自宅の門柱を開け。石畳をはずれて芝生に流れて行く乙女の姿があり、そして、無惨にも芝生に足をとられ彼女は転倒したのである。
私は心中の憚りを忘れ、彼女の元へ駆け寄った。するとすでに彼女は桃色寝息を立てて眠っていたのである。見返りを求めるつもりはなかったが、偶発的事故においてもっとも無防備であり優麗たる寝顔を一目でも拝見したかった。きっと綿菓子のようにほわほわと柔らかい小さな唇に私は欲情をかきたてられたことだろう。
だが、ここまで来て己を見失うわけにはいくまい。
私は息を飲んで彼女を家の中へと運んだ。生涯最初のお姫様抱っこであり最後のお姫様抱っこにて。
「せめてお名前を」
彼女が譫言のように呟いた。私は大いに驚いたが、驚愕のあまり彼女を落とすまいと腰に力をいれてこれに耐え。正義のヒーローよろしく「名乗るほどの者ではございません」
と台詞じみた台詞にて返事をした。
奇妙なことに家のドアの施錠は開いていた。不用心なと思いつつ私は彼女を絨毯の上に寝かせ、未練がましく暫しその場に佇み。そして、ひと思いに家を後にしたのである。そして後ろ髪を力一杯引っ張られて、振り返ってみると、二階の一室に明かりが灯った。やはり、独り身だろう彼女が一人で住んでいるわけがあるまい。両親か兄弟かはたまた、夫か……夫なのか……夫だろうか……夫……私は無性に虚しくそして落胆して、将棋倒しのように広がりを見せる黎明の中を希望も夢もない流々【ながるる】荘へ帰ったのである。
◇
随分とお日様が高くなった頃、私はベットの上にて気持ちの良い目覚めをしました。陽の光を浴び、今日も一日愉快で摩訶不思議な出来事に出会えるでしょうかと、背伸びをしたのです。
今朝方、私はオモチロイ夢を見ました。明け方前だと言うのに、バス停に佇む私にタクシーの運転手さんがお声を掛けて下さったのです。お仕事でお疲れでしょうに、なんともお優しい運転手さんです。私は「すみません、家までよろしくお願いたします」と言って、タクシーに乗り込むと「道筋はわかりますか」運転手さんがそうおっしゃいましたので「はい」とお答えしました。そして、私は真っ直ぐであれば「直進です」。曲がり道であれば、通り過ぎてしまってはお手間をかけてしまいますから、随分と余裕をもって「左です」「右です」とご案内したのです。
タイヤが悪いのでしょうか。ふわふわとした乗り心地ながら車はよく揺れ、時々大きく縦に揺れるのです。この界隈は信号機もありませんのに、止まってしまうこともありました。ですから、私はこの車は相当な骨董車なのだと思いました。そのような自動車を大切に使い続ける運転手さんは素晴らしいお方なのです。私も物持ちが良いと言われます。幼少の頃にお誕生日プレゼントとして頂いた懐中時計は今でも動きますし、中等部の頃に買って頂いたエナメルのポーチもまだ十分使えるのです。ただ、赤く大きなリボンがついておりまして、このお年頃では些か幼いと恥ずかしくて箪笥の肥やしになってしまっていますけれど。
「運転手さんは、物持ちがよいのですね」私は言いました。
「ええ、まあ」運転手さんは謙遜されます。
古い自動車でしたから、運転手さんは私を気遣ってストーブもいれて下さいましたから、寒空の下、私は顔までほっこりと温かく終始寒くありませんでした。
そして、ご丁寧にも私の手を引いて玄関まで送って下さったのです。なぜか私の足は言うことを聞かず千鳥足とゆらゆらとしておりましたので、たいへん助かりました。
「私はこれで」とドアを開けたところで運転手さんが言いましたので、お茶などで労えないながも、御礼の御手紙でもと思い「せめてお名前を」と朦朧とする意識の中で私は聞きます。少しの間があって「名乗るほどの者ではございません」と残して颯爽と駆けて行ってしまわれたのです。なんとさり気なくお優しい紳士なのでしょう!きっと、きりりとした燕尾服に蝶ネクタイなどをお召しだったに違いありません。私はベットの上に立ち上がったまま恍惚となりました。
ですが残念なことに、丁度、そこで目が覚めてしまいました。この後どのような展開を見せるのでしょうかと、キネマの続編を期待するように、二度寝を敢行しようと思いましたが、せっかくの休日を一日中ベットの中で過ごすのも、もったいないとお散歩にでも出掛けましょうと思い、私はベットの上から元気に飛び降りました。夢のご縁も一期一会なのです。
私は浴衣の裾を踏んづけて床に転んでしまいました。幸いになことに絨毯を敷いたばかりでしたから、おでこを打ちましたがそんなに痛くありませんでした。
なぜ私は浴衣を着ているのでしょう?私は毎晩お気に入りの洋物の寝間着で寝ておりましたから、こちらに転居して以来、浴衣には一度として袖を通しておりませんでした。
私は床に座り込んで頬をぽりぽりと掻きました。床で打ったおでこが今更ながら痛みましたが、それ以上に奇想天外なのです。どうしましょうか、まだ寝起きだと言うのに、まだお散歩にも行っていないのに、私は摩訶不思議と出会ってしまったのです。
「何を暴れているの」
階段を駆け上がる音がしてからドアが静かに開いて、お母様が慌てて入って来ました。
「お母様、どうしてこちらに?」
お母様は実家の方で暮らしてらっしゃいます。ですから、この家にはおられないはずなのです。
「昨日、お酒を頂戴し過ぎましたので、ここで休ませてもらうことにしたの、あなたにも伝えたはずですよ」
はて、昨夜、正しくは深夜なのですが、お母様のお姿を拝見したでしょうか。そもそも、そのようなお話を耳にしたでしょうか……思いを巡らして見ると、思い出しました。私が会場を後にする際、お母様からそのようなお話を耳にしていました。私としたことがすっかり忘れていたのです。
「何も覚えていないのね。あなた今朝方帰って来たかと思ったら、廊下で寝ていたのよ」
呆れた顔でお母様は言いました。そう言えば、昨夜は胸寂しくなり、二次会をお断りして、三条通をぶらぶらしていたのです。中嶋さんとお姉様と行きつけのお店でお酒を嗜んでから、愉快な歌を歌われるお二人のお供をして、魯人さんに大吟醸をご馳走になり、そして、バスに乗って帰って来たはずですから、今朝方になるはずがないのですが……
「いいえ、驚きました」
「そうですか……」
お母様は公明正大なお方ですから、そんなつまらない嘘は口にしません。それでも乙女の慎みとして、夜明け前に寝床に戻ることができたのです。それだけでも良しとしなければなりません。
「そうです。タクシーで送っていただいたのです」私は思い出しました。
服装こそ覚えておりませんでしたが、骨董車をこよなく愛し、物持ち良く優しくも紳士であられる運転手さんでした。
「タクシーですって?自動車は一台も通っていませんよ」お母様は珍しいものでも見るように目を丸めて私を見ました。
でしたら、やはりあの一部始終は夢だったのでしょうか。もしや、私は停留所から夢をみながら歩いて帰ってきたのでしょうか。だとすれば、それはすごいことではありませんか!眠りながら歩き、はたして目的地である下宿へ到着できたのですから!
あなたって子は。と内心を輝かせる私にお母様はさらに呆れておっしゃいます。
「淑女たるもの、御財布に少しばかしは余裕をもっておいてしかるべきですよ」
お母様はそう言いながら、袖から私の御財布を取り出しました。はじっこに小さく林檎の刺繍が入った私のお気に入りの御財布です。
「昨夜、お姉様にお酒をご馳走したのです」
「そう。いないと思ったら、あなたとお酒を飲んでいたの。あの子もあなたもどうしようもない子ね」お母様はそう言って溜息をつきました。
立ち眩みでしょうか、お母様は額に手をやって、首を何度か左右させて「少し入れておきましたからね」とおっしゃって、御財布を私の膝の上に置くと、部屋を出て行かれました。
御財布を開けてみると、閑古鳥を飼っていたはずの御財布の中には閑古鳥の代わりにお札が数枚入っております。「わあ」私は思わず、御財布を落として手を叩きました。思わぬお小遣いに私は年甲斐もなく嬉しくなってしまったのです。もちろん、急いで御財布を拾い上げると、そのまま抱き締めてこの喜びを御財布と一緒に分かち合いました。
御財布を机の引き出しにかたづけてから気が付きました。そうなのです。昨夜お姉様にお酒をご馳走した私の御財布は帰りのバス賃しか残っていなかったはずです。
夢うつつであれ、もしも、タクシーに乗ったのであれば、代金をお支払いしていないことになります。なんと言うことでしょう。きっと、あの運転手さんは心のお優しい紳士でらっしゃいますから、深夜に私などの困っている人を家まで送って回っていらったしゃるに違いありません。そして、代金ももらわずに走りさられるのでしょう。ですから、お車もかように骨董品をお使いなのかもしれません。
私は、はしたなしと罪悪の念にさいなまれました。代金もお支払いしないで、御礼さえも言えず!なんと言うことでしょう。私は心に決めました。お気に入りの御財布を温々としてくださったお母様のお心遣いの全てをあの運転手さんに差し上げようと。
◇
何が悲しくてむさ苦しい古平などと、昼日中から大學の用具倉庫などに身を潜めていなければならんのか。
「僕も昨日は散々な目にあったんだ。手元に一銭も残っちゃいない」
朝と言うには遅い時分に私の部屋へ押しかけて来た古平の第一声である。どうやら、古平も狐どもにズボンごと有り金を持って行かれたらしい。
「あんな臭い物を投げるなんて!」と顔を顰めた古平は、まさに妖怪であった。
「帰れ」
万年床にて上体を起こしているに止まっていた私は、押しかけて来て勝手に憤慨している古平に言った。
「そりゃないですよ、あんた」
「眠いんだ、そして心底疲れてるんだ」
昨日でここ二年分の運動した私の身体は四肢はもとより至る所が軋むように痛みを訴えていたのである。
「手堅い儲け話があるんですがね。どうですか?」
積もるところ古平はこれが言いたかったのであろう。古平と知り合ってからと言うもの、こいつは、儲け話があると私の元へ押しかけて来た。私とて儲け話に乗せられたくはないが、夜なべして内職をしても小遣い銭程度にしかならいのだ。金は幾らあっても困るものではあるまい、そして腐るものでもない。
せめて、毎食米が食いたいと願った私を誰が足蹴にできようか。
古平の持ってくる儲け話は奇想天外なものが多かった。竜田川に生える葦を全て刈り取るだの、蝉の抜け殻を一斗缶いっぱいに集めるだの、土砂に埋もれた鉄くずを掘り出すなど。考えて見れば大凡肉体労働なのである。
訝しげながらも、私が古平について行ったのは他でもない。端的に内職よりも稼ぎになったからである。
昨夜を除いては……
「今度は猫とでも対峙するのか」
「もうあのジジイに関わるのはやめましょう。命が幾つあっても足りやしない。ですから、今回は安全ですよ」
「私はお前を信用してないぞ」
「百も承知ですよ、親友」
益者三友に恵まれず。古平と言う損者三友を一人で代わる代わる演じ分ける器用さを兼ね備えた古平のみを友人をした私は正真正銘の不幸者であろう。なぜ私には悪徳者か狡兎しか寄りつかないのだ。黒髪の乙女とて同様である。類は友を呼ぶ、と言うならば私は阿呆であるが決して誠を曲げる不埒者ではない。
だが、生きるために金がいるのである。そして、私は古平と共に大學の用具倉庫に潜み、日が暮れるまで潜伏することとなったのである。
◇
私はここ2年間の人生を全くもって無意味にただはんでいた。憧れた大學へ入学を果たし、そして、末は博士か大臣かと郷里の麒麟児として、汽車に乗ったのはすでに懐かしい幻想となりつつある。袴に黒いマントを羽織って闊歩したあの日々は誠に輝いていた。大學生である、それだけで一目おかれたからである。そもそも、薔薇色の大學生活を根底から逸脱させたのは、悪しき放蕩【ほうとう】者である松永氏に心を許したことであった。それ以来、私は知らぬうちに永遠無限と底辺に向かって転がり落ちることとなってしまったのだ。
思い描いていた大學での華々しい黒髪の乙女との出会い。しかし、微塵も香らない切なさと人恋しさから、荷物に紛れ込んでいた住所録をひっぱり出し、郷里の同窓生に手紙を出してみたりした。むろん相手は乙女である、さぞかし美しい乙女になっているだろう。
私は郵便屋が自転車に乗ってやってくる時間を嬉し恥ずかしと待ち望んでいた。この手紙を皮切りに文通などをし、しかるのちに恋文でもと下心がなかったと言えば下心だけしかなかった。しかし返事は待てど暮らせども返って来る気配はなく、よもや、ポストの中に回収されず残されたままなのではとか、家族によって阻止されたのでは。などと、現実を逃避すべくご託を並べてみたものの、やはり、私の手紙はすでに捨てられたか燃やされたかしているのだろう。
私は憤慨した。恋文なれば梨の礫とて明瞭かつ崇高な意思表示であろう。しかし季節の御手紙に対して返事を返さぬとはなんと礼儀知らずであろうか。私は幼少の思い出に生きる少女を思い浮かべ、そのような無礼な唾棄すべき乙女に育ってしまったのか!もとよりそのような無礼な乙女の手紙などいらぬ!と万年床へ潜りこんだ。
そして、翌日から郵便屋が来る時刻となると動悸、息切れ腹痛、四百四病以外の病に精神を蝕まれるようになったのである。
墓穴を掘ってまんまと自分が生き埋めになってしまったのだ。
そんな切なる思いとて青春の一ページである。と、いつか笑いたいものであるが、その内情たるや、四畳間の九龍城を思わせる下宿先『流々荘』において、勉学をすえ置いて内職の日々。それは惨憺たる有様であった。時には金に余裕のある隣人が好意で置いていた便所紙を根刮ぎ懐に隠し、それを売る傍ら帳面かわりとし、毎晩は共同炊事場へ張り込み、隣人の食材を強奪するか料理の最中、隙をみてはこれをつまみ食った。
これだけの醜態を曝しながらも、大學生である私はたまに一張羅の袴とマントを羽織り、下駄をならして本分を再確認するために街中を闊歩するのである。そしてすっかり荒んでしまった胸の内で誓うのである、通りに蜜柑箱を並べカネモチの靴磨きなどには決して堕落すまいと、それに興じる同僚に侮蔑の念を沸々と煮やすのだった。
私はとかくカネモチが大嫌いなのである。
かと言えば、その夕暮れには野良猫がせしめた鰺の開きを巡り宵の口まで激戦を繰り広げ、最後は半身ずつを分け合って互いの奮闘ぶりを賞賛しあった。
裕福な我が隣人は決まって、白米を炊く。鰺の半身をひらひらとさせながら炊事場へ赴くと、炊きたての白飯が無防備にも釜の中にあるではないか、立った銀しゃりは、はじめちょろちょろ中ぱっぱ、赤子が泣いても蓋を取らなかった結果である。
学生ふぜいが白米などと、麦飯で顎を鍛えることを知れ!
私は風紀を正す為に、せっせと握り飯を作ると、部屋へ脱兎した。今晩は鰺の開きを肴に握り飯で乾杯である。
いかに食に困ろうとも、学食の食べ残しにだけは決して手を出さなかった。誇りうんぬんと言うよりは、むさ苦しい男の食べ差しに口をつけようものなら、我が高尚なる口腔がカネモチ歯周雑菌に汚染され、毎日歯科へ通わねばならなくなる。それでは余計に金がかかるではないか。これが妙齢たる黒髪の乙女であるならば、苦心の末、黙って飲み込まない自身はない。勉学に励むどころか最低限の生存活動に邁進せざる得なかったこの2年間。これでどうして、郷里に錦を飾れようか。
大學とはとかく金がかかるのである。
小生みたく、極貧学生がいるかと思えば、車や馬車で送り迎えの日々を送る紳士淑女の姿が大層多く見られる。そして、勉学もそこそこにテニスや乗馬などを気持ちの悪い微笑を浮かべながら嗜むのである。
淑女たるは眼福と日がな一日テニス場の脇にてその純白のスカートに視線をくべるは良し。紳士に至っては格差に格好つけて何を令嬢とお近づきになっているのだと、思わず石ころを握り締めた。
大學への思いは人それぞれ、異性との健全な交際、学問への精進、精神と肉体の研磨。
それらを嗜みつつ、都会の垢抜けた令嬢などと懇ろとなり、珈琲などを楽しみながら甘美たる時間を過ごしてみせようと、薔薇色の学生生活を夢見ていたわけだが、現実とはかくありき。
淑女と言えばもっぱら、紳士とのみ言葉を交わし、アンブレラなどを頭上に翳しながら芝の上にて、読書を嗜むのである。どうして田舎者の私が近づけようか。淑女は身なりからして高嶺の華であり、カネモチの男子のみが声をかけることの許された存在だったのである。
夜通し万年床にて内職に勤しむ私には声を掛ける権利さえも与えられていない。羨望や妬みと言うものはかくも人を堕落させ、人としての道をも一脱させる。聖人たることに正義漢たることに魔が差した私は人であることを放棄し、夜闇に紛れ今まさに古平とこそ泥へと変貌をとげたのだった。
◇
明るいうちに用具倉庫に忍び込み、品定めを先に済ませ夜を待って盗み出す手筈であった。その通りことを運んでいれば、私の恥ずかしき醜態を回想する必要ななかったのである。用具倉庫は講堂を二回りほど狭めた広さを誇っていた。私はさぞかし至宝の限りが眠っていることだろうと、博物館などを連想していたわけだが、ところがどっこい蓋を開けてみれば、ガラクタの山であった。使えないがいつか、もしかしたら使うかもしれない、ゆえにとりあえず倉庫に放り込んでおこう。そんな趣だろう。
どれもこれも壊れているか、今にも壊れてしまいそうな品ばかりであり、中にはこれはなんぞやと埃を分厚い毛皮のように着込んだ、見当すら不明な物まである始末であった。
されど、これだけ物あるのだから、幾つかは金になる物があるだろうと、古平と手分けして探してみたものの、結局二人して白髪頭となっただけでだった。
そして、幾ばくか広くなっている場所に置かれた卓球台を見つけ、二人で卓球に興じ、そして腹を減らせ疲れはてて、その場に座り込んでしまった。一体何をしにきたのだろうか。
「あなたは一体何をしにきたんですか」
「お前が言うな」
立案者が今更何を吐き捨てるか。落日が差し込むかぎりは、そうそうに流々荘へ帰り、隣人の料理を見守ると言う崇高にして絶対の使命を全うせねばなるまい。しかし、夜にならねば大學から出ることができないのである。休日である本日は大學の門は閉まっており、こそ泥のような不届き物が侵入せぬように、夕方から警備が寝ずの番をするのだ。
すでに警備の人間が巡回をしているだろうから、夜闇に紛れて逃げるしか手はない。隣人の夕食を盗み食えないのはまことに残念であるが、こそ泥として私の人生に最大の汚点をつけることからすれば、空腹すら我慢せねばなるまい。
だが私は思わぬ物を発見したのである。腰を降ろしていた教卓の引き出しのを開けて見ると、そこには、革のベルトが入っていた。漆のように深みのある黒はまさに漆黒。しかし、つやはエナメルのように安っぽかったが、碇を思わせる留め金具は一風変わっており見栄えもよかった。
随分とベルトなどとご無沙汰の私のズボンからすれば両手放しで喜べるだろう。私は、ベルトの代わりにズボンに通していた鉛筆ほどの太さの紐を解き捨てると、代わりにベルトを通した。うむ、さすがあるべき場所にあるべき物はやはり違う。私も両手放しで喜んだ。姿見があれば、是非とも自分の姿を見てみたいものである。印象とは往々にして小物一つで飛躍するのである。
「孫にも衣装にもなりゃしないですよ」
「うるさい」
人の気分を害することにかけては、特に私の機嫌を損ねることに関しては古平の右に出る者はいない。
「知ってるんですよ。テニス部の乙女を好いてることを」
「何を突然言い出す。いつ私がそのようなことを言ったのか」
「見てればわかりますよ。彼女がいる時だけ、テニス場を外からずっと眺めてるじゃないですか」
「むう」古平恐るべし、まさかそこまで観察されていようとは。
「彼女のスカートが捲れるの見てるんでしょう?なんて助平なんだあんたって男は」
「それ以上口走ってみろ、この場でぶち殺す」
いちいち忌諱【きき】に触れる奴である。
「ぶって殺すなんてあんた、そりゃ酷すぎる」古平は両手はを頬にあてて戯けて見せた。
古平の言うように私には気になる乙女がいた。その人はテニス部に所属しており、大体は桜並木から道を挟んだ先にある芝生の上で読書をしている。たまにテニス場で華麗なボール裁きを披露する時、私は決まってテニス場の外、それも桜の巨木の幹に隠れてその姿を拝見していた。
純情な男心に誓ってもの申す、ただ美しいそのお姿を拝見していただけである。たまにスカートが捲れブルマーが露わとなろうとも、決してそれを目的とするような不埒な輩に成り下がるわけがあるまい。そのような輩と勘違いされるだけでも業腹である。
「あなたのような極貧ウジ虫學生とじゃ血統が見合うはずがない。言葉を交わすだけでもピストルの弾同士をぶつけ合うより確率は低い」
にたにたと妖怪笑顔を浮かべながら、古平はつれつれと嫌みを吐き散らかしたてなお、私を見てせせら笑った。
「随分な言いぐさだな」
私は大人である。身分は學生なれど、精神は成人のつもりだ。それに一時の感情に流され、我を忘れるほどの激情家でもない。
「どうしてもって言うのなら媚薬でも作ってみてはどうです?」
「媚薬とな」
まさか、井守の丸焼きや、チヨコレート、果てはいかがわしい漢方薬など、売りつける気ではあるまいな。
「いえいえ、もっと身近にありますよ」
古平の言う媚薬の材料は大學施設内にある全ての桜の蕾なのだという。それも一番高い所にある蕾でなければならないらしい。
そして、採取した蕾を煮て精髄を煮出し、それを全身に塗り込むと言うのである。
「嘘つけ」
「嘘なんかじゃありませんよ。去年、その媚薬でもって駆け落ちを成功させた先輩を僕は知ってるんですから」
相変わらずへらへらしながら、そう言った古平は「早くしないと、蕾は一個しかありませんよ」と楽しそうに付け加えた。
「もし嘘なら朝顔の種を湯飲み一杯食わせてやる」
「うひぉ、くわばらくわばら」
随意、古平の言葉遊びに付き合ってやった私はベルトに味をしめその後、宵の口まで鵜の目鷹の目で他に掘り出し物がないかと引き出しやらを必至にまさぐった。
しかし、至宝とは偶発的発見にのみその姿を現すのである。悲しいかなベルト以外に戦利品はなかった。
倉庫から抜け出した私たちは、學舎内を移動する明かりを横目にのんびりと、校内を歩いていた。夜の桜並木はいまだ寂しい。満開であれば夜桜と風情があろうものだが、蕾とてかたそうな昨今では枯れ木に相違ない。
古平は悪あがきにも路傍に宝が落ちていないかと、挙動不審にて草むらにまで顔を突っ込んでいた。あるべく場所に無かったと言うのに、あるはずのない場所に金目の物が転がっていてたまるか。
そんなわけで私が終始先行して歩いていたわけだったが、こんな時にかぎってよろしくない方向へ物事は盲進するものである。今し方学舎に見えた明かりが、テニス場ごしにこちらへ向かっているのが見えたのだ。懐中電灯の心細い明かりでは私たちの姿は確認できなかっただろう、しかし、このままでは鉢合わせた上に現行確認の後、詰め所へ連行され、至極ややこしいことになるのは目に見えている。
「骨折り損のくたびれ儲けかよ」古平が大きな声を出した。
「逃げるぞ」
こんな時にかぎって間抜けた奴である。いわんこっちゃない。とぼとぼと面倒くさそうに前進していた懐中電灯が今や激しく揺れ桜並木と重なって見えなくなった。このままでは鉢合わせ、万事休すである。
私は咄嗟に倉庫へ蜻蛉【とんぼ】返りしようと、踵を返したが、何せ倉庫までの道程は直線なのだ、倉庫へ逃げ込んだところでその背中を捉えられてしまえば逃げ込む意味はあるまい。ゆえに、私は近くにあったテニス部室へ逃げることにした。古平はと言うと、警備の懐中電灯が見えるや慌てて倉庫へとって返したのだった。
当初、私は部室の物陰に隠れるつもりでいた。古平が格好の餌食と囮役を買って出たのだ、わざわざ私に気を回すこともないだろう。だが、運の良いことに部室のドアが開いたのである。てっきり鍵がかかっており、侵入は容易であるまいと諦めていたのだが……
部室の中はさすが花が香る倶楽部だけあって、小綺麗であり、微かに甘い匂いが鼻腔をくすぐった。並んだ収納棚には不用心にも帽子などの小物がいくつか置かれており、その全てに氏名が刺繍してあった。特注品なのだろうか。
洗面台の横に並べられた長椅子に腰掛けた私は、この場所に座っているだけでも幸せを感じられると確信した。きっとこの部室の中で黒髪の乙女は練習の後、汗などを拭って休んでいることだろう。もしかしたら、私が腰掛けているこの場所に腰を休めて居たかもしれない。私はそんな想像と妄想を巡らしながら薄暗い部室の中を隅々まで見回していた。
長椅子の並び、テニス場への出入り口付近にラケットが立てて置かれてある。このラケットのどれか一本を手に入れさえすれば、私も堂々と入部できるものをと、私はふて腐れて、乱暴に四肢を投げ出した。居るべき人間は許され、相容れぬ人間は杳として許されず。
諸行無常とはまさに私の境遇を指さすのであろう。
◇
「酷いじゃないですか、僕を囮にするなんて」
靴を泥まみれにして古平が息急き切って部室の中へ入って転がり込んで来た。
「まいたのか」
「観察用池にはまりましたけどね」
いい気味である。
ふぅ。と安堵の息を漏らし私の隣に腰掛けた古平は、犬のように舌を出して体温調節に勤しみながらも、ちゃっかり部室内を物色していたようであった。
「今日の釣果はあのラケットだけですね」
「あれをどうするんだ」
大凡、テニスか布団叩きにしか用いれないだろうラケットをどうするつもりだと言うのだ。
「もちろん売るんですよ。庭球部はカネモチ揃いですから、きっと良い物でしょう」
「異論はない、善は急げ」私は古平に先んじて立ち上がった。
私はラケットを一本手に取ると、早速、部室から逃亡する為に外の様子を窺った。すると「何やってるんです?」と古平に軽蔑の眼差しでもってそう言われてしまった。同じ穴の狢にそんな目でを向けられる筋合いはない。そもそも、お前が言い出したのだろう。
「違いますよ、これ全部いただくんですよ」
と言うと古平は私に「ベルトを貸して下さい」と続けた。
「愛着もないでしょ、早く」
せっかく、私の腰に落ち着いたベルトを手放し難しと思うのは私とズボンの共通の呻吟である。だが、捨てるわけではない。いずれ紙幣と共に手元に戻って来るのであれば、ここは貸し出さねばなるまい。
私は涙をのんでベルトを古平の手に渡した。
狡兎は常に三つ巣穴を掘っておくと言うが、その狡兎たる古平もまた悪知恵だけは怜悧として働くのである。古平はラケットを重ねるとそれをベルトで固定し、私が手に携えるている一本を除いて、部室にあったラケットは全て古平の悪知恵に縛り上げられてしまった。
◇
私は大學生なのです。ですから、商店のご主人が商いをされるように私は勉学に励まなければなりません。ですが、昨日は我ながら、だらだらと自堕落に一日を過ごしてしまいました。お散歩に行こうと思っていましたのに、結局、お母様とお茶をしたり、描きかけの林檎のデッサンなどをして過ごしてしまったのでした。
そんな私をお母様は咎めたりいたしません。お母様は海容と心の広い婦女ですから、零細なことにこだわったり言葉尻を捉えて、揚げ足を取ったりはいたしません。ですが、これにかぎってははっきりとした理由があるのです。
私には三人のお姉様がいますが、いずれも、大學在学中に婚約をされていました。ですから、きっと勉学に励まなくともお父様の持ち帰る縁談のお相手と『婚約』さえすれば、万事良しとお考えなのです。
お姉様方は、お相手の殿方と三度もお会いしない間に婚約をされました。ご結婚されているお姉様方は一様に「住めば都よ」と笑っておられましたが、私はその瞳の奥に笑顔を見ることができなかったのです。哀愁の念すら感じ取れたのはお姉様方が大學生の折り、心を寄せていた殿方がおられ、それを密かに私に教えて下さっていたからでしょう。
私もきっとお姉様たち同様に、お会いしたこともない殿方と三度も会わぬうちに婚約をし、大學を卒業した暁には結婚しなければならない定めなのかもしれません。けれど、
私は心づからの縁を信じております。この大學生の間、良縁に巡り逢えさえすれば、私はそのお方の手を取って、どこまでも逃げるつもりなのです。お姉様やお母様と会えなくなるのは寂しいことですが、それは仕方のないこと。心が安まらない平穏で安定した生活ならば、お慕いする殿方と飢え苦しんだ方が本望。とわたくしは若輩ながら、そう心に決めておりました。
大學と言うところはとても楽しい所です、ですから私は色々な倶楽部に入りました。乗馬部に文芸部、そしてテニス部。中でもテニスはとてもオモチロイもので、入部した当時は足繁くをテニス場に通っておりました。殿方の先輩も女子の先輩も、とてもお優しく、新参者の私を指導してくれますものですから、私の腕前もめきめき上達していきました。幼少の頃より走っても飛んでもビリばかりでしたので、私の中にまだこんなにも運動神経が眠っていたのだと大変驚きました。
ですが、残念なことに、テニス部の皆様はみな一様に私と同じ匂いがいたします。聞けば、どなたも紳士淑女。大學を学舎と思わず社交の場とお考えのようでありました。
難しい哲学書などを明日こそは紐解こうと、目論む私にとっては相容れぬご友人なのです。殿方の先輩からは幾度もお茶などにお誘いを受けましたが、その素敵な笑顔の奥に潜む下心はなんとも気持ちが悪いのです。
男子であるならば、正直に鼻の下をのばしていただいた方が、婦女冥利に尽きると言うもの。そもそも、私は自分と同じ匂いのする殿方と交流を深める気はございません。私とは違った世界に生きる方々と交流を求めていたのです。
ですから、そのように意識するようになった最近は、時折、テニス場に立つ程度で、後は學生の本分と桜並木を見下ろす芝生の上で読書をしておりました。
本日も、芝生の上に腰を降ろし、マルクスさんと言う方が執筆なされた哲学書に眉に皺を寄せて読んでおりました。内容は今ひとつ理解できませんでしたけれど、少しは賢くなったような面持ちとなります。
私は、本を膝の上に置くと座ったまま背伸びをしました。お昼の天気は麗らかとしており、お昼寝にはもってこいです。私は本を脇に抱えると、校舎へ向けて桜並木を歩きました。本日は午後の授業がお休みですので、早い目に帰宅して、絵の具を買いに行こうと決めていました。
「どうかされたのですか」
私がテニス倶楽部の部室の前を通りかかりますと、部員の皆様が集まって何やらお話をしてらっしゃるのです。もしや、何かオモチロイことでも始められるのでは、と私も部員の端くれですから、仲間に入れてもらおうと思ったのですが、
「ラケットが盗まれた」
と先輩が言われたので、私は思わず本を落としてしまいそうになりました。肩を落とす皆様を掻き分けて、部室の中へ入り、ラケットを置いていた場所に目をやりますと、あるはずのラケットが全て消えてしまっていたのです。もちろん私のラケットも……あのラケットは、興奮気味にテニス部入部の旨をテニスの楽しさの妙味を、お姉様に話して聞かせる私を見たお母様が「これをお使いなさい」と自身が昔使っていたラケットを私に下さった物なのです。ですから、私は居た堪れない面持ちなりました。お母様の大切な想い出の品を頂いておきながら、他力ながらも失ってしまうなんて…………
そうなのです。お母様とお父様の出会いは、あのラケットをお父様がお母様に貸したことだそうなのです。ですから、余計に私はどうしたら私の手元に戻ってくるだろうと考えました。
お母様は心の広いお方ですから「気にしなくていいわ」とおっしゃられるでしょう。ですが、私はお母様に顔向けすることなどできません。どうしてできましょうか……
「ごめんなさい。私が鍵をかけ忘れてしまったせいなのです」
私が今にも泣き出しそうになっていますと、小春日さんが私にそうおっしゃいました。
「本当にごめんなさい。必ず弁償いたしますから。どうかお許し下さい」
小春日さんは頭を深々と何度も下げられます。
「いえいえ、小春日さんの責任ではありません」私は小春日さんの肩に手をやって彼女の顔を窺いながらそう言いました。
小春日さんは器量もよろしく素直で優しい乙女です。きっと、責任感から胸をこれ以上ないほど締め付けていらっしゃることでしょう。その証に彼女は涙を流して私の謝罪をなさるのです。
そんな小春日さんを見て、私は泣きたい気持ちを、今にも溢れ出ん涙をぐっと堪えました。もし、私がここで涙を見せてしまえば、悄垂れる小春日さんをさらに責め立て追い込んでしまうことになります。ラケットを盗んだのは小春日さんではありません。ですから、小春日さんに責任を押しつけるのは八つ当たりに他ならないのです。
残念なことに、部員の皆様の中には小春日さんを責め立てる方もおりました。私は「小春日さんが盗んだわけではありません」と凛として言いました。背負い込まなくてもよい罪悪を背負い、素直な彼女ですから、誰に言われたでもなく素直に自分から頭を下げて回っているのです。そのように実直な小春日さんを責めるなど何ごとですか!私は悲憤しました。今までご一緒に倶楽部活動を楽しんでいたと言うのに!御門違いにも倶楽部仲間に鬱憤を当たり散らすなど最低な所行です。このような時にこそ、助け合いこの先、いかようにしてラケット探すのかとお話を進めるのが本来。三人寄れば文殊の知恵と言うようにこれだけ大學生が居るのですから妙案が浮かばないはずがありません。
惨事にこそ人の真価が問われるのです!
「失礼します」
私は思いの丈をきょとんとしてらっしゃる皆さんに打ち明けると、膨れっ面のまま部室を後にしてしまいました。
◇
私はその日一日を後悔に明け暮れました。恣意的に一時の感情に我を見失ってしまうなんて、淑女として人としてまだまだ修行がたりません。もちろん私は私の誠を語ったわけですから、胸を張ってしかるべきなのですが、やはり、誠を通すにも違ったやりようが必ずしもあったと思うのです。
ですから、帰宅の途中もそれを悔やみ、伸びた自分の影を抓ったり踏みつけたりしようとしたのです。自分の影を踏みつけることは、なかなか容易なことではありませんで、恥の上塗りと竜田川に掛かる橋の上で一人地団駄を踏んでいたのでした。心身相関と疲れてしまった私は、ついにその日、絵の具を買いに行くことができませんでした。
翌日、倶楽部の皆様のご気分を害してしまったことを、謝罪しなければと思いながら重い足取りで部室へ行って見ますと。昨日と同様に皆さんが集まっておりました。また何かを盗まれてしまったのでしょうかと思ったのですが、皆さんは一様に笑顔なのです。今度こそ、何かオモチロイことがあったに違いないと私は歩みを早めました。
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ」
小春日さんが向日葵のような笑顔で私を迎えてくれます。周りを見回しますと、皆様、その手にラケットをお持ちなのです。
「これは小春日さんが弁償されたのですか」
「いえ、盗まれたラケットが見つかったのです」小春日さんは喜色満面と言いました。
「それは良いことです。私のラケットはどこでしょう」
お母様のから頂いた大切なラケットでしたので、私は思わず小春日さんの手を取って喜びました。
「えっ、全てお返ししましたよ」
私が言うと小春日さんは目を点として、首を傾げます。私は慌てて、ラケット置き場に行きました。ですが、そこに私のラケットは見当たりません。
「どうしましょう」
俯く私の後ろで、小春日さんがそう呟くのが聞こえました。きっと顔色を青くしてらっしゃることでしょう。
「皆様全員のラケットが見つかったと思っておりましたのに……」
「その手に持ってらっしゃる物はなんですか」私は言います。
「これは、ラケットを縛ってあったベルトです」
小春日さんは右手に携えた、ベルトを差し出した見せてくれました。そのベルトは一見高価そうな漆黒なのですがどこか見れば見るほど安っぽく見える摩訶不思議なベルトです。碇のような留め金具だけは唯一輝いておりました。
「これを私にくださいませんか」
「ええ、別にかまいませんけれど、ラケットは……」
「皆さんのラケットが戻って来たように、私のラケットも戻ってきますよ」
私をそう言って微笑みました。
◇
『三条通の怪』を再びと、私は流々荘へ帰ると半分も仕上がっていない内職に粉骨した。
ベルトで捲いたラケットは古平が質屋で売りさばき、儲けは山分け。そんな盟約を交わしてなお、私は古平と言う男が信じなかったのである。手堅きは内職。そして私の命を支えているのも内職なのである!
意気込んだ私は、一週間を要し、また三日三晩寝ずに時には睡魔との決戦に備えるべく立ったまま、時には万年床にもぐり込んで内職に没頭し、八日目の朝日を拝む頃にはこれを平らげ、一人で咆哮をあげたのであった。
折しも、その日は納品日であったのだ。
昼までに持ち込めばよい。私は万年床へ潜り込みそのまま睡眠を貪ろうと思った。しかし、机に立て掛けてあるテニスラケットが目についたのである。ゆいつ私は持ち帰った戦利品にして、黒髪の乙女への橋頭堡【きょうとうほ】だろう。
はたして、このラケットの持ち主はどのような人物であったのだろうか。カネモチにはろくな者はいない。男であれば眼中になし。しかし、乙女であったならば、その御手の垢がこびり付いたこのラケットを抱いて寝る所存である。罪悪の念に囚われることなく、私はラケットを手にとって眺めた。それこそ穴が開くほど凝視した。なるほど、このラケットの持ち主は几帳面でありながら大雑把のようである。いや不器用と言うべきか。一見して手入れの行き届いているように見えて、所々に傷も見当たれば木枠には埃が付着している。
何よりも、持ち手の底に墨だろうすでに掠れて何と書いてあるのか解読不明ながら、氏名のような文字の痕跡が見て取れた。このような物に墨で氏名を記入するとは余程の横着者に相違なかろう。ゆえに私はこれは男の所持品であると結論づけた。
根拠が乏しいと言えば反論はすまい、私とてその昔、靴に墨にて名前を記入していたじきがあった。雨に降られてしまえばたちどころに消えてしまうとわかっていて、なお肩肘を張って頑なに墨を使い続けた経緯があるのだ。ゆえに、このラケットの持ち主は男なのである。
私は悠然と立ち上がると、見取り稽古にて研いたテニスの腕を確認するため、ラケットを振ってみた。すると、なかなか様になるではないか。睡眠足らず最果ての境地と朧気な脳髄にて、ラケットを振り回し続けた。机の上の鉛筆が飛散しようが卑猥無卑猥図書が散乱しようがお構いなしに、空中テニスを堪能していたのである。
そして、気が付いた時には私は愛しき万年床に腹上死のごとく横たわっていた。半分も開かない瞼をから目凝らすと、襖にラケットが刺さっているように見えた。
そんなはずが無い。私は奇声を上げて暫し笑った後、意識を失ってしまった。