[ログ:1136]珈琲を巡る正義
「しかし、あれだよな。この世界、よく崩壊しないよな。」
春めいた季節を感じさせる都市キッサッサのジャズ喫茶で、ナルヴィクが呟いた。
「何の話?」
クロエが、退屈そうにあくびをしながらナルヴィクに問う。
今日は、彼女が欲する“何か面白いこと“なるものが生じないので、今にも彼女が、それを起こしてしまいそうで、隣でコーヒーを啜っていたイズルは気が気で無かった。
そのため、せっかく先日、簡単な依頼をクリアした際に珈琲好きの依頼人からAmazonを介してプレゼントされた高級豆のコーヒーを、拡張現実<AR>モードに切り替えて楽しんでいたのに、全く風味を感じられない。
「いやさ、先週、イズルが、金持ちのおっさんから手付金とキャンセル料をぶんどっただろう。」
「あれね。あれは、酷かったわよね。」
イズルは反論しなかった。誰のせいで、そんな強盗めいたことをする羽目になったと思っているのだろうか。しかし、反論するだけ時間の無駄である。
「で、思ったんだ。この世界は、警察とか裁判所が無いのに、よく自治が保たれているなって。だって、そこら中で、強盗が多発してもおかしく無い訳だろ。」
「そうねー。この都市みたいに自警団がしっかりしてたり、傭兵が雇われたりしているから問題ないのかしら。」
そう言ったクロエの後ろを、キッサッサの自警団が、どこかの独裁国家並みに手足を振り上げて行進している。
この都市は、大の喫茶店好きが集まっており、その者たちがこの都市の景観を、破壊狂から守るために日々、24時間態勢で警備を欠かさず行っているのである。
しかし、これだけ時間を使える喫茶店好きというのは、おそらく定年退職した爺様たちなのだろうというのが、仮想現実世界でのもっぱらの噂であった。
そして、忘れてはならないのは、この都市キッサッサから50キロほど離れたところに、カフェ好きの若者たちが作っている都市があり、喫茶店とカフェを巡る正義を争い、この2都市の間では(主に喫茶店好きの爺様たちが先に手を出すことで)定期的に血みどろの総力戦が繰り広げられていた。
そのため、ここキッサッサは、珈琲豆を売る商人たちと同じくらい武器商人がうろつく都市として有名であり、街のPRコピーは「行こうよ! 珈琲と火薬の香る街キッサッサ」である。
「この世界も現実と一緒で、正義の味方を演じるのが好きな奴らがいるのさ。」
ゼモキス氏のことを思い出し、イライラしてきたイズルが、思わず毒づく。
「イズル。この世界が崩壊しない秘訣について、何か知ってるのか。」
「黙ってないで教えなさいよ。」
イズルはマズいことをしてしまったと後悔した。余計なことを喋ったため、クロエの瞳がキラついている。
「いや、どうせ、そういう奴がいるんだろうなと思っただけさ。」
自然に口をついて出た嘘だったので、とぎまぎしなかった分、ナルヴィクはすっかり、その言葉を信じて「なんだ、そういうことか。」と追及することは無かったが、クロエは獲物を狙うネコのようにギラギラした眼差しを依然として向けている。
「嘘でしょ。何か知ってるのよ。」
「何でそう思うんだ。」
「イズルも詐欺師だから、何かそういう目に遭ってるんだわ。たとえば、誰かに私的制裁を受けたとか。」
「失礼だな。誰が詐欺師だ。僕は正真正銘の幻獣医だし、現実世界でも獣医の資格持ってるんだ。ただ、クロエに治療を見せる機会があまりないだけで、勝手に詐欺だと決めつけないでくれ。」
言い終わると、ナルヴィクが悲しそうな目をしてイズルの方を見ているのに気付いた。
「どうしたナルヴィク。」
「いや、何だか寂しさを感じて。」
「なんで、寂しくなるのよ。」
クロエの言葉に、ナルヴィクは本当に悲しそうな顔をして、
「今まで、俺、イズルから現実世界での仕事のことなんて教えてもらったこと無かったから。もう、1年以上の付き合いなのに…」