狂化戦争
「進めー! 休んでいる暇はないぞ!」
馬に跨る指揮官が部下達に喝を入れる。不眠不休の進軍だが、部下に不満は漏らさせない。
それがカフラ司令の期待に応え、恩義に報いるため、平民から騎士に成り上がった身としての最大限の務めだ。
「先行部隊は皆帰還した! 我らに手柄を残してくれたのだ! これはラドウェールに恩を返すための機会である! 祖国のため、家族のために、今こそクレストを領地として平定するのだ!」
兵士の戦意を高揚させようと演説を繰り返す。ずっと暗がりで燻っていた自分が陽の目を見た気がしていた。
さぁ、敵地まであと僅か。このまま敵を殲滅し領土を奪い物資を略奪し、英雄として帰還しようではないか。
そうほくそ笑んだ指揮官の目に、ひとり、重そうな鎧を着た男が写る。
妙だった。たったひとりで、愚かにも大軍に向けて歩いて来ている。
仮面のような無表情で。
「何だ……? よもやクレストの先兵? いや、それにしては」
おかしい。ただの一人で斥候が敵部隊に突撃するはずもない。
教練で教わったことでは計り知れない敵の奇行を前にして、指揮官は唖然としていた。
何だ? 何が起きている? あの男は何をしにここに来た……?
だが、指揮官の苦悩など露知らず、隣の兵士が声を上げた。
獲物を見つけた、肉食獣の笑み。一方的に敵を虐殺できるという邪悪な笑い。
「戦前の余興だ! 誰が先に殺すか競争しようぜ!」
おおーっ! と歓声が上がる。銃や弓を持っていた兵士達が、こぞって前へと進み出た。
待て、との指揮官の制止も聞かず、兵たちは余興に興じる。
歓声と銃声、射声。矢と弾丸と声が入り混じり男を殺さんと迸る。
誰もが目を見開いて、見逃さぬようにと男の最期を見届けようとした。そして、そのまま兵士たちは瞠目する。
男が死なないという事実に、驚愕する。
「な、何がッ! 撃て! 撃ちまくれ! 軽歩兵は前に出ろ!」
指揮官が指令を飛ばし、追撃を命じた。再び放たれる矢と弾丸。死が飛来し男を亡き者とする……はずが。
「全部防いだだとッ!」
人間離れした業で、男は軍勢へと疾走し始めた。穿たれる矢と弾は全て切り落とし、凄まじい速度で切迫する。
先に突撃した槍兵たちをただの一撃で仕留め、歩みを止めることなく走り抜ける。
「う、嘘だ……あれは……ひ、ひいい!」
「待て、逃げるな! ッ」
逃げ出した友軍に激を飛ばしながらも指揮官は脅えていた。敵の異常性に。
相手が何者かはもう思い知っている。狂戦士。一騎当千と言われる人ならざるモノ。
だが、死ぬわけにはいかない。そして、逃げるわけにもいかなかった。
自分を騎士へと昇格してくれた、カフラ司令に報いるためにも。
「うおおッ!」
指揮官は馬から降りて、腰に提げていた剣を抜き、左手でピストルを取り出した。
チャティスが使っていたのと同じホイールロック式のピストルだ。
指揮官としての意地。兵士としての責務。矜持を守るべく、剣を振り上げて銃を撃たんとしたその刹那。
スパッと綺麗に、指揮官の左腕が上へと飛んだ。
「う、ぐ……ぁ」
あまりの衝撃に、あまりの激痛に、悲鳴を上げることすらままならない。
目の前に立つ男は、落ちてきた指揮官の左腕からピストルを奪い、指揮官の頭へと突きつける。
「眠れ。お前の死が、他者に生を与えることだろう」
男は……クリスは、指揮官の頭を至近距離から撃ち抜いた。
※※※
クリスの狙い通り、指揮官を失った敵軍は軍隊としての機能を失っていた。
元より、適当に民を選定した寄せ集めでしかない。彼らは生贄の羊であり、真の戦力は別にある。
逃げ惑う兵士の波の中で、ひとり、微動だにしない黒髪の女を見つけてクリスは標的を見定めた。
間違いない。あの女だ。あれがクレストの狂戦士にダメージを負わせた張本人のはずだ。
「あなた、奇妙ね」
女は笑う。魔術師のローブに身を包み、右手に杖を持ちながら。
「お前もな。なぜ狂わない?」
友軍の死に様を目撃したにも関わらず、狂化しない女にクリスが問いかける。
フフ、と女は微笑んで、説明し始めた。
「同じ方法を取っているのかと思ったけど、どうやら違うようね。あなたは完璧。私のように不完全ではない」
女はそう前置いた後、杖を後方へと向ける。
「私と違って理性を保ち、殺人衝動まで抑え込んでいる」
轟音、発光。逃げ惑うラドウェール軍が爆発に飲み込まれ、一人残らず全滅。クレストを奪わんと画策していたラドウェール軍は友軍の狂戦士によって壊滅した。
「……」
「あなたの問いは間違っている。私はちゃんと狂化してるわ。自身の魔力で無理やり理性を保たせてるだけ。会話はできる。思考もできる。けど、頭と身体は別物なの。私の意志に反して、私は狂い、血にまみれ、屍を量産する」
「バーサーカーの魔術師ならではの荒業か」
「そうね。でも、今まで大した意味はなかった。今までの相手は狂って話せるような状態ではなかったから。でも……あなたなら楽しめそうね」
女は杖を正面に戻して、くるりと振り回す。
「私はアーリア。ラドウェールのバーサーカー。……戦い前の口上なんて初めて」
「俺はクリスだ」
クリスはピストルを投げ捨て、剣を構えた。意外そうにアーリアが眉根を顰ませる。
「あら、クレストのバーサーカーではないのね。あの男の代わりにあなたが来たと思ったのだけれど」
「そいつなら死んだ。俺が殺した」
「へぇ……。なら、私の強さを承知の上で、あえて挑んできたの? それとも――」
アーリアは遠くの丘を見つめて微笑んだ。
「あの小さな子に頼まれたのかしら?」
「あの娘は関係ない。俺は俺の目的のため、お前を殺しにやって来た」
「ふうん。何か想うことがあるのね。……色を感じさせない瞳、仮面のような無表情。でも、微かに悲しみが垣間見れる。同時に優しさもね。どちらも先天的ではなく後天的。誰かに植え付けられたのかしらね」
「……これ以上の会話が必要か?」
クリスは唐突に会話を断ち切った。これから剣と杖を交える相手と談笑を愉しむつもりは毛頭ない。
しかし、アーリアは違ったようで名残惜しそうな顔をみせた。
「残念ね。初めて話せるバーサーカーと会えたのに。同類とお話する機会なんてないからすごく楽しかったのよ? まだまだ話し足りない。世界のはなし、バーサーカーのはなし……」
強烈な殺気を感じ、クリスは身構える。アーリアは人間ならば裸足で逃げ出すほどの殺気を放ち出した。
「恋の、おはなしとか」
瞬間、アーリアの姿が消える。クリスの遥か前方に瞬間移動したのだ。
クリスが地面を踏み鳴らす。アーリアが杖を構えて詠唱する。
「――さぁ、狂化戦争を始めましょう。内から溢れ出る殺人衝動に流されるまま」
「……」
剣士と魔術師、異なる狂戦士による戦争の幕が切って落とされた。
※※※
「……う、ぅ」
チャティスは目眩と吐き気を催しながらも、何とかして踏みとどまっていた。
凄まじい爆発の衝撃波に吹き飛ばされそうになりながらも踏ん張って戦場を覗いていたが、今や恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
それほどに苛烈。それほどに凶悪。
狂戦士の殺気がこれほどのものだとはチャティスは知らなかった。クリスは今の今まで本気ですらなかったらしい。
いや、あの女魔術師が異常なんだ、とチャティスは思う。
「むちゃ……くちゃ。アレは人の形をした何かだよ」
悪魔、という単語がチャティスの脳裏に浮かぶ。
チャティスは、なぜ魔術師が自分を誘拐してまでクリスを服従させようとしたのかわかった気がした。
無理だ。アレに人が立ち向かうのは。
知識としてはチャティスもわかっている。だが、実感としてはイマイチだったのだ。
あくまで狂戦士は一騎当千。逆に言えば千人用意すれば狩れることになる。
だがその数値すら、今や正しいかどうかわからない。
アレに千人用意したところで、むざむざ殺される光景しかチャティスには想像できなかった。
「アレが……バーサーカー」
神話を間近で見ているような、そんな感覚。
超越的な存在と、自分は傍にいた。友達と同じような距離感で。
だが、クリスは狂戦士。今まさに神話再現を行っている雲の上の存在。
人の身で決して触れてはいけない禁断の果実。
「……ホントに、そうかな」
事象として目の当たりにしながらも、チャティスはまだ断言できなかった。
クリスは、確かに狂戦士なのかもしれない。だが、化け物や悪魔と一括りにしてしまっていいとも思えない。
もう少し観察が必要だ。クリスが人なのか、化け物なのか。
「……ッ」
チャティスはがくがくと震える足で、立ち続ける。いざとなっても逃げようがない。そう自分に言い聞かせて。
そして、俯瞰する。田舎暮らしゆえに知り得なかった、戦争を。
「――これがバーサーカー。……これが、狂化戦争なんだ……」
チャティスが覗くレンズの中で、狂戦士と狂戦士が激突する。
※※※
アーリアが執った戦術は至極単純なものだった。
遠距離からの魔術による砲撃。ラドウェールの軍勢を一撃にして屠った威力の爆発を、クリスの元へ撃ち放つ。
着弾点が僅かに煌めいた直後、大規模爆発。ひとりを殺すにしては過剰過ぎる閃光が辺り一面に広がった。
だが、アーリアは理性を無理やり保持しているからこそ理解している。よほど弱い狂戦士か、相性の良い狂戦士以外、無事突破してくると。
案の定、クリスは爆発を生き残った。荒れ果てた荒野を一直線に、猛烈な速度で走破している。
「予想通り……。あなた、とても楽しめそう。死ぬかもと思える相手は久しぶりよ!」
遠隔発声で戦場に声を響かせながら、アーリアは杖を振るう。……そうは言ったが死ぬ気は微塵もない。
アーリアが独り身ならば、死んでも構わないと思う。狂化して、戦場を死ぬほど楽しんだ後、敗北して無様に散る。それが狂戦士として生まれついた者のさだめであり、何者もその運命からは抗えない。
だが、アーリアはその運命に抗おうとしていた。狂化戦争に参じる大陸諸国に打ち勝って、大陸統一を成そうとしている。
その理由は単純明快。恋をしていたからだ。
アーリアは狂戦士でありながら人に恋をしていた。相手はカフラ。自分の飼い主だ。
齢三十という若さでラドウェールの将校となり、自分を使えると見出した男。
あのような有能な男ならば、命を賭してもいい。全てを終えた後、無用なものと斬り捨てられても構わない。
しかし、他人に殺されるのはごめんだ。恋をしたからこそ、恋した相手に葬られたい。
だから、アーリアは杖を握る。魔術を行使する。
自殺するために、生を勝ち取ろうと闘志を漲らせる。
「愛しのカフラ……あなたに勝利を!」
アーリアは空中に浮かび上がり、無数の追尾弾をクリスに向けて発射する。
※※※
「……」
飛来する砲弾を無言で裁く。回避しても追尾してくるということは一度避けた際に把握した。
手にする思い出の剣は、とても頑丈だ。斬れないモノは何もない。例え、狂戦士でさえも。
(しかし、多い。裁くことは容易だが、このままでは時間が掛かり過ぎる。そして、無意味な時の浪費は状況を悪化させる)
クリスが魔弾を撃ち落としながらアーリアに目をやると、追加で新しい術式を発動させようとしているところだった。
魔術師と剣士では、剣士が圧倒的に不利である。魔術師は魔術によって自在に状況を創りかえることができる。
しかし、剣士の攻撃方法は剣しかない。接近戦による斬撃しか。
そういった意味では、アーリアは相性最悪の相手といえる。如何に最高の切れ味の剣を持とうが当たらなければ意味がない。
そのため、クリスは博打に出ることにした。現状を打破する最良の一手として。
足に力を込めて、跳び上がる。狂戦士の脚力ならば、一気に上空へと舞い上がることが可能だ。
「迂闊よ!」
アーリアの声が響いてくる。
彼女の言った通り、クリスの後を大量の追尾弾が追いかけてきていた。このままでは着弾は必至。
なす術もなく空中で死に果てること間違いなし。
だが、それはあくまで常人であればの話だ。
「――ッ!」
クリスは空中で方向転換し、一気にアーリアへ向けて跳躍した。
足場にしたのは何でもない。空気だ。風魔術の基礎媒体となる素子を踏みしめて、クリスはアーリアへと弾丸のように飛翔する。
「なるほど。やはりバーサーカーらしくない技巧」
アーリアが満足げに微笑んで、杖の先端をクリスに向けた。
その刹那、迸る閃光。高密度の魔力を直線状に展開し、クリスを射抜かんと発射してくる。
咄嗟に閃光を剣で受け止めたクリスだが、盾として剣は不向きだ。
耐えられず、空中でバランスを崩してしまう。そこに大量の追尾弾が降り注いだ。
「――フフ、終わりよ」
アーリアが素直に喜ぶ。
だが、次の瞬間には余裕の笑みが吹き飛んだ。爆風の中からクリスが飛び出してきたからだ。
手傷を負っているが、肢体は無事であり、大きな外傷は見受けられない。
「……」
クリスはまた黙りながら、地面へと着地するとアーリアへと駆けだした。
兎にも角にも、クリスに取れる方策は接近のみ。いくら猛撃を防いだところで攻撃ができなければじり貧となって負けてしまう。
逆に言えばアーリアは距離を取りさえすればいい。だが、アーリアにも下がれない事情はあるとクリスは踏んでいた。
(あまり下がり過ぎるとラドウェールの前線基地に近づいてしまう。ともすれば、彼女の勝利に意味がなくなる)
狂戦士は狂化を解くために一定数の人間を殺さねばならない。だが、その殺人量は狂戦士によって個人差があり、ひとりを殺して済む場合もあれば万を殺しても止まらない場合もある。
時と場合によって曖昧なのだ。そんな不確定条件があるため、アーリアの後退距離は限られている。
もしまかり間違って愛しい人を殺してしまわないためにも、アーリアはこれ以上後退できない。
「……ふん。そろそろ本気でざわついてきたわね。死の恐怖に身体が高揚しているッ!」
アーリアの並列射撃を掻い潜り、クリスは彼女へと切迫する。一撃一撃は強力だが、魔術という観点から見ると芸がない。アーリアの攻撃構造は単純がゆえに、クリスを捉えることは難しかった。
ずっとまともな相手と戦ったことがないがための弱さ。凶暴だが単調な相手と戦っていれば、どうしても戦い方が雑になってしまう。
「ハハ……ハハハ! クリス! あなたは強い! 理性を保ち、狂化をコントロールできるバーサーカーがこれほどとは! だけど、私は負けない。私は恋をしているから――!」
「……ッ」
恋、という単語を聞き届け、クリスの動きが遅くなる。
アーリアまで後少し、というところで彼女は新しい術式を完成させた。自分の周囲を爆発させる単純が故の強力な破壊。
クリスを爆発せんと、アーリアが魔術を発動させる。
「――吹き飛べ! バーサーカー!」
舞い上がる爆炎。拡散する輝煌。地面が抉れ、アーリアの周囲に煙霧が広がる。
寂れた荒野で放たれた爆風は、一瞬のうちにクリスを呑み込んだ。
ゆえに、笑う。勝利を確信したアーリアが。
すぐにその笑みを驚きに歪ませられるとは露ほど思わず。
「ッ!? 何!?」
「フッ!」
息を吐き出しながら繰り出される一閃。爆風すら叩き切った剣戟はぎりぎりアーリアに回避され、今一度とクリスは足を踏み込んだ。
再びの閃斬。衝撃波すら伴う強力な一撃を、アーリアは咄嗟に創り上げた魔術の剣で防御する。
惜しかったわね、と焦った笑みをみせながら。
「今のは……ホント。バーサーカーとして魂が揺さぶられるほどの斬撃だったわ。理性が吹き飛んじゃうかと思った。でも、この距離なら絶対に外さない」
右手で持った杖を、クリスへと突きつけるアーリア。避けようとすれば左手の魔術剣による斬撃が見舞われ、防御しようとしても至近距離で放たれる高出力の魔術はクリスと言えども防ぎきれない。
万事休す。もはや打つ手なし。
そう思っていたのはあくまでアーリアだけだった。
「な――! 剣が押されて!?」
「……この剣に斬れぬモノは、ない」
かつて愛した者すら斬り貫いた必殺の剣。斬れぬモノなど何一つありはしない。
相手が魔術を発動するよりも早く、クリスは間合いを詰める。アーリアが出せる最高密度の魔術の剣を叩き切り、クリスはアーリアの首を取らんと肉薄した。
対応できないと判断したアーリアが後ろに飛ぶが、その程度では避けられない。
「ぐ……あッ!」
首こそ飛ばなかったものの、上半身を深く斬られたアーリアは着地すらできずにダウンした。地面を転がり、杖で反撃しようとして理解する。
自身の武器が見るも無残に真っ二つに折れていたということを。
「アハ……ハハハ。私なんかよりあなたの方が大陸統一を成せたかもしれないわね」
「興味がない」
あくまで冷徹に、クリスはアーリアに即答した。
諦めを顔ににじませるアーリアは、ふぅと息を吐いて空を仰ぎ見る。重傷を受けた彼女はもう狂ってはいなかった。
狂戦士の狂化を解くもう一つの方法だ。
「……きっと、あなたも恋したことがあるんでしょう?」
「……」
クリスはアーリアの問いかけに答えない。
無言を肯定と受け取り、アーリアは口を動かし続けた。これが最後なのだから大目に見てくれ。そう言わんばかりの表情で。
「優しい人だったのでしょう。きっと人間ね。しかも邪心がない人間。バーサーカーを受け入れる人間は貴重だからね。人は私たちを化け物か、利用できる道具としてしか見ていない。でも、その反応は当然。私たちは結局自分自身さえもコントロールできないのだから。……あなたとは違ってね」
くすりとアーリアは微笑む。
「あなたが……羨ましい。あなたはこれからも狂わないで生きていける。生きとし生けるバーサーカーたちの羨望の的」
「俺はそんなものではない」
トドメを刺そうと歩み寄るクリスはそう返した瞬間に、第三者の存在に気が付いた。
まず魔術の波動が発生し、近くに何者かが瞬間移動。反射的に剣を振り下ろした時にはすでに遅く、アーリアは視界から消えていた。
「そうだとも。お前は誰からも羨まれない」
「……お前がアーリアの飼い主か」
声を掛けられ、クリスが振り向くと、だいぶ離れた場所に魔術師が立っていた。傍には死にかけるアーリアの姿も見える。
恐らくは敵の保険。狂戦士の狂化が解けた瞬間を見測り、何かしらの考えがあって姿を晒したのだろう。
クリスは警戒し、魔術師の挙動を見逃さんと目を据える。
「よもやこの手を使うはめになったとは。先日とはバーサーカーの波動が異なるからもしやと勘ぐって正解だった」
一騎当千の狂戦士を前にしながら男は余裕だった。杖の先端をクリスに向けて、勝利を疑わない視線をクリスへと注ぐ。
「この杖には私が魔道を志してから累積した、二十年分の魔力が蓄積されている。如何なバーサーカーと言えども防ぎきれず、避けることすら叶わない。……降伏か死か、選べ」
クリスは相手を侮らず、忌憚ない瞳で状況を確かめる。この男はチャティスを誘拐した魔術師のように油断していない。自身の手腕に絶対の自信を持っている。
下手に抗ったとしても、確実にクリスを屠ってくるだろう。狂戦士としての今までの経験が警告を発している。
魔術発動はクリスの疾走よりも速い。そして、クリスの武器は剣しかない。
仕方なし、とクリスは諦めた。
「わかった……選択する。俺の選択は……生だ」
「……ッ! カフラ!」
クリスは接近戦を諦めて、得物を敵に向かって投擲する。
反応できたのはアーリアだけ。想い人を守らんと盾になったアーリアだが、クリスの投剣はそのような薄い肉壁など容易く貫通する。
剣は二人を串刺しにして停止した。あまり遠くに飛ばれても困るためクリスが加減したのだ。
「俺は彼女の夢を叶えるまで死ねない」
クリスは今一度二人に近寄った。
二人とも、虫の息。どちらも出血量がおびただしく、いつ死んでもおかしくない状態だった。
瀕死のカフラがまず声を捻りだす。魔術師の男は悔しさを滲ませた悔恨を口にする。
「くそ……! 私の悲願が……ぁ」
カフラは大量の血を吐き出して、絶命した。
だがしかし、まだアーリアが生き残っている。
カフラの上に乗った態勢となっていたアーリアは、血の気の失せていく顔で穏やかな笑顔をみせた。
「死ぬ……のね、わたしは。にどとくるうことはない……」
「ああ。お前はもう狂うことはない」
「ふ……ふ。かたおもい……いっぽうてきなこいだったけど……すきなひとといっしょにしねて、しあわせ。……でも、そろそろつらい、かな。らくにしてくれる……?」
「ああ。俺はそのためにここへ来た」
クリスは剣をカフラとアーリアから抜き取って、アーリアの左胸へと突き立てた。
「眠れ。報われぬ愛をその胸に抱きながら」
剣の血を払い、鞘へと仕舞うクリスの横顔は、勝利を勝ち得た人間の顔にはとても見えなかった。
※※※
足があまり言うことを聞かず、何度も転倒した。
それでも気になって、チャティスは駆ける。彼女が出せる最大の速度で、戦場だった場所を走る。
「クリスー! クリス~~!」
クリスが無事だった喜びやあの状況で自分が生き残ったという幸福感、クレストが救われたという安心感がない交ぜになって、チャティスは笑っているんだか泣いてるんだかわからないまま、クリスの元へと向かっていた。
ただひたすらに嬉しい。この喜びは小さい頃に病気が治った時と同様かそれ以上の喜びだ。
危うげな足取りで駆けていくと、徐々にクリスの影が近づいてくる。
ハハハ、と笑い声を上げるチャティスは気づいた。
クリスの顔が悲しんでいるような、そんな微小な違和感に。
「クリ、ス?」
走るのを止め、歩いてクリスへと寄る。
「終わったぞ」
「うん。……大丈夫?」
チャティスが尋ねると、クリスは二つ返事でああと応えた。
「目立つ傷はない。すぐにでも君を村へ送り届けられる」
「……わかってないよ、クリス。本当に、大丈夫?」
「…………」
そこで、はじめて。
クリスは、チャティスに驚いたような表情を見せた。
「身体の傷は心配してないよ。どんな怪我でも私が調合した薬なら治せる。でも心の傷は難しい。薬で治しても依存の心配があるからね。だから、辛いことがあったらすぐに相談して。アドバイスはできないけど、痛みの共有はできるから……」
「……チャティス」
また無表情に戻ったクリスは、チャティスの前で立ち止まり、
「ありがとう」
と言って彼女の横を通り過ぎた。
「……っ」
今度はチャティスが驚く番だった。
なぜなら、クリスが。
ほんの一瞬、ほんの微かに。
微笑を浮かべたからだ。
「あんな風に、笑うんだ……」
チャティスは感慨深く呟いた後、あ! と何か思い出した様子でクリスの背中を追いかける。
「待って! 私は村に帰らないよ! まだ成り上がってない!」
走りながら、チャティスは確信した。
クリスは狂戦士だ。
だがその前に、人間だ。
感情が希薄で身体能力が高いだけの、ひとりの人間なのだ。
恐れる必要はない。
いや……むしろ……あの様子だと……。
「クリス! 聞いてる!? 私はすごいことをしてお金持ちになるの! クリス!」
チャティスは疑念を振り払い、満面の笑顔で狂戦士を追いかけていった。