幻影想念
ティルミに帰還したチャティスは、皆の反対を押し切って、封印されていた自分の部屋をこじ開けた。
そこには大量の資料と自分の日記が置いてあった。まず目に付いたのは、○の印がついた大陸地図だ。不可思議なことに、〇を上書きするように×印が書き込まれている。
「クレスト、ラドウェール、アリソン、フスト、エドヲン、ヤクド……。私が行ったことのない土地まで印がついてある」
だが、〇に×を付け加える意味があるのか。チャティスは自分自身の考えながらも、イマイチ理解できなかった。答えを求めるように日記へと手を伸ばす。そして、読み耽る。もうひとりの、狂い壊れた自分が残した痕跡を。
『とりあえず、自分が冒険した場所に関しては、終わらしたよ。これも一重に天才である私のおかげだね』
「うむむ、客観視すると胸にくるものがあるね」
目についた部分を読んでみて、チャティスがぼそりと呟いた。自分で言う分には気にならないが、見返すとなるとそうはいかない。
自分とは、もしかしてかなり気持ち悪い人間なのではないか。不意にそんな思いがもたげ、チャティスはその気持ちを吹き飛ばすように声を出した。
「違う違う! 私は天才なんだからこれでいいんだよ!」
部屋に自分の声が響く。誰の反応もない、虚しい独り言が。
キチュアだったらここで暴言が飛んでくるはず。だが、この世界にキチュアはいない。
自分が殺してしまったという。なぜ? 頭を巡るのは疑問と謎だ。
なぜだ。なぜ殺した。どうして私がキチュアを殺すのか。
「――バーサーカー同士の争いをなくす、もう一つの方法」
それは人類と狂戦士の殲滅。争う対象がいなくなれば、戦争は起こりえない。永遠の平和。クリスとサーレが望んだ理想の世界。
だからチャティスが、キチュアを殺した。キチュアの恋人であり幼馴染であるテリーも。人と狂戦士を救う方法を模索していたフォーリアスも。
そして、自分を産み育て看病してくれた、母親も。
「っ」
やるせない想いが心を包んで、チャティスは歯噛みした。
サーレはそのような世界を望んではいない。クリスはサーレの想いを誤解し、狂戦士を殲滅する方向で動いていたが、最後の最後で自分の誤りに気づきチャティスに託したのである。
だが、この世界の自分は誤解している。いや、理解した上で行動しているのかもしれない。
――多くの人間と狂戦士を救い、それよりも多くの人間と狂戦士に裏切られた――。
「私の発見と研究の成果によって、一時的な平和が訪れ、その後、それ以上にひどい戦争が起こった。だから私は、全ての人とバーサーカーを殺害することにした」
チャティスは日記のページをめくっていく。
序盤は自分が渇望していた理想が書き連ねられていた。自分ができなかったこと、間に合わなかったこと、どうしようもなかったことを、こちらのチャティスは達成していた。
チャティスの前で死んでいった人々を、こっちの自分は救っていた。アーリアやソダス、ミュール、ギムネスやガルド、フォーリアス、ヤクドの人々、ミーリアやフェニ、オリバー、クリスが殺してしまった人や狂戦士……。
クリスでさえも、自分は助けていた。そして、彼らを救うために彼女は努力し研鑽を重ね、とうとう大陸を平和にしたのだ。
「だけど結局、善意は利用された」
チャティスは目撃したのだ。人を救うために作った薬と広めた花が、人を殺すために利用される様を。
ゆえに、絶望した。希望は美しいが、染まりやすくもある。クリスやオリバーが危惧していた通り、チャティスは救世主から破壊者へと変移したのだ。
日記にはチャティスの希望と理想、そして不安と現実が綴られていた。
両親や自分を支えてくれた人々、友達、仲間、そしてクリスに対する想いも。
自分は誰かの想いによって生きている。
私の命は私だけのモノではなく、私を想うみんなのモノ。
だが、そんな自分の想いは、抗えない現実の前に儚く壊される。
『大陸諸国の動きが怪しい。クリスといっしょに調査へ向かおうと思う。大丈夫、天才である私とクリスがいればどんな状況だって乗り越えられるよ!』
その一文が最後だった。
後には白紙と赤い染み。血の涙の跡が、遺されていた。
チャティスは地図の意味が理解できた。アレは、自分が救った国であると同時に滅ぼした国だ。
「クリスは調査の途中で命を落とした。なるほど、だから、私は――私自身が、憎くてたまらない」
チャティスは日記から、自分の右手へと目を移した。
白い肌は綺麗なままだ。だが、チャティスは潔白な手に血を見出していた。
想うまま、想いを吐露する。自分の本心を独り吐く。
「……私といっしょ」
椅子に深く座り込み、考え込むように天井を見上げたチャティスは、急に鳴った窓へ視線を変えた。
何やらノックをされているようだが、窓は封じられている。
闇に染まりつつある世界は暗くて、昏い。チャティスはカンテラを手に取り外へと出た。
「……?」
だが、外には誰もいない。不思議に思ったチャティスが辺りを見回し、声を上げた。
「あの時のナイフ……!」
目についたのは銀色のナイフ。そして、青白く発光する足跡だ。
意を決して、足跡を辿る。その先にいる人物へ期待を寄せて。
「クリス」
チャティスは呼びかけながら進む。カンテラが緊張するチャティスの頬を照らす。
「あなたなの?」
足跡は続いていく。深い森の中に。腐海が世界を覆いつつあるこの世界で村の外は危険である。だけど、チャティスはこれっぽっちも身の危険を感じなかった。
自分は守られている。彼の想いに。
しばらく歩き続けていると、突然、足跡が途切れた。
辺りを見回したチャティスは、淡い光を放っている代物を見つけた。
「これ、は」
取り上げて、観察する。
ペンダントである。それも見知った品物。
クリスがチャティスに遺した、形見の一つ。
だが、自身が首から提げている物とは少し違う。形は全く同じだが、色がくすんでいるのだ。
この世界のチャティスが変わってしまったと同じように。
「全く、これを置いていくだなんて。これは大切なものでしょ?」
やれやれ、とチャティスは自分自身に呆れる。
そして、不器用な自分のパートナーにも。
「クリスもさ、どうせなら口頭で伝えなよ。いくら私が天才とは言え、何でもかんでも見抜けると思ったら大間違いだよ? 全く、もし、あなたの考えを私が理解できていなかったらどうなってたと思うの?」
返事はない。だが、チャティスは不思議と予想できた。
クリスの想いを読み取った。彼の願いを理解した。
「でもま、私に任せればどうにかなるよ。相手は他ならぬ私自身だしね。自分の過ちは自分が正さないと」
チャティスはくすんだペンダントを握りしめ、真っ赤な満月に、自信満々な瞳を向けた。
村へと戻ったチャティスは、ミュールにお願いしてある人物の元へと連れ立ってもらった。
もうひとりの自分が殺したと嘯かなかった人間。高らかに、殺したと謳わなかった狂戦士。
小さい小屋の中に入ったチャティスは手狭な一室のベッドの上に、その少女を見つけた。
「――ぁ、チャティス」
「シャル……」
シャルは寝たきりの状態でベッドに寝かされていた。彼女をこんな目に遭わせたのはこの世界の自分である。
狂愛者は世界に裏切られ、仲間を裏切ることにした。友に背を向け、剣を向けた。
その被害者がシャルだ。生きていることが不思議なくらいだったという。彼女は外に出ることも、ひとりで動くこともままならなくなった。
ある意味、慈悲だとも取れる。このような暗い世界を出歩くなんて辛いだろう。もしや、この世界の自分はそんなことを考えていたのかもしれない。
「敵を殺すには順序がある……か」
独り言を呟いたチャティスは、突如物陰から襲いかかってきた人影に押し倒された。きゃっ! と悲鳴を上げながら正体を確かめる。
「キャス……!」
「馴れ馴れしく名を呼ぶな、裏切り者ッ!」
キャスベルはナイフをチャティスの首に突き立てようとしていた。チャティスは精一杯抵抗するが、暗殺者であるキャスベルと薬師であるチャティスの力量の差は歴然だ。
拮抗してたのは物の一瞬、すぐに首を掻き切られそうになったチャティスを救ったのは、寝床上からの一言だった。
「いいよ、キャス。大丈夫だから」
「でもっ!」
「大丈夫。チャティスは希望だから」
シャルに諭され、キャスは手を引いた。下手な動きをみせれば殺す。そう言い残しながら。
起き上がったチャティスは、今一度シャルへと目を移す。青い髪に赤い瞳。特徴的な狂戦士。どこかずれていて、天然で、知りたがり。初めて会った時、口笛を吹きながら、自分を助けてくれた優しい子。
「ごめんね、シャル。私のせいで」
チャティスが謝るとシャルはきょとんと不思議そうに首を傾げた。
「何であなたが謝るの。あなたのせいじゃないのに」
「……ワタシのせいは、私のせいだよ」
目を伏せながらシャルに言う。だが、シャルは微笑を浮かべて否定した。
「私はチャティス、あなたを恨んでない。もちろん、本物のチャティスもね。悲しいよ、とても。悲しくはあるんだけど、恨みはしない。憎むこともない」
「どうして――」
どうしてそう笑いながら、彼女をこんな目に遭わせた人間を赦すことができるのか。
シャルはその答えを笑顔のまま口にした。口にできた。
「だって、あなたは私のお友達だから」
「……そっか」
泣きたくなったが、泣きはしない。
生憎、涙を流す時間はなかった。天才は常に多忙なのだ。世界は天才を求めて回っている。
チャティスは今後の方針に関わる答えを聞けて、友人であり仲間でもあるシャルに感謝を伝えた。
「ありがとう。行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
チャティスは踵を返し、小屋を後にする。そして、表で待っていたミュールに頼みごとをした。
「オリバーと父さんを呼んで来て。反撃開始だよ。いや、それほど大層なものでもないかな。――お説教の時間だね」
※※※
順調なはずだった。
その日までは。その時までは。
万事順調だった。人々は狂戦士に対する理解を深め、狂化が不治の呪いではなく、治せる病であると理解してくれた。
花と薬、そしてサーレの想いは大陸中に広まり、日常となっていた戦争は非日常となった。
異常が正常に戻り、平和がふつうとなっている……はずだった。
「――逃げろ」
日の光が注ぐ、丘の上。背後にはちょっとした崖がある。そこには、ひとりの男と少女がいた。
「い、嫌っ!」
男の声に応えて、少女が叫び返す。
少女の前に男が立っている。仮面のような無表情で、重そうな鎧を着込み、マントを羽織る剣士が。
だが、男から、微かに焦りのような感情が窺える。反対に、男が庇う少女からはありありと恐怖がみえた。
男と少女が、緊迫とした表情を浮かべるのには訳がある。
敵がいるのだ。男と少女を囲むように。
敵のひとり――人間の指揮官らしき男が、男たちへと声を掛ける。
「ベルセルク。バーサーカーの上位者。理性を保持するという特異性を除いても、通常の個体よりも飛び抜けている。貴公を狩るのに、サプレッサーを装備したバーサーカーだけでは足りぬだろう。貴公は強い」
男は余裕の表情で杖を弄んだ。くるくる回して、杖を男へ向ける。
「だが、これほどの数のバーサーカーに囲まれればどうだ。如何な強者と言えども、数の暴力には勝てぬ。それはバーサーカーとて例外ではない。無論、上位者であるベルセルクもな。バーサーカーは一騎当千だと言う。なれば、千人のバーサーカーをぶつければ、ベルセルクとて狩れるのではないか」
魔術師である男は笑みを作ってみせた。特に笑みは少女に注がれている。
魔術師の邪悪な笑みで、少女はたじろいだ。う、と怯えた様子で後ずさる。
だがその恐れは、怯えは、魔術師に向けられたものではなかった。
「恐ろしいだろう、薬師。……バーサーカーを制した者よ」
「うっ……!」
「貴公は薬師という凡庸なものでありながら……そうさな、凡人でしか成せない発見をした。我々のような魔術師が天を見上げる間、貴公は卑しくも地面を這いずりまわり、下の者でしか見つけられないものを得た。いやはや、感服する。私にはそこまで汚物に注ぐ情念はない。化け物を救おうなどとバカバカしいことは考えられない。誤解しないでほしい。私は褒めているのだよ。貴公のおかげで、我々魔術師はバーサーカーをコントロールする術を会得できた。これで不完全だった狂化戦争は、完全なる狂戦士戦争へと姿を変える」
「違うッ! そんなことをさせるために薬を創ったわけじゃ……!」
少女は震えながらも反論する。怖いのだ。恐ろしいのだ。悪意によって、自身の理想が破壊に用いられることが。
いや、恐ろしいのは本当にそれだけか。本当の恐怖はもっと別の、身近にあるものではないか。
「薬? 薬など用いておらぬ。そのような下等な物、魔術師には必要ない。全て、魔術だ。魔術が世界を支配するのだ」
「ッ」
「チャティス、下がっていろ」
少女は、チャティスは、自分を庇う男クリスを見つめ直した。
クリスは戦うつもりなのだ。千人もの敵と。狂化抑制器によって理性を獲得し、魔術によって完全な人形と化した狂戦士の軍団と。
「ダメだよッ! 逃げよう!」
もう一度叫ぶ。
だが、クリスは下がらない。抜き放った剣を構えたまま動じない。
「逃げる? 逃げすものか。薬師チャティス、貴公は既に十分なほど我らに貢献した。我々からの手向けだ。早々に死ぬがよい」
「殺させるか」
「クリスッ!」
名前を呼んで、チャティスは手を伸ばした。
自分が戦う理由へと。自分が想う存在へと。
だが、クリスは遥かに遠い。手を伸ばした程度には、届かないぐらいには。
「なッ!?」
クリスは後方へと剣を振るい、丘を一部切り崩した。
チャティスはなす術もなく転がり落ちる。ところどころに身体をぶつけて、それよりも鋭く心が悲鳴を上げて、チャティスは最後にクリスの背中を見つめ剣を交える音を聞きながら、意識を失った。
どれだけ気を失っていたかはわからない。ただ、気が付いた時には満月輝く夜になっていたことをチャティスは覚えている。
「――ぁ」
声を漏らして、月を目に入れる。
痛む身体に喝を入れ、嘆く心に気合を入れて、チャティスは起き上がった。
「クリス……」
小さくか細く呟いて、崖上に上る為のルートを探す。
比較的傾斜が緩い個所を見つけて、歯を食いしばりながら登り始める。
チャティスの胸中は穏やかではなかった。もうすっかり剣戟は止み、戦いの音は鳴りを潜めている。
だが、だからこそ、疑問と不安が一挙に心を駆ける。
なぜクリスは自分の元に現れないのか? 戦場の位置が変わったのか、はたまた敵部隊を追撃しているのか、もしくは……。
第三の選択肢を、チャティスは振り払った。
チャティスは頑として、クリスが生存していると思い続けた。
クリスは強く、そして優しい狂戦士である。ずっと自分の隣にいてくれる、無敵の存在である。
そんな彼が死ぬはずはない。戦いに敗れるはずはない。自分たちは正しいことをしてるのだ。負ける道理がない。
負けていいはずがない。死んでいいはずがない。
チャティスは涙を流したまま、やっと崖を昇り切った。息は荒いが休憩はしない。
身体に鞭を打ち、よたよたと一歩ずつ進んで行く。が、突然立ち止まった。
立ち止まらずには、いられなかった。
「……ぁ」
声を漏らして、膝をつく。前には、魔術師と大量の死体。そして――。
「ク、リス」
立ったまま動かない、満身創痍のクリスがいた。
腹に剣が突き刺さり、左肩を手斧で抉られ、右足には銃剣が貫通している。
頭部には裂傷。右目からは血が溢れ、鎧は半壊、至る所に怪我を負っている。
「ぐ、まさか、本当に千体を討ち取るとは。貴公、まさに最強のベルセルク。――しかし、もう動けまい。動けぬとあらば、私の手でも存分に殺せよう」
魔術師は杖を取り出し、身動きが取れないクリスへ魔術を行使し始めた。
クリスにトドメを刺そうとしている。
「ッ!!」
チャティスは反射的にピストルを取り出した。フリントロックリボルバー。ガルドがチャティスのために用意した、護身用の拳銃だ。
原理がホイールロックからフリントロックに変わった程度で、性能面に大差はない。より速く撃てるようになったのと、単純な機構のため壊れにくくなったぐらいか。
最新鋭のピストルをチャティスは魔術師に向ける。手には汗がにじみ、呼吸は乱れている。
いつでも、銃弾を穿つことはできた。六連発の弾倉は既に弾丸が装填済み。火皿の中に火薬は閉じてある。
狙いを付けて、引き金を引く。たったの二動作。子どもでもできる簡単なこと。
だが、チャティスの両手は震えたまま、銃口は彷徨っていた。
「や、やめ、て」
か細く、小さく、声を漏らす。相手のどこを狙えばいいかわからない。
魔術発動を止めるならば、頭だ。だがそれでは、あの魔術師を殺すということになる。となれば、自身の信条に背き、そして人を殺さないというクリスや両親との約束に反することにもなった。
人を殺さない覚悟を決めた少女にとって、それはあまりにも酷な決断だった。
魔術師を殺し、クリスを救うか。このまま手を出さないで、クリスを見殺しにするか。
チャティスは震える。怖じて、嘆く。怯えて、懇願する。
「やめて! クリスを殺さないで!!」
「聞ける者か、劣等種。薬師風情が魔術師に命令するなどと」
杖が光り輝き、クリスを殺さんとする。
もはや躊躇する猶予はないと、チャティスは狙いを魔術師に定め、引き金を引こうとし――。
拒否の念を眼差しに乗せるクリスと目が合った。
「――ぁ」
「チャティス、君は穢れてはいけない」
それが、最愛の狂戦士の、最期の言葉だった。
魔術の光球が頭に直撃し、クリスはそのまま後ろに斃れた。屈強な狂戦士が、サーレの理想を叶えんとした男が、邪悪な思想をもった魔術師に殺された。
いや、違う。クリスは魔術師に殺されたのではない。
自分に殺されたのだ。できもしない理想、叶うことのない幻想を諳んじたチャティス自身に。
「あ、あ」
立つ気力すら喪失し、チャティスは地面に座り込んだ。
呆然と、クリスの死体を見つめる。サーレの剣がクリスの傍に突き刺さっていた。
「ふ、ふ、これで後はオリバーとか言うベルセルクを始末するだけ。苦渋を飲み、辛酸を舐めるのもここまでだ。これからは我々の時代……魔術師の時代だ」
魔術師は嗤っていた。茫然自失、虚脱状態となっていたチャティスは虚ろな瞳で魔術師の嘲笑を聞いていた。
だが、その瞳に急速に色が表れる。
魔術師は嗤いながら、愉悦を感じながら、クリスの遺体を蹴り始めた。
「バーサーカー、ベルセルク! 化け物共はこれで統制できる。流石だぞ、薬師。褒めてつかわそう。貴公がいなければ、我々は無力なままだった!」
子どものように無邪気に、狼藉を働いた。
嬲り、弄び、愚弄した。その男を大切に想う少女の目の前で。
もはや、少女に躊躇う理由は残されていなかった。穢れを恐れる必要はなかった。
自分が綺麗なままでいなくちゃならない理由は、もう死んでいた。
「愚か、愚かだ。バーサーカー同士の戦争を終わらす? その意味を全く理解していなかった! 平和など戦争の休息期間でしかないのだぞ」
「じゃあ、戦争をなくすためにはどうすればいいの?」
「そんなもの全ての人間とバーサーカーを殲滅するに――き、貴公!?」
魔術師は瞠目する。てっきり打ちひしがれ、無気力になったとばかり思っていた少女が、
「じゃあ、手始めにあなたを殺さないとね」
想い人の剣を執り、魔術師へと斬りかかった。
「ああッ! や、やめッ!」
チャティスは魔術師の懇願を聞き受けず、ただ仰向けに倒れた男に剣を振り下ろす。
斬る刺す、解体する。自分が満足するまで、魔術師が肉塊へと変わるまで、剣を振るい続けた。
信条に背いても、自分の心は泣かなかった。罪悪感すら、胸を抉らなかった。
既にチャティスの心は壊れていた。自分で自覚できるほどに狂っていた。
血が目に入り、世界が赤く染まる。流れない涙の代わりに、返り血が流れる。
「ああ、あああああああッ!!」
叫びながら月を見る。
月は紅く、血濡れたように染まっていた。
※※※
「……夢、か」
真っ白な髪に、紅い瞳の少女が目を覚ます。
狂愛者は、昏い森の中、木の上で眠っていた。
世界はだいぶ黒く染まった。後少しの仕上げで、世界は終わる。
これが普通、これが日常。
これが本来の在り方だ。世界は暗い闇から始まった。なら終わりもまた、黒く深く染まるべきだろう。
「早く世界を平和にしないと」
チャティスは起き上がり、眼下を蠢く喰らう者たちを見下ろす。
初めて喰らう者を見た時、怨嗟から生まれる化け物共は畏怖の対象だった。
だが今や、彼らが愛おしくてたまらない。彼らが世界を壊し、生命を喰らう。
言わば世界の壊し手だ。味方ではなく敵でもないが、彼らと自分の目的は合致している。
「餌は向こうだよ、みんな。おやつの時間だよー」
チャティスは喰らう者たちに呼び掛ける。まるで、子どもを呼び寄せる母親のように。
あながち間違いではない。チャティスは彼らの生みの親と言ってよい。彼らは、チャティスが殺した人間たちの成れの果てなのだから。
「おいしいおいしい、新鮮なお肉だよ! 数に限りがあるから、早い者勝ちだよー! あぁ、でも――」
チャティスは天に浮かぶ、紅く染まった月を見る。もしや獲物もそうしているのではと思い立って。
欲しがるように手を伸ばす。渇望するように仰ぎ見る。
「わたしを殺すのはワタシ。それだけは絶対に譲らないからね」
あぁ、早く殺したい。愛おしいほど憎いわたし。
クリスを殺したわたしを、ワタシは絶対に赦さない。
けど、自殺は難しい。まだ、自分にはやるべきことがあるからだ。
だから必要だった。わたしが。そうして、彼女は現れるべくして現れた。
だから、殺す。自分勝手に、身勝手に。
ワタシが殺したいから殺すのだ――。
「早く会いたい、逢いたいよ、わたし」
チャティスは吐息を吐き、自分自身を抱きしめた。
恐れはない。悲しみもない。あるのは猛烈な怒りだけ。
泣くこともない。涙はとうの昔に涸れている。




