チャティスとクリスと
クリスはオリバーを見つめ、オリバーもクリスだけを見据えていた。
ゆえに、その変化は双方にとって予想外だった。
突然の発光。眩いばかりの煌めきに、互いの剣技は鳴りを潜める。
時間停止したように剣は止まり、視線は輝きへと集中した。
「チャティス?」
「……」
クリスが名を呼び、オリバーは黙す。
クリスの言葉通り、チャティスがそこに現れていた。
苦しみ喘ぐ様子で。苦悶を顔に張り付けて。
「一体――?」
クリスが僅かに訝しむと、力尽きたと思われた声が頭上に響く。
『剣を置け、ベルセルク。じゃないとこの人間を殺す』
「……ミーリアか」
名を口に出したのはオリバー。彼の言う通り、クリスを恐喝するのは狂化抑制の効果を持つ花の力で、刎ね返りを気にすることなく魔術を行使できるようになったミーリアだった。
ミーリアは苦しげではあるものの、凛とした口調で続ける。
狂化を考慮しなくて済むのなら、だいぶ消耗こそしたものの自在に魔術を発動できるからだ。
「……止せ、その娘は……チャティスは関係ない」
偶然にも、クリスは姉に言い放った言葉と相違ない言の句でミーリアに告げた。
そして、これまた奇遇なことに妹もクリスの胸中を看破する。
『見え透いた嘘を吐くな、裏切り者。お前の戦う理由にこの女が含まれていることはわかっている』
「だが、俺の理由は彼女だけではない」
反論しながら、しかしクリスはチャティスを一心に見つめ続けている。
チャティスは辛そうに息を吐き、もはや自身の状況を理解できていない。言葉を放つことも叶わず、息も絶え絶えの様子で膝をついている。
クリスの返答を聞き、ミーリアの余裕をみせた声が響き渡る。
『あら、そう。だったら別に死んじゃってもいいわよね』
「うっ!」
チャティスはふらりと不安定な挙動で立ち上がり、腰からホイールロックリボルバーを取り出した。
片手に銃杷を握りしめ、そのまま銃口を右側頭部へ突きつける。
ピストルという武器を手にした人類が執れる、もっとも簡単な自殺方法のしぐさを執る。
「チャティス……!」
クリスは反射的に、チャティスへと動こうとした。だが、寸前で動作は防御へと移行した。
右手の剣で受け止めるのは同じく右手で繰り出された一撃。
――オリバーの大剣。
「オリバー!?」
驚愕の声を出しながら、クリスはオリバーの剣を受け止める。
オリバーは笑みを微かに浮かべながら呟いた。
「そう驚くことでもあるまい? 俺の目的は人間の殲滅だ」
大剣と片手剣のつばぜり合いでは、重量のある大剣の方が有利となる。
クリスは押された。何の邪魔立てもない純粋な剣戟であればクリスとて様々な手段を講じれたが、傍に立つチャティスに気を取られ、クリスは圧倒されている。
「く、クリス」
チャティスが放つ小さな声。その声に反応してクリスは叫ぶ。
「チャティス!」
だが、叫び声は銃声に掻き消された。
飛び散る血潮。響き渡る邪悪な高笑い。
「う、く」
「チャティス……ッ!」
大剣に押され、クリスは一歩また一歩とゆっくりと後退させられる。徐々にだが確実にチャティスから距離を離されていく。
「クリス、くり、す」
チャティスは銃弾をぎりぎりのところで躱していた。
いや、致命傷は避けた、というべきか。額は軽く火傷を負ったが、命に別状はない。少なくとも、現状は。
頭をよくわからないものが支配して、身体が言うことを聞かされている。そんな状態ながらも、チャティスはクリスから顔を背けない。
身体の自由は奪われても、心の自由は縛れない。自分でも呆れるぐらいの強がりでチャティスはクリスへ声を出す。
「だいじょ、ぶ。私は大丈夫だから」
だからあなたは自分の戦いを続けて、とまでは話せなかった。
悪意は善意を侵食する。クリスが危惧していた通りの危険がチャティスを襲う。
自らの安全を確保するためには、花を無闇やたらに渡してはいけなかったのだ。
この人は悪用しないと判断できても手渡すべきではなかった。その人物が純粋でも、その隣人は定かではない。
どれだけ善い人でも、この先善い人でいられるかはわからない。
絶対などという思い込みはただの妄信だ。絶対大丈夫などと謳っても現実は冷たく、容赦なく人を変化させる。
悪人を善人へ、善人を悪人へ。想いは憎しみへと変化して、どうしようもない事態へと発展していく。
「わ、たしは……。でも、私しかさ」
チャティスは自分の左腕がホイールロックリボルバーの弾倉を回転させ、スピンドルを回そうとも厭わなかった。
クリスにオリバーにミーリアに、そして自分に、言葉を紡いでいく。
「みんな、だって、あらそうんだもん。本当は、ただ生きようと、必死なだけなのに」
目の前で起きている戦以外にも、狂化戦争は世界中で起きている。
人々は味を占めた。自分ではどうしようもない事態を挽回できる禁忌の力に。
この力さえあれば、実現不可能と思ってた理想を叶えられる。
誰もが狂戦士に夢を見た。その力を欲しがった。
だから、戦争。たくさんの人間が死んでもいい。
自分の夢さえ叶えられればそれでいい。
「どうしてなんだろうね。気になって、きになって、しょうがない」
だが、本当にそれでいいのだろうか。
その夢は、果たして本当に他者の屍を積み上げてでも叶えなければならない望みなのか?
領土の拡充。金品の強奪。技術の略奪。食糧の簒奪。
これらは何のために行うのか。もはや答えられる者は数少ない。
上辺だけのそれらしき理由を並べ立てることはできる。でも、それだけ。
みんな狂ってしまっているから。誰も彼もが狂化してしまった。
「わたしも、さ、人のことは言えない……っ」
自分の右手が突きつける技術の死神。チャティスは再びその銃撃を避ける。
やはり、避け損ねた。また血が飛んで、痛みが奔る。
「うぅっ……わたしだって、狂ってる。じぶんがおかしいにんげんだって……わかるよ」
「君はおかしくなど――ッ!」
「斬り合いの途中で余所見はよくない」
クリスはまた下がる。オリバーの剣風によって後ずさる。
スパナは再びスピンドルへ差し込まれ、ホイールが回転する音が聞こえた。
「でもさ、それじゃ……悲しいよ。やめようよ、こんなこと。バーサーカー同士の争いも、人間による戦いもさ。せっかく、言葉があるのに。狂化しない方法が見つかりそうなのに」
三度、銃口がチャティスを撃ち殺さんと狙う。
もうチャティスの体力は限界だった。回避できるかはわからない。
それでも、チャティスは脅えなかった。ただ悲しそうにクリスを見ていた。
「チャティス! うおぉぉぉぉッ!!」
クリスは珍しく感情を爆発させた。強引に剣を振り上げ、オリバーの大剣を吹き飛ばす。
しかし、オリバーとてその暴挙は予想内だったらしい。チャティスの元へ駆けよろうとしたクリスは、自分の顔面に右こぶしが迫りくることを知る。
「――ぐ!!」
クリスは狂戦士の怪力打撃をまともに喰らい、地面を砕きながら転がった。
「チャティス!」
剣を手放し、悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、クリスはチャティスへと手を伸ばす。
だが、チャティスの指が引き金にかかる方が早い。
チャティスはずっとクリスを見つめていた。クリスはチャティスを見つめていた。
「やめろッ! その子は! チャティスは!」
クリスは喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。だが、クリスの距離からではどうしようもない。
避けられぬ事実として、再び鮮血が血を染めた。
「チャティス!!」
絶叫したクリスの声を聞きながら、チャティスは仰向けに倒れこむ……。
※※※
「そうだ、死ね。死ね死ね死ね死ね! 人間、人間は死ね! アハハハハハッ!! オリバー、オリバー様!! やりました、やりましたよ!! 私は人間を殺しました!! 私たちの敵を殺しましたよ!」
ミーリアは水晶を食い入るように見つめ、狂気じみた笑い声を上げていた。
狂化が抑制されてるはずが、狂化している時よりも狂っている。
愛と憎しみが混ざり合い半ば発狂していた。
「ミーリア、お姉ちゃん」
フェニはその狂気の様を座ったまま見上げていた。
私の知るお姉ちゃんじゃない。
それがフェニの胸を巡る想い。彼女の前に立っていたのはミーリアの姿を象った悪魔だった。
水晶玉から聞こえていた優しい声が聞こえなくなった。人と狂戦士、どちらも案じていた希望の、救世主の声が。
オリバーとミーリアが教えてくれた、自分を迎えに来るという王子様。チャティスは王子様ではなかったけれど、とても優しくて眩しかった。
この人なら自分を救ってくれると心から信頼できた。難しいことはわからないし、大変なんだろうけど、時間を掛けても、この人なら絶対に迎えに来てくれると。
その声はもう聞こえない。あるのは狂ったような笑い声。
「――やだ」
フェニは呟く。
胸に手を当てながら立ち上がる。
水晶の中から声は聞こえない。だけど、フェニは信じることを諦めない。
チャティスは笑いながらこう言っていたのだ。
自分は天才だと。すごい人間だと言っていた。
「ごめんね、ミーリアお姉ちゃん」
フェニは半狂乱に嗤い続けるミーリアにタックルし、花の入った小瓶を取り戻した。
何を!? と驚愕したミーリアの中に再発生する刎ね返り。
いつ倒れてもおかしく状態をさらに越え、限界を突破した抑制反動がミーリアを襲う。
「ああ、あああああああああああッ!!」
ミーリアは絶叫し、大量の血を吐いて倒れ込む。
フェニは泣きながら小瓶を握りしめ、涙ぐみながら謝った。
「ごめん、ミーリアお姉ちゃん。ごめん……っ。でも、この花はチャティスお姉ちゃんの想いだから」
両手を組んで、フェニは祈る。
――どうかこの世から狂戦士同士の争いがなくなりますように。
※※※
「っあぁ……」
チャティスは手傷を負った右手を庇いなら仰向けに倒れ込んだ。
右手には裂傷ができ、ピストルがその隣に落ちている。
「まだ死ぬには早い。お前には結末を見届けて貰わねばならないのだからな」
「お前……く」
自殺しようとしたチャティスを止めたのはオリバーだった。
投げナイフの投擲。程よく加減した投げナイフによって、チャティスは一命を取り留めていた。
オリバーは地面に刺さっていた大剣を抜き取り、衝撃で動けなくなっているクリスへと歩む。
そして、クリスへと切っ先を突きつけた。剣を取ろうと手を伸ばしていたクリスの手は止まり、射抜くように宿敵を見返す。
「俺の負けか。滅ぶべきは人間だと」
「いや、まだそうとは限らない」
オリバーは大剣を切っ先を退け、クリスが起き上がるまで待った。
起き上がったクリスは片手剣を取りオリバーに疑念を注ぐ。
それは、右手を庇いつつ立ち上がったチャティスも感じた疑問だった。
「何を考えている?」
「お前と同じことだと思うがな」
オリバーはクリスに背中を向けて歩き出した。まるでチャティスから距離を取るように。
ある程度離れたところで止まったオリバーは説明する。達観したような瞳を覗かせて。
「バーサーカーの上位者であるベルセルクは、理性を保持したまま狂化できる。が、さらにもう一段階狂化を残している。……お前は知ってるな」
「知りはしない。だが、予想はついていた。……お前はまさか」
瞠目するクリスにオリバーは頷いた。チャティスのわからないところでわからない話は続く。
「そのまさかだ。もしお前が本気で自身のやり方が正しいと信じるのなら、今ここで理性を捨て去り俺を屠ることができるはずだ。……無論、チャティスは助からんだろうし」
オリバーはチャティスの後方を遠視する。そこにはシャルとキャスベル、二人の傍観者がいる。
「お前の仲間も無事では済まん。どれほどの間、狂化するかは見当もつかない。花の効果で抑制できるとも思えない」
やっとチャティスの理解できる範囲となった。恐らく、オリバーはクリスを試しているのだろう。
本気でクリスが自分の方法を信じているのか見定めている。
クリスは揺らいでるように見えた。チャティスはその揺らぎをいいと思える。
だが、それではサーレとの約束を果たせない。
チャティスは少しずつ近づきながら、自分の想いを正直に述べる。
「いいよ、私は。あなたのせいで死んでもいい」
死ぬのは怖い。でも、同時に彼の想いを受け止めたいと思う。
自分の理想は……自分が行おうとしていることは困難だが、不可能ではない。
正直なところ、薬の研究にチャティスは必要なかった。
ティロイは優秀な薬師だ。チャティスがいなくとも薬を完成させられる。
花の発見だって、ただの偶然。チャティスじゃなくとも、いずれ誰かは見つけていた。
天才などと言いながら、チャティスはこれっぽっちも天才などではない。
誰でもできたことをし、誰でも思えたことを想う。無力でちょっと変なただの少女だ。
むしろ厄介な存在。チャティスの中に宿る魅了は災厄を招き寄せる。
全て自分のせいだ、などと卑屈にはならないが、原因の一端であるとチャティスは思っていた。
そんな危険な存在は早々に死んでしまった方がいいのでは。チャティスの頭をそんな思いがもたぐ。
もちろん、これは建前。死にたくはない。まだずっと生きていたい。
世界はこんなにも綺麗だし、人々は悪い人ばかりじゃない。確かに最高とは言えないけれど、最悪と言うわけでもない。
願わくば、クリスといっしょにまだ冒険を続けたい。
だがそう上手くはいかないことをチャティスは了承していた。達観してもいる。
だから、せめて、クリスのありのままを受け止める。自分の想いをあるがままぶつける。
それがクリスへの恩返し。思い描いたのとは異なるけれど、今の自分ができる最良の選択。
「本当はさ、違う結末があるといいんだけど……思い通りにはいかないんだよね。だから、私はクリスに最期まで付き合うよ。あなたの想うままに行動して。あなたが何をしても、私が赦して上げるから」
「チャティス……」
クリスはしばらく目を瞑り、チャティスの言葉を噛み締めていた。
オリバーは何も言わず、クリスの反応を待ち続けている。
逡巡の後、クリスはチャティスの顔を見つめ、胸元に下がるペンダントを目視し、自分の決断を二人に告げた。
「わかった、チャティス。俺は――。俺は、俺の選択を信じよう」
「そっか。わかった」
チャティスは寂しく笑い、一歩下がった。
クリスとオリバーの目が合う。
オリバーは口を挟むことなく、ただ剣だけをクリスに向けていた。
クリスは目を閉じ、心にすら蓋をして、己が内に潜む狂化衝動を解き放つ。
「オ、オオオォォォッッ!!」
瞬間、クリスの口から放たれる咆哮。聞く者を凍りつかせる叫びと共に、クリスはオリバーへと切迫。
狂化をせず、小さく笑っていたオリバーの左胸を剣で貫き、投げ捨てる。
そして、次に血祭にあげるターゲットへと目を移した。
「いいよ、クリス。おいで。私があなたを受け止める」
チャティスは笑顔をみせて、両腕を広げ待つ。
クリスが自分に与える最期を笑いながら享受する。
「私はあなたを恨まないし、憎まない。赦すよ。あなたのやったことなら。だって私は――」
「ウオォォォォッ!!」
クリスは暴れ狂うままチャティスへと疾走する。
「――あなたのことが、好きだから」
瞬間、チャティスは大量の血液を浴びた。
その瞳は驚きのあまり見開かれていた。
痛みで驚いたのではない。
痛くなかったから驚いたのだ。
「え?」
呆然と声を出す。声に反応してか、クリスが揺らいだ。
ゆっくりとチャティスに寄り掛かる。クリスの左胸に刺さった剣の柄が、チャティスの左胸にぶつかった。
「な、何が……? 何で……?」
チャティスは困惑し当惑する。
よく理解できない。何が起こったのかわからない。クリスの左胸……心臓に深々と剣が刺さってはいる。
だが、目の前の光景が何を意味するのか、頭ではわかっても心が理解を放棄する。
「く、クリス……? しっかり」
両手でクリスの身体を支える。彼を起き上がらせようとする。
だが、彼は力なく、チャティスに身体を預けていた。
チャティスに身体を揺さぶられ、閉じていた瞼が開かれる。
「――君が正しいことはわかっていた」
言い訳のように述べていく。伝えるべきことを。
「え、え?」
「俺は君の眩しさから目を反らし、大きな間違いを犯そうとしていた。サーレの願いを曲解したまま、間違った方法で狂化戦争を止めようとしたんだ。サーレと共に過ごしていたはずが……彼女のことを何一つ理解できていなかった」
「クリス」
チャティスは言葉を発そうとしたが、上手く話せない。
何を言っていいのかわからない。どうしていいのかもまた同じく。
ただ惑いながら、クリスの言葉を聞いていく。彼の言葉を受け入れる。
「だが君のおかげで、俺は間違いに気づくことができた。君がいなければ、過ちを重ね続けていた」
「私は……私は何もできてない……」
涙すら流さず、チャティスはクリスの死に顔を見つめ返す。
悲しみより驚きが勝っていた。心が現実に追い付いていない。
「君のおかげで救われた」
「――っ」
チャティスの瞳から一筋の涙が零れる。
言いたい言葉が伝えたい想いが胸の内から溢れ出る。
待って、待ってよ。まだ私は大事なことを何一つ言えていない。
「わ、わた、私は! 私は何もしてない……! 私はあなたを救ってなんかいない、あなたが私を救ったの! 私は、私は!」
涙がぼろぼろと溢れてきて、チャティスは上手く言葉を継げない。
驚きが負けてもチャティスはまともに会話できなかった。ただ、湧き出る想いを告げていく。
「私――私は、あなたに恩返しがしたくて! あなたにお礼をしたくて、わ、私は……!」
「もう、十分だ、チャティス」
クリスは右手をチャティスの頭に乗せた。撫でる。血に塗れた手で、綺麗な色の茶髪を。
優しい心を持った天才の頭を。
「い、嫌だ。いやだっ! クリス、クリス!!」
チャティスは身勝手に自分勝手なことを言う。クリスは困ったような顔となり、抱き着くチャティスの想う通りにする。
辛そうに息を吐き出し、そういえばそうだな、と納得したように自己完結した。
「言っても聞かなかった。俺が何を言っても、無駄か。……なら」
クリスは最後にひとつだけ、チャティスにお願いをすることにした。
聞いてくれるか、チャティス。そう苦しそうに声を出し、
「君がまだ、納得していないと言うならば……叶えてくれるか、俺の理想を。……サーレの、願いを」
「え……っ」
クリスは真っ青となり、話すのも難しい状態へと成り果てていた。
油断すれば死ぬ。そのような状況下でも、クリスはチャティスに想いを伝える。
チャティスは泣きながら、少し怒った。
なぜなら、わざわざ言われなくとも……。
「そ、そんな約束……いらないっ! あなたの理想はもう私の理想でもあるんだから!!」
チャティスの返答を聞き、クリスは笑った。
今まで見たことのない笑顔だった。
その時チャティスは改めて想う。
ああ、やっぱりこの“好き”は、恋であったのだと。
自分はクリスを、愛していたのだと。
「ああ、そうか。そうだな、わざわざ言うまでもないことか。……天才に任せられるなら、安心だ。チャティス……」
クリスの身体が後ろによろけた。
「ありがとう――」
重力に引かれるまま、地面へ斃れる。
「クリス……?」
チャティスは返事を期待して、もう一度呼びかける。
だが、声は返らない。死者は話す言葉を持たない。ただ黙して眠るのみ。
チャティスはクリスの名前を呼びながら、倒れた彼の隣に座る。
呼ぶ呼ぶ呼ぶ。クリス、クリスと名前を呼ぶ。
「……っ。くっ、答えて、クリス。まだ返事聞いてないよ、ねぇ……うっ」
死者は語らない。目を閉じたまま、動かない。
「クリス、クリス! ああああっ!! うああああああっ!!」
チャティスは嗚咽する。クリスの代わりに。自分の想うがままに。
泣き喚いて号泣する。彼女の心象を表すように雨が降る。
外套のフードすら付けず、チャティスは雨を受け続けた。
泣きながら、雨で濡れていた。雨がどんどんクリスの命を流していく。
血が流れ、涙が流れる。雨はいつまでも降り続け、気付くと辺りは夜闇に包まれていた。
途中迎えに来たシャルとキャスベルも、動かないチャティスに諦め離れていった。誰かを呼びに向かったのだろう。
チャティスは泣いて、泣いて、泣きつくした。涙が涸れるまで、雨が止むまでクリスの傍に居続けた。
そして、雨は止み、涙は止まり、満月が殺戮地帯を淡く照らしている。
「クリス」
最後にもう一度、名前を呼んだ。返事がないことを理解しながら。
濡れている彼の顔を袖で拭き、優しい笑顔を向ける。
「ありがとう、クリス。またあなたは私を守ってくれたんだね」
青いペンダントが月光を反射していた。クリスがチャティスを殺さずに済んだのは、花のおかげかはたまた別の要因か、もはや定かではない。
だがもうチャティスにはどうでも良かった。やるべきことは山積しているし、いつまでもここにいたらたぶんクリスに怒られる。
「行かないと。でしょ、クリス」
チャティスは笑いかけ、クリスへと顔を近づける。
クリスの頬に口づけをして、立ち上がる。泣きたくても、涙はとうに涸れている。
だから、悲しくても笑う。
「父さんたちを呼んでくるよ。傍まで来てると思うし。心配しないで、クリス。あなたの理想は私が遂げる。なぜなら――」
チャティスはクリスに、そして自分に胸を張って言い聞かせる。
「私は天才だからね。だから、眠って安らかに。サーレといっしょに……」
クリスの遺体に背を向けて、シャルたちの元へ向かう。胸元には青い光を放つペンダントが輝いている。
――こうして。
クリスはこの世から息を引き取り、薬師チャティスと狂戦士クリスの旅は終わりを告げた。
愛する女の慟哭を受けながら。淡い月明かりに照らされながら。
チャティスに感謝し、笑顔のまま、理想を託して死んでいった。




