フスト防衛戦
フストの領主ガルドは執務室の豪奢な椅子に座り、文書に目を落としていた。
一見煌びやかに見えるこの部屋の内装は部下や給仕係が勝手に彩ったものだ。
ガルド自身は領主ではあれど、あまり偉ぶるつもりはなかった。先代である父親は領主という肩書にあぐらを掻きふんぞり返っていた悪君の典型だ。
領主足る者、民のために身を焦がして働くべき。
それがガルドの信条であり、真なる領主として父親を処罰した騎士の在り方だった。
「リベルテ。なぜ貴様はそうも領土にこだわる?」
疑念を呟きながら、隣国の領主を思い浮かべる。
リベルテは父親が領主として君臨していた時、数回会った程度の間柄だ。一目見て……気に入らない人物だったことを覚えている。
リベルテの考えは、ガルドと正反対だった。
リベルテは民は国に奉仕するための道具だという思想の持ち主だったからだ。
下民は死してなお国のために忠を尽くせ。中民は死ぬまで国のために利益を捧げよ。
上民はそれらの富を享受し、領主に忠誠を示せ。
階級差が激しい格差社会はガルドの理想とは程遠い。
ガルドは今でこそ領主として国をまとめ上げているが、いずれもっとふさわしい人間に国を明け渡すつもりでいた。
子どもたちを救出するのはその選定の一環である。痛みを知る者は他者の痛みに共感し和らげようと努力する。
領主に必要な物は最低限度の教養と、卓越した交渉力と、後もう一つ存在する。
「人を尊び、愛しむ心。領主に野心は必要ない。……平原を開拓すれば土地は得られるはずだぞ、リベルテ。他国を侵略する必要は皆無だ」
そう独白するが、ガルドの言葉は旧知の領主に届かない。
恐らく、正面切って告げたとしても、聞く耳を持たないだろう。
今までの関係を鑑みた上での憶測で物を言っているわけではない。
リベルテとガルドが絶対にわかり合うことがない証拠を、ガルドは見つめていた。
「フストを明け渡さなければ、貴国にバーサーカーを解き放つ、か。……こんな簡略な書状で交渉するつもりなのか? いや――」
――リベルテは端からこの国を征服するつもりはない。
それがガルドの導き出した結論だ。あの因縁深い敵国の主は、フストに対し何ら価値を見出していなかったはずだった。
フストとエドヲンは平原を挟んで対面する隣国だ。距離こそ離れてはいるものの、共有できる資源は同じ。
フストの名産はエドヲンの名産でもあるし、エドヲンのレアメタルはフストのレアメタルである。
何度かいざこざはあったものの、こうも明確に敵対することは今までなかった。資源は十分すぎるほどに潤沢だったし、リベルテは狂化戦争に参戦したため、余計ないざこざに巻き込まれることを避けてきた。
「ここに来て攻め入るとなると、やはり……」
ガルドは無口な狂戦士と不思議な魅力を兼ね備えている薬師を思い出す。
ガルドの狙いはクリスだ。そのついでに、目の上のたんこぶであるフストを攻め落とすつもりだろう。
両国とも資源に不足していない事情が、かえって仇となった。向こうが裕福だということは、わざわざこの国から略奪する必要がない。
この国を腐海へ変えてしまっても、リベルテとエドヲンは困らない。
「……私が黙ってこの国を滅ぼさせると思うか? やらせはせんぞ」
ガルドは部屋の隅に飾られている甲冑に目を移す。
ガルドは領主であるが、同時に騎士である。自慢ではないが、剣の腕前はそこらの兵士より上だ。
領主足る者、民より強く優しくあれ。
ガルドの信条の一つだ。
「誰かいるか?」
ガルドの声を聞きすぐさま政務官が現れる。
ガルドは戦士の眼差しとなり、力強く部下へ命じた。
「まず民を避難させろ。実力が不十分な兵士たちは避難民の護衛に回せ。騎兵隊の猛者共は二つにわけ、一つは奇襲部隊としてエドヲンに攻め込ませろ。もう一つの部隊は私と共に敵を迎え撃つ」
「承知しました。銃兵及び砲兵の配置は私にお任せを」
「頼む。……それと、客人であるクリスを呼んでくれ。頼みたい仕事がある」
※※※
ガルドの瞳を一目見て、クリスは事態を把握した。
少し悠長に構えすぎたかもしれないと後悔する。が、彼の目的に変更はない。
エドヲンの領主リベルテを始末する。むしろ、敵がこちらへ赴いて来てくれるのだ。殺しやすくなったと言えば殺しやすい。
リベルテの戦術上、奴がこちらに出向かない可能性も考えられるが、現状クリスにとって一番最悪な展開は、彼が不在の状況でチャティスが襲われるというものだ。
予期せずフスト防衛戦へ発展しはしたが、好都合であることは間違いない。
むしろ、この状況で危惧すべき問題は――。
「お前も前線に出るのか」
「無論だ。なぜ領主が戦地の後方で震えていられる? 私は民を導く先導者であると同時に、兵士の指揮を執る指揮官でもあるのだ」
対人・魔物用の外壁上から遠眼鏡で敵軍に睨みを利かせるガルドはそう語る。
だが、近くに立つノアは不安そうにガルドを見上げていた。彼女だけではない。周囲の兵士たちもだ。
「どうしても出撃するのですか、ガルド様」
「もちろんだとも。……案ずるな、私は死にはせん」
「しかし」
甲冑姿の夫に反論する若妻の案じは、無言で上げられたガルドに手によって遮られた。
「ウィレムや子どもたちと共に避難しろ。人々を守るのが私の役目だ」
「……っ。また、ですか……」
ノアはショックを受けたような顔となり、そのまま護衛の兵と去って行く。
その背中を見送った後、クリスはガルドに問いを投げた。
ある予感が脳裏をよぎり、生じた疑問だった。
「死ぬ気なのか?」
ガルドはクリスに向き合い、苦笑めいた表情となる。
「まさか。……しかし、状況によっては死んでも致し方ないと覚悟している。貴様だってそうだろう?」
「……いや」
クリスは衆目に晒されることも厭わず、淵壁の上に乗り上げた。
「俺はまだ死ねない。……バーサーカー同士が争わない世界を創るまでは」
そのまま、落ちる。着地し、狂戦士の狂化を止めるための生贄たちを目視した。
※※※
今朝、寝ぼけ眼のチャティスに耳をつんざく勢いで飛び込んできたのは、危険を知らせる警鐘の音だった。
着替えを済ませ、喧しい鐘音に耳をやられそうになりながら部屋を出ると、クリスがおり、これから戦争が始まると教えてくれた。
そして、そのまま去ってしまう。チャティスの不安をよそにして。
そのことに不服を抱かないチャティスではなかったが、自分がついて行っても何かできるとは思えない。
仕方なし、と避難民と共に隠れ場所へ向かうため、草が生い茂る草原を進んでいた。
「私の天才的頭脳を用いれば、戦争なんて簡単に食い止められるのに……」
悔しそうにチャティスは呟く。
チャティスの中にはたくさんの不満が募っていた。
ぐっすりと寝ていたのに喧しい鐘で叩き起こされたこと。
ノアが準備してくれていたはずの豪華な朝食にありつけなかったこと。
お話をしたりしてダラダラと過ごすはずだった予定が潰されたこと。
中でも極めつけはこれだ。
みんなが沈痛な面持ちで、国から避難しなければならないこと。
「チャティス、前言ってたよね? ひとはみんなバカばっかりだ、って。たぶん、チャティスが天才でも向こうはバカなんだよ。だから、チャティスが何を言っても通じないと思う……」
横から話しかけてきたシャルの言葉に、チャティスは不満げな表情となる。
あれもこれも全て、狂化戦争のせいである。こんなふざけた戦争を行うせいで、人々は苦しむし、狂戦士だって狂しむのだ。
狂化戦争を始めて……幸せになった国があるのだろうか。
一時的な勝利ではなく、永続的に幸福となった国が存在する?
その問いの答えをチャティスは持ち合わせている。
「そんな国、ひとつだって聞いたことないのに……」
悲しく哀しく言葉を漏らしたチャティスの眼に、突如人影が飛び込んできた。
その騒々しい人影は、チャティスに激突し転倒させ、謝りもせず駆け抜けていく。
「ちょっと! いくら天才でも赦せないことは――っ! あ、あれ、今の……」
「ウィレム、だね」
仰向けに転がり、逆さになった視界の中で走っていくウィレムの背姿。
どうしたんだろう、と考えていると、避難民を護衛している若年兵士の焦り声が聞こえてきた。
「ウィレム! ウィレムはどこに!!」
「どうかしたの?」
チャティスが身を起こしてる間にシャルが訊ねる。
間髪入れず返ってきた兵士からの返答は、チャティスの眉間にしわを寄せるに十分な回答だった。
「ノア様が乗っていたはずの馬車が空っぽで……! それに気付いたウィレムが突然走り出し……!」
「……っ! あのバカっ!!」
「チャティス!? どこへ!!」
悪態をつきながら、チャティスはウィレムの背中を追いかける。
※※※
阿鼻狂喚。人々は叫び、嘆き、苦しんでいる。
狂戦士の剣戟は、僅か一振りでエドヲンの軍勢に絶望を与えた。
敵兵たちは狂い、惑い、生きようと必死で平原を逃げている。
その努力が無駄であることもわからずに。
「……来たか」
クリスの耳に、今までの悲鳴が貧弱に思えるほどの怒号が届く。
それは生まれついて戦士と定められた者の叫び。
殺したくなくとも殺してしまう狂った者の嘆き。
狂化戦争の主賓である狂戦士が現れた響きだった。
咆哮が響いた方角から、エドヲンの兵士たちを殺戮する何かが蠢いてくる。
戦意を喪失している周りの敵兵から、クリスは攻撃対象を切り替えた。
人間の兵士は最初から敵ではない。狂戦士の敵は狂戦士なのだ。
「女か」
空を裂きながら放たれる刺突を躱しつつ、クリスは呟いた。
血肉をまき散らしながら現れたのは、軽装の女狂戦士だ。
まだ若い。二十代前半といったところか。
だがしかし、戦い慣れている。一撃で屠れるような相手ではない。
「ッ!」
剣の柄を力強く握りしめ、血に濡れた剣を振り上げる。
敵もまた槍を構え直し、刺突を繰り出してくる。
轟音と共に発生する衝撃波。周囲にいた兵士たちが悲鳴を上げながら吹き飛んでいく。
凄まじい威力だったが、どちらもダメージはない。片方は冷静に、片方は熱狂に、つばぜり合いを続けていく。
(――しかし、ありきたりな戦術だ。シンプルゆえに効果が高いが、敗北すれば大打撃を受ける)
かつてクリスが打ち倒したラドウェールの魔術師、カフラが執っていた戦術だ。
かの魔術師の戦略は、魔術師の狂戦士であるアーリアの特性を生かし狂戦士を打ち倒していくというもの。
手駒の強さを信頼しているからこそ戦法であり、アーリアもまたカフラに忠誠を誓っていたためできた手堅い作戦だ。
しかし、今まさにクリスと命のやり取りをしているこの狂戦士からは、アーリアほどの特異性を感じられない。
(防具は安物ではないものの、最低限。武器も中庸な槍一振り。……バーサーカーの扱いとして中途半端だ)
確かに、狂戦士同士の戦いにおいて防具が役立つことはあまりない。
武器も、クリスの剣やソダスの槌ほどの一級品でない限り、さしたる差は出ない。
狂戦士の攻撃力も防御力も、基本的に当人の素質によって左右される。如何に強力な武器であれど、使用者の腕が未熟であれば宝の持ち腐れだ。また、その逆も然り。
しかし、そう言った点を顧みても、違和感を禁じえない。
――何か裏があるのではないか?
胸中に沸き起こる疑念。頭を駆け巡る謎が、クリスの剣戟を鈍らせる。
「……ッ」
女戦士が、槍でクリスの剣を弾き返した。
その勢いのまま、柄による打撃を加えてくる。直撃寸前のところでクリスは左手で柄を掴んで防御した。
力の押し合いとなり、狂戦士同士の激突によって発生した異音が戦場に鳴り響く。
しばらく続いた力比べは、クリスの勝利となった。
左腕に力を込めて、クリスが槍の柄をへし折り、女がよろめいたところに斬撃を見舞う。
「……避ける、か」
首を刎ねる予定だった横切りは、女戦士の首をかすめるに留まった。
浅く切れた首元から血を溢す狂戦士。短くなった槍を構え、奇声を発しながら突撃してくる。
身軽になった分、速度が上昇した突きをクリスが捌いていく。
右手だけで槍を防ぎつつ、左手は別の動作を行っていた。
腰に差してあるフリントロックピストルに手を伸ばし、抜き取る。
装填済みのピストルの銃口を、敵の頭部――ではなく、左足に向けた。
間を空けずに引き金を引く。銃声が轟き、弾丸が穿たれる。
無論、むざむざと撃ち抜かれる敵ではない。銃声が響いた途端、人ならざる動きで狂戦士は飛びのいていた。
そこへ、クリスが追撃する。地面が抉られるほどの脚力で地を踏みしめ、飛び込んでいく。
驚いたような女の声。
ワンパターンだが、スピードが凄まじい刺突を敵は放ってきた。クリスもまた、先程と同じように剣で応対していく。
だが、同じなのは右腕までで、左手はまた異なった動きをしていた。
「――ッ!!」
剣で槍を弾いた瞬間――左手のピストル、その銃杷による打撃を右肩に放つ。
ゴキリ、という肉と骨が砕ける音がして、狂戦士が悲鳴を上げる。
一瞬の隙にクリスが懐へと飛び込んで、胸部目掛けて剣を突き出す。
胸を貫かれた狂戦士は目を見開き、大量の血を吐き出した。
「ヴッ……うぅうう……が……ぁ」
狂戦士の瞳から、段々と狂気の色が抜け落ちる。
クリスと死闘を繰り広げていた狂戦士が理性を取り戻し、人間のそれとなった。
「……」
剣を刺し貫いた状態のまま、クリスも微かに表情を変化させる。
相手に対する憐み、というよりは、自分に対する戸惑いだ。
もし、自分が狂戦士を殺したと告げたらあの子がどんな表情を浮かべるのか。
そんな考えが頭をよぎり、クリスは自分に困惑する。
そのようなことを考える自分自身に、戸惑う。
だがすぐに、その程度の些末な葛藤は吹き飛ぶことになる。
「か、ひゅ……。く、は、はははは……」
「……なぜ笑う?」
自分が今まさに殺している女が、死にかけた声で笑い出した。
血まみれとなっている女は、生気を急速に失っていく顔に笑みを貼りつかせたまま答える。
「お前は死ぬ。同胞殺しめ……。お前のうわさは、知っているよ。……強制されて、仲間を殺すなら、しょうがないと、諦めきれる。だけど、お前のように、人と……人間となれ合って同胞を殺す裏切り者は、赦さない」
「……赦す必要はない。俺を恨み、憎みながら眠れ」
女はまた吐血して、クリスの鎧を血で染める。
しかし、どれだけ苦しんでいても、表情だけはゾッとする笑みを浮かべている。
「……リベルテ、は、ずる賢い男……。狡猾な、男。そんな男が、使役するバーサーカーがたった一体だけだとでも?」
「なに? まさか――」
ここに来て、クリスは初めて動揺した。
今の言葉の指す意味を瞬時に理解し、遥か後方、フストへと目を向ける。
「は、はは……あははははは!! 死ね! 人間! 死ね! 同胞殺し! 壊れろ砕けろ滅びろッ!! バーサーカーを利用する輩は全て――死んでしまえばいいッ!!」
「……ッ!!」
クリスは血にまみれた剣を思いっきり抜く。
大量の血をまき散らし、狂戦士は地面に斃れ落ちた。
死体に背を向け、自身が出せる最大の速度でフストの宮殿へと疾走する。
※※※
「結局戻って来ちゃった……」
小さくため息を吐く。
ウィレムを追跡している内に、チャティスはフストの宮殿へと戻ってきてしまっていた。
数日滞在していた宮殿内は驚くほど静かであり、時たま兵士が走る姿を目撃するぐらいである。
この静けさが、如何にガルドが優れた領主であるかを証明していた。あの騎士は狂戦士相手に人が無力であるということを一番に理解している。
(なのに、何で一人で突っ走るかなぁ。そのせいでノアは抜け出したし、ウィレムのアホも彼女を探しに出たんだよ? 全く、これだからあの人は)
自分のことを棚に上げて、チャティスはやれやれと呆れた。
閑静な廊下の中を足音を立てないよう注意して歩く。クリスに教わった通り、静かに静かに、目立たないように、目立たないように……。
だが本人の意図と反して、かなりの存在感をチャティスは醸し出していた。
まず、足音がうるさい。当人は音を立ててないつもりだが、あくまでそれはつもりである。
カチャカチャとピストルは鳴っているし、屈んではいるものの、尻隠して頭隠さずの状態となっている。
だがそれでも、これで大丈夫! という根拠のない自信でチャティスは進んで行く。
さっさとウィレムとノアを見つけて、避難するのだ。クリスがいるから、外の戦況は大丈夫なはず。
「ウィレムー? ノアー? どこにいるのー?」
各々の部屋を覗いて、小声で呼びかける。
しかし、反応はない。どうやらどこか別の場所にいるらしい。
腕を組み、首を傾げて、自分だったらどうするかを考える。
(私がクリスを心配して戻ってきたのなら――。とにかく、戦場を俯瞰できる場所に移るね。何もわからないよりは、見ていた方がまだ気が楽だし。……危ないけど)
だったら、宮殿ではなく、街の外壁にいるのかな、とチャティスが反転し、ノアの部屋を後にしようとすると、突然。
「動くな」
という声と、かちゃりとピストルが構えられる音が、聞こえた。
「……う?」
恐る恐る、振り返ろうとするが、再度警告。
「……動くなと言ったわよ。死にたいの?」
「し、しし死にたくはありません!」
手を上げて首をぶんぶんと振って否定して――あ、しまったと青ざめる。
思いっきり動いてしまった。いや、あくまでもこれは降参のポーズだ。きっと察してくれるはず……。
そう思うも、ダメかもしれないという最悪な展開が脳裏を支配する。
あ、これはヤバすぎるかも。もしや心臓も動いていちゃダメとか言われるパターンではあるまいか?
なら心臓を止め――い、いやそれじゃ死ぬ! とひとり突っ込みをしていると、チャティスを脅す何者かは彼女の肩に手を置いて、チャティスを無理やり振り向かせた。
「ひぃ! 何もしません何もしませんから命だけはお助けを!!」
「……あなたは」
チャティスが涙目で懇願する相手であるフードを被った少女は、チャティスの顔が見覚えあるかのように目を丸くした。
すぐに別の声が聞こえて、チャティスは命乞いを中断させられる。
少女に口を塞がれ、手近の洋服棚へ押し込まれた。
「んー! んんー!!」
「静かにして。じゃないと舌を斬り落とす」
「……んぐぅ」
舌を斬られたりなんてしたらチーズが味わえなくなる。
チャティスは必死に口を閉ざし、涙を流しながらも黙りこくった。じっと、タンスの中で洋服と同化するぐらいの気概で耐える。
と、そこにさっき聞こえた声の主が現れ、外の少女と会話する。
「キャス、ガルドは見つかったか?」
「いや、兄者。どうやら二人とも逃げたらしい。宮殿内は数名の兵士を除いてもぬけの空よ」
「……そうか。ここはガルドの妻ノアの部屋だったな」
少女と同じくフードを被った男は、鋭い目つきで室内を物色し始めた。
チャティスの鼓動が早鐘のように早くなる。なぜだかわからないが、この男に見つかれば最後だという予感がしていた。
「あ、兄者。ここは既に私が調べたわ」
「……仮にも領主の妻だ。非常用の出口などを拵えているかもしれん」
男は部屋の小物やベッドの下などを手当たり次第探り、とうとう、チャティスの隠れる洋服棚の取っ手に手を掛ける。
「……っ!!」「あ、兄者!」
キャス、と呼ばれた少女が声を荒げ、男が手を止めた。
「どうした?」
「い、いや、ここで時間を掛けるよりも、別の場所を探した方が有益だと思うのよ」
「……一理あるか」
男が棚から離れて、チャティスはふぅ、と安堵の息を吐く。と、油断したのか、ノアのドレスの裾が、鼻に擦れた。ちくちく、ちくちく、鼻を刺激されて、チャティスの小さい鼻がむずむずしてしまう。
まずい、と頑張って堪える。が、チャティスは元々あまり我慢強い方ではない。
「ぶぁっくしゅん!」
大きなくしゃみが、室内に響き渡る。
あ、と鼻を押さえたが、もう時既に遅し。
訝しんだ男が再び棚へと近づく。
ああもうダメかも。今度こそ死ぬ――っ!?
と恐怖で顔を青く染め、がくがくと震え始めたチャティスの耳に、再度キャスの声が届いた。
「……何かいるみたいだから、私が始末しとく。兄者はガルドを探してきて。ガルドはあれでも名うてと謳われる剣士。不意打ちなら自信があるけど、もし正面切っての勝負となったら私の腕じゃ太刀打ちできない。それに――もうすぐ、リミットでしょ?」
「……わかった。アサシンである誇りを忘れるなよ?」
そう言い残し、男は出て行った。ふはぁ、と息を吐き出したチャティスだが、唐突に棚を開かれドレスといっしょに絨毯へ転がり落ちる。
むきゃ! と悲鳴を上げたのも束の間、キャスと呼ばれた女アサシンが馬乗りになってきた。
「えっ? うっ?」
「私はアサシン。アサシンの掟の中に、“目撃者は始末せよ”というものがあるの。……どういう意味か、わかる?」
「……っ!!」
青く青く、ひたすらに青く染めあがったチャティスは、半泣きの状態でこくこくと頷く。
ならいいわ、とキャスは満足げな表情となり、こう告げた。
「じゃあ、目を閉じて。今楽にしてあげる」
「――ッ!!」
言われた通り目を閉じたチャティスに、ナイフが降りかかる。
(いやっ!! 痛い!! 絶対痛い!! 死ぬ、死ぬ死ぬ! クリス! クリス助けて!! ……あ、あれ?)
全身を駆け巡るはずの痛みがなく、体重をかけてチャティスを拘束していたキャスの重さも消えて、チャティスは呆けながらもゆっくりと目を開ける。
すると、いつの間にか室内からキャスが消えていた。
え、え? と困惑する彼女に部屋の外から声が聞こえてくる。
「……今なら見逃せる。チャティス、だったっけ? アンタは死んだことにしておいてあげる。早く逃げて。ここは危険だから」
「う? え、ちょっと……!!」
立ち上がったチャティスは訳のわからないまま廊下に飛び出るが、キャスはまるで煙のように姿を消していた。




