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薬師チャティスと狂戦士と  作者: 白銀悠一
第四章 狂戦士ハンターと腐った海と
25/62

独りよがりの思いやり

 喰らう者。腐海に生息する死者の成れの果て。

 死者は屍人となり、さらに腐食を経て貪欲者となる。生きとし生ける者を呪い、喰らい、生に執着する怪物に生まれ変わる。

 身体は黒い泥で覆われ、顔は無く代わりにぽっかりと穴が開いている。そこは目であり鼻であり、獲物を喰らう口でもある。

 手に構える棍棒を用い捕食対象を撲殺し、血肉から骨、魔力残滓まで被食者の全てを吸い喰らう。


「……っ」


 チャティスは立ち竦むことしかできない。

 今までの敵よりもこれほど恐ろしい相手はいない。何であるか理解できない存在。

 本当に恐ろしいのは強さの指標が定められている強者などではなく……常識の範疇外にいる化け物だ。

 未知とは真の恐怖であり、恐怖の前に人は脆弱さを露呈する。

 コポコポ……という空気を求めて喘ぐような咆哮。生を求めて彷徨う死者の悲痛な叫び。

 喰らう者は生者を凍りつかせる悲鳴を放ち、チャティスへと切迫してくる。

 対するチャティスは、固まってただ迫りくる様を静観するのみ。悲鳴すら上げられず、ただただ自分に迫る死を目視するのみ。

 頭の中に描かれる自分が殺される姿。一撃で首を叩き潰し、死体を食べやすいようにぐちゃぐちゃに叩いてミンチ状にし、顔の空洞から一心不乱に自分の残り滓を一滴残さず喰らうのだ……。

 真なる恐怖を前にして、走馬灯すらよぎらない。

 親への悔恨も仲間たちへの慟哭も湧き起こらない。

 単純な事実として死を受け入れる。もはや理不尽とすら感じられない。

 むしろ胸の内に浮かぶのは……どうしようもなく感じる哀愁だけだった。

 胸が締め付けられるように痛む。ちくちくと何かが心を抉る。

 自分を叩き潰さんとしている相手に同情している。


「可哀想、だね」


 口から紡がれる静かな感想。

 それがチャティスの最期の言葉……になるはずだった。

 刹那、狼の咆哮。チャティスの前で威嚇していた狼が喰らう者の黒色足に噛みついた。

 喰らう者が鳴き声を上げる。いや、泣き声と言うべきか。

 嗚咽めいた叫びをあげ、喰らう者が痛み狂う。

 その狂乱を目の当たりにし、チャティスは正気に戻る。


「っ!! まずい!!」


 自分が死んではならない理由を思い出す。行動力を取り戻したチャティスは狼が喰らう者と格闘している姿を目撃し、どうすればいいか思考し始めた。


(狼は頑張ってる……でもたぶん勝てない。だからあんな暗い洞穴に隠れてたんだ。喰らう者が外にいるから。……でも)


 効果があるかどうかはわからないが、チャティスは自衛方法を知っている。

 それは人ができるささやかな抵抗なのかもしれない。理不尽によって昇華することとなった化け物にとって、攻撃にも入らない微小な反目なのかもしれない。

 だが、何もやらないで死にたくなどはない。どうせ死ぬならできることを全てやり終え、どうしようもなかったと諦めて死にたい。

 意を決し、チャティスは狼と喰らう者に背を向けて、走り出した。


「たぶん絶対こっちに!!」


 半分あてずっぽうに森の中を駆ける。直後に響く狼の鳴き声。

 後方を見やると、狼が喰らう者に殴り飛ばされていた。


「ッ!!」


 喰らう者は狼から顔をチャティスへと向けると、全速力で追ってくる。屍人らしからぬ活力あふれた動き。チャティスから見て、喰らう者は捕食者であり生を求めて生きようと苦しむ生者だった。

 疲れ果てている足に喝を入れ、チャティスも必死に動く。目的地は自分の転落地点。この奈落の底へと落ちたスタート地点。

 徐々に迫る喰らう者。チャティスと喰らう者では喰らう者の方が速いのだ。まるで狂戦士が疾走しているかの如きスピードで着実にチャティスへと切迫してくる。


「まだ死ねない!! 私は!! 私は――ッ!!」


 ――私はまだ恩返しをしていない!!

 そう叫んだチャティスは、視線の先に落ちているフリントロックピストルを見つけた。

 縋るようにピストルへと飛び込む。装填している時間はない。後は不発にならないことを祈り引き金を引くのみ。

 両手でしっかりと銃杷を握り引き金を引く。撃鉄が火皿を打ち叩く。火花が発生し、内部の火薬に着火して、球状の銃弾が銃口から吐き出される。

 チャティスの祈りと共に撃ち放たれた弾丸は、喰らう者へと飛来し、虚しくも打ち砕かれた。


「……ッ」


 万策尽きる。

 次弾を装填し、再度射撃するという手もあったが、弾丸へ反応する驚異的な反射スピード、及び怖じることなく弾丸を叩き弾いた凄まじい怪力を前に非力な彼女はあまりにも儚すぎた。

 所詮、無駄な抵抗だったのだ。端から結果は見えていた。

 脆弱な人間風情が理不尽な死への怨嗟で力を得た喰らう者と対等に戦えるはずもない。


「……来ないで」


 後ずさりながら言う。声には覇気が一切ない。

 言うだけ無意味だと他ならぬ彼女自身が知っている。

 もうどうしようもないのだと。撲殺され、食われる道しか残っていないと。

 だがそれでも、チャティスは諦めない。死ぬ瞬間まで、諦観はしない。

 弱弱しくも強靭な意志をその瞳に宿して、チャティスは捕食者を睨み続けた。

 しかし、眼力だけで敵は殺せない。

 何かを成すには力が必要だ。空想的なものではなく現実的で強力な力が。

 そんな力をチャティスは持っていない。結局、彼女はただの思い上がった人間で、非力なだけの哀れな少女である。


「ッ!!」


 振り上げられる棍棒。思わずチャティスは目を瞑る。

 そして、グシャリとした肉を抉る音と、喰らう者の声にならない悲痛な叫びを聞いて、自分が生きていることを再認識する。


「無事か?」

「クリス……っ」


 クリスが喰らう者の背中に剣を突き立てている。

 一気に身体の力が抜けて、チャティスは座り込んだ。

 急激に体の中から安心感が湧き上がってくる。もう大丈夫だと胸の中で安堵する。

 それほどの安心感を彼女に与える狂戦士が、遥か高い谷の上から降ってきていた。



 ※※※



 クリスがチャティスを見つけ出せたのは奇跡と言っても過言ではない。

 ある程度の目星は付けていた。十中八九谷底へ落ちたのだろうという予感はあった。

 だが正確な位置がわからず、チャティス自身の生存も危ぶまれた。従来、谷に落ちた人間は高所からの落下によって地面で身を砕かれ死んでしまう。

 いくら天才を自称するチャティスにおいても例外ではない。人は結局、人である。死ぬ時はいとも簡単に死ぬ。

 それでもクリスがチャティスの捜索を続けたのは、生きているかもしれないという根拠のない想像がため。

 何となくチャティスは無事でいる気がした。それはシャルもいっしょだったようで、クリスと共に夜通しチャティスの痕跡を探し続けた。

 しかし、それでも肝心なところで痕跡が途切れる。

 あと一歩のところ。決め手があればすぐにでも行動に移せるというもどかしい段階で踏みとどまっていた時、声が聞こえた。

 少女の生きたいと願う叫び声が聞こえた。

 その叫びにクリスが応え、飛び降りた先に喰らう者に追われるチャティスがいて今に至るという訳だ。


「動けるか?」


 喰らう者の背中からクリスが問う。が、チャティスはすっかり腑抜けた状態だ。

 張り巡らされていた緊張の糸が一気に解け、顔に安心の二文字を浮かべてへたり込んでいる。

 だがしかし、まだ予断を許さない状況だ。背部に向けてクリスが放った落下突きは喰らう者に大きな裂傷を負わせたものの、未だ斃れる様子をみせない。

 相手は一度死んでいるのだ。死者にさらなる死を与えたところで意味はない。動けなくなるまで切り刻む。それが喰らう者を倒す最良の方法だ。

 とするとチャティスが傍にいるのは得策とは言えない。


(彼女を離れた場所まで退避させるべきだ。しかし、辺りには醜悪な魔物が闊歩している。……シャルの助力は得られない。とすれば)


 この場で喰らう者を討伐するしかないとクリスが結論付けた時、うきゃっ!! とチャティスが痛がった。背中上から何事かと見やると、チャティスの足に狼が喰らいつき、無理やり引き離そうとしている。


「敵か? いや……」


 狼から放たれる異様な気配にクリスは逡巡する。気配がどうにも異質なのだ。

 従来の動物が放つものとはまた違った感覚が、狼から漂っている。


「……喰らう者が怨嗟で生まれる者ならば……ッ」


 突如喰らう者が暴れ出し、クリスを振り下ろそうとしてきた。このまま背上にいてもいいことは何もない。

 何の躊躇いもなくクリスは飛び降り、クリスへと狙いを定めた喰らう者と対峙する。

 喰らう者が先に動いた。棍棒を乱暴に振り回し、クリスを叩き潰さんとしてくる。その打撃をあっさりと受け流し、クリスは棍棒を持つ右手首を斬り落とした。

 耳をつんざくような絶叫。クリスはその叫びを意に介することなく攻撃を続ける。

 腹部に左拳による突きを見舞うと、よろめいたところに斬撃を放った。

 浅く体表が切り裂かれ、黒い体液がどばどばと零れる。


「――ッ!」


 クリスがさらに追撃しようとした瞬間、喰らう者は左腕をクリスへ叩きつけてきた。屈んでその長い腕を避け、一気に踏み込む。そして、一閃。

 クリスの剣が深く喰らう者の腹へ突き刺さる。だが、それだけでクリスの猛撃は終わらない。

 右手で剣を突き立てている間、左手は腰のポーチから装填済みのフリントロックピストルを抜き放っていた。

 ピストルの銃口が目であり鼻であり口である顔の穴に向けられる。

 轟く銃声。叫ばれる断末魔。

 喰らう者は最期に嘆きのような叫び声をあげると、地面に沈んでいった。


「眠れ。もう生に固執する必要はない」


 クリスの眼下で喰らう者が融け始め、地面へと吸い込まれていく。雨水を地面が吸収するが如く吸われ、何一つ残らず融け消えた。

 狂戦士に関わった人間の末路の一つだ。これは最悪なケースだと言っていい。

 まともに死ぬことすら叶わず、生きることすら許されず、生きようと必死にもがく哀れ人。

 ふとクリスに考えがよぎる。もし、これも狂戦士のせいだとチャティスに告げたらどうなるのか。

 思案したクリスはすぐに脳裏の隅へと疑問を追いやった。否、問いですらない。

 訊かなくても答えは容易に想像できた。


「サーレと同じ……いや、それ以上か」


 クリスが独り言を呟いていると、痛い、痛いよ! というチャティスの声が。

 声元へと目線を移すと、チャティスが狼に引きずられているところだった。


「はなっ離して! 本当に痛いんだよ! あなたは甘噛みしているみたいだけど私はとっても痛いんだから!」

「シャルに話し方を教わったのか?」


 狼に必死の形相で語りかけるチャティスに問いを投げると、チャティスは違うよ! と半泣きになりながら言い返す。


「この狼がっ! 話をわかるみたいでっ! ううう離してえ!!」


 草の上を引っ張られている彼女は草と土まみれになり、茶色の外套はかなり汚くなっている。

 見かねたクリスがチャティスの傍へ近づくと、狼はやっとチャティスの頼みを聞き届けた。

 ふうと息を吐いたチャティスは起き上がろうと腰に力を入れるが、


「あ、あれ立てない……う、また……?」

「また腰が抜けたのか」

「言わないでよ、うう」


 恥ずかしいのか顔を朱色に染めるチャティス。クリスにはなぜそこで恥ずかしがるのかがわからない。

 喰らう者と対峙して正気を保っていられる方が珍しいのだ。いや、それを言うなら狂戦士と相対した時に精神が壊れ発狂してもおかしくない。

 なのにこの少女はずっと平静のままだ。顔を青ざめることもある。情けない声を出すこともある。

 だが、幾度なく死線を乗り越えてなお、彼女の本質は変わっていない。目的の変更等はあったがそれだけだ。

 屈強な信念と揺るぎない自信をその小さな矮躯に秘めている。

 しかし、心が強くとも身体は信じられないくらいに無力だ。そう、まさに花のようだ。見た目は美しく可憐な輝きを放っているが、人の手で簡単に折られてしまう。

 彼女の煌めきは狂戦士にも人にも眩しすぎる。純粋無垢過ぎるその心はいずれ邪悪な思想を持った者に穢されることになるだろう。

 恐らく、ありきたりで極悪非道な手段によって。

 それは避けねばならない。チャティスは狂戦士の希望だ。

 実際に薬ができるかどうかはこの際関係ない。自分とはまた違った方法で“彼女”の理想を体現しようとする同志。

 狂戦士に希望を与える天災は守らなくてはならない。少なくとも、どちらのやり方が“彼女”の理想なのか見極めるまでは。

 しかし、その守護に果たして自分自身は必要か? 共に行動することが最善なのだろうか。


「手を貸すか?」

「……うん。お願い」


 クリスはチャティスを背負い、一度チャティスが寝泊まりしたという狼の洞穴まで移動することにした。

 先程と同じ無表情で、瞳にだけ明確な意思を宿しながら。



 ※※※



 クリスの背中は鎧越しだというのにとても温かい。睡魔が誘発されてしまうくらいにはぽかぽかでチャティスはまた眠くなってしまう。

 が、まだ寝るには早い。少なくともこの奈落から抜け出すまでは。


(コーヒーが欲しい……)


 あの泥水のようなお茶は眠気を吹き飛ばすには効果覿面だ。甘党のチャティスはあの苦りきった茶色い液体が大嫌いなのであるが、それがゆえに眠気覚ましとしてふさわしい。

 しかし、お茶の大部分は馬車の中である。流石のクリスとは言えお茶まで持ってきてくれる余裕はなく、チャティスは自分の頬をぱちぱち叩いて眠るまいとする。


「まだ気になることはたくさんあるしね……」

「何が気にかかるんだ?」


 下からクリスが訊ねてくる。

 今現在のチャティスの興味関心は、この影色の森と少し前を歩く狼に集約されている。

 そのことを口に出すと、クリスが淡々と解説をし始めた。


「まず、この場所はかつて腐海だった場所だ。……見ればわかると思うが」

「うん、それはわかるよ。っていうか知ってたの? じゃあどうして」

「……知る必要があるとは思わなかった」


 口調としてはいつも通りなのにどこか呆れ果てているような気がして、チャティスは言葉に詰まる。

 この事態は魅了など関係なく自分の不手際だ。本来行くはずのない場所にチャティスが勝手に行き、勝手に死にかけたのだ。

 なぜ教えてくれなかったなどと糾弾するのは的外れも甚だしい。


「それについてはごめん。でも知ってるなら教えてよ」

「なぜだ」

「知りたいから、かな。それじゃダメ?」

「……」


 クリスは返答しない。その代わりにこの土地について静かに語る。


「ここは元々一つの国だった。数百年ほど前の話だから、知る人間はごく僅かだ。裕福な国だったと文献に記されていた。人々は豊かな自然による大地の恵みを享受し、山奥の洞窟から取れる鉱石を他国と取引することで利益を得、誰もが満たされていたと。だが、それを羨んだ国が現れた。当然と言えば当然だ。人の歴史は略奪の歴史でもあるからな」

「まさか……」


 チャティスが呟いた予想は見事的中することとなった。


「ああそうだ。その富を妬んだ近隣諸国はバーサーカーを使って戦争を仕掛けた。……バーサーカーについてまだまともな理解をできていなかった時代にな」

「それは今でも変わらないよ」


 矢継ぎ早に挟まれたチャティスの合いの手を無視し、クリスは続ける。


「貪欲な敵国の王はバーサーカーを国内に直接放ち……見事壊滅させた。略奪するつもりだった物資ごと。残されたのは大量の死体と輝きを失った鉱石だけだった。大地はやせ細り、草木は枯れて暗い海ができた。国跡を包むようにしてあふれ出した漆黒の霧は天の守護者たちの光を遮断し、発生した深淵で満たされる。……しかし、それで終わりではなかった。愚かな王は、腐海の中に軍を突入させることにした。これもまた順当と言えば順当の反応だ。手に入るはずだった富を全て失い自軍を損耗させただけでは、無能という不名誉な称号を贈られる。王は自身のプライドの保守と、得られるはずだった利益を求めて兵を送り込んだ」


 その結果は散々なものだった、とクリスは語る。チャティスは容易に想像できた。

 多くの人間たちが欲望に駆られるまま腐海へと進み、喰らう者や屍人に蹂躙される姿を。

 絶望の中を探っても、そこには絶望しかない。希望が欲しいなら、絶望ではなく希望を見つけるべきだった。

 益を得たいのなら、力ではなく言葉で解決するべきだったのだ。交渉術で粘り強く対話していけば、恐らく滅ぼされた国も滅ぼした国もどちらも自然の恵みを享受できたに違いない。


「悲しいお話……」

「それを悲しいと感じる人間よりも当然であると考える人間の方が多い。少なくとも、そう考えている人間が導き手になる場合がほとんどだ。……しかし、彼らとて最初から傲慢だった訳ではない。狂ったのには理由がある」

「それって」

「バーサーカーだ。バーサーカーの力を見て人々は神の如き力を得たと奢った。この力さえあれば世界を手中に収めることができると。事実、バーサーカーの力は十二分にその可能性を秘めている。単騎で敵国を殲滅できる戦闘能力。敵がどれだけ向かって来ようが問題ない。バーサーカーを一人確保するだけで戦争に勝てる。それほどの火力を手に入れたのなら正気を失っても仕方ない。人は弱い生き物だからな」

「仕方なんてなくないよ!」


 チャティスは怒った様子で言う。実際に彼女は怒っていた。


「それはただの言い訳だよ! 剣があったから人を殺したって言ってる人と同じ! そんな輩は剣がなくてもクワとか槍とか手斧とか別の武器を使って殺したに決まってる! バーサーカーだってそうだよ! バーサーカーがいなくてもたぶん戦争は起きたんだ! 人間が愚かだから!」

「あくまでもか」

「なにっ?」


 興奮しているチャティスはクリスの漏らした言葉が理解できない。

 言い直すかのように、クリスはもう一度復唱した。


「あくまでもバーサーカーを信じるのか」

「もちろん! 彼らだって人なんだからね! でもみんなバカばっかりで天才である私しか気付けてないみたいだけど!」


 腕を組んでつーんと澄ますチャティス。クリスを信頼しているからこそできるしぐさだ。

 そんな彼女にクリスが問う。まるで最終確認を行っているかのように。


「俺をあくまでも人だと思うか? 血濡れた化け物ではないと?」

「もちろん! クリスは人だよ! あなたが何を言っても私はそう思う! そして私は天才! つまり私の言葉こそ真理なんだよ! 神が定めし世界の法則なの!」

「まともな食事を摂らず、睡眠も必要なく、感情のほとんどが希薄になっていてもか?」

「……え?」


 クリスから放たれた言葉にチャティスが凍る。

 戸惑っていた。困惑していた。今の流れでクリスが冗談を言うとは思えない。

 彼から語られた言葉は紛れもない真実であるとわかる。

 だというのに、いやだからこそ、チャティスは愕然とクリスの後頭部へと目を落とす。


「どう、いう、こと」

「……シャルから聞いた。不安がっていた、と。今まで隠していたことは謝罪する。だが、これが真相だ。君が案じていたように、俺は食べないし寝ない。必要ないんだ。そんなことをしなくても身体は問題なく稼働する」

「あ、う……」


 危惧していたことが真実だった。もしかしたらと考えていた想像が現実だった。

 外れて欲しかった予想が本当だった。

 何て声を掛ければいいかわからずチャティスは惑う。対してクリスは普段通りに冷酷なまでに無表情だった。


「で、でもクリスは人間で……人で……」

「人が寝ないか? 食事をしないのか?」


 埋めることのできない溝。どうしようもない差異。

 ただ狂化するだけならば押し通れた。狂化さえしなければ人間だと胸を張って言えた。

 だがその二つは誤魔化しの効かない明確な違いだ。そして、人は違いを忌避する生物。

 いくらチャティスが叫ぼうと、人々は受け入れてくれない。異端者として排斥しようとするだけだ。


「これでわかっただろう。シャルはともかく、俺は人じゃない。人ではない化け物の傍にいるのは辛いはずだ。……田舎へ帰れ、チャティス」

「――っ」


 告げられた言葉に頭が真っ白になる。

 やはり迷惑だったのか。自分が勝手について来たのは。

 今までの旅路は独りよがりだったのか?


「このまま共に旅をしても死にかけるだけだ。いや、恐らく次は死んでしまうだろう。今までのような幸運が訪れるとは限らない。……薬の研究は村でもできるはずだ。むしろ優秀であると推測する君の父君と共に開発を行った方が効率がいいだろう。……俺は何かおかしいことを言っているか?」


 何一つおかしいことは言っていない。

 一番最善な方法であることは明白。実際に今日もチャティスは死にかけた。魅了なんていう樽爆弾を抱える身ではこれからも死と無縁であるとは思えない。

 確実にクリスと行動するよりも村へ帰った方が自分のためになることがわかる。

 だが……だからこそ、チャティスは――。


「おかしくはないよ」

「だろう。なら――」

「でも納得はできないよ」


 チャティスはクリスの背中に身を預け、思うままを囁く。


「あなたの言うことは完璧だよ。今までもずっとそうだったんだよね。あなたはとても頭が良い。……悔しいけど、私よりあなたの方が天才なんじゃないかって思うこともある」

「……俺は天才などではない」

「人じゃないから、天才なんていう評価は受け入れられないとか言うんでしょ? もうわかるよ。他にはこの程度は知っておくべき事柄だ、とか。……やっぱりクリスは人間だよ」

「俺は人じゃない」

「違う。そういうところが人なんだよ。あなたの言葉を借りれば……化け物が自分を謙遜するの? 人を殺すしか能のない殺戮兵器が、人に優しくするの? 敵を想って悼んだりするの? あなたは感情が希薄になったって言う。たぶん、本当に薄れてはいるんだと思う。でもね、ちゃんと心はあるんだよ。自分でも気づいてないかもしれないけど」

「しかし」

「しかし、じゃないよ。これは天才である私が定める決定事項。いや、もう天才は関係ないね。私が思うから正しいの。人は物を食べるし、睡眠を取る。そこに当てはめれば確かにクリスは人と言えないかもしれない。でも、クリスは心がある。そして、人にも心がある。だからクリスは人なんだよ。……それじゃダメ、かな?」


 涙目になりながらクリスに訊くチャティス。彼女からはクリスの表情が窺えない。

 クリスは立ち止まり、あくまで冷徹に回答する。


「まともな論理ではない。こじつけもいいところだ。人とは何かという定義を無理やり変化させ、自分にとって都合の良い解釈を行う強引な思考法だ」

「……っ」


 涙が溢れてチャティスの視界がにじむ。厳しい言葉を投げられたからというよりもクリスが自身を人間であると認めてくれないことが悲しい。

 だが、チャティスは早とちりをしていた。クリスの言葉はまだ続いている。


「……しかし、天才なのだから仕方ない」

「クリス!!」


 顔を上げて、わかりやすくチャティスは喜ぶ。手で涙を拭い、


「ありがとう」


 と礼を言う。もはやなぜ感謝するのかわからなかったが……とにかく、お礼を言いたかったからそれでいいのだ。


「……それはこっちのセリフだ」


 チャティスに聞こえないほどの声量で狂戦士は呟いた。



 喰らう者が新たに現れるなどという最悪な展開も起きず、チャティスたちは狼の巣穴に辿りついた。

 悠々と先頭を歩く狼を見、そういえばとチャティスは思い出す。まだこの狼が何なのかわからない。

 何なんだろうなぁとチャティスが独り言を漏らすと、クリスが口を開いた。


「喰らう者が理不尽な死に対する怒りで生まれることは知ってるだろう」

「うん。私は天才だし」


 普段のペースで返すチャティスに、クリスもまた淡々と応じる。


「バーサーカーの暴走や戦争によって人が死ぬと溢れ出た魔力が死者の最期の感情に刺激され従来では考えられないほどの魔物が創生される。今日出会った喰らう者は弱体化していた。恐らく長い年月の経過により魂が浄化されていたのだろう。……ここで重要なのは魔力が感情に感化されるということだ」

「感情に感化される……。喰らう者は死に対する怒りから……つまり」


 頭に指を当てて唸っていたチャティスはあ! と声を出しすっきりとした笑みを浮かべた。


「その逆ってことか! ってそうするとこの狼は」

「ああ。元は人間だ。聖獣とでも呼ぶべきか」


 喰らう者の正反対の存在――つまりは理不尽に殺されてなお憤らなかった聖人たち。大勢の死によって発動される天然の大規模魔術内では、通常ならば考えられない奇跡が起こり得る。

 恨み人は屍人に、屍人は喰らう者へと変わり。

 赦せし者たちは、自然を尊ぶ聖獣へと変化する。

 見た目こそふつうの動物と変わらないが、彼らは高度な知能を有している。

 人語を話すことこそ叶わないものの、理解はできるし相手を思いやることも可能だった。

 チャティスはクリスの背中から降りると、狼の元へ歩み寄る。

 そして、その頭を撫でた。ありがとうと感謝を述べながら。


「あなたが居なかったら私は死んでたよ。でもさ、次はちょっと考えてね? 齧るのはダメだよ? わかった?」


 チャティスの言いつけに狼はリアクションを起こす。不服そうにチャティスの腹を前足で殴った。

 おうぅ!? とチャティスが短い悲鳴を上げ、むっとして怒り出す。


「ちょっと! せっかく人がアドバイスしてあげてるのに!」


 しかし狼は誰が聞くものかとそっぽを向く。チャティスはしばらくむむーっ! と声を荒げていたが、子狼がすり寄ってきてすぐに微笑に戻った。


「ふふ、あなたは親の傍を離れちゃダメだよ。あなたを救ってくれたのはあなたの親なんだから」


 子狼はきょとんと首を傾げている。


「私は手を貸してあげただけ。君が治ったのは君自身の力と君の家族のおかげだよ。きっちり恩返しをするんだよ」


 チャティスは子狼を撫でる。狼が気持ち良さそうに鳴いた。


「……そろそろここを出るぞ」

「そうだね。シャルも心配してるだろうし」


 立ち上がったチャティスは最後に狼たちに別れを告げる。


「じゃあね、狼さんたち! もしよかったら私の村に遊びに来てよ。私の村はクレスト郊外にあるティルミの村! お大事にね!」


 チャティスとクリスは狼たちの洞窟を後にする。

 去って行く後ろで、狼が感謝するかのように遠吠えをしていた。

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