短い旅路
「やだ! やだやだ! 有り得ない!」
「うるさいわよチャティス! 急に家に来たと思ったら……」
はぁ、と少女が深く嘆息した。
ここはチャティスの友人であり幼馴染である少女キチュアの家だ。キチュアは、黒髪で色白の可愛らしい少女だった。
なぜチャティスがここに来たかと言うと、チャティスの住む村には同年代の子供は三人しかいないからだ。
テーブルを挟んで座りため息をつくキチュアと、今も山奥で木を斧で切っているだろうテリーしか。
山村で生まれたチャティスには、遊ぶ相手も愚痴る相手も限られていた。
「だって、テリーだよ!? 好きでもないのに婚約だよ!? 理由が孫を早く拝みたいからだよ!?」
「知ったことじゃないわよ! 私はあなたの愚痴聞き要員じゃないの!!」
大声で愚痴るチャティスに対し、キチュアも叫んで言い返す。
チャティスに負けず、キチュアも怒っていた。突然家にやってきて、母親の文句を言い始めた我儘娘に。
「何でキチュアが怒るの! 同情してよ! もっと親身になって聞いてよ!」
「十分親身でしょうが! 都合の良い時だけ人当てにすんなよ! いっつもチャティスばっかり……」
「何か言った!?」
「何でもないわよ!」
キチュアは顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
チャティスってかわいそうね。学力にも容姿にも恵まれているせいで神様も嫉妬してしまうのね。
そんな感じの慰め文句を期待していたチャティスはべたーとテーブルに突っ伏して、
「最悪、最悪過ぎる……。このまま何もなしにテリーと結婚して、言われるままに子どもを産んで、年に十回村人が来ればいい方の薬屋を継ぐんだわ……冒険もロマンも、何一つ刺激がない退屈な人生……私って可哀想な子……」
「……あなたの自意識過剰っぷりには吐き気がするわ」
「ん、何か言った?」
「何も、ふん!」
キチュアは立ち上がり、台所の方へと向かってしまった。
きっとお茶を取りに行ったのだろうというチャティスの予想は的中する。
キチュアは、お茶を持って台所から出てきた。一人分。チャティスの分はない。
「ひどいよキチュア!」
「ひどいとか言われる筋合いないし。私が招いたんじゃなくて勝手に上がってきたんだから、飲みたきゃ自分で取って来なさいよ」
「気を使ってくれてもいいじゃん……傷心の私にお茶を取りに行けとか……オーガ! デビル!」
「……そこまで言うならあげてもいいけど」
ホント!? と喜んで顔を上げたチャティスに向けて、キチュアは満面の笑顔でカップを振りかけるしぐさをした。
「存分に。ほら、一杯掛けてあげるけど」
「う、わかったよ。自分で取りに行くよ」
チャティスはしぶしぶ台所にお茶を取りに行く。はぁ、とわざとらしく嘆息していちいちキチュアの神経を逆なでするのだが、当の本人はキチュアが苛立っていることに全く気付いていない。
「誰かさんが淹れてくれなかったお茶を、傷ついている私が淹れてきたよ」
「……そーろそろ私も我慢の限界なんだけど、絶対気付いてないよね? ねぇ!」
「あーでもやっぱキチュアん家のお茶おいしい。すっごいリラックス出来るよー」
ほぅ、と幸せそうな息を吐き出すチャティス。怒りの導火線に着火し、キチュアが大爆発を起こす五秒前、そうだ! とチャティスが思い出したようにポーチを取り出した。
「忘れてた。今日は薬を持ってきたんだった」
「……何の?」
静かに問いただすキチュアに、チャティスは元気よく答える。
「眠り薬。前、キチュアよく眠れないって言ってたでしょ? これを飲めば夜もぐっすり眠れるよ!」
「……あ、ありがと」
紙包みを差し出されたキチュアの火は消火され、照れたような笑みが残った。
こういう気遣いが、キチュアがチャティスの友人を止めない理由だった。普段はとてもうっとうしいが、何だかんだでチャティスは良い奴なのだ。
それに、キチュアが魔物に襲われた時、身を挺して守ってくれたこともある。だから忍耐強く、懐の深いキチュアは耐えて、チャティスの友人を続けている。
「えと……お代は」
「もう貰ったからいいよ。あーやっぱりいい。おいしいなー」
小さな田舎村だから出来る、ささやかな気遣い。チャティスも、その両親も、基本的に薬をただで配っていた。代わりに、村人たちもチャティスたちにただで食料を受け渡す。
共存体となっていた彼らにお金などという仕組みは必要なかった。
「全くしょうがないヤツ」
「何か言った?」
「何でも。あ、そうだ」
何かを閃いたような顔。キチュアはそれだったら、とチャティスに一つの提案を始めた。
「あんまり嫌だったら、一度家出してみたら?」
「家出~~?」
お茶を飲み干し、まただらーっとしていたチャティスは、幼馴染を見るため目線を上にあげる。
「そ、家出。おじさんもおばさんも、何だかんだ言ってチャティスを甘やかしているから、きっと出て行ったら顔を真っ青にして言うこと聞いてくれると思うわよ」
「んー家出……家出か……。ん? 家出……」
「それにテリーの気持ちだってあるし、私の気持ちも――」
「あぁ! そう! そうだよ! 村出て行っちゃえばいいんだ!」
ガバッと立ち上がったチャティスは、思いっきりテーブルを叩く。強く叩き過ぎていたい、と涙目になった後、驚くキチュアに聡明的な発想を教えてあげた。
「チャティス……?」
「村を出て、隣町で馬車に乗って、王都に向かって成り上がればいいんだよ! そしたら退屈な生活とはおさらば! はは、私ってやっぱ天才ね!」
「い、いやチャティス、それは無鉄砲って言う」
「でも、こんな発想に至れたのはキチュアのおかげ! ホントにありがとう! 早速準備しなきゃ」
ピストルは騎士がくれた物を使って、必要な薬と食糧、水は家から持ってきて、衣服はどうしよう……?
そう考えを纏め始めたチャティスをキチュアは必死に諫めようとした。
「い、いや王都までは流石に……。それにチャティスはよく魔物に襲われるし……トラブルにも巻き込まれるし、絶対やめた方が」
「じゃ、行ってくるね! お金持ちになって帰ってくるから!」
別れの言葉を述べて、チャティスはダッシュで家を出て行ってしまう。
「そもそもそのナルシシストなところが危ういし……チャティス! ああ待って、チャティスー!!」
※※※
「ん……夢……」
いつの間にかチャティスは眠ってしまっていたらしい。
なぜ? どうして? 寝起きの頭で思考しようとするが、睡魔が襲ってきて難しい。
それに暖かい感触がチャティスの目覚めを妨害する。
「はぁ~~あったかい……」
何やらポカポカとした、温もりの上でチャティスは寝ていた。いい具合に温く、このまま安らかに二度寝出来そうな居心地の良さだ。
母親に添い寝された時のことを思い出す。寒い冬でもぽかぽかで、暗い夜でもちっとも怖くなくて――。
「起きたか」
「ぅん。でももう一回寝ちゃおうかなーなんて……へ?」
今ハッキリと声が聞こえた気がする。下から。この、温もりを感じさせる暖かみから。
「え、え?」
しかも、聞き覚えのある声だ。そう。自分に狼藉を計ろうとした盗賊から守ってくれて、さらに襲いかかってきた残党も一掃してくれた……狂戦士の。
(つまり……今……私は――)
一騎当千の狂戦士に背負われて、その上で爆睡していた?
「これから王都に向かうが、問題ないか?」
「問題ッ! 問題しかない! うわあああああ下ろして! 誰か! 誰か助けて! バーサーカーに殺されるーッ!!」
じたばたと暴れるチャティスだが、がっちりホールドされてしまって逃げられない。
狂戦士がチャティスを下ろしたのはそれから少し後。チャティスが泣いて、下ろしてくださいお願いしますと懇願した後だった。
ばっちりと目を覚ましたチャティスは凍えているかのようにがくがくと震えて怯えている。
怖くて致し方ないのだ。目の前に立つ狂戦士が。
(あああ思い出した!! ピストルで何とか倒そうとしたけど難なく叩き切られてそれで! それで……)
なぜ狂戦士におぶられていたかは不明だが、なぜ眠っていたのかは思い出した。
正確には、気絶していた。あまりの恐怖に耐えかねて、チャティスは気を失ってしまったのだ。
「落ち着いたか?」
「ひぃ! 落ち着くなんてことは金輪際ありません!」
気が動転して訳のわからぬことを叫ぶチャティス。失禁してしまいそうな勢いでビビっている彼女は、目前の剣士が一切の敵意を見せていないことに微塵も気付く様子がない。
加えて、剣士も剣士で特に説明もせずじっとチャティスを見つめているだけなので、状況が一向に進展しそうにない。
「……」
(死ぬ! 死ぬ! 死ぬーっ!!)
無意味な沈黙はしばらく続いた。
「……落ち着いたか?」
「は、はい……」
再度、狂戦士が同じ質問を投げかける。
聡明で冷静なチャティス(自称)はやっと自分の状況のおかしさに気付き、狂戦士に頷き返した。
父親の狂戦士に纏わる話が本当なら、チャティスはもうこの世にいないはずである。
だが生きているということは、この男は狂戦士ではなかったということだ。
ただあんまりにも強いから、野盗が狂戦士と誤解しただけで、実際には名うての剣士なのだろう。
助けてもらったお礼を交えながら、チャティスは自己紹介をすることにした。
「私はチャティス、旅人です。助けてくれてありがとう」
「……俺はクリス。知っての通りバーサーカーだ」
チャティスが笑顔のまま、手を差し伸ばした状態で固まった。
今この人なんて言った? あれ? おかしいな……私の聞き間違いかな……?
と、疑問を感じたチャティスは、もう一度聞き返してみた。
「えと、今、何て……?」
「名はクリス。バーサーカー」
(あれ?)
おかしい。どう考えたっておかしい。
この男は二度も狂戦士だと名乗った。
チャティスの耳がおかしくなってない限り間違いない。そして、それは有り得ない。チャティスは完璧だからだ。
ちょくちょく自分を褒め称えながら、チャティスはもう一度整理する。
前に立つ男。名前はクリスで……。
狂戦士じゃない剣士さんだけど、狂戦士さんだった。
つまり死ぬ。殺されて死ぬ。
自称聡明な頭脳で結論を出したチャティスは、村を出て何度青くなったかわからない顔を青白く染め上げる。
また倒れられては敵わない、とでも思ったのか、クリスは説明するために口を開いた。
「あ……ああ……」
「……案ずるな。俺は君を殺さない」
「根拠! 根拠を求む!」
「考えてみてくれ。もし俺が君を殺す気ならば……君はとっくに死んでいる。そう思わないか?」
クリスの投げかけを聞いてチャティスは顎に手を当て熟考する。
考えてみれば、確かにそうなのだ。今チャティスは生きている。一騎当千の狂戦士を前にして。
自身に命があったから、チャティスはクリスを狂戦士ではないと勘ぐったのだ。
だが、クリスは自分を狂戦士だと言う。敵味方関係なく、周囲の動く生物全てを殺す殺戮者だと。
とするならば、なぜチャティスは生きている? 理由はいくつかあげられる。
(第一の理由、クリスって人が嘘をついている)
本当はただの人間なのに、自分は狂戦士だと偽っているのだ。
しかし、そうすると疑問が生じる。意図がわからない。
わざわざ狂戦士だと名乗るメリットが見当たらない。
襲いかかってくる人間へのこけおどしくらいにはなるが、有益となる点はせいぜいそれくらいで、後は人々から忌み嫌われるというデメリットしかない。
それに、チャティスに嘘をついてどうするというのか。もし狂戦士と脅しチャティスの身体を貪ろうとするのなら、チャティスは犯される前にクリスを撃ち抜く自信が――。
(ない……ないよ! だって、銃弾を叩き切ったんだよ! 撃ち勝てる道理がない……)
気を失う前の速すぎる居合切りを思い出しチャティスは身震いする。
すぐに頭を振って切り替えて、二つ目の理由へと考え至った。
(第二の理由、バーサーカーに纏わる噂や伝承が間違っていた)
狂戦士とは一騎当千。たったひとりで軍勢を相手取ることができ、狂戦士の激怒によってひとたび狂化すれば近くにいる者全てを皆殺しにする。
人のカタチをした化け物であり、対峙したら最後神に祈るしか手はない。
人に狂戦士は殺せない。狂戦士を斃すためには狂戦士をぶつけるしか方法はない。
(昔には狂戦士を暗殺したアサシンがいたらしいけど……それは例外中の例外だって父さんは言ってた……。でも、この言い伝えが正しいなら、何で私は生きてるの?)
うーんと唸りながら思案し、わからないなぁと嘆息する。
伝承が完全に間違っていた、とも思えない。だからこそ狂化戦争などという戦いが起きているのだ。
各国が狂戦士を隷属させ、相手国の狂戦士と領土を巡って戦わせる。
もちろん、そんなことすればただでは済まない。狂戦士同士がぶつかれば、それまで展開していた軍勢は両軍とも全滅する。
らしいのだが、チャティスは狂戦士戦争のくだりがいまいち納得できないのだ。
どう考えたって、見合わない。人が大量に死ねば腐海が発生するというのは子どもでも知る世界の理だ。
国一つを力づくで滅ぼせば、死者から漏れ出た魔力が暴走し、遺骸を魔物へと変化させる。大量の血痕が触媒となり、死人や喰らう者などを生み出す原因となってしまう。
(そんな状態になったら、その国はおしまい。占領することなんて不可能になる。……でも、父さんが私に嘘を吹き込むとも思えないし。やっぱり三つ目が一番しっくりくるかな!)
と、チャティスは満足し、わかったと元気良い返事で応えた。
チャティスが考え付いた三つ目の理由。それはこれまでの思索がバカバカしくなるようなものだった。
第三の理由――チャティスが完璧で特別なので、クリスは自分に手が出せない。
二つ目でもっともらしいことを考えておきながら、なぜそのような結論で納得したのかは全く以て謎だ。
しかし、チャティスはそういう少女なのだ。自信過剰な井の中の蛙。それがチャティスである。
「……理解できたか」
「もちろん。私は天才だからね」
チャティスがふんぞり返って言い放つ。
クリスはそのことには一切触れず、そうかと一言だけ告げるとチャティスを先導し始めた。行き先は王都である。
「む……褒めてくれたっていいじゃない」
キチュアだったら間違いなく頭に血が昇ることを呟きながら、チャティスはクリスについて行く。色々あったが、無事に王都まで辿りつくことができそうだった。
(フフ……一攫千金を夢見て!)
ほくそ笑むチャティスは知る由もない。チャティスが当人の評価通り――。
正真正銘の“天災”だったということを。
※※※
「やっと……ついた……」
ぐったりとした様子のチャティスが声を漏らす。
黄昏に世界が染まり、天空の守護者が逆転しようとしている最中にチャティスとクリスは王都へと到着した。
半日ばかり歩き通しで疲労困憊だ。さほど整備されてない街道での移動はチャティスに優しかったとは言えない。
もちろん、ぜはぜはと死にかけているのはチャティスのみで、クリスは顔色一つ変えていない。チャティスと出会った昨日からずっと同じ表情だ。
道中クリスがチャティスに背に乗るか? と提案したのだが、やはり男――それも狂戦士は信用できないとしてチャティスは申し出を断った。
仮に現状クリスが無害でも、いついかなる状況で自分に欲情するか知れたことではない。
念には念をいれておくほかにはなかった。常に心に留めておけ。男とは狼なのだ。
「宿……探さないと……」
ふらり、ふらりといつ倒れてもおかしくなさそうな足取りで門をくぐるチャティス。
奇妙なことに門番は立っていない。それどころか街は妙に静かだった。
いくら夕刻とはいえこれはおかしい。父親の話によれば街は夜もにぎわっているはず。
不思議に思ったチャティスだったが、その前にとクリスへと向き直った。
「あの……クリスさん」
「クリスでいい」
「じゃあ、クリス。今まで、ありがとう。色々疑っちゃったりしたけど、あなたが居なければ私は死んでた。これ」
チャティスはポーチから包みを取り出し、クリスへと手渡した。
傷薬だ。それも塗れば傷があっという間に完治する滅多に手に入らない希少品。
「……いいのか」
「もちろん。これくらいしかお礼できないし」
疲れ果てながらも、にっこりと微笑むチャティス。
無表情で薬を受け取るクリス。彼は淡々とした声で尋ねてくる。
「行くのか?」
「うん。本当にありがとう! 薬のことで困ったことがあったら言ってね! じゃあ」
さよなら――。
チャティスは初々しさと愛らしさを振りまきながら街の中へ消えて行く。
同時に世俗を知らない無知ゆえの危うさを感じさせながら。
「…………」
クリスはずっと、その後ろ姿を見つめていた。感情の読めない顔のまま。
「と別れたはいいものの……」
右も左もわからぬ王都。いくらチャティスが天才を自称していても、知識がなければどうしようもない。
セントロウ亭やバッセン亭など、父親が昔泊まったと言っていた宿を見つけることはできた。
だがどれも閉まっており、扉を叩こうが呼び鈴を鳴らそうが誰も応対してくれない。
まずいぞチャティス。このまま野宿か……? と最悪の展開が脳裏をちらついて、チャティスの胸中は不安でいっぱいだった。
(どうしよう……すごい怖い。街ってこんなに狭いんだ……)
規模でいえば、チャティスの村よりもずっと広い。だが、所狭しと敷き詰められた家屋の数々が、街を狭苦しいモノへと変えていた。
いつ狭い路地の曲がり角から、屋根の上から、何者かが襲いかかってきても不思議ではない。
(い、いや、仮にも王都だしそんなことはないよね)
田舎娘チャティスは知らない。
危険はどこにでも潜んでいる。街だろうが村だろうが森の中だろうが。
しかし、村や森はチャティスの慣れ親しんでいる場所だ。逃げ方も、手を貸してくれる大人もいる。
だが、故郷から離れた王都ではそうはいかない。チャティスは孤立無援。色んなことを教えてくれる父親も、孫の顔がみたいとせがむ母親も、優しい村の人々もいないのだ。
見知らぬ土地に、ひとりぼっち。味方はいないし、敵がいてもそれが敵かどうか判断がつかない。
(ああ、せっかく出てきたのに。何でこうみんなの顔ばかり思い出すんだろう)
まだ家出して三日と経たぬのにホームシックになってしまったチャティスは道端に座り込んでしまった。
石畳の冷たい感触がお尻を冷やす。屋根と屋根の隙間から夜の守護者が存在を露わにしている。
(やばい……泣きそうかも……)
月光がこれほど寂しく感じるとはチャティスは思ってもみなかった。
月を見上げる時は、いつも家族といっしょだった。だが、今宵月が照らすのはチャティスひとりのみ。
うぅ……と本気で泣きかけたチャティスは、背後から声を掛けられて跳び上がった。
「わぁあああ! 何!?」
「お、おおすまんな、お嬢ちゃん。驚かせて悪かった。ひとり寂しく座り込んでいるから気になってな」
(誰?)
チャティスが振り向いた先にいたのは、見知らぬ男。父親より若いくらいの中年男性。
う、と警戒し後ずさるチャティスに、男は優しい声音で語りかけてきた。
「まだ炎月とはいえ、夜は冷えるだろう。良ければ家にこんか? ごちそうしてやろう」
「……ごちそう」
ごく、とチャティスが生唾を飲み込んだ。思えば、今日はまだ夕食を取れていない。
「通貨はいらない。おじさんの好意さ。大丈夫。何かしたりしないから」
言いながら、手を差し伸ばしてくる男。人肌恋しくなっていたチャティスは、思わず手を取りかける。
だが、寸前で躊躇する。男は狼。いくら中年とはいえ何をするかは……。
「今日はたまたまチーズが入ったんだが……嬢ちゃんが来ないならひとりで食べるかな」
「行きます! ごちそうしてください!」
さっきまでの警戒心はどこへやら。大好物のチーズの名が出た途端チャティスはあっさりと承諾した。
ついておいで、とチャティスを誘う男。ごちそう、チーズ! と無邪気に喜んでいるチャティスは気づかない。
彼女を連れ往く男の顔が、意味深に笑っていたことになど。
「お、おお……」
並べられた食事を前にして、チャティスは感激し声を上げた。
端から端まで、目いっぱいのごちそう。
柔らかそうなパンや、食欲をそそる香りが際立っているスープ。丸焼きにされたチキンや、チャティスの好物チーズの盛り合わせなど、家では考えられないような料理がテーブルに敷き詰められている。
「こ、こんなに貰っていいの……?」
「大丈夫だよ。お金はあるから」
男は笑う。とても嬉しそうに。
村の牧場主さんみたいだ、とチャティスは思った。
チャティスの村にいる牧場主ポコレはチャティスが薬を届けに行くといつもチーズをくれる。
不謹慎だが、ポコレが早く病気に罹らないかな、などとチャティスが思ってしまうほど絶品だった。
「ほ、ホントに?」
「いいんだよ。遠慮なくたくさんお食べ」
ああ、もう待ちきれない。
チャティスはいただきますと大声で大地の恵みに感謝して、まず先にチーズを口に放り込んだ。
(おいしい……! ポコレさんがたまにしかくれない最高級品だよこれ!)
ひとり舞い上がり、ひとくち、ふたくち。
ぱくぱくとチーズを頬張るチャティスの姿は、まるで巨大なラットのようだ。
「次は……っと」
スープを食べよう、とチャティスはスプーンを掴む。
野菜がぷかぷかと浮いており、鶏肉も垣間見える黄色いスープ。
ミルク仕立てにたくさんの山の幸を煮込んだ濃厚なスープをチャティスは啜った。
(ああ……口の中に芳醇な香りが……あれ?)
スープのおいしさを享受していたチャティスが、違和感に気付く。
見知った、しかし料理には絶対に使われない風味が混ざっている。
(夜月草の香り。磨り潰せばすいみん……やくに……)
その味が何なのか、理解した時にはもう遅い。
チャティスはガシャンと派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。
すやすやと、熟睡しながら。
「へへ……まんまと引っ掛かりやがったぜ」
男は下衆の笑みをみせながら立ち上がった。出てこい、と男が呼ぶと部屋の奥から男たちがぞろぞろと現れる。
全員、仕事仲間だ。人身売買の。
「いいモン食わせてやったんだ。何されても怒るなよ?」
「兄貴! 一体どうするんです?」
若い男がそわそわした様子で訊く。頬を紅潮させ、さっさとやりたくて仕方のない様子だ。
聞くまでもないだろ、と男は嗤いながら答える。
「この女、妙に惹かれるからな。傷つけないで売ろうとも思ったが、どうもそそる。これだけの代物なら、手えつけても問題なく売りさばけるだろう」
「つまり」
「ヤルこと、やっちまえ」
男達は顔を見合わせて邪悪な笑みを浮かべ、チャティスに群がり始めた。
限度は弁えろよ、と言った男も服を脱ぎ捨てた。
ああ……最高だ。この女は犯しがいがある。
売るのは惜しい。このまま性処理用としてここに置いておくのも悪くないかもしれない。
などと、愚劣極まりないことを男が考えたその時。
突如壁から生えてきた右腕に、その首を掴まれた。
「……えっうわああああ!!」
宙を舞う半裸の男。瞬間、人では考えられないほどの怪力で、男は外へと投げ飛ばされていた。
なんだ、と人の形に空いた壁を見つめる男たち。
そこには、ひとりの男が立っていた。仮面のように無表情で重そうな鎧を着た剣士が。
「……」
ガチャガチャと鎧を鳴らしながら、クリスは部屋の中へと侵入。直後、男たちの身の毛がよだつような悲鳴が、夜街へと響き渡った。