彷徨うチャティス
――眠れ。崇高なる想いと共に。
それがクリスから聞いた最後の言葉だった。
その後に何か言っていた気がする。が、思い出せない。
正確には思い出したくない。
いっしょに思い出してしまうから。
あの子の顔を。あの子の最期を。
自分が見殺しにしてしまった、友達を。
「……う」
行く宛てもなく彷徨っていたチャティスは、見知らぬ森の前で立ち止まった。
チャティスの他には誰もいない。まともな別れも告げずに街を出てきた。
あなたとはいっしょにいられない。
捨て台詞のように言い残して、チャティスはクリスの元を去った。
薄情な女だ、と自分でも思う。
恩をあだで返すとは、まさにこのことなのかもしれない。
でも、とチャティスは顔を俯かせる。
「何を言っちゃうかわからなかったから、ね」
自嘲気味に呟いて、じっと地面を見つめ続ける。
もしあの場でクリスを問い詰めていたら、自分でもゾッとするような冷たい言葉を吐いていたに違いない。
悪口を言って罵って、クリスを傷付けて。
そして、泣くのだ。ミュールの遺体の傍で。
「何でミュールを殺したの、クリス」
あの時ぶつけたかった言葉をチャティスは復唱する。
かろうじで、堪えた。否、憎しみよりも悲しみの方が上回っていたから、口に出すことができなかった。
なぜ。なぜミュールを殺す必要があった?
ミュールは狂戦士だったのかもしれない。でも、何か問題があった訳じゃない。
現にあの日まで狂化しなかったではないか。それなのに、なぜ――?
チャティスはひとり考え耽る。しかし、答えは永遠に出ないように感じられた。
いや……案外答えは身近なところにあるのかもしれない。
もはや近くですらない。
チャティスは右手に目を落とした。
「……私」
天災である、チャティス自身。
チャティスが関わったからミュールが死んだ。そうとしか考えられない。
クリスの意思ではなく、ミュールの意志でもない。
全部、チャティスのせい。チャティスの呪いが、最悪の事態を引き起こした。
「……」
そう結論付けたチャティスは、無言でホイールロックピストルを取り出す。
ピストルを構えようとして、落とした。カチャリ、と銃が落ちる音。
その後に、小さな泣き声。
「う……ぅ」
涙が地面を濡らす。泣いたままチャティスはピストルを拾い、もう一度構えようとした。
だが、手が震える。上手く扱うことができない。
いくら非力なチャティスでも、頭に銃口を突きつけて自殺することは簡単だ。……少なくとも身体的には。
しかし、精神的に困難だった。何かがチャティスの行動を阻害している。
その何かの声が脳裏に響き始めた。
――チャティス。お前は私たちの宝だ。だから私たちの前からいなくならないでくれ。
父親の声。すぐに別の声が聞こえ出す。
――チャティスは天災ではありません! 天才なのです! 人に希望を与える天才です!
ミュールの言霊。最後に他ならぬ自分自身の声で、何かが言い聞かせるように呟いた。
『私は父さんたちに助けられた。みんなが命がけで私を助けた。だから私は絶対に生きなければならない』
生者と死者の声、そして心の声が頭の中にこだまする。父親とミュールの声はまだいい。
問題は自分の心の声だ。これほど鬱陶しいものはない。
「うるさい!!」
誰かに話しかけられた訳でもないのに、チャティスは大声で怒鳴った。
『私という存在はすでに私のモノではない。村のみんなのもの。私を救ってくれた全ての人のもの』
「うるさいうるさいっ!」
『死んではならない。生きなければならない。命をくれた全ての人を尊んで、恩返しをしなければならない』
「黙って!! 黙れ!!」
興奮した様子でチャティスが怒鳴り散らしていると、不意にぽたぽたと雨が降り始めてきてチャティスは冷静さを取り戻す。
うわ、と素になったチャティスは慌てて森の中へと駆けこんだ。
注意書きが書かれた立札があることに気付かずに。
「外套を羽織ってるから濡れても平気だけど……」
雨天ということもあり森の中は薄暗い。どこからともなく魔物と鉢合わせそうでチャティスは身震いをした。
震える手で、ピストルを構え直す。クリスから教えてもらった構え方をすると、不思議と手の震えは止まった。
それについて深く考えないようにして、チャティスは辺りに目を凝らす。幸い魔物は発見できない。
チャティスはほっと一息を吐いた。
「とりあえず安全、かな。これからどうしよう」
明確な指標はない。なぜここにいるのか、それすらもわからない。
街を出てふらついていたら、たまたま森が目について吸い込まれるように近づいた。
今さら成り上がろうにも進むべき道は閉ざされた。ミュールを頼りにしていた訳ではないが、一番安全だと思われたアリソンにはもう戻れないし、村に帰ろうにも徒歩での帰郷は無謀といえた。
八方塞がり。一番最悪の展開としては、この森でのたれ死ぬという可能性が挙げられる。
(それは、ダメ。私はまだ死ねない)
チャティスは死を望まれていない。家族にも、村人たちにも、ミュールにも。
なぜだかチャティスはミュールが自分のすぐ傍にいる気がしていた。今もチャティスの横で見守っていてくれている。そんな気がしてならないのだ。
例え哀れな妄想だったとしても、チャティスはミュールに応えるつもりでいた。
「とりあえず休めるところへ……っ!?」
不意に背後から聞こえてくる、低い唸り声。
明らかに人間のそれではない鳴き声は、草木を掻き分ける音と共にチャティスへと近づいてきている。
「ふ、振りかえらなきゃダメかな? 見てみぬふりしたいんだけど」
容姿は容易に想像つく。チャティスの倍はあろうかという巨体。木をいとも簡単に切り裂く大きな爪。
色は焦げ茶色。好物は魚。
恐る恐る振り返ったチャティスが見たのは大きなクマだった。
「ッ!! 死んだふり……!」
ばたり、とチャティスは急に地面へ倒れ込むが、クマはチャティスの偽装をあっさりと見破って歩みを止めずに迫ってくる。
こうなっては戦うしかない。幸いクマは大きな音を好まないため、ピストルを撃ち放てばすぐに逃げ出すのだ。
「ごめんねクマさん!」
クマへとピストルを向けて、引き金を引く。トリガーと同時にホイールが連動する――はずが。
「あ、あれ? 撃てない? 何で……!! そうか、雨!」
雨はピストルの天敵である。なぜなら火薬が濡れて湿ってしまうからだ。
それだけではない。チャティスのピストルはここ最近の乱暴な扱いによって動作不良を起こしていた。
使い物にならなくなったピストルを、それでも構えながらチャティスは後ずさる。
「きゃっ!?」
突然響く、チャティスの悲鳴。後ろを見ずに後退していたチャティスは足を木の根に引っ掻けてしまった。
絶体絶命。打つ手なし。チャティスの脳裏に一瞬クリスの顔が浮かんだが、すぐに首を振ってイメージを頭の片隅へと追い払う。
「自分勝手すぎるよ、それは。……う」
そうこうしている間にもクマは迫る。チャティスは這って逃げようとするが転んだショックで足が動かない。
クマが目前まで切迫し、チャティスはまた瞳から涙をこぼす。
なぜ泣いてるのか自分でもわからない。怖いから? 申し訳ないから?
「う……っ。ごめんな――」
さい、と謝ろうとした時、その音色は聞こえた。
美しい音色にチャティスは思わず目を見張る。
「口笛?」
ぴゅーい。ぴゅーい。
誰かを呼ぶように、口笛は何度も響いた。
するとクマの様子に変化が生じる。
まるで何事もなかったかのように、クマはチャティスの前から立ち去ったのだ。
予想できなかった展開に、チャティスは困り果てるしかない。
と、また草木を掻き分ける音。近くの茂みががさがさと鳴りチャティスは緊張で身を固くする。
だが、次の瞬間には肩の力が抜けた。出てきたのは青い髪の少女だ。
「大丈夫、だった?」
「もしかして今の口笛はあなたが?」
青い髪と赤い瞳。動きやすさを優先した白い衣服。
不可思議な少女に問い質すと、少女は不思議そうに首を傾げる。
「くち、ぶえ?」
「い、今の音。あれ? 違ったかな」
「おとって?」
チャティスは先程の口笛を真似て吹いてみた。
と、少女が合点がいったように頷いて、
「うん、うん。私が吹いたよ。ぴゅーいって」
「やっぱり。ありがと……う?」
起き上がろうとするが、上手くいかない。
どうやらクマに迫られて腰が抜けてしまったようだった。
うーんうーんと唸りながら奮闘するチャティス。その様子を見かねたのか、少女は微笑んで手を貸してくれた。
「あ、ありがと」
「どういたしまして。これでいい?」
「これでいいって?」
二重の意味を込めて感謝したチャティスだが、意味不明な質問に訝しむ。
次に少女の口から出た、言葉の意味、という補足に奇妙ながらも納得し、合ってるよと教えてあげた。
「ふふ、良かった。おうち、来る?」
「え、えっと……」
流石にそこまでお世話になる訳には、と考えたチャティスだが、今の自分では休める場所が見つかりそうにない。
素直にお言葉に甘えて、不思議な少女へとついて行く。
「おいで、おいで。ふふ、ふふふふ」
「不思議な子だなぁ」
率直な感想を漏らしつつ少女の後を進んで行くと、そこら辺の木とは比べ物にならない巨木の前に辿りついた。
木の上には家が見える。どうやらあそこが少女の住処らしい。
「で、どうするの?」
階段が見つからずチャティスが少女に尋ねると、
「こうするの」
と答えてひょいひょいと身軽に木の上を登っていく。
鮮やかとも言える木登り術を前に、しかしチャティスは頭を抱えた。
どう見たって登れそうにない。だが、少女は上から楽しそうに手を振るばかりだ。
「おいで」
「う、う。よ、よーし!」
チャティスは木の枝やくぼみを掴んでクライミングを始めた。よいしょ、よいしょ。気合を入れて登っていく。
だがしかし、運動神経のよろしくないチャティスがそう簡単に大木を登れるはずもない。
「う、うわあああ!」
「あっ」
案の定落っこちて、チャティスはお尻を擦る羽目になった。もう一度挑戦したが、結果はぶつ場所が尻から背中に変わっただけだった。挫けそうになりながら三度目のチャレンジをするが、また似たような場所で枝を掴み損ねる。
うわっ!! と悲鳴を上げたチャティスだが、またもや少女に助けられた。
「ふふふ。大丈夫?」
「う、うん。ありがとう」
少女の補助もあり、チャティスは四苦八苦しながら木の幹を登る。苦戦しつつも無事に木の上の小屋へ到達することができた。
やっとの先で登った先にあった家は、人が数人住めそうなぐらいの大きさだ。謎の少女はドアの前に立ち、手招きでチャティスを誘う。
「おいで。面白いひと」
「お、面白い人?」
自分に対する印象評価に戸惑いつつ、チャティスは中へと進む。ドアを通ると、こじんまりとした丸テーブルやベッドなどの家具が目に入った。
「おもてなし。座って」
「え、う」
言われるがままにチャティスは丸テーブルの隣へ座る。
と、少女がキッチンらしき場所へと向かい、何かを運んできた。調理済みのスープか何からしい。
おいしそうな黄色いスープであり、見た途端、チャティスの腹の音が鳴る。
「食べて。おいしいよ」
出されたからには食さずにいられまい。
チャティスは赤面しながらもいただきますと感謝し、木製のスプーンでスープを啜った。
おぉ、と感嘆の息を漏らす。何だかよくわからない初めての味だが、とてもおいしい。
「おいしい……!」
「でしょ? ふふ、作っておいてよかった」
あまりのおいしさにチャティスは止まらなくなり、半分ほど食してしまった。
妙な食感の肉らしき物体も、ぷちぷちしていてとてもいい歯ごたえだ。
あらかた食べたところで、チャティスはまだ自己紹介を済ませていなかった事実に気付く。
「あ、ごめんなさい。自己紹介が遅れちゃった。私はチャティス。あなたは?」
「名前を言えばいいの?」
「う、うん。そうだよ」
少女の問いに困惑しつつもチャティスは名乗りを促した。すると、少女は私の名前はね、と前置きして、
「シャル。うん、たぶん、そんな名前」
と曖昧に名乗る。
「……覚えてないの?」
チャティスが問いを投げかけると少女改めシャルは即答した。
「うん、はっきりとは。お父さんもお母さんもずっと昔に死んじゃったから」
「……っ」
唐突に告げられる悲劇。思わずチャティスの手が止まる。チャティスは自分の迂闊さを呪った。そもそもこんな場所に住んでいる時点で、特殊な事情があると察するべきだったのだ。
チャティスが申し訳なさそうにごめんと謝ると、シャルは気にしてないよと微笑んだ。
「ずっと前だったから、慣れたよ。それよりチャティスが来てくれて嬉しい」
「……そ、そうなの」
なぜ嬉しいのか問い質したいのをぐっと堪えて、チャティスは食事へと戻った。まずはこれを食するのが礼儀だという判断ゆえだ。
だが、その手は唐突に止まることになる。少女が口にした次の言葉で。
「イモムシのスープ、気に入ってくれてよかった」
「っ!? ごほごほっ!?」
盛大にむせ返るチャティス。何やら特別な材料を使っていると思っていたスープはそこら辺を這うイモムシのスープだったらしい。
慌ててスープで肉片を掬うとイモムシの頭部とこんにちはしてしまった。チャティスの顔がシャルの髪色のように青ざめる。
「い、イモムシ……」
「おいしいんだよ、イモムシ。ほら、そこにもいる」
「っ!!」
ガタッ! とテーブルを揺らす勢いで立ち上がるチャティス。チャティスが座る横をダークグリーンのイモムシがもさもさと這っていた。
田舎暮らしがために虫には慣れている。慣れてはいるのだが、イモムシだけは生理的に受け付けないのだ。
「うわあああ!! イモムシを食べちゃった!?」
「叫ぶほどにおいしかったんだね。ふふ、ちゃんと言いつけを守れて良かった」
「あ、う! い、言いつけって?」
努めてイモムシを意識にしないようにチャティスはシャルへと問いかける。
シャルはそれはね、と両手を合わせて優しい微笑を浮かべた。
「お母さんとの約束なの。森に人が入ってきたら優しくしてあげなさいって。でも、滅多に人は森に来ないから、ちゃんともてなせたのはチャティスが初めて」
「……じゃあ、友達も――」
「……ともだち、ってなに?」
「っ!!」
無垢な瞳にミュールの影を見出してチャティスは凍りつく。
目の前に座る不思議な少女はミュールではない。だが、ミュールとの類似点――親や友達がいないこと――があった。
まるでミュールを前にしているようで、チャティスは辛くなる。あまりにも辛くて、シャルから目を背けてしまう。
「あれ? いや、だった?」
「違うよ。シャルじゃなくて、えと……ぁ」
「チャティス、泣いてるの?」
自分の意志とは関係なく、涙が溢れ始める。
何とか拭おうと奮闘するのだが、涙が止まらない。
滲む視界の中でシャルと目が合い、チャティスは震える声で誤解させまいと口を開く。
だが、まともに言葉が繋がらない。
あの、えと、違くて。
シャルのせいじゃなくて、これは、私の。
「何であなたが泣くか私はわからないよ。でもね、これだけは言える。泣きたい時は泣いていいんだよ」
「うっ! シャル……っ……ありがとう……! 見ず知らずの私のために……!! 私なんかのために!!」
「そんな風に言わないで、チャティス。ふふ、不思議だね。なぜだか、私はあなたをぎゅっとしたくなったよ」
シャルは宣言通り、チャティスへとぎゅっと抱き着いた。
その温かい抱擁がまるで母親に抱き着かれているようで。
そして、アリソンで交わしたミュールとの抱擁を思い出して、チャティスは雨が止むまでずっと泣き続けた。
会ったばかりの人間に家へ上がらしてもらい、食事を頂いたあげく泣き顔を晒し、幼子のように慰めてもらった。
いくら自分を選ばれし人間だと自負していても、恥ずかしいことはたくさんある。
チャティスはイモムシで青ざめた時とは対照的に顔を赤く染め上げて、シャルにお礼とお詫びをごちゃ混ぜにしつつ頭を下げた。
「ごめんありがとう!」
「ふふ。これは私が勝手にやったこと。チャティスは謝罪も感謝も必要ないよ。むしろこっちがお礼をいいたい。おうちに来てくれてありがとう」
「う」
独特なペースのシャルにチャティスは声を詰まらせる。
シャルは不思議で独特で、不可思議だった。自称天才といえども幾度なく疑問を浮かべてしまうほどに。
恐らく他人とのコミュニケーション不足が原因だ。後は彼女本来の気質だろう。
(って、ミュールもなかなかに変だったし。今考えると、キチュアって相当マシな部類だったのかな)
チャティスに敬語を使うなと命じておきながら、自分は最期まで敬語だった王女様。
友というと何を置いてもまずキチュアが基準であるため、チャティスはむしろキチュアがおかしいと思っていたが、シャルという新たな友達候補を得た今、キチュアはまともな人間だったのではないかと思えてくる。
無論、天才である自分の次に、だが。
それに……。
「クリス……」
「チャティスの、ともだち?」
チャティスの口から零れた名前にシャルが反応する。
う、ん、とチャティスはぼかすように返事をした。
(友達、だなんて胸を張っては言えないよ。私は最低なことをしたんだから。それに、まだ……)
クリスがなぜミュールを殺したのかがわからない。
ここ数か月クリスと共に過ごして、クリスが何の考えもなしに行動しない冷静な狂戦士だということはチャティスも理解していた。
彼が何かする時はいつも何かしらの理由があってのことだ。
だが、だからこそチャティスは混乱し頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
(いくらバーサーカーを殺すのが目的とはいえ、クリスは優しいひと。ミュールをただ殺すとは思えない。だったら理由があるはずなんだけど、思いつかない。わかんないよ、クリス。どうして、ミュールを殺したの? 今まで見せてきた優しさは全部嘘だったの?)
少しではあるが共に旅をして、チャティスはクリスについてわかっていたつもりだった。
仮面のような無表情から僅かに見える優しさ。そして時折見せる悲しさ。
狂戦士ではあるが、それでも人よりも人らしいそんな人だと思っていたが、全て自分の思い違いだったのだろうか。
「ねぇ」
気分沈むチャティスの顔を、不意にシャルが覗き込んだ。
「な、なに?」
シャルの近すぎる距離に目を白黒させて、チャティスが引き気味に訊く。
シャルは顔を離して立ち上がり、にこりと眩い笑顔で笑った。
「落ち着く場所に行こう?」
雨は上がり、日光が木々の隙間から差し込んでいる。
シャルに手伝ってもらいやっとの思いで地面に降り立ったチャティスは、シャルに導かれるまま森の中を進んだ。
道中熊や狼などの動物と出くわしたが、シャルが口笛を吹くと何事もなかったかのように去って行く。
不可思議な少女の不思議な口笛についてチャティスが尋ねると、シャルはふふと笑みを漏らし、
「お話してるの。動物さんたちと」
「……う、ん」
チャティスはいまいち納得できなかったが、実際に動物が道を開けてくれているので認めざるを得ない。
後で練習してみようかな、口笛。などと思いつつチャティスがシャルについて行く。
しばらく歩いて、チャティスが疲れ出した時に開けた場所へと辿りついた。
そこは幻想的な花畑だった。
「うわあ……」
チャティスが思わず声を漏らす。
それほど美しい光景だった。一面に敷かれた青い花々。青い絨毯がところ狭しと敷き詰められている。
心が高鳴るほどの絶景。もしミュールが生きていれば、間違いなくこう言ったことだろう。
アリソンの花畑よりも綺麗ですね、と。
「別の世界に来たみたい」
「すごいでしょ、ここ。お気に入りの場所なの。誰も知らないんだ」
「うん……。その方がいいよ」
チャティスはこの場所を独占したいとさえ思っていた。それほど魅力的で美しい花畑。
もしここに永住しろと言われても、チャティスは喜んでその命令を受け入れる自信がある。
「気に入ってくれたんだね。でも、ここがすごいのは見た目だけじゃないよ。……嗅いでみて」
促されるままにチャティスは花々の中へと進入する。
瞬間、頭の中がクリアになる感覚に襲われた。それだけではない。あらゆる悲しみが解きほぐれていくような気がする。
泣き疲れていた心が癒されていく。
「なんだか……すごい落ち着く……」
「うん。ここにいるとね、嫌なことがあっても忘れられるの。それだけじゃない。胸が苦しくなっても寂しくなっても、ここの花は癒し、心を落ち着かせてくれる。たまに来るんだ」
「すごい……こんな花見たことない」
一瞬何らかの強力な薬物的作用が働いているのかと警戒するチャティスだが、すぐにそうではないことに気付く。
ここの花は確かにチャティスの心に安らぎを与えてくれるが、一度嗅げばもう十分だというように身体が花を求めようとはしない。
危険性はない。そう判断し、チャティスは花々の中へと寝転がった。
空が青い。太陽はきらきらと輝いている。
ミュールと共に花畑に寝そべった、あの日の様に。
――チャティス。あなたがくれた薬は本当によく効きました。すごいですね。流石天才です!
一か月の間過ごしたミュールとの会話が甦る。
自分は何と答えたのだろう。チャティスは記憶の引き出しを出し入れし、すぐに探り当てた。
「もちろん!! でもね、薬に関しては私の功績じゃないの。薬は父さんのものだから」
「ご謙遜を。例えこの薬の知識がお父上のものだったとしても、この薬を調合したのはチャティス、あなたでしょう? いっそのこと薬師で成り上がってみたらどうです? これほど優秀な薬師ならアリソンは歓迎しますよ?」
「それはないよ。薬師は金儲けのためにする仕事じゃないからね。人のお手伝いをする仕事だから。……成り上がるためにはもっとこう、一気にお金を稼げるような仕事じゃないと!」
その後に言われた言葉は、ミュールの優しい顔といっしょに、強く印象に残っている。
「チャティス。誰もあなたにお金を求めていないと思いますよ? あなたが生きている。それだけで、みんな幸せなのではないかと私は思います」
(ミュール。ミュールは私が生きてると嬉しい?)
もちろんです、という声がどこからか聞こえた気がした。
(じゃあ、私が成り上がるのは?)
なぜだか、チャティスの脳裏に苦笑するミュールの顔が浮かび上がる。
だが、そんな顔をされてもチャティスはまだ成り上がることを諦めていない。ただ――。
「……別に、お金持ちが薬師をやっちゃいけないなんてルールはないよね」
成り上がる他に、チャティスにはやるべきことができた。




