似ても似つく
大人が恐怖し戦慄し、屈服してしまうほどの殺気が広間へと充満している。数名の男たちが恐怖で動けなくなりその場で蹲っている中、ひとりの男だけは無表情のまま剣を構えていた。
後方には、怖じている少女。だが、少女は他の男たちとは違い立っていられるほどの気丈さがある。
信頼の瞳を男に向けて、少女は祈るように両手を組み合わせていた。
「クリス……」
「…………」
呼ばれた男は答えない。
クリスは剣を構えて敵をじっと観察している。敵であるアリソンの王にして狂戦士であるソダスは、何度か耳を塞ぎたくなるほどの叫び声を上げて、不意に玉座へと身体を向けた。
敵対しているクリスに堂々と背中を晒し、素手で玉座に殴りかかる。
「なるほど……それがお前の武器か」
感心したように呟いたクリスの目線先には、砕かれた玉座の中に仕舞ってあった巨大な鎚が掲げられていた。
「グウウッ!」
まともな人語を話すことなく、ソダスが動き出す。足を踏みしめ床を砕いて、まず近くにいた政務官を叩き潰す。
「うっ……!?」
チャティスの小さな悲鳴が後ろから聞こえた。
その合間にもソダスはクリスより先に周りにいた部下たちを惨殺し始めた。チャティスは驚いていたが、クリスにとっては普通のことだ。
狂戦士は敵味方の判別をしない。生きる者全てをただ衝動赴くままに破壊するのみ。
「チャティス」
「う?」
「そこから動くな」
チャティスにそう言いつけて、クリスも行動を開始する。ソダスと同じように床を踏み砕きながら、ソダスとは違い目標に向けて一直線へと駆ける。
急に切迫してきた新たな敵に、ソダスが大鎚を振り上げる。だが、クリスの方が速い。
ソダスが鎚を振り下ろそうとした時にはもう、クリスはソダスの懐へと飛び込んでいた。
「――ッ!」
クリスが首を取らんと剣を横に凪ぐ。が、聞こえてきたのは甲高い金属音だった。
「……速いな」
クリスが率直な感想を述べる。
クリスが剣を振った瞬間、ソダスの槌が剣を受け止めていた。鎚ならば反応が遅いと踏んだ上での斬撃だったが、ソダスの振り返しはクリスの予想よりも遥かに速い。
「グオオゥ!!」
「ッ!」
「クリス!」
三者三様の反応が城内に響く。
ソダスの強力かつ迅速な一撃は、防御するクリスを部屋の天井へと吹き飛ばした。もしこれが安価な造り家屋であれば外へと貫通していたところだったが、強固な天井はクリスの足場になるには十分だ。
天井を踏み鳴らしヒビを入れて、クリスはソダスの頭上へと弾丸めいて飛来する。
しかし、ソダスは宙の一撃すら防いだ。ガキン、と喧しい音を鳴らし、またもやクリスを叩き潰さんと鎚を振り回してくる。
その攻撃を避けて、クリスは赤い絨毯の上へと着地した。
(手堅いな。堅牢な防御と、圧倒的攻撃力。さらに素早さも兼ね備えている。アーリアとはまた異なるが驚異であることに変わりはない)
アーリアのように理性を保持しているわけではないが、ソダスは十二分に厄介な相手である。クリスとてそう簡単にやられはしないが、攻撃する隙がない。このままでは純粋な持久戦になりかねず、相手の体力が未知数の状態での耐久戦はあまり賢い選択とは言えなかった。
隙を作り出すために使える物がないかとクリスは辺りを見つめ回す。
すぐに利用できそうな物が見つかった。部屋の中に六本ある支柱だ。
方針が固まり、クリスはすぐに玉座側の支柱へ向けて走り出す。
玉座へと続く絨毯を挟むようにして、三本ずつ建てられた柱。一本一本が太く、いくら狂戦士と言えど倒れる柱が命中すれば、動きが鈍ることは必至。例え当たらなくとも、迎撃するために隙が発生することは確実。
問題はどうやって柱の元へとソダスを誘導するかだが、クリスは特に誘導方法について考えなかった。
そもそも考える必要がない。狂戦士はただ敵を追いかけて殺すのみ。何もしなくてもついてくる。
クリスの目論見通り、ソダスはただ本能のままにクリスを追い立てた。
彼に誘導されていることなど微塵も気付く様子はない。元より、そんな思考が今のソダスには存在しない。
クリスは支柱の横へと移動し、通り抜け様に斬り倒した。ワンテンポ遅れて倒れ出す支柱にソダスがまんまと走り込む。
ヒュン、と音がしてソダスが落下してくる支柱を叩き砕いた。一本、二本、三本、四本目。
クリスが最後に斬り落とした支柱をソダスが砕き潰したその刹那、クリスはソダスの懐へともう一度飛び込んで、鋭い斬撃を見舞った。
「グゥオア!」
(浅い)
斬った瞬間にクリスはまだ敵を殺しきっていないことを理解する。
事実、ソダスの身体を王族らしい豪華な服の上から浅く斬っただけで、まだソダスは戦闘行動を続けていた。
素早い大鎚の打撃を躱し、またもや隙を作らんとクリスは思索する。
が、支柱を全部崩すのは得策とは言えず、他に利用できそうな物は部屋に存在しなかった。
ともすれば、とクリスが新しい方法を考え付いた時。
クリスがまた驚愕に目を見開くような出来事が目の前で起こった。
「グオオゥ!!」
「えっ!?」
響き渡るチャティスの声。
ソダスがクリスの脇を通り抜けチャティスに向けて駆け出したのだ。狂戦士の性質を考えれば予測できて然るべき行動だったが、それでもクリスは驚いていた。
驚愕し、瞠目し、戦慄していた。
「ッ!!」
頭よりも先に、身体が動く。
常人では考えられない速度で、疾走する。
「う、あ」
あまりの恐怖に悲鳴すら上げられないチャティスに、ソダスの槌が振り下ろされる。
そこに、クリスは割り込んだ。
べきり、と、骨が砕け折れるような音が鳴る。
「え、あ、クリス!?」
チャティスが驚愕に目を染めて叫ぶ。
チャティスの前へと滑り込んだクリスは、左手でソダスの大槌を掴んで止めた。無論、そのような荒業を行ってタダで済むはずはない。
強引に止められた大槌の打撃が彼の左手の骨を叩き折り、今この瞬間もクリスの内部では刻々とダメージが蓄積されている。
だが、隙を作ることはできた。
クリスは、右手に持っていた剣をソダスの心臓へと突き立てる。
「眠れ。偽りの玉座に座る、虚構の王よ」
「ぐ、ぬ、おッ! おぁ――」
段々と人らしい声に戻ってきたソダスの断末魔。ソダスが振りかざした大槌からは力が抜け、クリスは大槌を脇へと投げ捨てた。
クリスが剣をソダスから抜き取り、ソダスの死体が絨毯の上を転がる。
剣についた血を振り払って鞘に仕舞った時、放心していたチャティスが声を発した。
「あ、う、私、死んでない――?」
「ああ、君は生きている」
チャティスが安堵の息を吐く。が、すぐさまクリスの左腕を見て顔を真っ青に染め上げた。
慌てて駆け寄って、心配する声を上げる。
「大丈夫!? 腕!!」
「問題ない」
「問題しかない! 急いで手当しないと! 痛む?」
「痛くはない」
クリスが正直に事実を告げる。
だが、チャティスはクリスが嘘をついていると思っており、ポーチから様々な薬を取り出して、あれでもない、これでもないと散らかし始めた。
なかなか目当ての薬が見つからずあわあわと慌てているチャティス。
クリスはそんな彼女に声を掛けた。入り口に入ってきた金髪の少女に視線を送りながら。
「俺のことはいい。向こうに行け」
「で、でもっ! ……ミュール?」
クリスに言われチャティスがポーチ荒らしを止めると、ミュールがいつの間にか姿を現していた。
ふらふらと歩くその足取りはとても危うい。苦しそうな声音で、ミュールは声を捻りだした。
「斃した……のですね、父を」
「ミュール……ホントにこれで良かったの……?」
「もちろんです……。父はアリソンに災いをもたらす存在でしたか、ら、ぐ――!」
「みゅ、ミュール!!」
胸を押さえ、ふらついたミュールがばたりと倒れてしまう。顔の青さをキープしたまま、チャティスはミュールへと駆け寄った。
「…………」
チャティスが城の人間を呼び集め、ミュールを介抱する様子をクリスはずっと見つめ続ける。
感情の読めない無表情のまま。
※※※
チャティスの顔を青く染め上げた不安要素は、意外と早く取り除かれた。
次の日の朝、ミュールが目を覚ましたとの報告を受け、チャティスはぜはぜはと死にそうな息遣いで彼女の部屋へと飛び込んだ。
「ミュール!?」
「チャティス、おはようございます」
「おそよう、だよミュール。もうお昼すぎてるよ」
息を整え、ミュールに笑いかけるチャティス。
寝間着姿のミュールもフフと微笑を浮かべて、豪華なベッドの上で起き上がる。
「まだ寝てた方が……」
「大丈夫です、チャティス。私はもう平気ですよ」
とミュールは言うが、チャティスはまだまだ心配である。
そのため、ポーチの中から昨日の内に調合しておいた薬を取り出し、ミュールへと手渡した。
滋養強壮の効果がある薬だ。
「チャティス?」
「これを飲めば元気バッチリだよ!」
「……ありがとう、チャティス。あなたは本当に優しい人」
「そ、そうかな? えへへ」
照れ臭そうにはにかむチャティス。もしこれがキチュア相手だったならばお得意のナルシシズムで、もちろん! 私は聖母のように優しく懐の深い女だからね! などと高らかに謳ったものだが、ミュールの前での彼女は普段とは様子が違った。
それだけチャティスにとっては特別なのだ。新しくできたお友達というものは。
ミュールはベッドの横に置いてあった水差しでコップに水を注ぎ入れ、チャティスの薬を飲んだ後、真剣な表情でチャティスを見つめた。
「城内の者にはあなたたちは敵ではないと言いつけておきました。昨日の今日でだいぶ混乱していたようですが、もう安心です。あなたとあなたの相棒は狙われることはありません。そのようなこと、私が許しません」
「あ、相棒……?」
相棒という単語を聞いて、うーんとチャティスが考え込んだ。クリスを差しているということはわかるのだが、どうも相棒という表現がしっくりこなかったのだ。
気になったミュールが問うてくる。
「違うのですか? チャティス」
「相棒ではないかな……。うん、よくわかんないや」
クリスとチャティスの微妙な関係。それはとても一言では表せられない。
「では好いている、ということですか? 恋人だと?」
「私と? クリスが? うーん、それはないかな……。向こうだってそうだろうし。もちろん、嫌いじゃないし、人としては好きだけど、恋してるって意味では好きじゃないよ」
「……人として、ですか」
「うん」
ハッキリと断言するチャティスに、ミュールが少し驚いたような表情をみせる。
とにかく、奇妙。そうとしか言えなかった。
それはチャティス自身もそう思っているようで、彼女も唸って思案する。
「なんかイマイチわかんないんだよね。クリスのおかげで私は生きているし、ミュールとも友達になれたから、私はすっごい感謝してる。でも、相棒とはまた違うよね。クリスが私を頼ってきたことなんて一度もないし」
手伝いを頼まれたという意味ではチャティスは頼られていたが、もしチャティスがいなければクリスはひとりでどうにかしていた気がする。
やはり、ここで一番しっくりくる表現は友達か。前にも一度クリスに言った関係性をチャティスは口にする。
「友達、だね。お友達」
「……私にはそうは見えませんでしたが」
「ミュール?」
「いえ、何でもありません、チャティス」
ミュールは微笑して、自分の呟きを誤魔化した。
「チャティス、よろしければいっぱいお話をしてください。私は今、退屈で仕方ないのです」
「え、ホント? じゃあ、私の大冒険についてたっぷりお話するとしよう!」
村の幼馴染とは違う新鮮なお姫様の反応に、チャティスは瞳をきらきらと輝かせた。
ミュールとのお話(一方的な)に夢中になったチャティスは、すっかり日が暮れて夜の守護者が姿を現した頃に宿屋へと辿りついた。
ミュールが付けてくれた護衛にお礼を言い自分の部屋へと向かうと、中には安静にしていなければいけないはずのクリスが起きて椅子に座っていた。
チャティスは驚いて、大声を出してしまう。
「何してるのクリス! 寝てなきゃダメだよ!」
「随分と帰りが遅かったな」
まるで父親のようなことを言ってきて、チャティスはムッとしながらクリスを立ち上がらせる。
「私は大丈夫なの! 大怪我してるのに起きてちゃダメ!」
「無問題だ」
「問題しかないって! ほら!」
クリスの背中を押して、彼にあてられた寝室に無理やり押し込む。
しぶしぶ寝室に入ったクリスだったが、一向に寝る気配をみせない。
むぅ、と小さく唸ったチャティスは、寝室の中にあった椅子をベッドの横に持ってきてドスンと座り込んだ。
「チャティス?」
「クリスが寝るまで私はここにいるよ!」
腕を組んで、譲らない姿勢をクリスへと見せつけるチャティス。そんなチャティスの様子に、珍しく困ったような声でクリスはチャティスに話しかける。
「話疲れたのだろう? 寝たらどうだ?」
「ならクリスが早く寝ることだね。私は絶対に寝ないから!」
そう宣言するとチャティスはつーんとそっぽを向いてしまう。
クリスは何度か寝たふりをしたのだが、チャティスは彼のたぬき寝入りを見事に見破り、寝るか寝ないかの我慢戦がしばらく繰り広げられることとなる。
月が煌々と煌めいて星が輝き始めた時、勝負の決着がついた。
「う……ぅ、私……寝ない……」
「もう寝ろ」
根負けしたのはクリスではなく、勝負を挑んだチャティスだ。
うつらうつらと椅子の上で首を上下にふらふらさせ、とうとうスゥスゥと寝息を立て始めてしまった。
チャティスが完全に眠りに落ちたのを見届けて、クリスは立ち上がる。彼女を折れていない右手で抱きかかえた後、彼女の寝室へと運び出した。
「病人……怪我人……看病……絶対……」
チャティスが寝言を呟く。クリスは驚くほど軽いチャティスの身体、その愛らしい寝顔に目を落とした。
チャティスが異常に軽い訳ではない。狂戦士の腕力ならではの感想である。
狂戦士にとって人とは軽く、脆く、危うく、儚い。
今手に力を込めれば、簡単に彼女の身体を砕けてしまうほど、壊れやすい存在だ。
守護する価値はある。しかし、守り通せる可能性は低い。
きっとこの少女はまだ理解していない。彼女やかつての自分と同じ過ちを繰り返すのだろう。
人と狂戦士は絶対に相容れないことをまだ、無垢で純粋なチャティスは知らない。
「もう十分だ。眠れ……穏やかな夢を見て」
クリスはチャティスを寝かしつけ、窓側にある椅子に腰を落とす。そして、窓の外にある月と星を見上げた。
夜空はまるであの時のように美しく儚い、綺麗な星空だった。
※※※
「ふあ……あふ」
欠伸をして背中を起き上がらせる。
うーんと背伸びをしてチャティスの一日がまた始まった。
まだ半覚せい状態だったチャティスは、最初こそその状況を違和感なく受け入れていたが、次第におかしい点があることに気付く。
「あれ? 何で私自分の部屋で寝てるの」
ここは間違いなくチャティスにあてがわれた部屋であり、睡眠を取ること自体は何一つ問題ない。だが、昨日チャティスはクリスが寝るまで寝ないと宣言していたのだ。
つまり、ここで気持ち良く快眠していたということはクリスより先に寝落ちしてしまったということであり、さらにはクリスがここまで自分を運んでいたということを示唆していた。
冗談ではない。クリスは怪我人なのだ。
「っ! クリス!!」
チャティスは跳び起きて、自室のドアを勢いよく開く。
と、毎度おなじみの朝食の匂いが鼻孔をくすぐった。またまたクリスが食事を運んできてくれたらしい。
チャティスは不満を露わにして、窓際でたそがれているように見えるクリスに文句を言った。
「クリス! 怪我人なのに無茶しちゃダメだよ!」
「無茶はしていない」
クリスはいつも通り、淡々とした口調で反論する。左腕には包帯が巻かれており怪我を負っていることが一目でわかる状態だ。
なのに、クリスは痛がる素振りも見せず平然としている。そのことにチャティスはますます怒りを感じてしまう。
「絶対安静だって言ってるでしょ!」
「安静にしている。無理な運動はしていないし、左腕に負担が掛からないよう処置を行ってもいる。何が不満なんだ?」
「~~っ! いいからベッドで横になっててよ!」
明確な理由を説明せず無茶な要求をするチャティス。
チャティスにも具体的な説明は難しい。ただ心配だから。そうとしか説明できない。
自分の調合した薬と、ミュールが手配した治療魔術師の治療術でクリスの腕が完治することはわかっている。
だが、それでも心配で、不安なのだ。クリスの問題は腕の傷だけではないような気がする。
イライラするチャティスは朝食を口の中にかっ込んで、クリスを無理やり寝室へと押し込んだ。
そして、ドア越しにクリスに告げる。
「またミュールのところに行ってくるから! クリスは寝ててね! 絶対だよ!」
「ああ、了解した」
(大丈夫かな、ホントに)
チャティスはクリスを怪しみつつ、着替えを済ませて部屋を後にした。チャティスはクリスの強さを信頼しているが、無茶をしないという点に関しては全く信用していない。
自分のせいで荒事に巻き込んでしまったことも何度かあるので、クリスが全面的に悪いなどと言うつもりは毛頭ないが……。
「自分を大事にしなさすぎだよ! そりゃあ、クリスが助けてくれなかったら私は死んでたかもしれないけどさ……」
ぶつぶつと呟きながら道を歩いて行くチャティス。外套のフードを外し、茶色い髪を露出している彼女はずっと考え事をしながら進んでいた。
主にクリスのこと。彼の怪我がどれくらいで治るのか。今の彼に何をしていて上げればいいのか、などを。
「……。できることはやってあげてるんだよね、もう。薬師は病人や怪我人のお手伝いをするだけ、か……」
思い出すのは父親の言葉。薬師とは、というよりも、自分が如何に無力か思い知る。
こうももどかしいものなのか。やれることをやり切った後、ただ待つことしかできないということは。
「……やっぱり成り上がらなきゃ、ね。それに……」
チャティスは自分の真っ白でふわふわな手へと目を落とす。
チャティスが見つめているのは、色白な手というよりもその内側――自分の中に宿っているという魅了だった。
もし自分が生まれついての天災だというのならば、もしかするとクリスに何かしらの悪影響を与えているのかもしれない。
そんなのは嫌だ。自分が魅了で苦しめられるのだって散々なのに、そのせいで他人が傷つくところなど見たくはない。
「ここで終わりにするのが一番なのかも」
チャティスは自分の旅路の終着点を見定めながら、ミュールとの待ち合わせ場所へと急いだ。
「ああ、チャティス。どうしましたか? 浮かない顔をして」
「あ、うん……ごめんね? せっかく遊びに来たのに」
「構いませんよ。あなたが謝ることなど何一つないのです。これは私の我儘なのですから」
そう言ってミュールはにっこりと笑って、チャティスを部屋の中へ招き入れた。
何度見てもその絢爛さにチャティスはため息を吐く。王族らしい煌びやかな部屋に、美しいドレスの似合うミュール。
薄汚い外套と、長旅用の丈夫な服に身を包む自分が場違いに思えてしまう。
「で、どうしたのですか?」
「ああ、うん。クリスのこと」
「体調がすぐれないのですか?」
「いや、身体の調子は順調だと思う……。問題はもっと別のことかな」
「別の、というと?」
ミュールは椅子にチャティスを誘いながら訊いてくる。
友達の分は自分で淹れる、とメイドを突っぱねたミュールが注いだ紅茶を覗き込みながら、チャティスが思うままを口に出した。
「わかんない。でも、何か大切なこと」
「世界にはわからないことの方が多いのです。わからないことはわからないままの方が幸せ、ということもあります」
「それは私のプライドが許さないよ。私は天才だからね! ……だから、私に解決できない問題なんてあってはならないんだよ」
そう呟かれるチャティスの顔には、昨日の輝きは微塵も感じられない。ミュールは心配そうな顔になって、チャティスの瞳をじっと射抜いた。
あまりにもじーっと見つめられて、チャティスが困ったように眉を顰ませる。
「わ、私の顔に何かついてる?」
「ええ。ついてます、チャティス。大きな虫が」
「っ!?!! ッ!?」
ひっくり返ってしまいそうな勢いで、チャティスは虫を落とそうと一心不乱にぺちぺちを顔面を叩きまくった。
その様子をひとしきり眺めた後、ミュールがくすりと笑いながら告げる。
「冗談ですよ、チャティス。笑えるジョークという奴です」
「ぜ、全然笑えないよミュール!」
チャティスは大声でお姫様を糾弾した。ミュールはごめんなさいと笑いながら謝って、
「でも普段のチャティスに戻りました」
「……ミュール」
気遣われたことに気付いたチャティスは、申し訳なさそうにミュールを見上げる。
ミュールは優しい笑顔を見せて、
「チャティス。私はまだあなたのことを全て知った訳ではありません。でも、あなたの優しさと思いやりはよく感じ取れます。……その中でもう一つだけ、顕著に表れてる部分があるんです」
「それは……?」
「あなたの、自身に対する考え方です。チャティス、あなたは自分を大切にしていますか?」
「……え?」
予想もしないミュールの問いにチャティスは答えられない。
チャティスの困惑を他所にミュールは話を続ける。
「……少々語弊がありますね。私が言いたいのは、あなたが自分のためを想って自分のことを大事にしているのか、ということです。自分の体調を管理しているのは伝わってきます。ですが、それは誰かのためにしょうがなくしているように感じてしまうのです。仕方ないから、自分を大切にする。そんな不思議な感覚が」
「そんなこと――」
「あります。意識的にではなく、無意識に。……失礼を承知で聞きます。チャティス、あなたは自分が生きたいから、生きているのですか? それとも、誰かに生きろと言われたから、生きているのですか?」
当然、前者なはず。
そう思い、口を開いたチャティスだったが、言葉が出てこない。
それは嘘だと心が告げているように、何かが発声を止めている。
しばらく沈黙が続き、とうとうチャティスは回答を諦めた。
代わりに、漏らす。感心の意を。
「そっか」
「チャティス?」
不思議そうに首を傾げる友達に、チャティスは気づいたことを教えてあげた。
「似てるんだよ、たぶん。私とクリスって」
確証はない。だが、確信している。
具体的な説明はできない。明確な理由を答えることも。
でも、妙にしっくりくる感覚で。
紅茶の中に浮かぶチャティスの顔は、全ての事柄に納得したかのような清々しい表情だった。




