総量
私が十二歳になった日に、ある計算式が生まれ、発表された。
足し算も引き算も掛け算も割り算も既に知っていたけれど、どうしてこんな式ができるのかが不思議だった。
・「世界に存在する幸福の総量=世界に存在する不幸の総量」
・「個人が一生で経験する幸福の総量=個人が一生で経験する不幸の総量」
日常は翌日、翌週、翌月まで、日常を保っていた。
最初は少数派だった意見が、時間と共に伝染していったのだ。
人々は損得勘定で生きるようになり、ほとんど何もしなくなった。
必要以上を望まなくなったのだ。
お金を例に取るのは少し気が引けるけれど、百円が落ちていたとする。拾えば百円を得したことになる。
しかしこの世界では、前にか後にか、百円分の損があるのだ。
損の形はわかりやすいものではなく、あくまで「百円分」である。
ある時は「百円分の怪我」だったり「百円分の失せ物」だったり「百円分のトラブル」だったり。
その裁定は誰が下しているのかわからないけれど。
そのことが判明したときには、人々は自分が損をしたと感じたときにだけ、行動するようになった。
損をした分を取り戻すためである。
もちろん行動せずとも、何らかの形で得は訪れるのだけれど。
更には、他人の得や損を奪ったり肩代わりすることはできないこともわかった。
仮にそのような行動を取れば、また別のところで損や得をすることになるらしい。
自転車操業のようにはできず、強制的な何かが発生する・・・・・とか、しないとか。
具体的なことは誰も教えてくれない。
下手に友人も作れなくなった。
友人が一人できれば、「友人一人分」の損をするからである。
ここまでくると、「どうして私たち人間は生まれられるのか?」という疑問が出てくる。
現在、最も有力な仮説は、「子供にはほぼ無限の可能性があり、
出生から学童期以前までの成長はその可能性と引き換えに行われている」である。
ちょうどその頃から、"計算式"が当てはまりだすのだ。
そして私は、生かされているのが嫌になって、自殺を決意した。
「自殺一回分」の「損」が待ち受けているとも知らずに。