狐の嫁入り
天気雨が降ることを、狐の嫁入りと言う。
天気雨の降る日には、狐火を提灯代わりに、狐の花嫁を擁した行列がしずしずと進んでゆくのだそうだ。
但しそれは、地方によっては狐の葬列だとも言うらしい。
優は霊柩車に積み込まれる棺を見送りながら、数日前の出来事をぼんやりと思い出していた。
その日は快晴だった。窓ガラスには、抜けるように青い空が映し出されている。
そこに細かい水滴がぽつぽつと当たり始めたのに気づいて、優は、あ、と声を上げた。
「狐の嫁入りだ」
「はぁ?」
向かい合って座っている幼馴染が、思い切り怪訝そうに訊き返してくる。
「狐がどうしたって?」
「狐の嫁入り。天気雨のこと、そう言うだろ」
優が言うと、幼馴染は窓の外を見、また優を見て、眉を寄せた。
「聞いたことねえ」
そう言われて、一瞬、優は考えた。
これは自分が間違っているのか、それとも全国共通ではない方言語彙なのか。すぐに後者は否定された。何しろ優と彼は幼馴染なのである。育った地域も喋っている言葉も同じ筈だった。
だとすれば、自分の勘違いか、幼馴染が知らないだけか。
恐らく後者であろう、と優は見当をつけた。幼馴染は言い伝えであるとか古い慣習、慣用句であるとか、そういったものに無頓着である。
「意味わかんねえし。何で天気雨が降ると狐が嫁に行くわけ」
幼馴染はそう言って口をとがらせている。
「知らねえよ」
優は窓の外を見るふりをして、目を逸らした。
「青空なのに雨が降って来るから、なんか狐に化かされたような気でもしたのかもな」
狐。
そう、昔から、人を化かす動物の代表格といえば狐だ。
「そういえば、夕方新しい靴をおろすと狐に化かされるってのもあったよな」
「何だそれ。迷信?」
確かに、迷信なのだろう。実際に化かされたことなど、少なくとも優は無い。
でも。
「ああ、そうか。俺、昨日夕方に靴おろしたわ」
そう、口にしてみる。
嘘。靴なんて、本当はおろしてない。
「だから、俺、今狐に化かされてんだ。そうだろ?」
窓の外に顔を向けたまま、優は言った。幼馴染が訝しげな声を上げる。
「何言ってんの、お前」
うるさい。わかれよ。
優は奥歯を食い縛った。熱くなる目頭を誤魔化すように頭を振って、早口に続ける。
「だから、お前はアキじゃなくて、狐なんだ。俺を化かしに来たんだ。本物のアキは、今頃いつも通り呑気に寝こけてやがるに違いないんだ」
「……一体どうしたんだよ、ユウ」
怪訝そうに、顔を覗き込んでくる幼馴染。
相変わらず、ちょっと眉の下がった、間の抜けた顔。
直視すると、堪えていたものが眦から零れた。
「は!?ちょ、ユウ!?何泣いてんだよ!」
もう少し、話していたかった。
一緒に居たかった。
でも、駄目だ。
階下で電話の鳴る音が、優の耳に届く。駆け寄って行く母親の足音も、はっきりと聞こえた。
タイムリミットはもうすぐ。
「あのな、アキ」
震える唇を、優は無理やり開いた。
本当は、教えてやりたくない。でも、何しろ幼馴染は馬鹿なのだ。
きっと、こんな簡単なことすら、自分では気づけない。
自分が教えてやらないと、ここから動けないのだ。
優は一つ深呼吸をした。吐く息が、一瞬喉に詰まって揺れる。
――こんなときまで俺頼みかよ、畜生め。
「お前」
――馬鹿野郎。
「お前、今日、どうやって此処に来た?」
二人が居るのは、優の部屋。
そこは優と幼馴染の、“いつもの場所”だった。
「は?どうやってって、普通に……」
言いかけた幼馴染の言葉が止まる。
「……あれ?」
その顔が、さっと青ざめた。そして、恐る恐る、縋るように優を見る。
「ユウ、俺……」
ようやく、気付いたのだ。
「俺、今日どうやって此処に来た?」
懸命に思い出そうと頭を抱えた幼馴染は、相変わらず、いつも通り、間抜け面で。
「……狐に化かされたのなら、良かったのに」
半分、透けていた。
「ユウ、俺……」
異常に気付いたらしい幼馴染は、泣きそうな顔で優に声を掛けた。
彼としっかり目を合わせた優の頬には、次から次へと温かいものが伝っていく。
「俺……」
母親が階段を駆け上がって来る足音が、どこか遠く耳に響いた。
「死んで、る?」
その言葉を口にした途端。
半透明だった彼の体が、一気に掻き消えた。
「最後までユウの手煩わせてごめんな。会えてよかった」
そんな、微かな声だけ、残して。
「優、アキ君が……!」
受話器を片手に持ったまま、母親が慌てふためいて駆けこんで来た時。
優は既に、大声を上げて泣き崩れていた。
「アキの馬鹿野郎……!」
――自分が死んだことくらい、自分で気付けよ。何で俺が教えてやらなきゃならないんだよ、馬鹿野郎。
心の中で、悪態を吐く。
その悪態すら、もう届かない。
――しかも気付いたら気付いたで、勝手に消えやがって。
「俺だって、俺だって……」
優は床を叩いて、声を絞り出した。
――俺だって、最後にお前が会いに来てくれて、死ぬほど哀しいのに、嬉しかったよ、馬鹿野郎。
窓の外は、相変わらずの天気雨。
まるで涙でも流しているかのように、青空は残された者達の頭上に雫を落とし続けていた。
「優、行くわよ」
喪服を着た母親が、優を急かす。優は一つ頷いて、空を見上げた。
青さが、目にしみる。
ぽつり、と落ちてきた雫が、優の目尻を濡らした。
「本当に、狐に化かされてるなら、よかったのになぁ……」
小さく、小さく呟いて。
もう雫を落としはしない青空に、背を向けた。