グレーゾーン
日は落ちた。僕は事務所の長椅子に座り、缶に入ったソルティー・ドッグを飲んでいた。それは、僕の知っているソルティー・ドッグではなかった。ひどくまずかった。
僕はため息をつき、明日会う女のことについて考えた。ついさっき事務所に電話がかかってきたのだ。
「あたしを殺してほしいの」若い女の声だった。
「失礼ですが、お名前は」
「これから死ぬのに名前なんて必要なのかしら」
「必要です。死ぬのにもいろいろな手続きが必要なのです。後日来ていただいて、いろいろな書類も書いていただかないといけません。それとも書類の方は配送しましょうか」
「いいえ、いいわ。どうせ、明日そちらに行くつもりだったから」
「わかりました――で、お名前は」
「斎藤光代」
「サイトウミツヨ。はい、けっこうです。では、明日のいつごろ来ていただけますか」
「そうね、朝の9時かしら。できるだけ早い方がいいの。夕方には死んでいたいから」
「わかりました」
僕は不味いソルティー・ドッグを飲み干すと、長椅子に横たわった。天井の切れかかった蛍光灯に小さい虫が何匹か集まっていた。それは僕に、かつての栄光にすがる敗北者の後ろ姿を連想させた。僕は、その中から一匹だけでもいいから逃げ出して、夜の闇の中に消えていくように願った。しかし、結局、一匹も逃げなかったし、蛍光灯は困ったように明滅を続けた。そのまま僕は眠った。
*
翌日目が覚めると、9時30分で、目の前の長椅子に女が座っていた。そして僕は昨日電話で、女と話したことを思い出した。
「ああ、すみません」と、僕は言った。「でも起こしてくれればよかったのに」
「あなた、よく眠っていたから」女はほほ笑んだ。
「そうですか、すみません」
「でも、意外と普通なのね」
「何がです」
「いえ、人を殺すくらいだから、もっと体が大きくて怖そうな人かと思ってた」
「そうでもありませんよ。意外と普通に見えるやつが人を殺すんです。僕のように。あるいはどこかのミステリー小説に出てくる冴えない好々爺のように」
「でも、あなたは仕事でやってる」
「そうです。僕は死にたい人しか殺さない」
「でも、それだって昔はタブーだったはずだわ」
「今でもそうだと僕は思っています」
「合法的タブー」
「そうです。合法的タブー。世の中は合法的タブーで満ちています」
「そして、私はその合法的タブーの中で死んでいくわけね」
「そういうことです。コーヒーは?」
僕は我々の間にあるテーブルに置かれた、コーヒーメーカーに目をやってから尋ねた。
「いえ、けっこう。これから死ぬのに、飲んだって意味がないわ」
「そんなことを言っていたら、僕だっていつか死にます。いつ死ぬかは問題ではないのです。分かっているのは――」
「いつかは絶対に死ぬこと」
「そうです。いつかは絶対に死ぬ。完璧に死ぬ。我々の行動は全て、死の前には無意味なのです。僕らは無意味な行為のために人生を消費しているといってもいいくらいだ」
「哲学者みたいね」
「よくいわれます」
「ロマンチストでニヒリスト」
「それは初めてだな」
僕はコーヒーを紙コップに淹れて彼女の前に出した。コーヒーカップを探したのだが、狭い事務所のどこにもそれはなかった。うまくいかないものだ。
「では、本題に入りましょう」僕はコーヒーを一口飲んでから言った。「あなたは、なぜ死のうと思うのです」
「これは本題なのかしら。てっきり、コーヒーと一緒に書類が出てきて、それをかけば全て済むと思っていたわ」
「形式的なことはそれで済みます。ですが、僕も人間です。人を殺すのにはそれなりの動機が必要です」
「それなりの動機?」
「あなたが、いかに人生に絶望し、いかに打ちひしがれ、いかに不幸なのか。あるいは、あなたがいかに罪深き人間で殺すに値する人間なのか」
*
彼女はたっぷり30分をかけて、自分がいかにみじめな人間かについて話した。それは典型的で、且つ、完璧な不幸話だった。一切無駄が無かった。要するに、全く、幸福感を漂わせる語句が用いられなかった。あまりの陰惨さに、聞いていて鳥肌が立った。吐き気もした。もし、彼女が不幸な人生についての論文を書いたとしたら、それは学会に取り上げられ、彼女は表彰されたかもしれない。しかし、とにかくそれは30分で終わった。
「不思議だわ」
「何が」
「あたしの不幸が30分で終わった」
「そういうものです。でも、とにかくひどい話だった」
「こういう話は、聞きなれているのでしょう」
「聞き慣れていても、それでもやっぱり、応えます」
「聞かなければよかった?」
「いえ、これで少しはあなたを殺そうと思いました」
「殺してあげるじゃなくて?」
「そんなに前向きになれる仕事じゃないのです。たとえ相手が死を望んでいたとしても。一週間に少なくとも一度は、この手で死体を増やすわけですから」
「やめようと思ったことは?」
「ありますよ。でも、これは、運命なのです。例えば、僕が他の仕事――サラリーマンにしましょう。とにかく、サラリーマンになったとします。すると次の日には、僕のとこの会社が入っているビルが丸ごと、ここのような事務所になっていて、上司が僕に人を殺せと言ってくる。えり好みできる時代じゃないんですよ」
「わかったわ。要するにあなたは、この仕事をするために生まれてきたと言いたいわけね」
「そうです。そして、あなたは、僕に殺されるために生まれてきた」
「そうね。でも、もしあなたが別の――カウンセラーか何かだったら、あたしを説得したに違いないわ。専門的で効果的なやり方で。そうしたら、運命は変わったかもしれないわね」
「だが、残念なことに僕は殺し屋だ。そして、専門的で効果的なやり方は全て、あなたを殺すためにある」
「毒を盛るのかしら」
「既にもっているかもしれない」
「さっきのコーヒーに?」
「そうかもね」
女は突然、「うっ」と呻き、その場に倒れた。僕は、彼女の首筋に、手を当てて、完全に、完璧に、死んでいることを確認した。女の死はあっけなかった。紙コップが、彼女の手から離れて床に落ちた。コーヒーが飛び散って、僕の顔にかかった。
*
小さな事務所で人が一人死んでも、だれも興味を示さなかった。世界は無関心だった。毒を盛った覚えはない。僕が、そう言うと、たいていの人間は理由もなく納得した。君がコーヒーカップを探している間に、彼女は毒薬の入ったカプセルか何かを飲んだのかも知れない、と。
いつもこうだ。君と関わった人間は、ことごとく死んでいく。彼らは不思議でもなんでもなさそうにそう言い、誰として僕に問い詰めなかった。僕が殺したのか、彼らが勝手に死んでいったのかなんて誰も深く考えようとしなかった。なぜなら、「自殺志願者に対する殺人」は、20XX年にグレーゾーンに切り替えられたからだ。医療が発達し、ほとんど誰も死ななくなった。そして、この国はパンパンになってきた。そこで、困った国は、人口を減らすために、あやふやな法改正をし、あやふやな法律を作った。だから、みんなは僕のやっていることを暗黙に了解して、何も言わないし、何も言えない。
この仕事は儲かった。自殺する人間に、お金は不要だからだ。貧乏人を殺す時以外は、それなりの金が入った。最初僕は、単純にもうかる仕事だと思っていた。でも、そのうち、やりきれない思いがつのっていった。なんで、僕が殺さなくちゃならない。勝手に死んでくれ。僕の知らないところで。
止めようと思った。だが、仕事は影のように僕にまとわりついた。この社会全体がグレーゾーンだった。そして、僕は合法的タブーを犯し続けた。この世の隅っこの方で生きている人間を、ちまちまと殺す。そういう、合法的タブー。
僕はこの世界で生き続けて、偽りの中に少しずつ埋没してきた。僕は缶に入ったソルティー・ドッグだった。あるいは、毒入りのコーヒーだった。僕は、オセロのように、全てを白か黒にひっくり返したかった。でも、僕はいまだに、明滅する光の下で、下品な色の液体を啜っている。
*
僕は目を覚ました。天井の蛍光灯に虫はいなかった。時計を見ると、9時30分で、向かいの長椅子に女が座っていた。僕はそれで、昨日電話で女と話したことを思い出した。
「ああ、すみません」と、僕は言った。「でも、どうして僕を起こさなかったのです」
「なんだか起しちゃいけない気がして」
「非常に嫌な夢を見ていました。でも、あなたの判断は正解でした」
「正解? よく眠れたということかしら?」
「それもありますが、正確には違います。でも、とにかく正解でした」
そして僕は言った。
「くだらない合法的タブーに埋没する必要などないのです。あなたは死ななくたっていい」
「でも、私はあなたに殺してもらいにきたのよ」
「わかっています。でも、もし朝目覚めた瞬間に、殺人者がカウンセラーになっていたとしたら、そうもいかないのです」
「言っていることがよくわからないわ」
「要するに、僕はあなたを殺せません。あなたは、斎藤光代さんでしたよね」
「ええ」
「夢の中で、名簿に書いたサイトウミツヨという文字を、僕はボールペンで消しました。横線を引いて。でも、本当はそんなに簡単なことじゃないのです。人を殺すのに十分な条件なんか存在しない。これから、あなたがどれだけ、不幸話をつづけても、僕はあなたを殺しません。あなたは、死なない運命にあったのです。僕はこれからあなたに出す紙コップのコーヒーに、毒を盛りません」
「でも、あたしは死にたいのよ」
「そう言いますが、僕には分かります。あなたは少なくとも今日は死にません。死ぬと言いながら、死にません。あなたの視点から言うと、死ねません。それは、どうしようもないことです。決まっていることなのです。たとえ、あなたが死ぬと言っても、死にません。海に飛び込めば船が引き上げます。通り魔があなたを刺しても救急車が駆けつけます」
「うまくいかないものね」
「そう。うまくいかない。でも、僕は少なくとも、あなたを殺さずに済みました。それは歓迎すべきことです」
「わかったわ。あなたは最初からカウンセラーで、人ひとり殺せない癖に、「殺し屋」の看板をかかげて、私がやってくるのをまっていた。そうでしょう? そしてこれは、カウンセラーの専門的で効果的なやり方というわけね」
「いえ、私は確かに昨日まではあなたを殺そうと思っていました。あなたを殺す夢まで見ました」
「本当かしら」
「本当です。証拠はありませんが」
「まあいいわ、あなたが、カウンセラーだろうが、殺し屋だろうが。なにか拍子抜けして、どうでもよくなっちゃった。私の不幸話、聞いてくれる?」
「30分話すんでしょう。あれは気がめいりました」
「あら、よく知ってるわね。でも、カウンセラーなら聞いてくれるでしょう? それとも殺し屋に戻って殺してくれるのかしら」
「殺すのは無理ですが、話は聞きましょう」
僕は、彼女の話を聞き、毒の代わりに砂糖を入れたコーヒーを出した。それから、彼女は帰って行った。夜に電話があった。彼女からだった。
「行きつけのバーがあるの。こんど一緒に行きましょう」
「いいですね」
「あなたは何を飲むのかしら?」
「本物のソルティー・ドッグ」
「ソルティー・ドッグはソルティー・ドッグでしょう?」
「いや、僕はグレーゾーンのソルティー・ドッグを知っていて、それはひどく不味いのです」
「かわってるわね」
「そうですね、変わってる。でも、今の自分は好きです」
「あたしも、ちょっとすきよ」
「ぼくも、あなたが嫌いじゃありません。あなたは、僕を合法的タブーから救ってくれました」
「死ぬなんて、馬鹿げてると思う?」
「バーで考えましょう」
そして、電話は切れた。蛍光灯には虫がたかっていた。その中の一匹が諦めたように、夜の闇の中に消えていった。何事にも例外はあるのだ。僕はそう思った。
晴れやかな気持ちで事務所を出ると、夜気が心地よかった。やっぱり僕は、ロマンチストなのかもしれない。