『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』 と言われたので、婚約者に手袋をなげて決闘いたしました。
第一章 妖精令嬢は、手袋を投げる
「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ」
そうおっしゃった婚約者の頬に、わたくしは白い手袋を叩きつけた。
ぱぁん!
王宮の大広間に、乾いた音が響いた。
「……は?」
婚約者のアルベルト様が、間の抜けた声を出す。
わたくしはにっこり微笑んだ。
「では、決闘いたしましょう」
「…………は?」
「お耳が遠いのですか? 決闘ですわ。剣で斬り合う、あれです」
周囲が静まり返った。
わたくし、エミリア・フォン・ローゼンベルク。十八歳。
身長は百五十二センチ。淡い金髪はふわふわと腰まで波打ち、瞳は春の空のような水色。小柄な身体に少々不釣り合いな胸と、甘い顔立ちをしております。
社交界では『春の妖精』などと呼ばれているそうです。
恥ずかしいですわね。
ただ、ひとつだけ訂正させていただくなら。
妖精というものは、案外、気性が荒いのです。
「エミリア! 貴様、正気か!」
「はい。とても」
「女の分際で、この俺に決闘を申し込むだと!?」
「まあ」
わたくしは頬に手を当てた。
「女の子に負けるのがお怖いのですか?」
アルベルト様の顔が真っ赤になった。
「誰が怖がるものか! 受けて立ってやる!」
「ありがとうございます」
わたくしは深々とお辞儀をした。
「では、三日後。王立闘技場で」
「望むところだ!」
「武器は真剣でよろしいですね?」
「当然だ!」
「降参は認めます。ただし、降参なさるまでは、わたくしも手加減いたしません」
「好きにしろ!」
よかった。
これで正式に決闘が成立した。
わたくしは床に落ちた手袋を拾い、丁寧に埃を払った。
そのとき。
「……くっ」
背後から、妙な音がした。
振り返ると、黒髪の男性が口元を押さえていた。
背が高く、肩幅が広い。夜会服を着こなした姿には、自然と人を従わせる威厳がある。
王弟殿下、レオナード・ヴァルツェン公爵。
三十二歳。独身。
国境戦争を勝利に導いた英雄であり、社交界のご婦人方が密かに『黒獅子』と呼ぶお方だ。
「……失礼。笑うつもりはなかった」
殿下は低く、よく響く声でおっしゃった。
「ただ、実に見事な手袋の使い方だったのでね」
「ありがとうございます」
「ところで、ローゼンベルク嬢」
「はい?」
「君は剣を扱えるのか?」
わたくしは少し考えた。
父は王国最強と呼ばれた剣聖。
兄は現役の近衛騎士団長。
わたくし自身も、五歳から毎朝剣を握っている。
十四歳のときには、父の肋骨を三本折った。
十六歳のときには、兄を池に沈めた。
昨年は、国境に現れた百二十人の盗賊団を一人で捕縛した。
ただし、全部内緒である。
だって。
『剣を振り回す女の子なんて、お嫁に行けないぞ』
十歳のとき、兄にそう言われたのだ。
それ以来、わたくしは剣を隠して生きてきた。
可愛いドレスを着て、お菓子を焼いて、刺繍をして。
誰からも愛される、ふわふわの女の子になろうと努力してきたのである。
だから。
「うふふ。少しだけ」
わたくしは控えめに答えた。
殿下はしばらくわたくしを見つめていた。
そして、なぜか、とても楽しそうに微笑んだ。
「なるほど」
その笑顔は、獲物を見つけた獅子のようだった。
「三日後が楽しみだ」
◇
第二章 婚約者は、妖精の羽をむしりたがる
アルベルト様との婚約は、三年前に決まった。
彼は伯爵家の嫡男で、わたくしより三つ年上。
金髪碧眼の美青年で、剣術大会では三年連続入賞を果たしている。
もっとも、優勝したことは一度もない。
それでも立派なものだと思っていた。
わたくしは、強い男性が好きだったから。
いえ、正確には。
自分より強い男性に、一度くらい甘えてみたかったのだ。
父は強い。兄も強い。
けれど、二人ともわたくしを見ると、なぜか剣を構える。
『エミリア! その笑顔はなんだ! 何を企んでいる!』
『妹よ! 頼むから木剣を置いてくれ!』
失礼な話である。
わたくしだって、普通の女の子なのに。
お花が好き。
甘いお菓子が好き。
可愛いリボンも、ふわふわの寝具も好き。
そして、いつか素敵な殿方に抱きしめられて、『君を守るよ』と言っていただくのが夢だった。
だからアルベルト様との婚約が決まったとき、嬉しかった。
彼はわたくしを『小さくて可愛い』と言ってくれた。
重い荷物を持ってくれた。
馬車から降りるときには手を差し出してくれた。
初めていただいた花束は、今も押し花にして保管している。
……だから、気づくのが遅れたのだ。
彼がわたくしを愛しているのではなく。
自分より弱く、逆らわない女を愛しているのだということに。
◇
「エミリア。今月の小遣いを少し融通してくれ」
最初は、そんなお願いだった。
「剣を新調したいんだ。大会で優勝すれば、お前だって鼻が高いだろう?」
「まあ、そうですわね」
わたくしは喜んでお金を渡した。
けれど、新しい剣を見せていただくことはなかった。
次は宝石。
その次は馬車。
さらに別荘の改装費。
「婚約者なら支えるのが当然だろう?」
そう言われると、断れなかった。
結婚すれば家計は一緒になる。
夫を支えるのは妻の務め。
そう教わっていたから。
ただ、ひとつだけ不思議だった。
アルベルト様は、わたくしからお金を受け取るたびに、少しずつ態度が大きくなっていったのだ。
「エミリア、そのドレスは胸元が開きすぎだ」
「まあ。そうでしょうか?」
「男を誘惑するつもりか?」
「そんなつもりは……」
「お前は俺の婚約者なんだ。慎みを持て」
わたくしは仕立て直しを頼んだ。
「エミリア、男と話すな」
「でも、あの方は従兄で……」
「言い訳するな」
従兄とは、距離を置いた。
「エミリア、お前は本当に何もできないな」
「ごめんなさい」
「まあ、顔だけは可愛いから許してやる」
そう言って、彼はわたくしの頬をつまんだ。
痛かった。
けれど、笑った。
可愛い女の子は、怒ってはいけない。
そう思っていたから。
◇
決定的だったのは、王宮の秋の舞踏会だった。
わたくしは三か月かけて、淡い桃色のドレスを仕立てた。
胸元には小さな真珠。
裾には銀糸で刺繍した薔薇。
アルベルト様に褒めていただきたかった。
ところが。
「エミリア。今日はお前とは踊れない」
「……え?」
「リリアンが来ているんだ」
リリアン・モーリス男爵令嬢。
栗色の髪に、大きな緑の瞳を持つ可愛らしい方。
最近、アルベルト様が頻繁に名前を出す女性だった。
「彼女は身体が弱い。俺がついていないと不安がる」
「そうなのですか」
「お前は丈夫だろう? 一人でも平気だ」
わたくしは頷いた。
その夜、アルベルト様はリリアン様と五曲続けて踊った。
身体が弱いと聞いていたのに。
ずいぶんお元気だった。
わたくしは壁際で、冷めた果実水を飲んでいた。
途中、リリアン様が近づいてきた。
「エミリア様ぁ。ごめんなさいねぇ」
甘い声だった。
「アルベルト様ったら、わたくしを放っておけないみたいでぇ」
「……そうですの」
「でも、エミリア様はお優しいから、許してくださいますよね?」
彼女の胸元には、見覚えのある首飾りがあった。
青い宝石を三つ連ねた、銀細工の首飾り。
祖母の形見だった。
先月、アルベルト様が『宝石商に手入れを頼んでおく』と言って持っていったもの。
「……その首飾り」
「あら。素敵でしょう?」
リリアン様は嬉しそうに笑った。
「アルベルト様からいただいたんですの。わたくしに似合うからって」
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
「それは、わたくしの……」
「あらぁ?」
リリアン様は小首を傾げた。
「でも、アルベルト様は、エミリア様にはもう必要ないって」
「……」
「結婚したら、もっと素敵な宝石を買っていただけるのでしょう?」
そのとき、アルベルト様がやってきた。
「リリアン、こんなところにいたのか」
「あ、アルベルト様ぁ」
彼女は彼の腕に抱きついた。
わたくしは、祖母の首飾りを見つめた。
「アルベルト様。その首飾りは……」
「ああ、あれか」
彼は面倒くさそうに言った。
「お前には似合わないから、リリアンにやった」
「祖母の形見なのです」
「古臭い宝石だろう? どうせお前には新しいものを買ってやる」
「でも……」
「しつこいな!」
声が大きくなった。
周囲の視線が集まる。
「たかが首飾りひとつで騒ぐな! 伯爵夫人になる女が、そんなにケチでどうする!」
わたくしは唇を噛んだ。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
祖母は、いつも言っていた。
『エミリア。お前の優しさは宝物よ。でもね、優しさを踏みにじる人にまで、差し出す必要はないの』
わたくしは顔を上げた。
「……返してください」
「何?」
「首飾りを、返してください」
アルベルト様は鼻で笑った。
「嫌だね」
リリアン様が、わたくしを見て笑った。
そして。
「エミリア様ったら、怖ぁい」
彼女はわざとらしく震えてみせた。
アルベルト様は、わたくしの肩を強く押した。
「リリアンを怖がらせるな!」
よろめいたわたくしの背中が、柱にぶつかった。
痛い。
けれど、それ以上に。
胸の中の何かが、ぷつりと切れた。
「……アルベルト様」
「なんだ」
「婚約を、解消してくださいませ」
彼は一瞬、目を丸くした。
それから、大声で笑った。
「ははは! なんだ、嫉妬か!」
「いいえ」
「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ!」
彼はわたくしの顎を持ち上げた。
「お前みたいな、何もできない女を貰ってやる男が、他にいると思うのか?」
わたくしは、その手を見た。
綺麗な手だった。
剣士の手にしては、あまりに綺麗だった。
ああ。
そうだったのですね。
この方は、わたくしが思っていたような人ではなかった。
わたくしはゆっくりと微笑んだ。
そして。
手袋を外した。
◇
第三章 決闘の前に、求婚されました
「……というわけで、決闘することになりました」
翌朝。
わたくしは朝食の席で報告した。
父が紅茶を噴いた。
兄が椅子から転げ落ちた。
「エミリア!?」
「お父様。お行儀が悪いですわ」
「お前! 決闘って! アルベルトと!?」
「はい」
「真剣で!?」
「はい」
父は頭を抱えた。
「……あいつ、死ぬぞ」
「まあ」
わたくしは頬を膨らませた。
「お父様ったら。わたくし、そんなに乱暴ではありません」
兄が床から起き上がった。
「去年、俺の鎧を真っ二つにした女が何を言う!」
「あれは、お兄様が『本気で来い』とおっしゃったから」
「鎧ごと斬る必要はなかっただろう!」
「中身は無事でしたでしょう?」
「俺の寿命が十年縮んだ!」
失礼な。
わたくしはちゃんと手加減した。
鎧だけを斬るのは、意外と難しいのだ。
父は深いため息をついた。
「……まあ、婚約破棄は認めよう」
「ありがとうございます」
「むしろ、もっと早く言ってほしかった」
「え?」
父は苦々しい顔をした。
「あの男が、お前から金を借りていることは知っていた。だが、お前が自分で支えたいと言うから、口を出さなかった」
「……」
「まさか、祖母の形見まで他の女に渡すとはな」
兄が拳を握りしめた。
「俺が斬ってくる」
「お兄様」
「首を持って帰る」
「だめですわ」
わたくしは微笑んだ。
「それは、わたくしの獲物です」
父と兄が、同時に黙った。
そして、なぜか二人とも顔色を悪くした。
「……エミリア」
「はい?」
「ほどほどにな」
「もちろんですわ」
わたくしはにっこり笑った。
「殺しませんもの」
兄が小声で言った。
「……殺さないほうが怖いんだよなぁ」
◇
その日の午後。
思いがけないお客様がいらっしゃった。
レオナード公爵殿下である。
「突然の訪問を許してほしい」
殿下は大きな花束を抱えていた。
白薔薇と、淡い桃色の小花。
わたくしの好きな花ばかり。
「まあ……綺麗」
「気に入ってもらえたなら嬉しい」
殿下は微笑んだ。
その笑顔が、あまりに素敵で。
わたくしは少し、胸が苦しくなった。
「ところで、ローゼンベルク嬢」
「はい」
「三日後の決闘について、少し話がある」
やっぱり。
王族の方から、決闘をやめるように言われるのだろうか。
わたくしは肩を落とした。
「……中止にしなければなりませんか?」
「いや」
殿下は首を振った。
「むしろ、私が立会人を務めたい」
「……え?」
「君の決闘を、誰にも邪魔させたくないのでね」
わたくしは瞬きをした。
殿下は静かに続けた。
「ただし、条件がある」
「条件、ですか?」
「ああ」
殿下はわたくしの前に片膝をついた。
大きな手が、そっとわたくしの手を取る。
え。
ええ?
なぜ、跪いていらっしゃるの?
「エミリア嬢」
初めて、名前を呼ばれた。
低く甘い声が、耳に残る。
「決闘が終わったら、私と食事をしてくれないか」
「……お食事?」
「そうだ」
「お、お父様も一緒ですか?」
「できれば、二人きりがいい」
えっ。
ええっ!?
わたくしの顔が熱くなった。
「そ、それは……」
「嫌かな?」
殿下は少しだけ眉を下げた。
そんなお顔をされると。
断れるわけがない。
「……嫌では、ありません」
「よかった」
殿下はわたくしの手の甲に、そっと唇を落とした。
ひゃっ。
心臓が跳ねた。
剣を向けられても、こんなに驚いたことはない。
「では、約束だ」
殿下は立ち上がった。
「三日後。君の勝利を祝わせてほしい」
その言葉に、わたくしは目を丸くした。
「……わたくしが勝つと、思っていらっしゃるのですか?」
「もちろん」
「どうして?」
殿下は少し笑った。
「君の父上から、昔話を聞いたことがある」
「昔話?」
「ああ。五年前、王立騎士団の訓練場で、十二人の騎士が一人の少女に敗れた話だ」
わたくしは固まった。
あ。
あれ。
あれは内緒だったはず。
「その少女は、全員の剣を折ったあと、こう言ったそうだ」
殿下は楽しそうに目を細めた。
「『まあ、皆様お上手ですこと。もう一度いたしましょう?』」
「…………」
「騎士たちは、二度と彼女と稽古したがらなかったらしい」
わたくしは両手で顔を覆った。
「……お父様ぁ」
殿下が声を立てて笑った。
低く、朗らかな笑い声。
それが、どうしようもなく心地よかった。
「エミリア」
殿下は優しく言った。
「君は、無理に弱いふりをしなくていい」
わたくしは顔を上げた。
「……でも」
「うん?」
「強い女の子は、可愛くないでしょう?」
ずっと、怖かった。
剣を握る自分を知られたら。
誰も、わたくしを女の子として見てくれないのではないかと。
殿下は少し驚いた顔をした。
それから。
「……困ったな」
そう呟いた。
「何が、ですか?」
「君が可愛すぎて、どう答えればいいかわからない」
「…………はい?」
「強い君も、花を喜ぶ君も、どちらも魅力的だ」
殿下はわたくしの髪に触れた。
「私には、剣を持つ君が、誰より美しく見える」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
嬉しい。
どうしよう。
こんなことを言われたのは、初めてだった。
「……殿下」
「レオナードと呼んでくれ」
「む、無理ですわ!」
「では、いつか」
殿下は余裕たっぷりに笑った。
ずるい。
この方は、ずるい。
わたくしが剣を抜くより早く、心の奥へ踏み込んでくる。
そんなの。
反則ではありませんか。
◇
第四章 決闘当日、妖精は笑う
三日後。
王立闘技場は、超満員だった。
貴族だけではない。
商人も、騎士も、町の人々も集まっていた。
『春の妖精が婚約者に決闘を申し込んだ』
そんな噂が、王都中に広まっていたのだ。
わたくしは控室で、剣帯を締めていた。
ドレスではない。
白いブラウスに、濃紺の乗馬用ズボン。
髪は高く結い上げた。
鏡の中には、いつもの妖精令嬢とは違う女の子がいた。
少し、怖かった。
こんな姿を見られたら。
みんな、驚くだろう。
笑われるかもしれない。
そのとき。
「よく似合っている」
背後から声がした。
レオナード殿下だった。
「……殿下」
「美しいよ」
わたくしは思わず俯いた。
「……そんな」
「本当だ」
殿下は近づいてきた。
「緊張している?」
「少しだけ」
「負けるのが怖い?」
わたくしは首を振った。
「……怖いのは」
「うん」
「勝ったあと、です」
殿下は黙って聞いてくださった。
「わたくしが強いと知ったら、皆様、怖がるでしょう?」
「そうかもしれない」
「……可愛くないって、思われるかもしれません」
殿下は、少し考えた。
それから、わたくしの前にしゃがんだ。
目線を合わせてくださる。
「エミリア」
「はい」
「私は、君が剣を握る姿を見たい」
「……」
「君が本当の自分を隠さずに笑うところを、見たいんだ」
殿下の大きな手が、わたくしの頬に触れた。
「誰が怖がっても、私は怖がらない」
わたくしは、息を呑んだ。
「むしろ、惚れ直すだろうね」
「……ほ、惚れ……」
顔が熱くなる。
殿下は笑った。
「さあ、行っておいで」
その手が離れる。
少し、寂しかった。
だから。
わたくしは思わず、その袖をつかんだ。
「……殿下」
「うん?」
「勝ったら……」
「勝ったら?」
「……もう一度、褒めてくださいますか?」
殿下の目が、優しく細められた。
「何度でも」
わたくしは微笑んだ。
そして、剣を握った。
◇
闘技場に出ると、歓声が上がった。
「エミリア様だ!」
「本当に戦うのか!?」
「可哀想に!」
「アルベルト様に勝てるわけがない!」
アルベルト様は、すでに中央で待っていた。
銀の鎧。
立派な長剣。
そして、勝利を確信した笑顔。
「来たか、エミリア」
「お待たせいたしました」
「今なら謝れば許してやるぞ」
「まあ」
わたくしは首を傾げた。
「何を、ですか?」
「決闘を申し込んだことだ!」
彼は大きな声で言った。
「お前が土下座して謝るなら、婚約破棄は取り消してやる!」
観客席から、どよめきが起こった。
アルベルト様は得意げに続けた。
「ただし、条件がある!」
「……条件?」
「今後、俺の交友関係に口を出さないこと! リリアンを第二夫人として迎えることを認めること! そして、ローゼンベルク家の持参金を倍にすることだ!」
わたくしは、しばらく彼を見つめた。
……まあ。
なんて。
なんて、愚かな方なのだろう。
わたくしは本気で驚いてしまった。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「ひとつ、確認してもよろしいですか?」
「言ってみろ」
「わたくしが勝ったら、婚約は解消。これまでお貸ししたお金は、すべて返済していただく。それでよろしいですね?」
「ははは!」
彼は笑った。
「勝てると思っているのか!」
「はい」
わたくしは微笑んだ。
「もちろんです」
彼の顔が歪んだ。
「……生意気な」
レオナード殿下が、立会人席から立ち上がった。
「双方、準備はよいか」
「はい」
「いつでも!」
殿下は頷いた。
「勝敗は、降参、戦闘不能、または立会人の判断によって決する。殺害は禁止。異存はないな?」
「ありません」
「ない!」
わたくしは剣を抜いた。
細身の片手剣。
父から十五歳の誕生日にいただいたものだ。
アルベルト様は、それを見て鼻で笑った。
「そんな細い剣で、俺の鎧が斬れると思うか?」
「……うふふ」
「何がおかしい!」
「いいえ」
わたくしは剣を構えた。
「鎧を斬る必要は、ありませんもの」
殿下が右手を上げた。
「始め!」
アルベルト様が突進してきた。
「うおおおおおっ!」
大上段からの斬撃。
速い。
一般の騎士なら、十分に通用する一撃だろう。
けれど。
わたくしには、遅かった。
半歩、横へ。
剣が空を切る。
「なっ!?」
わたくしは、彼の手首を軽く打った。
かんっ。
剣が宙を舞った。
「…………え?」
アルベルト様が、自分の手を見た。
何も握っていない。
わたくしはにっこり微笑んだ。
「一回目ですわ」
「……な、何?」
「剣を落とされましたので」
わたくしは、落ちた剣を足先で彼のほうへ滑らせた。
「どうぞ。もう一度」
観客席が、ざわついた。
「今、何が起きた?」
「見えなかったぞ……」
「偶然だろう?」
アルベルト様の顔が真っ赤になった。
「貴様ぁっ!」
彼は剣を拾い、再び斬りかかってきた。
今度は横薙ぎ。
わたくしは身を沈めた。
剣が頭上を通り過ぎる。
そのまま、彼の膝裏を軽く蹴った。
「ぐあっ!」
アルベルト様が転んだ。
鎧が石畳にぶつかり、大きな音を立てる。
わたくしは首を傾げた。
「二回目ですわ」
「……ふ、ふざけるな!」
彼は立ち上がった。
額に汗が浮かんでいる。
わたくしは剣を下ろした。
「アルベルト様」
「なんだ!」
「降参なさいますか?」
「誰が!」
彼は叫んだ。
「俺が! 女なんかに! 負けるわけがない!」
わたくしは、少しだけ悲しくなった。
ああ。
この方は、最後まで。
わたくしを見ようとしないのだ。
「……そうですか」
わたくしは、剣を構え直した。
「では」
微笑む。
「三回目からは、少しだけ本気を出しますね」
次の瞬間。
わたくしは踏み込んだ。
石畳が、靴底の下で砕けた。
アルベルト様の目が見開かれる。
剣を振る。
一撃。
彼の剣が、根元から折れた。
二撃。
肩当てが吹き飛んだ。
三撃。
胸当ての留め具が切れ、鎧が地面に落ちた。
四撃。
腰の剣帯が裂けた。
五撃。
彼の足元に、剣先を突き立てた。
轟音。
石畳が砕け、白い粉塵が舞い上がった。
アルベルト様は、尻餅をついていた。
わたくしの剣先が、彼の喉元で止まっている。
静寂。
誰も、声を出さなかった。
わたくしは微笑んだ。
「……降参なさいますか?」
アルベルト様の唇が震えた。
「……ひっ」
「お返事を」
「……ま、待て」
「はい」
「ま、待ってくれ……」
彼の目から、涙がこぼれた。
「……こ、殺さないでくれ」
わたくしは首を傾げた。
「まあ」
剣を少し引いた。
「殺しませんわ」
彼が安堵した、その瞬間。
「ただし」
わたくしは、静かに言った。
「二度と、わたくしを見下さないでくださいませ」
アルベルト様は、激しく頷いた。
「わ、わかった! わかったから!」
「では、降参ですね?」
「降参する! 俺の負けだ!」
その声が、闘技場に響き渡った。
レオナード殿下が立ち上がった。
「勝者、エミリア・フォン・ローゼンベルク!」
一瞬の沈黙。
そして。
割れんばかりの歓声が、闘技場を揺らした。
◇
第五章 婚約者の破滅は、ここから始まる
決闘に勝った。
それで終わりだと思っていた。
けれど、アルベルト様は違った。
「ふざけるなぁぁぁ!」
控室へ戻ろうとしたわたくしの背中に、怒鳴り声が飛んだ。
振り返ると、アルベルト様が立ち上がっていた。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
「こんなの無効だ! 無効に決まっている!」
わたくしは瞬きをした。
「……まあ」
「女が男に勝つなんて、あり得ない! 卑怯な魔法を使ったんだろう!」
「魔法は使っておりません」
「嘘をつけ!」
彼は観客席に向かって叫んだ。
「皆も見ただろう! あんな動き、人間にできるわけがない!」
観客たちは、顔を見合わせた。
すると。
「できるぞ」
低い声が響いた。
父だった。
王国剣聖、ヴィルヘルム・ローゼンベルク。
父はゆっくりと立ち上がった。
「我が娘は、五歳から剣を握っている」
ざわめきが広がる。
「十歳で王立騎士団の訓練生を全員倒した」
「……え?」
「十三歳で正騎士十二人を相手に勝利した」
「……は?」
「十五歳で、私に初めて一本取った」
観客席が静まり返った。
父は胸を張った。
「そして昨年、私に三本勝負で二本先取した」
兄が立ち上がった。
「ついでに言うと、俺はもう三年、妹に勝っていない」
……お兄様。
それは、言わなくても。
アルベルト様の顔から、血の気が引いていった。
「……う、嘘だ」
父は冷たく言った。
「貴様が見下していた娘は、王国でも指折りの剣士だ」
「……」
「それを知らずに決闘を受けたのは、貴様自身だろう」
アルベルト様は、口をぱくぱくさせた。
そして、わたくしを指差した。
「……だ、騙したな!」
「まあ」
わたくしは首を傾げた。
「何を、ですか?」
「お前が強いなんて、聞いていない!」
「お尋ねになりませんでしたもの」
「卑怯だ!」
「……アルベルト様」
わたくしは、少しだけ眉を下げた。
「わたくし、何度もお伝えしましたわ」
「何を!」
「お父様と、お兄様と、剣のお稽古をしていると」
「そんなの、遊びだと思うだろう!」
「……そうですか」
わたくしは小さく息を吐いた。
もう、この方と話すことはない。
そう思った。
けれど。
レオナード殿下が、静かに立ち上がった。
「アルベルト・フォン・グランツ」
その声に、闘技場が再び静まり返った。
「決闘の結果は、王家の名において認められた」
「で、殿下……」
「異議があるなら、正式に申し立てるがいい。ただし、虚偽の訴えには相応の責任が伴う」
アルベルト様は黙った。
殿下は続けた。
「それから、もうひとつ」
側近が、一通の書類を差し出した。
「ローゼンベルク家から、君の家に対して正式な返済請求が出されている」
「……へ?」
「借入金、宝飾品の返還、その他の損害についてだ」
殿下は書類に目を落とした。
「総額、金貨八千四百枚」
アルベルト様の口が開いた。
「……は?」
「返済期限は、契約に従い、婚約解消から三十日以内」
「……そ、そんな金……」
「なお、返済がなされない場合は、担保となっているグランツ伯爵家の別荘と領地の一部が処分される」
アルベルト様は、膝から崩れ落ちた。
「……う、嘘だ」
わたくしは、静かに彼を見つめた。
「アルベルト様」
「……」
「わたくし、何度も申し上げましたわ」
微笑む。
「お金は、大切に使ってくださいませ、と」
彼は震え始めた。
「……エミリア」
「はい」
「……た、頼む」
彼は這うように近づいてきた。
「婚約破棄は、取り消してくれ」
わたくしは目を丸くした。
「まあ」
「俺が悪かった! 謝る! だから!」
彼はわたくしの足元に手を伸ばした。
「頼む! 俺を捨てないでくれ!」
わたくしは、一歩下がった。
その手は、空を掴んだ。
「……アルベルト様」
わたくしは、静かに言った。
「もう、遅いですわ」
◇
第六章 悪い男は、泣いても許されない
アルベルト様の破滅は、決闘から一週間後に始まった。
最初に失ったのは、名誉だった。
王都中に、決闘の噂が広まったのだ。
『妖精令嬢に五撃で鎧を剥がされた男』
『泣いて命乞いした騎士志望』
『婚約者の金で愛人を囲っていた放蕩息子』
社交界は、容赦がなかった。
アルベルト様は、剣術クラブから除名された。
騎士団への推薦も取り消された。
それまで彼を持ち上げていた友人たちは、次々と距離を置いた。
次に失ったのは、お金だった。
グランツ伯爵家は、想像以上に借金を抱えていた。
アルベルト様の浪費だけではない。
父親である伯爵も、投機に失敗していたのだ。
わたくしの持参金を当てにして、返済を先延ばしにしていたらしい。
婚約解消によって、その計画は崩れた。
別荘が売られた。
馬車が売られた。
宝石が売られた。
それでも足りず、領地の一部まで手放すことになった。
そして。
最後に失ったのは、愛人だった。
◇
「アルベルト様ぁ!」
ある日の午後。
グランツ家の屋敷で、リリアン様が泣き叫んでいた。
「どうして、わたくしの宝石を売るんですの!?」
「仕方ないだろう! 金がないんだ!」
「そんなの聞いてません!」
「お前だって、散々使っただろう!」
「だって、アルベルト様が何でも買ってくださるって!」
リリアン様は、わたくしの祖母の首飾りを握りしめていた。
「これは、絶対に渡しませんから!」
「それはエミリアのものだ! 返さないと訴えられる!」
「嫌ですぅ!」
二人は、激しく言い争った。
やがて、リリアン様が叫んだ。
「もういいです! こんな貧乏な人だなんて、思いませんでした!」
「……なっ」
「わたくし、もっと素敵な殿方を探します!」
彼女は荷物をまとめ、屋敷を飛び出した。
アルベルト様は追いかけた。
「待て! リリアン!」
「触らないで!」
彼女は彼の手を振り払った。
「わたくし、負け犬は嫌いですの!」
その言葉に、アルベルト様は立ち尽くした。
リリアン様は去っていった。
祖母の首飾りだけは、屋敷の使用人が取り戻してくれた。
わたくしの手元に戻ってきたとき。
わたくしは、少しだけ泣いた。
嬉しかった。
けれど、それ以上に。
もう、祖母の思い出を踏みにじられなくて済むことが、嬉しかった。
◇
さらに一か月後。
アルベルト様は、わたくしの屋敷を訪ねてきた。
以前の華やかな姿は、どこにもなかった。
髪は乱れ、服は汚れ、頬はこけている。
目の下には濃い隈。
靴は泥だらけだった。
「……エミリア」
彼は、門の前に立っていた。
「……頼む」
わたくしは、門越しに彼を見つめた。
「何でしょうか」
「……助けてくれ」
声が震えていた。
「父上が倒れた。屋敷も、もう売られる。俺には何もない……」
「……」
「頼む、エミリア。俺たちは、婚約者だっただろう?」
彼は泣き始めた。
「三年間も、一緒にいたんだぞ……」
わたくしは、静かに頷いた。
「そうですわね」
「だったら!」
彼は門にしがみついた。
「もう一度、やり直そう!」
わたくしは、少しだけ目を伏せた。
三年前。
初めて花束をいただいた日。
初めて手を繋いだ日。
初めて『可愛い』と言っていただいた日。
あの頃のわたくしは、確かに幸せだった。
けれど。
「……アルベルト様」
「……な、なんだ?」
「わたくし、あなたのことが好きでした」
彼の顔が明るくなった。
「だったら!」
「でも」
わたくしは、静かに続けた。
「あなたは、わたくしを好きではなかったのでしょう?」
「……っ」
「わたくしの顔が好きで、わたくしのお金が好きで、わたくしが逆らわないことが好きだった」
彼は何も言えなかった。
「でも、わたくし自身は、見てくださらなかった」
胸が、少しだけ痛んだ。
けれど。
もう、泣かなかった。
「……さようなら、アルベルト様」
わたくしは、門を閉めた。
背後から、泣き声が聞こえた。
「エミリアぁぁぁ!」
門を叩く音。
「頼む! 開けてくれ!」
わたくしは振り返らなかった。
「俺が悪かった! 何でもする! だから!」
泣き声は、いつまでも続いた。
けれど。
わたくしの足は、止まらなかった。
◇
第七章 黒獅子公爵は、妖精を甘やかしたい
「……泣いていたのか?」
屋敷の庭で、レオナード殿下が待っていた。
わたくしは驚いた。
「殿下……どうして?」
「君に会いに来た」
殿下は微笑んだ。
「花を持ってね」
その手には、白薔薇の花束。
わたくしは、思わず笑ってしまった。
「……また、お花ですか?」
「嫌だったかな?」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「とても、嬉しいです」
殿下は、わたくしの顔を覗き込んだ。
「……泣いていたね」
「……少しだけ」
「彼のことが、まだ好き?」
わたくしは、少し考えた。
そして、首を振った。
「……いいえ」
殿下は黙って待ってくださった。
「ただ……」
「うん」
「昔のわたくしが、少し可哀想で」
涙が、ぽろりと落ちた。
「……あんなに、頑張っていたのに」
可愛い女の子になろうと。
優しい婚約者になろうと。
嫌われないように。
捨てられないように。
ずっと、頑張っていた。
「……でも」
わたくしは、笑おうとした。
「もう、大丈夫です」
その瞬間。
殿下の腕が、わたくしを包んだ。
「……っ」
大きな胸に、顔が埋まる。
温かい。
広い。
安心する。
「……無理に笑わなくていい」
耳元で、低い声がした。
「私の前では、泣いてもいい」
わたくしは、殿下の服を握りしめた。
「……殿下」
「うん」
「……少しだけ」
「ああ」
「……このままで、いてもいいですか?」
殿下の腕に、少しだけ力がこもった。
「もちろん」
わたくしは、泣いた。
子どものように。
声を上げて。
殿下は、何も言わずに抱きしめてくださった。
その温かさが。
どうしようもなく、嬉しかった。
◇
それから、殿下とのお付き合いが始まった。
最初のデートは、王都の菓子店だった。
「好きなものを選んでいい」
殿下は、そうおっしゃった。
わたくしは目を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ」
「では、こちらの苺のタルトと、蜂蜜のケーキと、桃のムースと……」
殿下は、楽しそうに笑っていた。
「……まだ食べるのかい?」
「はい!」
「小さな身体のどこに入るんだろうね」
「うふふ。秘密ですわ」
わたくしは、五つ目のケーキを口に運んだ。
殿下は頬杖をついて、わたくしを見つめていた。
「……何ですか?」
「いや」
殿下は微笑んだ。
「幸せそうだなと思って」
「……はい」
わたくしは、少し照れた。
「とても、幸せです」
すると殿下は、なぜか少しだけ困った顔をした。
「……参ったな」
「何がですか?」
「君を甘やかすのが、こんなに楽しいとは思わなかった」
わたくしは、顔が熱くなった。
「……殿下」
「うん?」
「……ずるいです」
「何が?」
「そういうことを、平気でおっしゃるところが」
殿下は、声を立てて笑った。
「では、もっと言おうか」
「だ、だめです!」
「君は可愛い」
「……っ」
「笑顔が好きだ」
「……っっ」
「それから」
殿下は、わたくしの手を取った。
「君が剣を握る姿も、たまらなく好きだ」
わたくしは、とうとう両手で顔を覆った。
「……もう!」
殿下は、楽しそうに笑っていた。
……この方には、勝てない。
剣なら、勝てるかもしれないけれど。
恋では、きっと。
一生、勝てない気がした。
「……殿下」
「うん?」
「今度、剣のお稽古をいたしませんか?」
殿下は、目を輝かせた。
「ぜひ」
「……本気で、よろしいですか?」
「ああ。君の本気を見てみたい」
わたくしは、にっこり微笑んだ。
「……うふふ」
殿下は、少しだけ眉を上げた。
「……何だい?」
「いいえ」
わたくしは、殿下の手をぎゅっと握った。
「とても、楽しみですわ」
殿下は、嬉しそうに笑った。
……ああ。
なんて、幸せなのでしょう。
わたくしは、ようやく。
手加減しなくても、愛してくださる方に出会えたのです。
――おしまい。




