理想の淑女を示す人形が、悪役令嬢の私に似てきます
カシオペア様の騒動から、半年が過ぎました。
王宮の宝物庫に眠る魔道具とは、できるだけ関わらずに生きていこう。そう心に決めた私でしたが、どうやら人生は、淑女の決意ほど慎ましくは進んでくれないようです。
王立学院には、高位貴族の令嬢だけが受ける特別礼法講座があります。
将来、王宮や外交の場に立つ者として、古式礼法を学ぶためのものです。公爵家、侯爵家、あるいは王宮に深く関わる家の令嬢たちが、年に一度だけ集められます。
講座自体は、毎年行われていました。例年であれば、学院付きの礼法教師か、王宮で女官を務めた経験のある穏やかな老婦人が講師を務めます。
ところが今年は、少し事情が違いました。
私、ネレイス・ローヴェルがいたからです。
王太子殿下の婚約者だからではありません。いえ、関係あるでしょうけれど、少なくとも表向きは、公爵家の娘として参加することになっています。
学院側は、今年の講座には特に格の高い講師を招くべきだと考えたようでした。
そうして呼ばれたのが、ガラティア・クラウゼン侯爵夫人です。かつて「白百合の妃候補」と呼ばれた方でした。
先代王太子殿下の妃候補の一人であり、礼法、舞踏、外交、神学、魔法史、すべてにおいて非の打ちどころがなかったと伝えられています。
けれど、先代王太子殿下に選ばれることはありませんでした。
その後、クラウゼン侯爵家へ嫁がれた夫人は、社交界から少し距離を置きながらも、古式礼法の第一人者として名を残しておられます。
学院が彼女を講師に招いたこと自体は、自然な判断でした。かつて王太子妃候補として名を馳せた侯爵夫人から、古式礼法を学ぶ。普通に考えれば、たいへんありがたい機会です。普通に終われば、ですが。
「皆様、本日の講座では、王宮における古式礼法を学んでいただきます」
ガラティア侯爵夫人は、白い百合を思わせる方でした。
年齢を重ねてなお美しく、背筋はまっすぐで、歩幅は乱れず、声は澄んでいます。微笑みは柔らかいのに、なぜか少しも温度を感じません。まるで、雪で作った花のようでした。
「淑女とは、磨かれるものです」
侯爵夫人は、静かに言いました。
「磨き、整え、余分なものを取り除いて、初めて完成します。王宮に立つ淑女であれば、なおさらです。感情の乱れ、言葉の揺らぎ、姿勢の緩み。そのすべてが、家の格を損なうのです」
何人かの令嬢が、自然と背筋を伸ばしました。
もちろん私も伸ばしました。姿勢は大切ですから。
けれど、ほんの少しだけ引っかかりました。人は、そんなに削ってよいものなのでしょうか。
「本日は、皆様に特別な教材をお見せいたします」
そう言って侯爵夫人が手を上げると、従者たちが控え室から一体の人形を連れてきました。
白い陶器の肌。銀糸のような髪。淡い硝子の瞳。繊細な指先。微笑んでいるのに、笑っていない顔。
大きさは、私たちとほとんど変わりません。
あまりに精巧で、あまりに美しい。けれど、やはり人ではありませんでした。
「これは、王家より賜った古い教育用魔道具です」
ガラティア侯爵夫人は、隣に立った人形の肩へそっと手を置きました。
「白百合の乙女人形。理想の淑女の所作を示すものです。礼、歩法、舞踏、会話の間、微笑みの角度。そのすべてを、最も美しい形で教えてくれます」
令嬢たちが感嘆の息を漏らしました。
白い人形は、ゆっくりと目を開けました。そして、完璧な礼をしました。
指先の角度。膝の沈め方。首の傾き。まつげの伏せ方。たしかに、非の打ちどころがありません。
そのあまりの所作の美しさに、講義室の空気が変わりました。
「ご覧なさい」
ガラティア侯爵夫人は、私たちを見渡します。
「無駄がないでしょう。迷いがないでしょう。感情の揺らぎがないでしょう。淑女とは、本来このようにあるべきです」
私は白い人形を見ました。美しいです。完璧です。ただ、見ていると少し息苦しくなります。
「ローヴェル公爵令嬢」
突然呼ばれて、私は顔を上げました。
「はい」
「あなたは、王太子殿下の婚約者でいらっしゃいますね」
「そのように承っております」
令嬢たちの視線が私に集まります。慣れているとはいえ、あまり好ましいものではありません。
「あなたは優秀です。立ち姿も悪くない。言葉遣いも整っている。王太子妃候補として求められる品格も、確かに備わっている」
「お褒めいただき、光栄です」
「ええ。褒めています」
侯爵夫人は微笑みました。
「けれど、余分なものが多い」
講義室が、わずかに静まりました。
「率直すぎる言葉。感情を隠しきれない目。相手の過ちを正そうとする気性。疲れた時に、疲れた顔をしてしまう未熟さ。そういったものは、王太子妃となる者には不要です」
「人間ですので」
つい答えてしまいました。
講義室がさらに静まりました。
ガラティア侯爵夫人が微笑みを崩すことなく、言葉を続けました。
「そう口答えするところも王太子妃には不要なものです。王太子妃とは、ただの人間であってはなりません」
侯爵夫人は、白い人形を振り返ります。
「国のために磨かれ、削られ、飾られた、完全な象徴であるべきです」
なるほど。私は少しだけ困りました。私は王太子妃になるべく教育を受けてはいます。けれど、今まで置物になる教育を受けているつもりはありませんでした。
その日の講義は、白百合の乙女人形を手本に進みました。
礼の角度。歩く速度。扇を開く指の位置。言葉を発する前の間。
すべて、人形が示します。
人形は一度も間違えません。疲れません。困りません。誰かが失敗しても、ただ微笑んでいます。
その微笑みが、だんだん怖く見えてきたのは、私だけではなかったようです。
講義が終わったあと、令嬢たちは小声で感想を交わしていました。
「見事な礼でしたわね」
「ええ。まるで古い絵画から抜け出してきたようでした」
「けれど……」
そこで、声が少しだけ小さくなります。
「やはり、ネレイス様には及びませんわね」
私は振り返りません。聞こえないふりです。淑女には、時に聞こえないふりも必要です。
「お手本としては申し分ありませんけれど、見ていると少し息が詰まりますわ」
「分かりますわ。美しいのに、どうにも……」
そこで別の令嬢が、さらに声を潜めました。
「少し、気色が悪いというか」
「まあ。そのような言い方は」
「ごめんなさい。でも、非の打ちどころがなさすぎて、かえって落ち着かないのです」
その評価が白い人形に対して失礼なのか、私に対する褒め言葉なのか、判断しかねました。
ただ、白百合の乙女人形は、一瞬、こちらを見たように思えました。
硝子の瞳に、光がひとつ灯ります。まるで、今の言葉を覚えたように。
おそらく気のせいでしょう。魔道具に視線を感じるなど、ろくなことではありません。
少なくとも私は、そう学びました。半年前に。
二日目。
白百合の乙女人形は、昨日と同じように講義室の前に立っていました。けれど、何かが違います。
最初に気づいたのは、髪でした。銀糸のように白かった髪に、ほんの少しだけ青みが混じっていたのです。光の加減かと思いました。
けれど、私の隣にいた侯爵令嬢が小さく息を呑みます。
「……ネレイス様の髪色に、少し似ていませんこと?」
そう呟いたのは、アステリア侯爵家のメティア様でした。
「光の加減でしょう」
私は静かに答えました。
「そういうことにしておくのが、淑女として穏当ですわ」
「……そうですわね」
メティア様は静かに口を閉じました。けれど、その視線はしばらく白百合の乙女人形に向けられたままでした。
講義が始まると、人形は前日と同じように礼をしました。
完璧です。ただ、その礼の間が、ほんの少しだけ私のものに近くなっていました。
私は自分の癖を知っています。
礼をする直前、息を一つ置く。相手の目を見る。首を下げる前に、ほんのわずかに間を作る。
家庭教師には何度も直されました。けれど、そのほうが相手の表情を見落とさずに済むのです。
白百合の乙女人形は、その間を真似ました。
正確に。美しく。私よりも、ずっと無駄なく。
三日目。
人形の瞳は、灰青色に近づいていました。私の瞳に似た色です。ただし、私のものより澄んでいました。
迷いも、苛立ちも、寝不足も映さない、たいへん優秀な瞳です。
「面白いですわね」
ガラティア侯爵夫人は、人形の頬に手を添えました。
「白百合の乙女人形は、理想の淑女を示す魔道具です。周囲にある優れた要素を学び取り、より完成された形を示すのでしょう」
その時、人形の唇が、ほんのわずかに動いたように見えました。
「……お母様」
聞き間違いかと思うほど小さな声でした。
ガラティア侯爵夫人は、何事もなかったように人形の頬を撫でました。
侯爵夫人は、私を見ました。
「ローヴェル公爵令嬢。あなたは、磨けばさらに美しく整う方です」
「今は整っていない、ということでしょうか」
「いいえ。すでに十分整っておいでです。家格。姿勢。声。視線の置き方。王太子殿下の婚約者として育てられた品格。それらは確かに、王太子妃にふさわしいものです」
「お褒めいただき、光栄です」
「ええ。褒めています」
侯爵夫人の指先が、人形の頬をゆっくりとなぞりました。
「ただし、王太子妃となる方には、不要なものを残しておく余地はありません」
「不要なもの、ですか」
「迷い。疲れ。怒り。率直すぎる言葉。人前で見せるわずかな動揺」
侯爵夫人は微笑みました。
「そういったものは、少しずつ削らなくてはなりません」
「私は彫刻ではありませんわ」
「もちろんです」
侯爵夫人の微笑みは、少しも揺れませんでした。
「ですが、人もまた、削られなければ完成しません」
講義室の空気が、わずかに冷えました。誰も何も言いません。人形だけが、私に似た瞳で微笑んでいました。
なるほど。不快です。
四日目には、白百合の乙女人形の声が変わりました。
もともとは、澄んだ鈴のような声でした。それが、ほんの少しだけ私に近くなっていたのです。
講義の途中、侯爵夫人が言いました。
「白百合の乙女人形。ローヴェル公爵令嬢へ礼を示しなさい」
人形は私の前へ歩み出ました。
私と同じ髪色に近づいた髪。私と同じ瞳に近づいた硝子の目。私と同じ間。私と同じ礼。けれど、私よりも美しい。私よりも静か。私よりも乱れない。
人形は顔を上げ、私の声によく似た声で言いました。
「ごきげんよう、皆様」
講義室に、細い悲鳴が上がりました。
私は、目の前にいる白百合の乙女人形を見ました。似ています。似ていました。けれど、そこに私がいるとは思えませんでした。
人形はただ、私に似た形をしているだけです。姿勢も、声も、微笑みも。ただし、そこには考える間はありません。迷う沈黙もありません。相手の言葉を受け止めてから返す、わずかな揺らぎもありません。
私によく似た、私ではない何か。不快です。
二度目になりますが、大切なことなので、心の中で繰り返しました。
「ご覧なさい」
ガラティア侯爵夫人の声が響きます。
「余分なものを削れば、ここまで整うのです。迷いも、疲れも、感情の揺れも不要です。王太子妃とは、国の前に立つ象徴。象徴に私情は要りません」
私は、侯爵夫人を見ました。彼女の声は整っていました。
けれど、人形の肩に置かれた指先だけが、白くなるほど力を込めていました。
「ローヴェル公爵令嬢」
「はい」
「あなたは、よい王太子妃候補です」
「恐れ入ります」
「だからこそ、完成させる価値がある」
その言葉に、令嬢たちが息を呑みました。私は、少しだけ目を伏せました。
完成。便利な言葉です。それを使うと、人から何かを奪うことまで、教育のように聞こえてしまいます。
五日目。
講義室に入った瞬間、誰もが黙りました。
白百合の乙女人形が、さらに私に似ていたからです。髪の色も、瞳の色も、微笑む前の間も、礼の角度も。
けれど、完全に同じではありません。私よりも背筋がまっすぐで、私よりも指先が美しく、私よりも微笑みが乱れない。私がたまにしてしまう、少し困った時の瞬きもありません。相手の言葉に迷う沈黙もありません。言い返すべきか飲み込むべきか考える顔もありません。
そこにあるのは、私によく似た、私よりずっと扱いやすい何かでした。
「……怖い」
小さく呟いたのは、メティア様でした。その声はすぐに消えました。
けれど、同じように思っていた私には、聞こえなかったことにはできませんでした。
ガラティア侯爵夫人は、何事もなかったように講義を始めました。
「皆様、ご覧なさい。理想とは、こうして余分なものを削っていくことで近づくのです」
白百合の乙女人形が、私と同じ顔で微笑みます。
ただし、そこに迷いはありませんでした。迷いのない微笑みというものは、時に刃物より怖いのだと、その時初めて知りました。
六日目の講義には、エリオット殿下が見学にいらっしゃいました。
学院側が招いたそうです。特別礼法講座の成果を王太子殿下にもご覧いただきたい、ということでした。
私は嫌な予感がしました。最近、嫌な予感というものは、だいたい当たります。
「殿下。ようこそお越しくださいました」
ガラティア侯爵夫人は、完璧な礼をしました。
殿下も穏やかに挨拶を返されます。
そして、白い人形を見ました。
人形は、私によく似た顔で殿下へ礼をします。完璧な礼でした。講義室の空気が、ぴんと張り詰めます。
「これが、例の教育用魔道具か」
「はい。かつて王家より賜った、理想の淑女を示す白百合の乙女人形でございます」
ガラティア侯爵夫人は、静かに言いました。
「ご覧くださいませ、殿下。白百合の乙女人形は、ローヴェル公爵令嬢の優れた部分を写し取りました。家格にふさわしい気品。王太子妃候補としての立ち姿。人の視線を受けても乱れない微笑み」
侯爵夫人の指先が、人形の肩をなぞります。
「そして、不完全な部分を削ぎ落としたのです」
殿下はしばらく人形を見ていました。
それから、私を見ました。
「似ているな」
殿下は言いました。
私は何も答えませんでした。
「だからこそ、違いがよく分かる」
ガラティア侯爵夫人の微笑みが、わずかに止まりました。
「違い、でございますか」
「ああ」
殿下は人形を見ました。
「これはネレイスに似ている。だが、ネレイスではない」
「もちろんです。こちらは理想を示す教材でございますから」
侯爵夫人は、ほっとしたように息を整えました。
「ローヴェル公爵令嬢ご本人には、まだ迷いも、疲れも、余分な感情も残っておいでです。けれど、それらを取り除けば、このように静かで、乱れのない淑女になれる。殿下は、その差をご覧になったのですね」
「違う」
殿下の声が低くなりました。
「これは迷わない。怒らない。考えて言葉を選ぶこともない。私が間違えた時に、止めもしない」
人形は微笑んだままでした。
「ネレイスによく似た顔で、何も選ばない。それが気味悪い」
講義室の令嬢たちが、静かに息を呑みました。ガラティア侯爵夫人の指先が、人形の肩に沈みます。白い陶器が、かすかに音を立てました。
「殿下は、お若いのです」
侯爵夫人は言いました。声は、整っていました。けれど、整いすぎていました。
「王太子妃に必要なのは、愛らしさでも、気安さでもございません。民は、王妃に人間らしさなど求めません。揺らがぬ完全さを求めるのです」
「民は、石像に税を訴えるのか」
殿下の声が冷えました。
「飢えた子に微笑むだけの王妃が、国母と呼ばれるのか」
侯爵夫人の扇が、かすかに鳴りました。
「私は、それこそが王太子妃の在り方だと信じてまいりました」
その声は、先ほどまでより静かでした。静かすぎて、講義室の空気まで整えられていくようでした。
「感情を見せず、失敗を許さず、誰よりも正しく、誰よりも美しく、誰よりも完全であること。それが、国の象徴として立つ者の務めであると」
ガラティア侯爵夫人は、背筋を伸ばしました。爪先の向きも、指先の重ね方も、微笑みの角度も、少しも崩れていません。
「ですから私は、正しく努めました。笑いすぎず、泣かず、怒らず、迷わず、願わず、求めず。王太子妃となる者に不要なものを、一つずつ慎重に削りました」
白百合の乙女人形の瞳が、淡く光りました。けれど、侯爵夫人は人形を見ませんでした。
「それは、間違いではありません」
彼女は、はっきりと言いました。
「私は、間違ってなどおりません」
誰も、すぐには言葉を返せませんでした。
ガラティア侯爵夫人の微笑みは、むしろ美しさを増していました。
「私が選ばれなかったのは、私が不完全だったからではありません」
その声には、震えがありませんでした。
「王家が、まだ完全な妃の価値を理解していなかっただけです」
講義室のどこかで、誰かが小さく息を呑みました。
「ですから、今度こそお見せしたかったのです。殿下に。学院に。王家に」
侯爵夫人の指先が、人形の肩へ置かれました。
「ローヴェル公爵令嬢を完成させれば、誰もが理解するでしょう。かつて私が目指したものが、決して間違いではなかったと」
人形の唇が、ほとんど動かないまま微笑みました。
「完成、いたしましょう」
人形の声でした。けれど、その声は、どこか侯爵夫人の声に似ていました。
侯爵夫人は、満足げにうなずきました。
「ええ。完成させましょう」
私は、白百合の乙女人形を見ました。私によく似た髪。私によく似た目。私によく似た声。けれど、そこには迷いがありませんでした。困った時に瞬く癖も、言葉を選ぶための沈黙も、殿下に何か申し上げるべきか迷う間もありません。
美しく、整っている。そして、たいへん扱いやすそうでした。……国が滅びそうなほどに。
「それは完成ではない」
殿下の声が、静かに落ちました。低く、けれど講義室の隅までよく届く声でした。
ガラティア侯爵夫人の微笑みが、ほんのわずかに止まりました。
「殿下」
「これはネレイスから、私が信頼しているものを削ぎ落とした姿だ」
その瞬間、人形の瞳の光が、細く揺れました。
侯爵夫人は、まだ微笑んでいました。微笑んでいましたが、その指先だけが、人形の肩に強く食い込んでいました。
「信頼、でございますか」
「ああ」
殿下は、人形ではなく私を見ました。
できれば今は見ないでいただきたいです。たいへん居心地が悪うございます。
「私の隣に必要なのは、私の言葉にただ微笑む人形ではない。私が間違えた時に、間違っていると言える人間だ」
講義室の空気が、少し動きました。
「迷うことも、怒ることも、疲れることも、言葉を選ぶことも、失敗を恐れることも、不要なものではない」
殿下は、まっすぐに侯爵夫人を見ました。
「それらを削ぎ落としたものを、私は妃とは呼ばない」
「……ですが」
侯爵夫人の声は、まだ整っていました。
「国の象徴とは、揺らがぬものであるべきです」
「揺らがないだけなら、石像でいい」
殿下は言いました。
「人を見ることができない妃に、国を見ることはできない」
侯爵夫人の唇が、静かに閉じられました。その沈黙は、怒りにも悲しみにも見えませんでした。ただ、何かが正しい形に収まらず、手の中でずれたような沈黙でした。
「父上は、あなたを高く評価していたと聞いている」
殿下が言いました。
侯爵夫人の睫毛が、わずかに揺れました。
「礼法も知識も、誰より優れていたと。だが、あなたは民を見る時でさえ、まず形を見たそうだ。泣いている者には理由を尋ねる前に、姿勢を正せと言った。失敗した者には事情を聞く前に、恥を知れと言った」
殿下は一度、言葉を切りました。
「父上は、あなたを妃にすれば、国は美しく整うだろうと言った。そして、美しく整いすぎて、息ができなくなるだろうとも」
ガラティア侯爵夫人の顔から、血の気が引きました。
「違う」
彼女は呟きました。
「違います。私は、正しかった。私は、完璧でした。私は、間違ってなど……」
白百合の乙女人形が、かすかに笑いました。
音はありません。けれど、確かに笑ったのです。
人形の姿が、揺らぎました。
私に似ていたはずの髪色が、白百合のような淡い金に戻っていきます。灰青色に近づいていた瞳は、冷たい水色へ変わりました。微笑みの形も、礼の角度も、私のものではなくなっていきます。
若い頃のガラティア侯爵夫人。
少なくとも、肖像画で見た「白百合の妃候補」の姿に、とてもよく似ていました。
「……私?」
白百合の乙女人形は、ゆっくりとガラティア侯爵夫人に手を伸ばしました。
『理想の淑女とは』
声がしました。人形が喋ったのか、私たちの頭の中に響いたのかは分かりません。
『感情を乱さず、己を語らず、常に美しく、常に正しく、誰からも非難されない者』
それは、ガラティア侯爵夫人の声に似ていました。
『では、お母様』
講義室の空気が凍りました。
『今度は、あなたが完璧になる番です』
「違う」
ガラティア侯爵夫人が後ずさります。
「私は、あなたを作ったのです。私は、あなたを理想に育てたのです。あなたは、私の――」
『理想です』
人形は微笑みました。
『ならば、理想から逃げてはなりません』
人形の白い指が、侯爵夫人の頬に触れました。
その瞬間、侯爵夫人の表情が消えました。怒りも、恐怖も、悲しみも。すべてが白い布で覆われるように、静かに消えていきました。
そして彼女は、完璧に微笑みました。背筋を伸ばし、指先を揃え、首を美しく傾けて。
「淑女とは、常に完全でなければなりません」
彼女は言いました。穏やかに。美しく。ぞっとするほど空っぽに。
「感情を乱してはなりません。己を語ってはなりません。常に美しく、常に正しく、誰からも非難されない者でなくてはなりません」
令嬢たちが悲鳴を上げました。
殿下がすぐに近衛を呼びます。学院の魔導師たちが駆け込んできます。白百合の乙女人形には封印布がかけられました。
それでも、ガラティア侯爵夫人は微笑んだままでした。
抵抗はしません。泣きもしません。怒りもしません。ただ、完璧な礼をして、同じ言葉を繰り返しました。
「淑女とは、常に完全でなければなりません」
その姿は、彼女が語っていた理想そのものでした。だからこそ、ひどく恐ろしかったのです。
授業は取りやめとなり、白百合の乙女人形は学院から回収されました。
もともとは本当に、礼法教育用の無害な魔道具だったそうです。王家がかつて、妃候補として務めを果たしたガラティア侯爵夫人へ、功を称えて下賜したもの。ただ、長い年月をかけて、一人の女の言葉と執着を浴び続けた結果、いつしか別の性質を帯びてしまったのだとか。
魔道具というものは、どうしてこうも人の心を丁寧に拾ってしまうのでしょう。できれば、拾わずに捨てていただきたいものです。
ガラティア侯爵夫人は、療養のため侯爵家の領地へ戻されました。表向きは、長年の疲労による静養です。
けれど、彼女は今も時折、完璧な微笑みを浮かべて、同じ言葉を繰り返すそうです。
「淑女とは、常に完全でなければなりません」
誰が呼びかけても、乱れず。誰が涙を流しても、揺らがず。誰が過ちを悔いても、ただ正しい礼の角度を示すのだとか。
完璧な淑女とは、なんと不便なものなのでしょう。
事件の後、私は王宮へ呼ばれました。
応接間には、王妃陛下とエリオット殿下がいらっしゃいました。
王妃陛下はいつも通り穏やかな微笑みを浮かべておられましたが、その目元だけは少し冷えていました。
「学院がクラウゼン侯爵夫人を特別講師に招いたと聞いた時点で、少し嫌な予感はしていました」
王妃陛下は、静かにそうおっしゃいました。
「恐れながら、その嫌な予感には、もう少し働いていただきたかったですわ」
私がつい本音をこぼすと、王妃陛下は小さく息を吐かれました。
「学院の講座に、王宮が口を出しすぎるわけにもまいりませんでした。ですが、今回は私の判断も甘かったのでしょう」
「母上が悪いわけではありません」
エリオット殿下が言うと、王妃陛下は殿下へ視線を向けました。
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど、エリオット。王家から下賜された魔道具が騒ぎを起こした以上、無関係とは言えません」
私は、半年前の女神の鏡を思い出しました。
王家の魔道具というものは、どうしてこうも人の人生に口を出したがるのでしょう。
「ネレイス嬢」
「はい」
「あなたには、迷惑をかけました」
「いえ。慣れておりますので」
王妃陛下と殿下が、同時に黙りました。
……少し、率直がすぎました。
殿下が咳払いをなさいます。
「ネレイス。今回も王家の管理不行き届きだった」
「殿下。“今回も”とおっしゃいましたわね」
「……言ったな」
「自覚がおありで何よりです」
王妃陛下が、扇の陰でほんの少しだけ笑われました。
「あなたは本当に、人形では口にできないことをおっしゃいますね」
「恐れ入ります」
「褒めていますのよ」
王妃陛下の声は、先ほどより柔らかくなっていました。
「王太子妃に必要なのは、ただ美しく微笑むことではありません。間違いを見て、間違いだと言えること。迷った時に迷ったと認め、それでも考え続けること。そして、隣に立つ者を人として支えることです」
王妃陛下は、エリオット殿下を見ました。
「人形は、王の隣に置く飾りにはなれても、国の痛みを共に背負うことはできません」
エリオット殿下は、静かに頷きました。
「私も、そう思います」
私は少しだけ居心地が悪くなりました。
「ですが殿下は先ほど、私に人間らしい隙があるから王太子妃にふさわしいとおっしゃいましたわね」
「ああ」
「では、今後は少々の失敗をしても、王太子妃らしさの一部として受け取っていただけるのですね」
「都合よく解釈したな」
「人間らしさですわ」
殿下は小さく笑いました。
「君のそういうところは、確かに人形には真似できない」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めている」
「では、失敗の多い令嬢として、今後も精進いたしますわ」
「ネレイス」
「はい」
「私が選んだのは、失敗の多い令嬢ではない。間違えたあとに、どうするかを考えられる令嬢だ」
私は少しだけ言葉に詰まりました。
「……そういうことは、先におっしゃってくださいませ」
「先に言ったら、君はからかわなかったか?」
「いいえ。別の角度から申し上げました」
王妃陛下が、今度こそ小さく笑われました。
「エリオット。あなたの隣に立つには、人形ではとても務まりそうにありませんね」
「ええ、母上」
殿下は私を見て、穏やかに微笑まれました。
「ですから、ネレイス。これからも私の隣にいてくれますか」
私は返事に困りました。
こういう時、完璧な淑女なら美しく微笑むのでしょう。けれど私は、残念ながら人形ではありません。
「……殿下が道を間違えそうになった時、止める係としてなら」
私がそう答えると、殿下は楽しそうに笑いました。
「では、頼りにしている」
そうまっすぐ言われてしまうと、今度こそ返事に困りました。
その後、学院の特別礼法講座は、しばらく休止となりました。白百合の乙女人形は王宮の宝物庫へ戻され、厳重に封印されたそうです。
またです。また、王宮の宝物庫です。
私はもう、あの場所にある魔道具とは極力関わりたくありません。
しかし、王太子殿下の婚約者である以上、そうも言っていられないのでしょう。
まったく、困ったものです。
完璧な淑女など、人形に任せておけばよいのです。私は人間ですから、疲れもしますし、迷いもしますし、時には言葉を選び損ねます。
それでも、間違えたあとにどう振る舞うかだけは、自分で選びたいと思います。
磨かれることと、削られることは違います。飾られることと、生きることも違います。
私は今日も、できるだけ見苦しくないように背筋を伸ばしました。
完璧ではありません。
けれど、それでよいのだと思います。




