第36話『味覚の期限』
指先に残るはずの、あの温度はもうなかった。
綾華の手を握っているはずなのに、翔には“触れている”という実感がない。ただ、視覚情報として「手を繋いでいる」という事実を理解しているだけだった。
それでも翔は、手を離さなかった。
離した瞬間、この現実を完全に認めてしまう気がしたからだ。
「……本当に、何も感じないの?」
綾華の声は、努めて平静を装っていた。けれど、その奥に潜む震えは隠しきれていない。
「うん。冷たいとか、温かいとか……そういうの、全部ない」
翔はそう答えながら、無意識に自分の指を見つめた。
触覚を失った世界は、思っていた以上に静かだった。 痛みも、心地よさも、違和感すらない。ただ“無音”が広がっている。
綾華は、ぎゅっと翔の手を強く握り返した。
「……それでも、ここにいるんだね」
その言葉に、翔は小さく息を吐いた。
「逃げたら、もっと後悔するって分かったから」
海で見つかったあの日。 何も言わず、ただ名前を呼ばれた瞬間に、翔の中で何かが折れた。
もう一人では、背負えない。
その時だった。
ポケットの中で、あの装置が微かに震えた。
嫌な予感が、背筋をなぞる。
翔が取り出す前に、装置の画面が勝手に点灯した。
ノイズ混じりの映像の向こう側に、あの存在が映る。
『――期限だ』
無機質で、感情のない声。
綾華は、すぐに理解した。
「……次、なの?」
翔は、ゆっくりと頷いた。
「次は……味覚」
その言葉が落ちた瞬間、空気が重く沈んだ。
食べる楽しみ。 味わう喜び。 二人で笑い合った、何気ない食事の記憶。
それらが、すべて奪われる。
『選択の時間は残されていない』
宇宙人は淡々と告げる。
『代償を差し出せ。さもなくば――』
「分かってる……」
翔は、装置を強く握りしめた。
もう、逃げない。
綾華が一歩前に出る。
「ねぇ、翔」
その声は、驚くほど静かだった。
「一人で決めないで」
翔は、初めてはっきりと顔を上げた。
「……一緒に向き合うって、決めたんだろ?」
触覚を失った手の代わりに、翔の胸が強く締めつけられる。
ここから先は、選択ではなく覚悟だ。
『――回答を』
宇宙人の声が、重く響いたところで、通信は一方的に切断された。
静寂が戻る。
残されたのは、刻一刻と迫る“味覚の期限”だけだった。
翔と綾華は、互いの目を見つめ合う。
もう、逃げ場はない。
――二人で選ぶ、その時が来ていた




