第35話 失われる前の味
家に戻ってからの数日間は、奇妙なほど静かだった。
原稿は描けている。 編集部とのやり取りも、普段通りだ。 売れている漫画家としての“日常”は、何一つ崩れていない。
それなのに――
翔は、食事の時間が怖くなっていた。
朝、綾華が作った味噌汁。 湯気の向こうで、彼女がこちらを気にしているのが分かる。
「……どう?」
「うん、美味いよ」
嘘ではなかった。 まだ、味は分かる。
だが同時に、 “いつまで分かるんだろう”という考えが、頭から離れなかった。
昼、仕事の合間に口にしたコンビニのおにぎり。 塩気が強い。 米の甘さが、はっきりしている。
それが逆に、胸を締め付けた。
(これも、最後になるかもしれない)
夜。 二人で食べる、何でもない夕食。
綾華は、あえて料理の話をしなかった。
「次の締切、いつだっけ?」 「担当さん、最近厳しくない?」
日常の話題。 触れないことで、触れている。
翔は分かっていた。 彼女が、味覚の話を避けていることも。 避けているふりをして、毎日怯えていることも。
食後、食器を片付けながら、綾華がぽつりと言った。
「……もしさ」
翔の肩が、わずかに強張る。
「もし、何か失うって分かってたら」 「それでも、それを選ぶ?」
答えは、用意してあった。
「選ばない」
即答だった。
「俺はもう……失う選択はしない」
綾華は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
その夜。
翔は一人、ベランダに出た。 夜風は感じられない。 それでも、空気が冷たいことは“理解”できた。
遠くで、救急車のサイレンが鳴る。
――その音が、突然、ノイズに変わった。
視界の端が、白く滲む。 耳鳴り。
そして、あの声。
『期限が来る』
頭の奥に、直接響く。
『次は“味”だ』
翔は、手すりを強く握った。
『まだ、別の選択肢を探すか?』
問いかけるような声。
翔は、目を閉じる。
「……過去には戻らない」
絞り出すように言った。
一瞬の沈黙。
そして、低い笑い声が響いた。
『ならば、準備しておけ』
ノイズが消える。
翔は、その場に立ち尽くしたまま、 自分の舌に意識を向けた。
まだ、分かる。
塩の味も、 甘さも、 苦さも。
――だからこそ、怖かった。
失われる前の“味”が、 これほどまでに、愛おしいものだとは思わなかったからだ。




