第34話 逃げ場のない現在
「……やっぱり、ここだと思った」
綾華の声は、風にかき消されそうなほど静かだった。 それでも翔には、はっきりと届いた。
ゆっくりと振り返る。 夕暮れの海を背に、彼女は立っていた。
「来るなって……書いたろ」
精一杯、突き放すように言ったつもりだった。 だが声は震え、説得力など欠片もなかった。
「書いてあったから来たの」
綾華は一歩、前に出る。
「逃げる理由が、全部書いてあった」
翔は、目を伏せた。
「俺は……もう、まともじゃない」 「これ以上一緒にいたら、君まで壊れる」
「壊れてるのは、今ここに一人で立ってる翔でしょ」
即答だった。
「決めつけないで。私の気持ちを」
綾華はさらに近づく。 手を伸ばし、翔の胸元に触れた。
――触れた“はず”だった。
翔の表情が、歪む。
「……やめろ」
「触れないのは、知ってる」
綾華は、涙をこらえながら言った。
「それでも、私は触る」 「分からなくてもいい。感じなくてもいい」
翔は、拳を握りしめた。
「分からないんだぞ……?」 「君が今、どんな顔してるか」
「それでも、私がここにいるって事実は消えない」
沈黙が落ちる。 波の音だけが、二人の間を埋めた。
やがて、翔は観念したように息を吐いた。
「……期限が来る」
綾華が、ぴくりと反応する。
「次は、味覚だ」
言葉にした瞬間、胸の奥が締め付けられた。
「それを失ったら、もう……」
「やめて」
綾華は、はっきりと言った。
「一人で決めないで」
翔は、ゆっくり首を振る。
「これは、俺が選んだことだ」
「じゃあ、私も選ぶ」
綾華の声に、迷いはなかった。
「一緒に苦しむ」 「一緒に、考える」
翔は、言葉を失った。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
ここは、過去の幸せが詰まった場所で、 同時に――現在と向き合うしかない場所だった。
翔は、ゆっくりと頷く。
「……分かった」
そう言った瞬間。
空気が、再び歪んだ。
耳鳴り。 視界を走る、白いノイズ。
そして、あの声。
『期限は近い』
二人の間に、割り込むように響く。
『次の選択を、用意しておけ』
ノイズが消えた後。 海だけが、何事もなかったかのように波を打っていた。
翔と綾華は、無言で立ち尽くす。
もう逃げられない。
それだけが、はっきりしていた




