第32話 触れられない証明
契約が成立した、その瞬間だった。
世界が壊れるような演出はなかった。
光も、痛みも、悲鳴もない。
ただ――
何かが、すっと抜け落ちた。
「……翔?」
綾華が、すぐそばで名前を呼んだ。
翔は返事をしようとして、言葉より先に違和感に気づく。
近い。
彼女が、いつもより近くにいる。
でも、その“近さ”が分からない。
「……あれ?」
翔は、自分の手を見た。
そして、確かめるように、綾華の腕にそっと触れた。
――触れたはずだった。
なのに。
「……?」
何も、ない。
柔らかさも、温度も、
人の肌に触れた時に必ずあるはずの感覚が、どこにもない。
「翔……?」
綾華の声が、不安に揺れる。
翔は、もう一度、今度は少し強く手を伸ばした。
腕を掴む。
視界では、確かに掴んでいる。
それでも。
「……分からない」
思わず、そう呟いていた。
「分からないって……何が?」
翔は、ゆっくりと首を振った。
「触ってるはずなのに……
何も感じない」
その言葉を聞いた瞬間、
綾華の顔から血の気が引いた。
「……え?」
彼女は、慌てて翔の手を両手で包み込む。
ぎゅっと、強く。
「今は?
これでも?」
翔は、息を呑んだ。
見えている。
綾華が、自分の手を必死に握っているのが。
でも――
それだけだった。
「……ごめん」
翔は、絞り出すように言った。
「分からない。
本当に、何も……」
綾華の手が、震え始める。
「ちょっと待って……
さっきまで、普通だったよね?」
「うん」
「じゃあ、今……今、失ったってこと……?」
翔は、答えなかった。
答えなくても、二人とも分かっていた。
これが、
代償だ。
綾華は、唇を噛みしめたまま、俯いた。
その肩が、小さく揺れている。
「……私が、嗅覚を出すって言ったのに」
ぽつりと、そう呟いた。
「私じゃ、ダメだったんだね……」
翔は、慌てて首を振る。
「違う。
それでいいんだ」
「何がいいの……!」
綾華の声が、初めて荒れた。
「私の目の前で、
翔が壊れていくのが……
それが“正解”なの……?」
返す言葉が、見つからなかった。
翔は、ただ自分の手を見つめる。
もう二度と、
この手で誰かの温もりを感じることはない。
その現実が、
静かに、しかし確実に胸に沈んでいく。
「……次は」
翔が、ぽつりと言う。
綾華が、はっと顔を上げた。
「次なんて、言わないで」
でも、翔は止められなかった。
「次は、味覚だ」
言った瞬間、
綾華の目に、はっきりとした恐怖が浮かぶ。
それを見て、翔は理解した。
――このままじゃ、
彼女まで壊してしまう。
その夜。
翔は、初めて“いなくなる”ことを考え始めた。
綾華を守るために。
これ以上、失わせないために。
触れられない手を、
強く、握りしめながら。




