第29話「二人で選ぶ夜」
残りはあと2日の夜だった。
窓の外は静かで、街灯の光だけがカーテンの隙間から差し込んでいる。
綾華はソファに座り、膝の上で手を組んでいた。
翔は、その向かいに立ったまま動けずにいた。
「……座らないの?」
綾華が言う。
声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐ静けさがあった。
翔は、ゆっくり腰を下ろす。
「翔」
綾華は一度、深く息を吸った。
「私、聞くって言ったよね」
沈黙。
「最近のあなた、笑ってるけど……ずっと怯えてる」
胸に、刺さる。
「体も、様子がおかしい。匂いに反応しないし、触られるのも……」
言葉を探す。
「……怖がってるみたい」
翔は、視線を落とした。
(もう無理だ)
(ここまで来て、黙ってるのは――)
「綾華」
声が、かすれた。
「信じられない話をする」
「うん」
即答だった。
「信じるかどうかは、私が決める」
翔は、目を閉じた。
そして――語り始めた。
あの釣りの日のこと。
拾った装置。
未来の自分。
過去を変えたこと。
修学旅行の事故。
世界が“帳尻”を合わせようとしていること。
嗅覚を失ったこと。
次に触覚が奪われるかもしれないこと。
そして――
「……代わりに」
喉が詰まる。
「お前の五感を差し出せって、言われた」
綾華の指が、ぴくりと動いた。
「……誰に?」
「宇宙人、みたいな存在だ」
沈黙が、部屋を満たす。
普通なら、笑われる話だ。
正気を疑われてもおかしくない。
でも。
「……翔」
綾華は、ゆっくり立ち上がった。
「一つ、聞くね」
近づく。
「それ、嘘?」
翔は、首を横に振った。
「じゃあ」
綾華は、翔の両手を取った。
「触ってみて」
「……」
「いいから」
翔は、恐る恐る、綾華の手を握った。
温かい。
柔らかい。
でも――
(……薄い)
輪郭が、曖昧だ。
「……分かる?」
綾華は、静かに言った。
「あなた、もう少しで“触れなくなる”」
翔は、何も言えなかった。
「……ねえ」
綾華の声が、震える。
「なんで一人で決めようとするの」
「……守りたいからだ」
「それ、私が選んでいいことじゃない?」
翔は、顔を上げた。
綾華は、泣いていなかった。
ただ、必死だった。
「私ね」
微笑む。
「もう一度、あなたと生きられたこと自体が奇跡だと思ってる」
翔の胸が、締め付けられる。
「だから」
一歩、近づく。
「一緒に選ぼう」
「……何を」
「失うもの」
世界が、静止したように感じた。
その瞬間。
――ノイズ。
視界が、ざらつく。
『いい心がけだ』
宇宙人の声が、割り込む。
『ようやく“共有”する気になったか』
綾華は、驚かなかった。
ただ、翔を見る。
「……これ?」
翔は、頷いた。
『選択肢は三つ』
声が、淡々と告げる。
『一つ。彼が、触覚を差し出す』
『二つ。彼女の五感を、一つ』
『三つ』
一拍。
『再び、過去に戻る』
『事故を起こせ』
空気が、凍る。
「……それは」
翔が、即座に言う。
「絶対に選ばない」
綾華も、迷わず頷いた。
「誰かの死を前提に生きる未来なんて、いらない」
ノイズが、低く唸る。
『ならば、残るは――』
綾華は、翔の手を強く握った。
「ねえ、翔」
「……」
「あなたの五感は、あなたのもの」
「……」
「私のは、私のもの」
一瞬、視線が交わる。
「でも」
綾華は、笑った。
「未来は、二人のもの」
翔の目から、涙が落ちた。
『決断の時だ』
宇宙人が告げる。
『次に失うものを、選べ』
翔は、震える息を吐いた。
そして――
「……一週間くれ」
宇宙人が、わずかに黙る。
『……いいだろう』
『だが覚えておけ』
『選ばなければ、世界が選ぶ』
通信は、切れた。
静寂。
綾華は、そっと翔の額に額を当てた。
「……逃げないでくれて、ありがとう」
「……怖い」
正直な声。
「私も」
でも、と。
「一人じゃない」
その夜、二人は眠れなかった。
失う未来を前にして、
それでも手を離さず、朝を待った。




