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パラノイズ〜人生の選択〜  作者: ムーンキャット


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第28話「触れられない距離」

リビングのソファで、綾華はスマホを眺めていた。

画面は消えたまま。

ただ、そこに置いてあるだけ。

翔は、少し離れたダイニングテーブルで原稿を描いている。

――描いている“つもり”だった。

ペンを走らせるたび、

線と線の間に、微妙な狂いが生まれる。

「……っ」

翔は歯を食いしばり、

消しゴムを取ろうとして、落とした。

床に転がる消しゴム。

拾おうとして、

一瞬、動きが止まる。

(……感覚、遅れてる)

その様子を、

綾華は黙って見ていた。

「ねえ」

翔の肩が、わずかに跳ねる。

「最近さ……なんか変」

「え?」

翔は、できるだけ自然に振り返った。

「変、って?」

綾華は立ち上がり、

ゆっくり近づいてくる。

「距離」

「距離?」

「物理的じゃなくて」

綾華は、翔の前に立った。

「私が触れようとすると、避けるでしょ」

翔の喉が鳴る。

「そんなこと――」

言いかけて、止まった。

綾華が、そっと手を伸ばす。

翔の腕に触れた、その瞬間。

――分からない。

触れられている“事実”は分かる。

でも、温度も、圧も、

どこか現実感がない。

翔は、反射的に腕を引いた。

「……ごめん」

綾華の表情が、固まった。

「やっぱり」

「やっぱり、って……」

「翔、私ね」

綾華は少しだけ、声を落とした。

「浮気してるとか、そういうの思いたくなかった」

胸が、ぎゅっと締め付けられる。

「でも、最近の翔――」

言葉を探すように、少し間を置く。

「“生きてる感じ”が薄い」

翔は、何も言えなかった。

否定も、説明も、

どれも嘘になる。

沈黙が、二人の間に落ちる。

「病院……」

綾華が、ぽつりと言った。

「行った?」

「……」

「ねえ、翔」

綾華は、今度は逃がさないように、

しっかり翔の手を握った。

そのはずなのに。

翔には、

“握られている感触”が、ほとんどなかった。

「お願い」

真っ直ぐな目。

「私に、何も言えないなら」

「せめて――一人で壊れないで」

胸の奥が、軋む。

(言えない……)

(言ったら、綾華を巻き込む)

その夜。

翔は、クローゼットの前に立っていた。

装置は、

まるで呼吸するように、微かなノイズを放っている。

『猶予は、残り5日』

頭の中に、あの声。

『次を差し出すか』 『それとも――彼女に真実を告げるか』

翔は、拳を握った。

触覚が、

完全に消えかけていることを、

もう誤魔化せなかった。

その次の日の夜

ベッドサイドの小さな灯りだけが、部屋を照らしていた。

綾華は先に布団に入っている。

横向きで、天井を見つめたまま。

翔は、まだ起きていた。

背中を向けて、座っている。

沈黙が、長い。

「……ねえ」

綾華の声。

「今日の原稿、どうだった?」

「……まあまあ」

嘘だ。

線の感覚が、日に日に遠ざかっている。

「そっか」

一拍。

「ねえ、翔」

また、呼ばれる。

「何?」

「最近さ」

布団が、少しだけ軋む。

「“何か言おうとしてる顔”するよね」

心臓が、強く打った。

「そんなこと……」

「ある」

即答だった。

綾華は、ゆっくり身体を起こし、

翔の方を向く。

「私、翔の顔、結構見てきたよ?」

小さく笑う。

「漫画描いてる時も、落ち込んでる時も」

その笑顔が、痛い。

「今の翔はね」

一瞬、言葉を探して。

「決断する前の顔」

翔は、息を吸った。

(今だ)

(今、言わなきゃ)

口を開く。

「……綾華」

喉が、震える。

「俺――」

脳裏に、装置が浮かぶ。

ノイズ。

寿命。

五感。

帳尻。

そして――アイツが最後に言った

『代わりに彼女を差し出せ』

(冗談じゃない)

沈黙……

「…俺、実は……」

綾華が、真剣な目で見つめてくる。

逃げ場が、ない。

(言ったら)

(全部壊れる)

(でも――)

翔は、ぎゅっと目を閉じた。

「……ごめん」

それだけだった。

言葉を、引っ込めてしまった。

「……そう」

綾華は、少しだけ視線を落とした。

「謝られるの、ちょっと辛いな」

「……」

「翔」

綾華は、静かに言った。

「私ね、怖いの」

胸が、締め付けられる。

「何が起きてるか分からないことも」

「翔が、遠くに行く気がすることも」

少し間。

「でも一番怖いのは」

顔を上げる。

「翔が、私を“守るために黙る”こと」

――図星だった。

「それ、優しさじゃないよ」

綾華は、そっと翔の手に触れる。

その手を、離さず。

「独りで背負うって決めるのは」

「私を、信用してないってことだよ」

翔の視界が、滲む。

「……違う」

やっと出た声。

「信用してる」

「だったら」

綾華は、真っ直ぐ見た。

「いつかじゃなくて」

「“言える時”に、言って」

翔は、何度も頷いた。

言えなかった事実が、

胸に重くのしかかる。

その夜。

綾華が眠った後。

翔は、天井を見つめていた。

(次は……)

(次は、もう隠せない)

頭の奥で、

ノイズが、静かに笑った。

『時間切れは、近い』

残り4日



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