第27話 失う恐怖
朝のコンビニのバックヤードは、いつもなら混ざり合った匂いで満ちている。 コーヒー豆の焦げた甘さ、揚げ物の油、洗剤のツンとした刺激。
――その日は、何もなかった。
「……あれ?」
翔は無意識に鼻から大きく息を吸った。肺に空気は入る。だが、そこに“情報”がない。まるで世界の一部だけがミュートにされたみたいだった。
レジ横のホットスナックケースを開ける。いつもなら一発で分かるはずの、からあげの匂いがしない。
「揚げたて、ですよね?」
客にそう言われて、翔は一瞬だけ言葉に詰まった。
「あ、はい。揚げたてです」
嘘ではない。だが、確信もない。
油の劣化、焦げ、温度――それらを鼻で判断していた自分に、今さら気付かされる。
昼休憩。 電子レンジで温めた弁当を前にして、翔は箸を止めた。
「……味、分かるよな」
一口食べる。 味はある。ちゃんと塩味も甘さも分かる。
なのに、どこか薄っぺらい。
脳が知っている“いつもの味”と、今感じている味が噛み合わない。
「匂いって……こんなに、味を支えてたのかよ」
思わず苦笑が漏れた。
仕事終わり、帰り道。 冬の北海道の空気は、頬を刺す冷たさの中に、独特の匂いがあったはずだ。 雪、排気ガス、遠くの海。
だが、今日の空気はただ冷たいだけだった。
スマホが震える。 綾華からのメッセージ。
『今日寒いね。帰り、肉まん買ってきて』
肉まん。 あの湯気と一緒に立ち上る匂いを、もう感じられない。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……まだ、序の口だよな」
宇宙人の言葉が、嫌というほど鮮明に蘇る。
――次を失うまで、一週間。
コンビニで肉まんを二つ買い、袋を手にぶら下げる。 湯気は見える。温かさも分かる。 それでも、匂いはない。
アパートのドアを開けると、綾華が顔を出した。
「おかえり。ありがと……あれ?」
「どうした?」
「ううん、なんでもない。今日、肉まんいい匂いするね」
その一言が、胸に刺さった。
「……そうだな」
翔は笑って、そう返すしかなかった。
失ったのは嗅覚。 たった一つ。
それでも世界は、確実に欠け始めていた。
そして一週間後、次に何を差し出すのか――
次は触覚……
次の日の仕事中。
机の上には、描きかけの原稿。
ペンを握る指先が、
今日はやけに頼りなかった。
線を引く。
……引いている“はず”なのに、
紙をなぞる感覚が薄い。
(……ズレてる?)
翔はペンを置き、原稿を見つめた。
線は、確かに歪んでいる。
「……なんでだ」
肩に力が入りすぎているのかと思い、
深呼吸して、もう一度。
ペン先が紙に触れる。
――触れている。
でも、その“確信”がない。
まるで、
手袋をしたまま描いているような感覚。
(嗅覚の次……)
嫌な予感が、背中を這い上がる。
ペンを落とした。
机に当たる音ははっきり聞こえるのに、
指に伝わる衝撃が、遅れてやってきた。
(……来てる)
その夜、シャワーを浴びながら、
翔は何度も手を握ったり開いたりした。
水は流れている。
でも、水圧が“分からない”。
熱いはずのお湯も、
感覚がワンテンポ遅れる。
(触覚……)
心臓が、嫌な音を立てる。
リビングに戻ると、スマホが震えた。
綾華からのメッセージ。
『最近、原稿進んでる?』 『なんか、無理してない?』
画面を撫でる指先の感触も、
どこか遠い。
(このままじゃ……)
翔は、クローゼットを開けた。
奥にある、あの装置。
静かだったはずの画面が、
微かにノイズを帯びて明滅する。
「……まだ、決めてない」
その瞬間。
『理解しているはずだ』
頭の中に、直接声が響いた。
『身体は、すでに次を受け入れ始めている』
「……ふざけるな」
『一つ差し出せば、時間は延びる』 『だが、迷えば奪われる』
拳を握る。
その感触すら、完全ではない。
――触れること。
描くこと。
世界と繋がる、唯一の方法。
それを失う恐怖が、
静かに、確実に迫っていた。




