第26話 契約
夜だった。
時計の針が、意味を失ったように感じるほど、
部屋は静まり返っていた。
翔は、床に座っていた。
背中を壁に預け、あの装置を前にして。
「……来てるんだろ」
返事はない。
それでも、分かる。
空気が、少しだけ“ズレている”。
――ザ……ッ
視界の端が歪み、
世界に薄くノイズが走った。
『決断は、固まったか』
声は、直接頭に響く。
「条件を確認する」
翔は、ゆっくりと言った。
「嗅覚を差し出せば、
俺の寿命は、どれくらい延びる」
『約三年』
即答だった。
「……三年」
思ったより、短い。
「それで、病は?」
『進行は止まる。
だが、完治ではない』
翔は、目を閉じた。
三年。
たった三年。
綾華と、普通に生きるには、
あまりにも短すぎる。
「……それだけじゃ足りない」
沈黙。
ノイズが、わずかに強くなる。
『追加の対価を提示すれば、
延長は可能だ』
翔は、目を閉じた。
それでも――
今、この瞬間に死ぬよりは、いい。
「……やる」
一瞬、ノイズが強くなる。
『確認する』
『代償は、嗅覚』
『以後、お前は“匂い”を失う』
『了承するか』
翔は、迷わなかった。
「了承する」
次の瞬間だった。
――ブツッ
鼻の奥が、急に“空白”になる。
息を吸っているのに、
何も入ってこない。
埃の匂いも、
部屋に残る生活臭も、
自分の体臭すら――ない。
「……あ」
翔は、無意識に鼻に手を当てた。
「……マジか」
違和感ではない。
欠落だ。
最初から“無かった”かのような、不自然な無。
『成功だ』
宇宙人の声が響く。
『病の進行は、今この瞬間から停止している』
「……じゃあ、次は?」
少しだけ、間があった。
『焦るな』
『次の選択まで、猶予を与えよう』
「……猶予?」
『一週間』
翔は、顔を上げた。
「一週間……?」
『考える時間だ』
『お前が次に差し出すものを』
『あるいは――
別の選択をするかを』
「……」
『だが、忘れるな』
ノイズが、低く唸る。
『帳尻は、まだ合っていない』
『一週間後、
再び、私は現れる』
「……その時、拒否したら?」
『その場合』
一拍。
『病は、再び動き出す』
脅しでも、嘘でもない。
ただの事実の提示。
『選べ』
『延ばすか』
『守るか』
『失うか』
通信が、途切れた。
部屋に、静寂が戻る。
翔は、ゆっくりと息を吸った。
……何も、匂わない。
「……綾華」
その名前だけが、
確かに“現実”だった。
一週間。
それは、
猶予であり、
執行猶予でもあった。




