第22話「逃げ道」
『……まだ、逃げるつもりか?』
頭の内側に直接叩き込まれた声に、翔は思わず膝をついた。
鼓動がやけに大きく聞こえる。
静かな部屋のはずなのに、空気だけがざわついていた。
「……逃げるって、なんだよ」
喉が張りついたように乾く。
声は思った以上にかすれていた。
「もう使わないって決めた。
それだけだ」
クローゼットの奥。
埃をかぶった装置は、薄い光を帯びながら宙に浮かんでいる。
触れていない。
それなのに、そこに“在る”という主張だけはやけに強かった。
『使用をやめたとしても』
声は淡々としていた。
怒りも、嘲笑もない。
ただ、事実を並べるだけの調子。
『結果は変わらない』
「……は?」
翔は顔を上げた。
視界の端で、白いノイズがちらつく。
「どういう意味だよ。
俺はもう、過去にも未来にも――」
『お前はすでに選択した』
その言葉は、重かった。
胸の奥に、冷たいものが沈む。
まるで、今さら引き返せない一本道に立たされているような感覚。
「……そんなはずない」
否定する声が、やけに必死になる。
「使わなければ、寿命は縮まらない。
お前も、そういう仕組みだって――」
『旧型だ』
一瞬、ノイズが強まる。
視界が歪み、床が揺れたように感じた。
『そして、お前はすでに
“因果”に触れた』
翔は唇を噛んだ。
「……だから何だよ」
震えを抑えながら、言葉を絞り出す。
「だったらどうしろって言うんだ。
もう十分だろ。
幸せも、不幸も……」
『それを決めるのは、世界だ』
冷たい宣告だった。
『世界は、帳尻を合わせる』
『個人の都合とは無関係にな』
その言葉を聞いた瞬間、
病院の白い天井が脳裏をよぎった。
医師の声。
淡々とした説明。
「進行が異常に早い」という一言。
背中に、嫌な汗が滲む。
「……まさか」
問いかけようとした瞬間、
ノイズがさらに荒くなった。
『何もしない。
それもまた、選択だ』
その言葉に、翔の胸がちくりと痛んだ。
――選択。
バス事故の瞬間。
叫ぶ声。
横から突っ込んできたトラック。
そして、変えてしまった過去。
『逃げ道を選び続けた結果が、今だ』
「……逃げてなんか」
そう言いかけて、言葉が詰まる。
逃げていた。
間違いなく。
余命宣告から目を逸らし、
綾華に何も言えず、
装置に触れないことで“何かをした気”になっていた。
『だが、まだ道はある』
その一言で、翔は顔を上げた。
「……道?」
『世界は帳尻を合わせる。
ならば、差し出せばいい』
装置のスクリーンに、細かなノイズが走る。
その向こうで、何かが“笑った”気がした。
『命の代わりになるものをな』
翔の背筋に、冷たいものが走った。
「……代わり?」
『そうだ。
お前自身の一部だ』
問い返そうとした瞬間、
リビングの方から足音がした。
「……翔?」
綾華の声だった。
一瞬、装置の光が弱まる。
だが、通信は切れない。
『考えろ。
逃げ道は、まだ閉じていない』
ノイズが強くなり、
視界の端が白く揺れる。
翔は唇を噛みしめたまま、何も言えなかった。
――逃げ道。
それは、本当に“救い”なのか。
その答えは、まだ見えなかった。




