第19話 見ないふりの代償
「……大丈夫」
翔は、洗面所の鏡に向かってそう呟いた。
口をゆすぎ、何度も水で洗い流す。
赤はもう見えない。
(咳き込んだ拍子だろ)
そう思い込むように、深く息を吸った。
リビングから、綾華の声が聞こえる。
「翔ー? もうすぐ出るよー」
「今行く」
声は、普段通りに出た。
少なくとも、自分ではそう思った。
朝の空気は穏やかで、
二人並んで歩く道も、いつもと変わらない。
――なのに。
(……だるい)
足が、少し重い。
「昨日、遅くまで描いてた?」
綾華が横目で見る。
「まぁ、ちょっとな」
嘘ではない。
ただ、理由が違うだけだ。
「最近、顔色よくないよ?」
「そう?」
翔は笑ってみせる。
「売れてる漫画家は忙しいんだよ」
冗談めかして言うと、
綾華は納得したように笑った。
……が、完全には信じていない顔だった。
その日も、仕事は順調だった。
原稿は進む。
編集からの評価も高い。
なのに、
ふとした瞬間に、視界が揺れる。
ペンを置くと、胸の奥がざわつく。
(気のせいだ)
(幸せ過ぎるから、身体が追いついてないだけだ)
そう言い聞かせる。
夜。
「ねえ翔」
夕食の後、綾華が切り出した。
「最近、咳してるでしょ」
「……してないよ」
即答しすぎた、と自分でも思った。
綾華は黙って、翔を見つめる。
責めるようじゃない。
心配する目だ。
「一回、病院行こう?」
その言葉に、胸が強く脈打った。
「……いや」
思った以上に、拒絶の声だった。
「大げさだって。これくらい」
「でも――」
「行かない」
言い切ると、空気が止まる。
翔は、視線を逸らした。
(知りたくない)
理由は、自分でも分からない。
ただ――
病院に行けば、
何かを確定させられる気がした。
それが、どうしても怖かった。
「……分かった」
綾華は、それ以上言わなかった。
けれど、その沈黙が、
何よりも重かった。
その夜。
布団に入っても、なかなか眠れない。
胸の奥に、鈍い違和感。
(俺は……幸せだ)
(やっと、手に入れたんだ)
(これ以上、何を失うって言うんだよ)
天井を見つめながら、
翔は強く目を閉じた。
――知らないふりをすることで、
守れるものがあると信じて。
だが、
見ないふりをした代償は、
必ず、遅れてやって来る。
それはもう、
すぐそこまで来ていた。




