第16話 事故が、起きなかった朝
渋谷翔は、バスのステップに片足をかけたまま、固まっていた。
――未来の自分。
そんな馬鹿げた存在の言葉を、
なぜか「無視できなかった」。
『10秒でいい。出発を遅らせろ』
あの必死な声が、頭から離れなかった。
「おい翔、早く乗れよ」
友達に背中を押され、我に返る。
「わ、悪い」
全員が乗り込み、ドアが閉まる。
エンジン音が低く唸り、バスはゆっくりと動き出した。
(……何も起きなければ、それでいい)
翔は窓際の席に座り、外の景色をぼんやりと眺めた。
交差点が近づく。
信号は――青。
(……ここだ)
なぜか、分かった。
その瞬間。
キィィィィッ――!!
甲高いブレーキ音。
運転手が急ブレーキを踏み、
バスの中が大きく揺れた。
「うわっ!?」
「な、何!?」
翔は、反射的に窓の外を見た。
そこには――
信号を無視して、猛スピードで突っ込んでくる大型トラック。
もし、ほんの数秒でも早く交差点に入っていたら。
(……当たってた)
トラックは、目の前を横切り、
そのまま反対車線の車に衝突した。
ドォン!!
鈍く、重い音。
悲鳴。
周囲が一瞬で騒然となる。
「ちょ、ちょっと今の……」
「危なかったな……」
「今の、ヤバくね?」
運転手が青ざめた顔で、ハンドルを握りしめている。
「……危ないところでした」
「皆さん、シートベルトは外さないでください」
翔は、声も出なかった。
手が、震えていた。
(……回避、した)
頭の中で、点と点が一気につながる。
・未来の自分
・10秒
・信号無視のトラック
・そして、今の光景
(……あれが、事故)
もし、未来の自分の言葉を信じなければ。
もし、靴ひもなんて嘘をつかなければ。
ここにいる全員が――
もう、この先の人生を失っていた。
翔は、ぎゅっと拳を握った。
(……俺、未来を変えた)
怖さよりも、
震えよりも、
胸の奥から、言いようのない感情が込み上げてきた。
「……すげぇ」
思わず、呟く。
隣の友達が不思議そうな顔をした。
「何が?」
「いや……何でもない」
翔は、窓の外を見つめたまま、心の中で呟く。
(ありがとう……未来の俺)
そして同時に、
背筋が、ぞっと冷えた。
(……じゃあ、あの人は)
(どれだけのものを削って、ここまで来たんだ?)
バスは再び走り出す。
何事もなかったかのように。
まるで、最初から事故など存在しなかった世界のように。
――だが、翔だけは知っていた。
世界は、確かに一度、壊れかけたのだと。




