第五話 鈴木さんの部屋で
主な登場人物紹介
田中彩乃
二十四歳。主人公。庶務部。優しくてお人好し。過去のトラウマから恋愛には奥手。
鈴木颯太
二十四歳。彩乃の同期で営業部所属。仕事の出来るイケメン。彩乃の隣の部屋に住んでいる。彼女の浮気が原因で別れているところを彩乃に目撃される。
佐藤優真
二十四歳。綾乃の高校からの親友。なんでも話せて、頼りにしている存在。穏やかで誰に対しても優しい。職場は別。
山本莉子
二十ニ歳。イケメン好きな彩乃の後輩社員。庶務部。小柄で美人。
その日は、特別な予定のない土曜日だった。
せっかくだし一日ゆっくりする日にしようと決めた。
ちょっと遅くまで寝て、午前中は家でのんびり過ごして、お昼にはパスタを作ってのんびり食べた。
ブロッコリーとベーコンの和風醤油パスタ。醤油とベーコンの香ばしさに、思わず頬が緩んだ。
二時ごろに、ふと思い立って、休みの日に読もうと思っていた小説を持って、気になっていたカフェに向かった。
窓際の席に座って、本を開き、ゆったりとした時間を楽しむ。
注文したサイフォンコーヒーは、運ばれてきた瞬間から香りが良かった。
ひと口含むと、苦味が尖っていなくて、すっと喉に落ちていく。雑味がなくて、思わず小さく息をついてしまうほどおいしかった。
一緒に頼んだチーズケーキは、フォークを入れるとしっとりとしていて、口に運ぶと驚くほどまろやかだった。
濃厚なのに重くなくて、コーヒーとよく合う。程良い甘さで後味がさっぱりしていて、とても美味しかった。
静かな店内で、ページをめくる音と、カップを置く小さな音だけが流れていく。
こういう時間、好きだなぁと思う。
特別なことは何もないけれど、心がゆっくり満たされていく休日だった。
途中コーヒーを一杯おかわりして、本の世界にすっかり没頭してしまい、読み終わった時にはもう夕方になっていた。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、今週分の食材を買い足そうと駅前のスーパーへ向かった。
人で少し混み合った店内を回って、野菜とお肉と、あとは適当に調味料なんかをかごに入れて、帰路についた。
マンションに着いて、エレベーターを降り、廊下を歩いていると、ふわりと鼻をくすぐる匂いがした。
……あ、カレーの匂い。
足を止めて、思わず隣の部屋を見る。
「鈴木さん……今日カレーなんだ」
扉の向こうから漂ってくる、あの独特のスパイスの香り。お腹が、きゅっと鳴った気がした。
いいな、カレー。
なんでだろう、匂いを嗅いだだけなのに、急に無性に食べたくなってくる。
私も、今夜はカレーにしようかな……なんて考えながら、自分の部屋に入った。
買ってきたものをキッチンに置き、上着を脱いだ、その時。
ーーピンポーン。
ドアのチャイムが鳴った。
誰だろう。オートロックのはずだし、宅急便でもなさそうだ。同じマンションの住人……管理人さんだろうか?
本来なら先にエントランスで鳴るはずのインターホンを飛ばして、いきなり自分の部屋のチャイムが鳴ったのは初めてで、少し不安になりながら扉を開けた。
するとそこには、鈴木さんの姿があった。
「こんばんは」
「あ、……鈴木さん、こんばんは。どうかしましたか?」
そう尋ねると、鈴木さんはほんの少し気まずそうに笑って言った。
「今日、カレーを作り過ぎてしまって。もし良かったら、召し上がりませんか?」
一瞬、驚いて目を見開いた。
「え……、いいんですか?」
「はい。一人で食べるにはちょっと量が多すぎて」
私は思わず笑ってしまった。
「実は、さっき廊下で匂いを嗅いで、食べたいなって思ってたところなんです」
「あはは。分かります。カレーって、匂い嗅ぐと急に食べたくなりますよね」
同じことを考えていたのが、少し嬉しい。
「でも、いただくだけじゃ悪いですし……。じゃあ、付け合わせに簡単なサラダでも作って、持っていきますね」
そう言った瞬間、鈴木さんが少し驚いた顔をした。
「え?」
「ん?……どうされましたか?私、何か変なこと言っちゃいました?」
そう聞くと、慌てて鈴木さんが言葉を続けた。
「あ……、いえ。料理を渡すだけのつもりだったので……ちょっと驚いてしまって」
「あ……っ!普通そうですよね、すみません。勘違いしちゃいました」
何故か一緒に食べることを想像してしまっていたことに恥ずかしくなって、咄嗟に謝った。
「いえ、全然!」
鈴木さんはそう言ってから、一度言葉を切った。
視線を少し落として、何か考えるように黙り込む。
そして、意を決したように顔を上げて、私をまっすぐ見た。
「あの……良かったら一緒に食事しませんか?……あ、でも、田中さんに彼氏とかいたら、流石に嫌だよね、彼氏も、田中さんも」
そう聞かれて、伺うような仕草でこちらの反応を待たれて、胸が、どくん、と鳴った。
「あ、……いえ、彼氏は居ないので、問題無いです。え、……でも、……その、いいんですか?」
自分でも驚くほど、間抜けな返事になってしまった。
鈴木さんは、ふっと優しく笑って。
「そっか、良かった。もちろん、そっちの方が嬉しいです」
その一言だけで、心臓が跳ねた。
「じゃ、じゃあ、すぐ付け合わせ作ってきますね」
そう言って扉を閉めた瞬間。
「……え?」
顔が一気に熱くなる。
鈴木さんの部屋で、ご飯。一緒に、食べる。
……本当に?
前にも一度成り行きでラーメンを食べに行ったけど、あれは本当に成り行きだったし、しかも、今度は鈴木さんの部屋だ。
一度頬をつねってみる。……痛い。
やっぱり、夢では無さそうで。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
簡単なサラダを作って、念のため軽くメイクも直して。
隣の部屋のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
恐る恐る中に入ると、間取りは同じはずなのに、どこか違って見えた。
すっきりと整えられた部屋は、落ち着いた色合いで、鈴木さんらしい。
ここ、鈴木さんの部屋なんだ。
そう思っただけで、また緊張して心拍数が上がった。
席には向かい合ってカレーが二つ並べられていて。
付け合わせのサラダを入れたタッパーを渡すと、すぐにお皿に入れて並べてくれた。
座席に腰掛け、「いただきます」と手を合わせて、二人でカレーを食べ始める。
口に運ぶと、スパイスの香りがふわっと広がった。
「……おいしい」
正直な感想を口にすると、鈴木さんは少し照れたように笑った。
「良かった。あんまり凝ったことはしてないんですけど」
「でも、すごくおいしいです。なんか、いつも食べてるやつとちょっと違う気がします」
そう言うと、鈴木さんは「あ、それね、」と頷く。
「営業の先輩に教えてもらったレシピなんですよ。市販のルーを二種類混ぜてるんです」
「へえ……混ぜるんですね」
「うん。こっちの方が、コクが出て美味しくなるんだって」
「へえ、そうなんですね。今度やってみよう」
「あはは、うん。ぜひ試してみてください」
そう言って笑う顔が、仕事中に見るできる営業マンの顔より、ずっと柔らかい。
少し沈黙が落ちたけれど、不思議と気まずくはなかった。
「田中さんって、普段結構、自炊する方なんですか?」
鈴木さんがふと口を開いた。
「一応……簡単なものだけですけど。土日に作り置きして冷凍したりとかしてます」
「え、凄いな、作り置き……!俺は結構外食が多くなりがちだから、尊敬します」
「あ、でも私も面倒だったら外食で済ましちゃいますけどね。普通にお惣菜とかも買いますし……」
「スーパーの惣菜、美味しいですよね。俺も結構よく買ってます」
そんな何でもない会話なのに、言葉を交わすたび、肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
「そういえば……田中さんって、猫お好きなんですか?」
鈴木さんが、ふと思い出したように聞いてくる。
「え?どうしてですか?」
「職場のデスクに、猫の写真を飾ってるでしょう?だからちょっと気になって」
「あ、あれですか。実家で飼っている猫なんです」
そう言うと、鈴木さんは納得したように頷いた。
「そうだったんですね」
「はい。すごく人見知りで、他の人が家に来ると全然出てこないんですけど、家族には甘々で……本当に可愛い子なんです」
話しながら、自然と頬が緩んでしまうのが自分でも分かった。
ちらりと鈴木さんを見ると、柔らかな視線をこちらに向けていて、そのまま、穏やかに口元を緩めた。
それだけで、ドキッと心臓が高鳴った。
「そっか。……じゃあ、猫カフェとかは行ったことは?」
優しい声でそう聞かれて、少しドギマギしながらも、なんとか答える。
「気になってはいるんですけど、行ったことはないですね。実家に猫がいたし……」
「実は、職場の近くに一軒あるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
考えるように視線を落とす。
「良かったら、今度一緒に行ってみない?」
「……いいですね。行ってみたいです」
ちょっと緊張しつつも、猫カフェは気になっていたし、鈴木さんと行くのはなんだか楽しそうだなと素直に思ってそう答えると、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
「田中さんって、猫に限らず、動物全般好きそうですよね」
「あ、はい。そうですけど、……そう見えますか?」
「あはは、やっぱり?そうだと思った。雰囲気が優しいから」
その一言に、胸の奥がきゅっとした。
「……ありがとうございます」
嬉しいのと同時に結構恥ずかしくて、さっと視線を落とした。その仕草を見て何を思ったのか、鈴木さんは慌てた素ぶりを見せた。
「あ、ごめんね。変な意味じゃなくて……」
「あ、いえ、大丈夫です。……むしろ、その……嬉しかったです」
恥ずかしさを押し込めながら、きちんと気持ちを伝えると、鈴木さんは一瞬だけ目を丸くして、それからふわりと表情を和らげた。
そのまま、静かに視線が重なった。
なぜか、どちらからも目を逸らせなくて。
鈴木さんの頬が、ほんのり赤い。
……そして、多分、私も。
「さ……、冷めちゃう前に、食べましょうか」
緊張感に耐えきれなくなって、私はそう言った。声が裏返ってしまったかもしれない。
「……うん。そうだね、食べましょう」
鈴木さんがそう返してくれて、空気に柔らかさが戻った。
ほっとしつつ、再度カレーを食べ始めた。
だけど。
さっきから感じるこの緊張感は、ドキドキするけど、嫌じゃなかった。
そして、鈴木さんと二人で食べるカレーは、驚くほど美味しくて、この時間がずっと続けば良いのに、なんて、そんなことを思ってしまった。
*
「そういえば俺、まだ田中さんのプライベートの連絡先知らなかったから教えてくれませんか?」
食事が終わった後、自然な流れで鈴木さんが聞いてきた。
「あ、そういえばそうですね。じゃあ交換しましょうか」
そう言って連絡先を交換した。
「なんかあったらいつでも連絡してくださいね。まあ、隣だし、直接言いに来てくれてもいいけど」
そう言われ、確かにトークアプリ使うより、直接言った方が早いかもしれないなぁなんて思った。
「あはは、はい。ありがとうございます」
笑ってお礼を言うと、
「うん」
楽しそうに笑い返してくれた。
洗い物を手分けして、帰り際。
「一緒に食べられて、楽しかったです」
「私もです」
「良かったら、またご飯、一緒に食べようね」
優しい声でそう言われて、また、心臓が跳ねた。
「……はい。ぜひ」
その後、自分の部屋に戻って、どこかふらふらとした足取りでソファにまでたどり着いて座り込んで、そのまま顔を覆った。
……すごく楽しかったな。
それに、変な緊張感は途中からしなくなったけど、やっぱり凄くドキドキしたな……。
そう思った後、スマホを取り出してトークアプリを開く。
そこにはさっき新しく登録された名前。
『鈴木颯太』
指でそっとなぞると、胸の奥がふわっと温かくなる。
鈴木さんの部屋で一緒にご飯を食べる。
それは、思っていたよりもずっと、私にとって特別なことだったみたいだ。
本作を見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!
本作は毎週水曜と土曜日に一話ずつ投稿していきます。
次の投稿は、1月21日(水)7:00です。
引き続き、面白いと思って頂ける作品を作れる様、頑張って執筆していきますので、どうぞ応援のほどよろしくお願いいたします。
陽ノ下 咲




