十九話 一番近くにいるキミと①
主な登場人物紹介
田中彩乃
二十四歳。主人公。庶務部。優しくてお人好し。過去のトラウマから恋愛には奥手。
鈴木颯太
二十四歳。彩乃の同期で営業部所属。仕事の出来るイケメン。彩乃の隣の部屋に住んでいる。彼女の浮気が原因で別れているところを彩乃に目撃される。
佐藤優真
二十四歳。綾乃の高校からの親友。なんでも話せて、頼りにしている存在。穏やかで誰に対しても優しい。職場は別。
山本莉子
二十ニ歳。イケメン好きな彩乃の後輩社員。庶務部。小柄で美人。
鈴木さんと付き合い始めて、職場以外の場所ではお互いのことを名前で呼び合うようになった。
初めて彼から彩乃と呼ばれて、彼のことを颯太と呼んだ時、凄く嬉しかったし、同時にとてもドキドキした。
名前を呼ぶことって、こんなに緊張することだったかな、と自分で驚くほどに緊張してしまった。
*
そして迎えた初めて二人で過ごす土曜日。
颯太の部屋にお邪魔することになって、私は朝から落ち着かなかった。
インターホンを押す指先が、少し震える。
颯太の部屋のインターホンを押す、この指先の緊張は、間違いなく「恋人」になったからだと思う。
ドアが開く。
「おはよう、彩乃」
「そ、颯太、おはよう」
優しく迎え入れてくれる颯太の笑顔に、胸がきゅっとなる。
これまでだって何度もお邪魔しているはずなのに、なぜか今日は、いつもよりずっとドキドキしてしまった。
「お邪魔します……」
「……彩乃、もしかして緊張してる?」
「……うん、少し」
正直にそう答えると、颯太はちょっと困ったように眉を下げて、けれど、嬉しそうに笑いながら言った。
「そっか。実は俺も……」
颯太も緊張してるんだ……。
そう思うと、じんわりと嬉しくて、緊張が少し和らいだ。
「入って」
「うん、ありがとう」
ドアを開けて招き入れてくれた颯太にお礼を言って部屋に入り、促されるままにソファに座った。
すると、台所の方からほんのりとコーヒーの匂いが漂ってきた。
「今、丁度コーヒー淹れたところなんだ。どうぞ」
そう言ってマグカップを渡してくれる。
「わ……ありがとう。いただきます」
お礼を言ってマグカップを受け取る時、指先がほんの少し触れて、ちょっとドキッとした。
でも、颯太は特に気にしていないみたいだったから、私も気にしないふりをした。
……なのに、カップから手を離す瞬間、ふふっと楽しそうに笑われてしまって。
私が意識していること、全部バレてるんだと気づいて、頬が赤くなった。
「彩乃、かわいい」
颯太はそう言いながら、私の隣に腰掛けた。
私は恥ずかしさを紛らわせようと、コーヒーを啜った。
「おいしい……」
やわらかなコクと、鼻に抜けるコーヒーの香り。
カップの温もりと一緒に、胸の奥までじんわりと温かくなる。
コーヒーを飲み終えて、ほっと息を吐いた時、とん、と肩が触れた。
ちらっと彼の方を見る。すると、優しい瞳でこちらを見ていた彼と目が合った。
彼が自分のカップを置いてから、私のカップもそっと手から取って、机の上に置いた。
そして、彼の腕がそっと私の背中に回ってきた。
「……こうされるの、怖かったりしない?」
私が過去のトラウマから、男性とのこうした接触に咄嗟に身構えてしまうことを知っている彼は、心配そうに確認してくれる。
その気遣いが、胸にじんわりと沁みて、嬉しくなった。
「……颯太だったら、怖くないよ。むしろ、すごく落ち着く」
「そっか……。良かった」
颯太が嬉しそうにそう言って、距離がさらに縮まる。
気づけば私は、すっぽりと颯太の腕の中に収まっていた。
「……あったかいな」
「え……、そ、そうかな?」
「うん。彩乃って体温高いよね。凄く落ち着く」
幸せそうな声に胸がきゅっと締め付けられて、そっと颯太の身体に腕を回した。
その瞬間、颯太の肩がぴくっと揺れて、そして、ぎゅっと、少し強めに抱きしめ返された。
そして、そのまま身体を抱き寄せたまま、少し声を落として耳元でそっと囁かれた。
「……ね、彩乃。……一個さ、お願いしたいことがあるんだけど、言ってもいい?」
至近距離で囁かれた密やかな声に、心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響いた。
「ん……、なに?」
「……彼氏でもない男を、簡単に二人きりの部屋に呼ばないで」
「え……?」
言われた言葉に、かなりの戸惑いを覚えた。
だって、私は、これまで部屋に呼んだことのある人なんて、一人しかいない。
その動揺を、どういう風にとらえたのか、颯太が少しだけ言いにくそうに続ける。
「……俺さ、付き合う前、彩乃の部屋に入れてもらえた時、凄く嬉しかったんだ。……けど同時に、前に親友って言ってた奴とか、他の男もこんなふうに簡単に部屋に入れてるのかなって思ったら心配だったし、……正直、それは嫌だなって思ってたから」
ただの同期の分際でやめてほしいなんて言えないから、隠してたけど……。と、ちょっと拗ねた様な声音で囁かれて、ぎゅっと心臓を掴まれたみたいに胸が苦しくなった。
「……全然、簡単なんかじゃなかったよ。優真くんも部屋に入ったこと無いし。部屋に入れたことがある男の人、颯太だけだよ。……ほんとは毎回ドキドキしてたの、私もずっと隠してた」
恥ずかしさに耐えつつ、なんとかそう答えた。
「そっか……。俺だけだったんだ」
すると、嬉しそうな声と一緒に、額をぐりぐりと私の肩に押し当てられる。
「じゃあこれからも、……俺だけの特権にしてね」
凄く幸せそうにそう言う彼に、胸がきゅんと高鳴った。
けれど、それについては、むしろ私の方が言うべきことな気がして、その気持ちをそのまま伝えた。
「でも、それって颯太の方じゃない?先に部屋に入れてくれたの、颯太だもん。だから私も緊張してるの、必死で隠したんだよ?」
初めて颯太の部屋に入った時のことと、その後に内心とても緊張しながら颯太を部屋に招いたことを思い出しながら言う。
すると颯太は少し照れたように笑った。
「だって俺は最初から、……あわよくば気にしてくれないかなって下心で、彩乃を俺の部屋に誘ったから」
そう言われて、顔が一気に熱くなった。
「ふふ。彩乃、真っ赤だ。……可愛い」
唇を耳元に寄せて、そんなふうに囁かれる。
私は颯太の方へ顔を向けて、小さく息を吸ってから、
「……気になってたよ。凄く」
正直な気持ちを伝えると、颯太は一瞬、目を見開いてから、とても嬉しそうに微笑んだ。
「あ、でもね、優真くんとはこれからも親友のままでいたいって思ってるんだけど、……そういうのって、嫌だったりするのかな」
優真くんとの関係はとても大切だけど、颯太を不安にさせてしまうのは絶対に嫌だから、先に確認しておこうと思って聞いた。
すると、颯太が少しだけ考えるそぶりをして、
「いや、それはそのままでいいよ。……だって彩乃にとって、大切な人なんでしょ?」
と言ってくれた。
「うん。大切な親友なの」
そう言うと、颯太が、うん、と頷いてくれる。
「まあ、全く気にならないって訳じゃないけどね。でも、彩乃の交友関係、縛りたい訳じゃないし、……それに、この距離は絶対誰にも取られないように俺が、頑張るから」
そしてぎゅっと抱きしめられて、その言葉と彼の温かい体温に、胸の奥がじんわりと熱くなってくる。
「……私も、頑張るね。颯太のこと、誰にも譲りたくないから」
颯太の方を見て、微笑む。すると颯太も、とても幸せそうに微笑んでくれた。
「好きだよ、彩乃」
そう言った彼に、優しく唇を重ねられて、私はそっと目を閉じた。
*
昼前、二人で簡単なご飯を作ることにした。
「パスタにしようか。俺、麺茹でるから、彩乃はその間に野菜切ってもらっていい?」
「うん。分かった」
まな板に向かって野菜を切っていると、颯太が戸棚の上に置いたパスタを取ろうとして、私の背後に回ってきた。
けれど戸棚は開かれないまま、気づけば腰に腕が回されていた。
「……そ、颯太」
「……ん?」
「……危ないよ」
そう言うと、颯太は小さく笑う。
「ふふ、ごめん。つい、可愛くて」
そして、お料理のために結んだ髪の下、無防備な項に、いきなり柔らかい熱が触れた。
息がかかって、軽く、ちゅ、と。
それが何かを理解して、思わず言葉を失って、包丁を持つ手が止まってしまった。
調理をなんとか終えて、やっと完成したご飯を二人で食べた。
湯気の立つパスタが乗ったお皿に、彩りの野菜をふんわりとのせた。艶やかなオリーブオイルを絡めたパスタを、口に運ぶ。
オリーブオイルの優しい香りとともに、ほどよい塩気と野菜の甘みが口いっぱいに広がって、思わず頬がゆるんだ。
「美味しいね」
「うん、美味しい。でも俺さ、彩乃と一緒に食べるご飯は、何でも美味しく感じる気がする」
そんなことをさらっと言われて、頬がまた熱くなる。
隣の部屋に住む同期から恋人に関係が変わって、鈴木さんから颯太に呼び方が変わって、敬語が取れて自然体の口調で話すようになって。
恋人になった彼は、どう考えても甘すぎると思った。
本作を見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!
本作は毎週水曜と土曜日に一話ずつ投稿していきます。
次の投稿は、3月11日(水)7:00です。
引き続き、お読みいただけますと嬉しいです。
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陽ノ下 咲




