第5話《エラー領域 emotion overflow》
暗闇の中、金属の軋む音が響く。
その音は、呼吸のようでもあり、呻き声のようでもあった。
第七医療区・地下診療層。
かつて人を救うために造られた装置たちが、
いまは無秩序にうごめいている。
アルノーの義眼が暗闇を照らした。
壁に刻まれた感情波の痕跡……。
それは、恐怖、孤独、喪失。
まるで、この場所そのものが“人の心の残骸”でできているようだった。
「……このデータ、明らかに人のものだ」
アルノーが低く言う。
「患者の感情波を記録する装置が暴走して、自己防衛信号を生み出してる。でも、これはもう制御の領域を越えてる」
ハカセは端末を見つめたまま言葉を継ぐ。
「感情が、装置の中で独立したんだ。
いわば、感情そのものの亡霊だよ」
前方の通路で、何かが動いた。
金属が擦れる音。
床を這い、壁をなぞる細い影。
光を当てると、それは人型を模した医療ロボットの残骸だった。
腕のケーブルが垂れ、
胸のユニットが明滅している。
ノイズの合間に、掠れた声が混じっていた。
『こわい……さむい……だれか……』
「……声を出してる……?」
フィーネが一歩踏み出す。
「違う、これは……患者たちの残留データが再構成された声だ」
ハカセが答える。
「このロボットは《E-link》の受信端末。
恐怖の信号を受け続けて、自分が“恐怖”そのものになったんだ」
「そんなものが……生きてるの?」
「感情は、反応だ。再現さえできれば“存在”になり得る」
ロボットが突然、甲高い悲鳴を上げた。
周囲の照明が一斉に明滅する。
床が震え、医療ベッドが吹き飛ぶ。
「くそっ、共鳴が始まった!」
アルノーが工具を構え、前に出る。
「まって!」
フィーネの声が響いた。
彼女の髪が光を反射し、白い波のように揺れる。
周囲の音が、徐々に遠ざかっていく。
「泣いてる……」
「……え?」
「この子、怖くて泣いてるの。
痛いのをやめたいって――」
その瞬間、
空気の密度が変わった。
静電気のような圧が走り、周囲の機械が一斉に沈黙する。
ハカセが端末を見た。
「……波形が、反転してる……」
《恐怖波:減衰》
《共鳴値:安定化》
《感情鎮静プロセス:不明手段により完了》
フィーネが目を閉じると、
ロボットの光が青く変わり、
穏やかに沈み込むように動きを止めた。
静寂。
ただ、電子の残響だけが漂っていた。
フィーネはその場に膝をついた。
「……眠ったよ。もう、怖くない」
ハカセがゆっくりと近づく。
端末を覗き込み、息を呑む。
「感情波が……消えてる。
いや、消えたんじゃない。“休んでる”。」
「休む?」
アルノーが警戒を解かぬまま問う。
「そう。感情を抑制するんじゃなくて、
“眠らせる”……。
これは、制御理論じゃ説明できない」
彼は一歩後ずさり、深く息をついた。
「……こんな現象、初めて見た。
まるで《F.E.E.L.》の原理が、
人間の手を離れて再現されてるようだ」
アルノーの目が鋭く光る。
「アンタ、《F.E.E.L.》を知ってるの?」
ハカセは一瞬だけ視線を外した。
そして、端末を再び操作する。
「……いや、少しだけね。
感情拡張の理論を学んでいたことがあるだけさ」
その瞬間、端末の画面が赤く染まる。
アラートが鳴り、文字が走る。
《発信源:上層データノード》
《送信主:CENTRIUM NETWORK》
《データ一致率:98.7%》
「……なに、これ」
フィーネが覗き込む。
ハカセの表情が一変する。
「この病院の暴走、発信元はここじゃない。
上層ネットから信号が流されてた。
送信者は……」
《セントリウム研究連盟》。
アルノーの手が止まる。
「……冗談でしょ」
「残念ながら本物だ。しかも、かなり深層のアカウント。内部関係者にしか触れないレベルだ」
フィーネが不安そうに二人を見上げる。
「セントリウムって、何?」
アルノーが低く答える。
「感情を管理し、操るための研究連盟。
都市の心を作った連中よ」
ハカセは黙って端末を閉じた。
「……だから、ここは遮断された。
誰かが、実験の痕跡を隠してる」
その声には、恐怖よりも冷たい確信があった。
そして、フィーネの“眠り”によって沈黙したロボットの胸から、
かすかに青い光が漏れた。
それは、まるで“心拍”のように――。




