第七話 二つの黄色い月
道中、軽く走りつつ、周囲を警戒しながら、新たな場所へと移動する。
途中、二匹の巨歯鼠と一匹の大毒蛇に遭遇した。
初戦ほどの緊張はもはやない。
一度相対した相手だからか、綴はほとんど苦労なくそれらを倒していく。
(正直、今日の目標は五体だったけど……)
頂点に立つ太陽を軽く眺めてから、しばし考える。
奥へ行くか、引き返すか。彼の心が揺れ動く。その時、個有から『焚火』を使えと、囁きかけられているような気がした綴は、素直に『焚火』を発動させる。
「……案外、悪くないな」
まだ、心の奥底のしこりがすべてスッキリしたわけではない。それでも、『焚火』を見る綴の目は、以前のような恨みつらみの鋭い目つきではない。悪くない、とでも言うかのような、穏やかな視線がそこにあった。
(向かうか、やめるか)
綴は少しばかり長考しつつ、決めた。
「行くか」
体も軽く、まだまだ動けると、綴自信の体がいう。
地獄訓練に比べれば、綴の体はまだ動ける状態だったのだ。
「ふう……軽く飯でも食うか。休憩も兼ねてな」
そう呟くと、腰掛ポーチからアイテムを取り出す。もぐもぐと、味気ない栄養バーを口に放り込んだ。
(せめて、あったかい物が食いたい……)
じーっと眼前の『焚火』を見つめる。次回からは、温かい汁物でも持ってこよう、と綴は心に誓った。
休憩を終えると、綴は再び走り出す。
(なんか、調子いいな……!)
休憩のおかげか、体は驚くほど軽い。
理由はともかく、動けるうちに先へ進むべきだ。綴は思考を振り切り、ダンジョンを突き進んだ。
・・・・・・・・・・
「着いた、木漏れ日エリア」
辺りは、細いが懸命に空へと伸びる木々が、等間隔で生い茂る。そこから降り注ぐ無数の木漏れ日が、きらきらと小川の水面や空気までを煌めかせた。鬱蒼としたというよりは、どこか幻想的な雰囲気さえ漂うエリア。
(ここなら、狙いの魔物がいるはず……)
目的地に到着したが、先ほどの草原地帯より視界が悪い。綴は一層慎重に、ゆっくりと足を進める。
しかし、数十分歩き続けても、お目当ての魔物は一向に見当たらない。やがて、綴の表情には焦りの色が浮かび、その足がぴたりと止まった。
「意外といないもんだな」
そんな不安を漏らした途端、ガサガサ、と音がした。
彼の耳に届いたのは、地面を擦るような、不気味な音。
「べえっ!」
綴は咄嗟に避ける。間一髪、彼の顔の横を、ドロッとした黄色い液体が掠めた。
「うお、あぶねっ!」
苔の塊が突然動き出し、ドロッとした黄色い液体を吐き出してきた。
直感的に嫌な予感がした綴は、咄嗟に身を翻し、避けることに成功する。
あれは苔蛙の体液だ。粘着性があり、カビのような酷い臭いが鼻腔を刺激する。
体に当たれば動きが制限され、何より厄介なのはその臭いだった。こんなものを戦闘中に嗅ぎ続けるのは、まさしく地獄に他ならない。
「べ、べ、べ!」
続けざまに体液を飛ばしてくる苔蛙。
弾速は遅いとはいえ、辺り一面がかび臭くなるせいで、綴の眉間がグッと寄る。
ドォン!
(踏みつぶす気か!?)
体液を避けつつ間合いを詰めようとした、その瞬間。苔蛙は大きく跳躍し、綴を踏みつぶそうと襲いかかってきた。
「あぶねっ!」
体重は五歳児くらいであろう苔蛙。大きさは、UFOキャッチャーで取れるような巨大なぬいぐるみサイズだ。
あれで踏みつぶされたら、骨がバキバキに折れ、この世とおさらばするだろう。
とはいえ、動きはそこまで早くないと感じた綴は、苔蛙の着地地点を予測し、一気に駆け抜ける。
――そう、頭では、完璧に描いていた。
しかし、辺りに吐き出された粘着体液を避けながら接近するのは、予想以上に手こずる。
足を取られぬよう慎重になるたび、彼の動きは僅かに鈍った。
「さっさとくたばれやああああ!」
「グエ!」
「はあ、はあ……これは、これでしんどいな」
初めての相手ということもあり、予想以上に苦戦した。最初から全力を出し、体液を辺りに吐き散らされる前に仕留めなければ、体力の消耗が激しいのは自分の方だと、改めて思い知らされる。
自然の一部に擬態しているので、発見も骨が折れそうだと、綴は汗を拭う。
それでも、その表情は、どこか柔らかい光を宿していた。
「お、意外と大きいな。大毒蛇よりは小さいが、巨歯鼠よりは大きいサイズか。意外と狙い目の魔物かもしれん」
もう少し、この辺で戦うのもありだな。よし、少し休憩してから、ここを今日の狩場とさせてもらおう。
(その前に、休憩するか)
またしても、使えと語りかけてくる『焚火』に、はいはいと笑いながら発動させた。
腰掛ポーチから布を取り出し、近くの小川で顔を洗い、汗を拭う。ダンジョンから流れ出る川の水は、何もしなくても飲める。探索者にとって、これはありがたいことだ。潔癖症の者には無理だろうが、まあ、色々と気にしたら負けだと、綴は思うことにしていた。
「ふう……やっぱ、疲れるな」
防具は金属面は少ないはずなのに、ずっしりと重く感じる。
まだ十分動けそうではあるが、休憩すると、これまでの疲労が一気に押し寄せてきた。
(年齢も年齢だし、無理はせずに行かないとな。)
今日の稼いだ額を見て、今後の討伐数を決め直しておこうと、考える。
「……現実は厳しいぜ」
そんなことを考えながらも、周囲の警戒は怠らない。それが、この弱肉強食のダンジョンにおける絶対の鉄則だ。携帯食は、すぐに口に放り込める栄養バーばかりだった。
「今日の酒は、最高に美味いだろうな」
そう考えると、こんな人生も悪くないと、ふと、彼の心に温かいものが広がった。
そんなことを考えていた、その時だった。
少し離れた草原を、賑やかな声が通り過ぎていく。屈強な盾役の男、軽やかな弓使いの女、そして快活そうな魔術師の少年。三人組のパーティだ。
軽口を叩き合い、見事な連携で魔物を狩る彼らの姿を、綴は岩陰から、ただ黙って見つめていた。
(……パーティ、か)
会社での記憶が、蘇りそうになる。あの裏切りさえなければ。
いや、と綴は頭を振る。今は、違う。
羨ましい、とは思わない。ただ、少しだけ。本当に、ほんの少しだけ、眩しく見えただけだ。
綴は彼らから視線を外し、再び近くの小川へと、ぼんやりと視線を移した。
小川の流れる景色にぼんやりと見とれていると、いくつもの水の泡が、ふわふわと宙に浮かんでいるのが見えた。ダンジョンって幻想的だな、なんて呑気に思っていたら、まさかの魔物。
その悪戯好きの浮水玉のせいだと、内心で悪態をついた。
悪戯好きの浮水玉という、精霊もどきのような魔物らしく、顔の周りを高速で飛び回り、水のくせにチリチリと静電気のような不快な攻撃を顔中に食らわせるのだ。
手で弾けば簡単に壊せたが、とにかく不快な気分だった。
「……思ったより、長く足を止めてたな」
思考を切り替えるように、すっと立ち上がる。
「さて、行くか」
予想外のことで休憩を長引かせたこともあってか、体も心もリフレッシュされていた様子で、顔に疲労感はない。
(なんか、全然疲れない。地獄訓練って、本当に地獄だったんだな)
そんなことを思いながら、綴は再びダンジョンの奥へと足を進めた。
・・・・・・・・・・
「そろそろ、帰った方がいいかな?」
苔蛙の三体目を葬ったあと、綴はそんなことを呟く。
思ったよりも集中していた彼の時間は、あっという間に過ぎており、まもなく空がオレンジ色に染まろうとしていた。
予想より、時間が押していることに気づく。
「うし、帰る」
魔石を拾って、速攻で身支度を整え、木漏れ日エリアを抜けていく。
「小川の流れに沿えばいいのは楽でいいな」
魔物を無視して進めば、サクサクと進めるようだ。
幸い、綴の持久力と足の速さは、教官のお墨付きなので、彼の得意分野だ。
家に帰って、久しぶりの酒!!
綴の心は、帰宅後のことで頭が半分埋もれていた。
もちろん、もう半分は周囲の警戒に割かれている。
「ん?」
木漏れ日エリアを抜けようとした、まさにその時だ。
巨大な岩が、エリアの入口を塞ぐように鎮座していた。
(行きはなかったはず……誰だよ、魔天使ってこんなところに放置した奴は)
悪態をついても始まらないと分かってはいるが、あまりにも理不尽な障害に、彼は内心で舌打ちする。はあ、と、思わずため息を吐こうとした、その瞬間。
ビュン、と、何かが綴の顔を横切った。
「は?」
ぎぎぎ、と、油の切れた機械のようにぎこちない動きで、綴は顔を横切った何かを追うように視線を動かした。
「はは……え、腕?」
後ろを振り返って、それが人間の腕であることを確認する。
胃から何かが逆流してきそうなのを抑えて、最悪の展開をどうにか抑え込む。
(なんで、あんなのが……!)
人よりも遙かにでかい、土や岩を体に装備したような土岩熊と呼ばれる魔物が、木漏れ日エリアの出口を塞いでいた。下層の六階から出てくるような魔物で、とても今の綴が相手できる魔物ではない。
(……逃げる、一択だ)
幸い、お食事中のようで、綴の気配には気付いていない。
綴は戻って来た道に振り返り、木々の間を縫って、木漏れ日エリアの奥へ潜っていく。
ある程度、走ったところで、綴はひと呼吸置き、体を落ち着かせる。
「ダンジョンって……やっぱ、ダンジョンだよな」
当たり前のことを呟く綴だが、土岩熊が食べていたであろうあの人間のことを考えると、胃液が込み上げてくる。分かっていたとはいえ、実際に目の当たりにするのと、理解した気になっていることは全くべつだ。
「つか、これからどうするか」
青ざめた顔で頭を回す。
まもなく夜が来る。それは、綴にとって、何よりも絶対的な危機だった。
『夜には、夜の顔がある。お前らでは勝てないから、夜が来る前に帰れよ』
教官の言葉が、再び脳裏を過る。その忠告を無視した己の愚かさに、彼は歯噛みする。
「すみません……教官。……初日でやっちまいました」
すでに辺りは漆黒の闇に包まれ、満天の星空と、巨大な二つの月が顔を出していた。
冷たい輝きを放つ二つの黄色い月は、まるで綴のこれからを嘲笑うかのように、あるいは観察しているかのように見え、彼は思わず重いため息を漏らす。
「生き残れるか……これ」
初日で、いきなり絶体絶命のピンチを迎えた綴は、思わずそんな弱音を吐く。
だが、その言葉の裏側には、決して消えることのない、強い「生き残りたい」という意志が、確かに芽生えている。
パーティーを見てた時のシーンに違和感がありましたので、修正しました。
・・・が消えたりと、少しだけ読みやすくなったと思います。




