第三話 地獄で芽生えた願望
「来い、日ノ旅」
「……お願いします」
地獄の訓練が始まって、二年が過ぎる。
四度目の試験を前に、綴は教官・冴宮夕月と向き合う。
ただそこに立っているだけで、目の前の女は、周囲の空間を戦場のそれへと変質させていく。肌を刺すような殺気。
だが、夕月はすぐに開始の合図を出すことなく、ただ静かに、彼の瞳の奥を覗き込むようにして、問う。
「日ノ旅。貴様は、探索者となって、何がしたい?」
「俺は……」
言葉が、続かなかった。
喉まで出かかった「死ぬためだ」という、二年前に抱いていたはずの答え。
だが、それはもう、今の彼の本心ではない。
では、本当の答えは何だ?
彼の肉体は、今や鋼のように鍛え上げられているのに、合格には至らない。
「殺す気で来い」という言葉の意味が、掴めないのだ。
なぜなら、彼がこの門を叩いたのは、自分が死ぬため。
その根本的な矛盾。それが、彼の成長を阻んでいた。
年下の訓練生たちに追い越されていく焦り。三十歳という年齢への不安。
「合格しなければ」という思いだけが、彼の心を支配し、本当の答えを見えなくさせていた。
彼の思考は、答えのない問いの迷宮を彷徨う。
その長い沈黙を、夕月は失望のため息で断ち切った。
「……まだ、分からんか。ならば、その体で死んで覚えろ」
その言葉が、試験開始の唯一の合図だった。
開始の合図と同時、先に動いたのは夕月だった。
空気を切り裂く音だけが、彼女の接近を告げる。
目にも留まらぬ速さで振り下ろされた無刃刀を、綴は反射的に短剣で受け止めた。
刃引きされた鋼がぶつかる、肉を断つことのない鈍い金属音と共に、腕に走る凄まじい衝撃。
(重い……! だが、さばききれない一撃じゃない!)
衝撃をいなし、彼は即座に攻めに転じた。
彼の振るう短剣が、ヒュン、と心地の良い風切り音を奏でる。巧みなステップで相手を惑わし、鋭い視線でフェイントをかける。
二年という歳月が彼に刻み込んだ、流れるような戦闘技術。
その動きに、周囲で見守る新入りの訓練生たちが息を呑むのが分かった。かつての自分と同じように、絶望の淵にいた彼らにとって、最年長の落ちこぼれだった男の戦う姿は、一つの希望の光に見えたのかもしれない。
「はあ!」
気合の入った流れるような斬りつけを入れる。
体重の乗った一撃は、自分よりも遙かに戦闘能力が上回る夕月を、押しのけた。
(いける!)
夕月の体勢が、わずかに崩れる。
好機。がら空きになった首筋が、一瞬、彼の目に映る。そこを突けば、この試験は終わる。
だが、彼の体が選んだのは、そこではなかった。
躊躇とも、あるいは無意識の甘えともつかぬ一瞬の判断。
彼の短剣の切っ先は、致命的な急所を避け、無刃刀を握る彼女の手首へと、吸い込まれるように迫っていった。
それこそが、彼の二年間の訓練でも拭いきれなかった、根本的な「甘さ」の正体だった。
「……」
綴の行動を見た夕月は、絶句し、感情を殺す。
そして、彼女の唇が、ほとんど音もなく、こう動いた。
「――死ね」
「!?」
綴の短剣が手首に届く、その刹那。夕月の体が沈み込み、無刃刀の峰が、彼の首筋に的確に叩き込まれた。もしあれが真剣であれば、彼の首は飛んでいただろう。だが、夕月の得物は、骨を軋ませる衝撃を与えるだけに留まった。
ゴギッ、と。
骨と肉が軋む、聞きたくもない鈍い音。思考が停止し、全身の力が抜け落ちていく。
糸を切られた操り人形のように、綴の体は前のめりに崩れ落ちた。
「担架。治療室へ運べ」
夕月の簡潔な指示に、待機していた医療班が慌ただしく駆け寄る。
彼らは手慣れた様子でぐったりとした綴の体を担架に乗せ、足早に運び去っていった。
まるで壊れた備品を片付けるかのような、その一連の流れ。
夕月はその光景に一瞥もくれず、無刃刀を肩に担ぎ直すと、青ざめた顔で固まる他の訓練生たちへと向き直った。
「……殺す気で来い。でなければ、ああなる。二度と言わせるな」
その言葉に、訓練生たちの間に緊張が走る。恐怖。
そして、それ以上に、自分たちが今立っている場所の意味を理解した、覚悟の光がその瞳に宿り始めていた。
仲間が死んだかもしれないという状況でも、試験は続く。
ダンジョンとは、そして探索者として生きるとは、そういうことなのだと。
冴宮夕月の背中が、何よりも雄弁に、その真実を彼らに教えていた。
(俺は……死ぬのか?)
担架で運ばれながら、綴の意識は混濁していた。
過ぎ去っていく天井の景色が、まるで走馬灯のように見える。
ふと、訓練施設の契約書にあった一文が、脳裏に蘇った。
――訓練中におけるいかなる事故、死亡においても、当協会は一切の責任を負わない。
入所した時には、意味の分からない形式的な注意書きだとしか思っていなかった。これまで訓練生が死んだという話は、一度も聞いたことがない。大きな怪我は日常茶飯事だが、それでも、死ぬことはないと。
心のどこかで、そう「甘く」見ていたのだ。この地獄を、舐めていた。
相手の武器を落とせば終わり。降参させれば終わり。
いつだって、訓練とはそういうものだった。だから、今回も同じルールが適用される、安全な「試験」なのだと、彼は心の底で信じ込んでいた。
あれは、ただの罵声ではない。
教官が、この訓練場で再現しようとしていた、本物の戦場の理そのものだ。
だとしたら、本物のダンジョンではどうなる?
魔物の牙を折れば、それで終わりか? 相手が降参をしてくれるのか?
違う。
あれは、命の奪い合いだ。
彼は、この訓練所という「絶対に死なない」空間に、良くも悪くも慣れすぎていたのだ。
暗闇の中、彼は自問する。
(そもそも、俺は……死にたかったんじゃなかったか?)
辛い訓練を乗り越え、試験に合格し、ダンジョンで死ぬ。それが、最初の計画だったはずだ。
だが、最近の自分はどうだ。体が面白いように動き、落ちこぼれだった自分が、後から入ってきた、自分よりも飲み込みの早い若者たちと対等に渡り合える。その事実に、喜びを感じてしまっていた。
死を望んでいたはずの過去の自分が、成長し始めた今の自分を、否定しようと囁きかけてくる。
――もう、いいじゃないか。よく頑張った。ここで終わるのも、お前らしい結末だ、と。
(……本当に、それでいいのか?)
心の奥底から、小さな問いが生まれる。それは、迷いだった。
この二年間の努力は、確かに彼の肉体と技術に結果として現れている。
それを、こんな場所で、まだ何も成し遂げていないこの場所で、無に帰していいのか。
彼はまだ、スタートラインにすら立てていないのだ。
――今、俺は。本当に、こんな場所で、こんな風に、無様に死にたいと願っているのか?
会社にいた頃は、何かあるたびに「死にたい」「消えたい」と、呪文のように唱えていた。
だが、今、心の底からそう願っているかと問われれば、答えは違った。
(そうだ……俺はまだ、ダンジョンにすら、潜れていないじゃないか)
その事実に気づいた途端、彼の唇に浮かぶ、自嘲ともとれる笑み。
「どうせ死ぬなら、ダンジョンがいいに、決まってる……」
暗闇の中で、彼の本音は確かな輪郭を持ち、そして、その本音から、新たな欲が芽生えた。
――でも、どうせなら。少しでも長く、ダンジョンで「探索者」として、生きていたい。
そう願った瞬間、彼の胸の奥に、ぽっ、と小さな火が灯るのを感じた。
今にも消えてしまいそうな、か弱く、しかし確かな温もりを持つ、希望の火が。
(死ぬのは、その後でもいい)
そうだ。「やらないと、やられる」
それがダンジョンの理。夕月が教えようとしたのは、その真実。
「まだ……終われない」
彼がそう強く念じた時、閉じていた瞼の裏で、暗闇が白く塗りつぶされていくのを感じた。
「……ああ」
治療室の白い天井を見上げながら、綴は震える唇で、その次の言葉を紡ぎ出す。
「生きてる」
本日はここまでです。
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明日の21頃、4話アップします。
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(まだ、5話しかないとか言えない)