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第二話 死から最も遠い地獄

 

 泥と汗の匂いが混じり合い、肺に纏わりついてくる。

獣のような自分の呼吸だけが、やけに大きく耳に響いていた。


「……しぬ……」


 うつ伏せに倒れた綴の口から漏れる、か細い呻き。

逆流してくる胃液を必死に飲み下すが、筋肉という筋肉は、全て錆びついたワイヤーへと変わってしまったかのよう。指一本動かすことすら、許されない。


 不意に、降り注いでいた太陽の光が遮られた。

ゆっくりと顔を上げた彼の目に映ったのは、自分を見下ろす一人の女の姿。


「おい。地面と戯れる時間は、とうに終わったはずだが?」


 燃えるような赤いショートヘア。獰猛な獣を思わせる鋭い目つきに、全てを見透かすかのような銀色の瞳。新人探索者教育の鬼教官、冴宮夕月(さえみやゆづき)が、そこに立っていた。


「きょ……教官……」

「言葉を返す気力があるなら、まだ体は動くはずだ。走れ」

「は、はいぃぃっ!」


 叱咤され、綴は最後の気力を振り絞る。

もつれる足を無理やり前に出し、歩くよりも遅い、無様な格好で走り始めた。


 その背中を見送りながら、夕月の口の端に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。


(入所当初の、あの死人のような目は消えたか。

根性だけは、一丁前だ。時間はかかるだろうが……あれは化ける)


 夕月は、声に出すことなく内心で評価を下す。

 

 彼がなぜ探索者を目指すのか、その理由は知らない。

だが、彼の魂が「死」に傾いていることは、彼女の心眼が見抜いていた。だからこそ、目をかけている。


 その歪んだ願望を、叩き折り、叩き直し、本物の「生への渇望」に変えるために。


 夕月はもはや綴に興味を失ったかのように、訓練場全体へと視線を移した。

そして、その場の空気を震わせるほどの、鋭い叱咤が放たれる。


「貴様らもだ! 一瞬でも気を抜いた者から、叩き出す!」

「「「はいっ!!」」」


 地鳴りのような返事が、訓練場に響き渡る。

ここは、一度は探索者への道を阻まれ、それでも諦めることのできなかった者たちが集う、最後の砦。


 そんな彼らの絶望と希望を燃料にするかのように、今日もまた、冴宮夕月の声が地獄の底まで響き渡っていた。


(どうして、こうなった……)


 地獄の訓練が始まって、十日が経過。


もはや思考は働かない。ただ、機械のように足を前に出すだけの、惨めな時間の連続。

死に場所を探しに来たはずが、今はただ、死んでいるかのように走り続ける日々。


 初日に「辞める」と口にすれば、夕月に胸ぐらを掴まれ、「貴様に拒否権はない」と一蹴された。

二日目に仮病を使えば、寮の部屋の扉を蹴破られ、引きずり出された。


 あらゆる抵抗が無意味だと悟った今、綴にできることは、ただ一つ。

感情を殺し、心を無にして、この地獄の底を一人、走り続けることだけだった。

 

・・・・・・・・・・ 


 夕月の号令と共に、訓練は食事という名の次の戦いへと移行する。


「燃料を補給できん者は、戦えん。食えん者から切り捨てる。以上だ」


 食堂に満ちる湯気と、がむしゃらに飯を掻き込む音。十日も経てば、この地獄に順応し始める者も現れる。

その光景を、綴はまるで別世界の出来事のように眺めていた。


 目の前には、筋肉の造成だけを考えて作られた、味気ないが高栄養価の食事。

箸を持つ手は、まだ小刻みに震えている。最低限のノルマさえ、今の彼にはあまりに遠い。


 ただ、椀の中の味噌汁だけが、唯一の救いだった。


 その温かい塩分が、疲弊しきった体の隅々まで染み渡っていく。二日酔いの朝に飲むそれよりも、遥かに深く、そして優しく。その感覚に、彼の目には生理的な涙が滲んだ。そ


 れでも、白米や焼き魚といった固形物を、喉はまだ受け付けそうになかった。


「――日野旅」


 夕月の、氷のように冷たい声が飛ぶ。


「は、はい! いただきます!」


 びくりと肩を揺らし、綴は慌てて白米をかき込んだ。

喉が受け付けない。それでも、無理やり飲み下す。生きるための、義務だった。


 しかし、一度固形物が胃に収まると、体に眠っていた生存本能が目を覚ましたかのように、震えていたはずの箸が、次へ、次へと、勝手に食事を口へと運んでいく。


 心がどう叫んでいようと、彼の肉体は、ただひたすらに栄養を求めていた。

それでも、機械のように飯を口に詰め込む彼の顔から、死人のような蒼白さが消えることはなかった。



「ご馳走様、でした……」


 どうにか食事を終え、綴は無意識に自分の腹を擦っていた。あれだけ出っ張っていた贅肉が、心なしか削ぎ落とされている。


 地獄の訓練が始まって十日。彼の生活は、単純な暴力によって一変させられた。


 限界まで体を酷使し、飯を詰め込み、泥のように眠る。電子機器も娯楽もないこの場所では、それ以外の選択肢がない。


 その強制的な規則正しさが、皮肉にも彼の体を蝕んでいた不健康を、少しずつ浄化していた。


「休憩終了!」


 夕月の鋭い声が、つかの間の平穏を切り裂く。


「貴様らはストレッチ後、対人訓練に移る。――日野旅。貴様は別メニューだ。ひたすら走れ。そして、筋トレ。今の貴様に許されるのは、人間らしい肉体を取り戻すことだけだ」

「……うっす」


 周りの同期たちが、次の段階へと進んでいく。その背中を見ながら、胸にちくりと痛みが走った。

だが、走り出してしまえば、そんな感傷に浸る余裕など一瞬で消え失せる。肺を焼く痛みと、疲労で重くなった足。


 思考は白く染まり、ただ、前に進むことだけが彼の世界の全てになるのだから。


・・・・・・・・・・


「本日の訓練、終了!各自、クールダウンを怠るな。食事、入浴を済ませ、次の訓練に備えろ!」


 夕月の号令が、地獄の一日の終わりを告げた。

あちこちで呻き声が上がり、誰もが屍のように地面に転がっている。


 やがて、一人、また一人と、ゾンビのような足取りで去っていく中、綴だけはピクリとも動かなかった。


 ただ、仰向けに倒れたまま、彼は空を眺めていた。


 燃えるような橙と、深い藍が溶け合う、美しい夕暮れの空。ここに来てから、初めて意識したその色彩に、彼の心は奪われていた。綺麗だ、と。素直にそう思った。


 がらんとした訓練場を見渡す。あれだけいた人間が、今では両手の指で数えられるほどしか残っていない。初日で半数が消え、一週間でさらにその数が減った。


 彼らは、辞めることを許されたのだ。


(どうして、俺だけが……辞めさせてもらえなかったんだろうな)


 落ちこぼれで、誰よりも足手まといだったはずの自分だけが、なぜ。その問いに、答えてくれる者はいなかった。



 その時、ぐぅぅぅ、と腹の虫が盛大な音を立てた。

 

 空腹。


 美しい空を認識した次に、彼の体が思い出したのは、その原始的な欲求だった。


「……飯、か」


 呟きながら、彼はゆっくりと体を起こす。まだ全身は痛むが、先ほどまでの、心が死んでいた時とは違う。

 

 体の奥底から、確かな熱と、食料への渇望が湧き上がってくるのを感じた。


 それは、彼の体が「明日も生きる」と叫んでいる、何よりの証拠だった。


 綴は、その声に導かれるように、食堂へと歩き出す。


・・・・・・・・・・


 地獄の訓練が始まって、二ヶ月が経過。


 朝礼を告げる号令の前、綴は自室の鏡の前に立っている。


 そこに映るのは、もはや以前の彼ではない。


「……おお」


 思わず、感嘆の声が漏れる。だらしなく付いていた贅肉は消え去り、その下から、くっきりと割れた腹筋と、厚みを増した胸板が現れている。地獄のような日々のしごきが、彼の肉体を実戦向きのそれへと、強制的に造り変えていたのだ。


 高校の部活動以来、いや、それ以上の肉体。


「よし、今日もやるか」


 鏡の中の自分に頷きかけ、彼は部屋を出る。

その言葉に、かつて死を望んでいた男の面影はない。


 もっとも、今の彼にあるのは、目の前の訓練を生き残るという、短期的な目標だけだ。


 その先に何があるのかなど、考える余裕も、そして気力も、まだ持ち合わせてはいなかった。


・・・・・・・・・・


「始め!」


 夕月の号令と共に、訓練生たちが一斉に散開していく。その光景を横目に、綴は今日もまた、一人で走り込むための準備を始めた。それが、落ちこぼれである彼の定位置だったからだ。


「――日野旅」


 不意に、背後から鋭い声が飛んだ。びくりと肩を震わせ、綴が振り返ると、腕を組んだ夕月が彼を真っ直ぐに見据えている。


「は、はい!」


また何か叱責されるのかと身構えながら、彼は慌てて教官の前まで駆け寄った。しかし、夕月の口から発せられたのは、予想だにしない言葉だった。


「貴様も今日から、対人訓練に加われ。武器の扱いにも、慣れてもらう」

「……え?」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。聞き間違いかと思った。だが、目の前の鬼教官は、冗談を言うような人間ではない。


「……は、はいっ!」


 ようやく言葉の意味を咀嚼した瞬間、まるで奔流のような熱が、彼の全身を駆け巡る。それは、この地獄に足を踏み入れて以来、初めて感じる純粋な歓喜の奔流だった。


 抑えようとしても、頬の筋肉が緩み、口元が自然と綻んでいく。


 二ヶ月ぶりに彼の顔に浮かんだその笑みは、社会から、そして自分自身から見放されていた彼にとって、久しぶりに誰かにその存在を認めてもらえた、何よりの(あかし)だった。


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