第十二話 生への渇望
第十二話 生への渇望
「立てる?」
「……ああ、なんとか」
声に促され、綴は軋む体に鞭打って立ち上がる。短剣を構え直し、横目で助け主の姿を盗み見た。
身長は170cm後半の綴より頭一つ低い。
だが、その華奢な体躯から放たれる存在感は、目の前の巨獣にも劣らないほどだった。
綴は思考を目の前の敵に戻す。巨岩を放った反動か、土岩熊は肩で息をしながら、こちらをただ睨みつけている。
好機か? 一瞬、踏み込もうとして、綴は寸前で思いとどまる。
違う。自分一人では火力不足だ。そして何より――今はもう、一人ではない。
「時間稼いで」
気だるげな声が、作戦を告げる。
「……ああ」
綴もまた、短く応じた。
その言葉を合図にしたかのように、土岩熊の敵意が完全に二人へと向く。獣が攻撃態勢に入るのと同時に、綴もまた前に出た。
これまでは延命のための回避だった。
だが、今は違う。
背後にいる彼女が力を溜めるための時間を稼ぐ。
そのためには、ただ避けるのではなく、攻めて敵の意識をこちらに釘付けにする。
――本物の盾役の仕事だ。
ゲームで、配信で、嫌というほど見てきた動き。
綴は恐怖をねじ伏せ、獣の懐へと飛び込んだ。
狙うは、分厚い岩の鎧が途切れた、剥き出しの脇腹。
「シッ!」
短剣が浅く、しかし確かに肉を切り裂く。
(そうだ、こっちを見ろ!)
痛みからか、獣の血走った目が、初めて背後の女から完全に外れ、眼前の綴だけを捉えた。
獣の大振りな爪撃を紙一重で潜り、脇腹に再び一閃。すぐに後方へ跳び、距離を取る。この、あまりにも無謀な攻防の繰り返し。
『ぼん!』
腕を走る痺れをカガリが即座に癒す。倒れないどころか、的確に傷を増やし続ける目の前の小虫に、土岩熊の怒りがついに沸点を超えた。
「避けて」
有無を言わさぬ、静かな命令だった。
その声に従い、考えるより先に体が動く。横っ飛びに地面を転がった瞬間――
ゴウッ、と鼓膜を突き破るような轟音が響き渡る。巨大な槍が横を通り過ぎるだけで、凄まじい風圧と絶対零度の冷気が彼を襲った。
「うげっ!?」
もはや受け身も取れず地面に叩きつけられ、今度こそ意識が飛びかける。
霞む視界の先で、土岩熊は悲鳴を上げる暇さえなかっただろう。
氷槍は、分厚い岩の鎧を紙のように貫き、その巨体を背後の岩壁に縫い付ける。バキバキと全身が凍結していく音が響き、次の瞬間、獣は光の粒子となって霧散した。
あれほど戦場を支配していた巨獣が消え、絶対的な静寂が訪れる。
『おわったー……』
胸ポケットから聞こえる、疲れ切った相棒の声。
それが、張り詰めていた綴の意識の糸を、ぷつりと断ち切った。視界が暗転し、彼の体はゆっくりと横に傾いていく。
彼の意識が途切れる、まさにその寸前。
「……つかれた」
凛とした響きはそのままに、しかし芯の抜けたような声が聞こえた。見れば、先ほどの圧倒的な存在感はどこへやら、女は白木の杖に全体重を預けてふらりとよろめき、やがて糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「だ、大丈夫か!?」
綴は地面に倒れ込みたい体を無理矢理引きずり、彼女の元へ駆け寄った。
「……ん。……ちょっと、魔力切れ」
女は目を閉じたまま、か細い声で呟く。
「……あったかいの、だせる?」
「へ? あったかいの……?」
要求の意味は掴めない。だが、今の自分が出せる「あったかいもの」と言えば……。
綴は、半ば自棄になりながら、個有を発動した。地面から『焚火』がパチパチと音を立てて現れる。
その暖かな光と音に、女の険が取れ、ふにゃりと表情が緩んだ。
「んん……いやされる……」
命の恩人。規格外の魔天の使い手。
その張本人が、今、目の前で焚火にあたってとろけている。
あまりの光景に、綴は自身の疲労も忘れ、ただ呆然とするしかなかった。
「……ちょっと、休憩」
「はぁ!?」
ダンジョンのど真ん中で!? 綴は声にならない叫びを上げるが、女は気にも留めない。
「……だいじょぶ」
まるで彼の心を見透かしたかのように、女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
それが、彼女が言い残した最後の言葉だった。
すー、すー、と穏やかな寝息が聞こえ始める。
規格外の力を持つ恩人。それなのに、ダンジョンのど真ん中で無防備に寝息を立てる女。
綴は、疲労困憊の頭を抱え、静かに呻いた。
「……どうしろっていうんだよ」
答えなど、あるはずもない。
綴は、元凶である二人へと、半ば呆れた視線を向ける。
一人は規格外の力を持つくせに無防備に寝息を立て、もう一人(?)は胸ポケットの中で、同じように『すー、すー』と安らかに眠っている。
そのあまりにも呑気な光景と、パチパチと響く焚火の音を聞いているうちに、張り詰めていた緊張が馬鹿らしくなってくる。
綴の瞼もまた、そこにあるのが当然だと言わんばかりに、ゆっくりと落ちてきた。
「いや……でも、さすがにここで寝るわけには……」
そう頭では分かっているのに、三徹明けのように、脳からの指令を体が拒絶していた。
綴は、ついに抗うのをやめ、地面に大の字に倒れ込んだ。
見上げた空は、燃えるようなオレンジ色に染まり、まもなく夜が来ることを告げている。
脳裏に、昨夜のあの影が過る。背筋が凍りつきそうになるが、パチパチと穏やかに響く焚火の音と、隣から聞こえる二つの寝息が、その恐怖を優しく溶かしていくようだった。
(不思議なほど、穏やかな気持ちだ……)
その穏やかさが、逆に今日一日の失敗を鮮明に思い出させた。
(訓練所で一回、昨日の夜に一回……そして、今日で三回目か)
死にかけた回数を指折り数え、綴は自嘲する。
自分の力ではないものに期待し、また死にかける。
本当に、進歩がない。
『三度目の正直』か、それとも『仏の顔も三度まで』か。
(どっちにしろ、次はない、か……)
こんな状況でことわざを並べている自分の呑気さに、悲しみを通り越して、乾いた笑いが込み上げてきた。
「はは……ああ、本当に、反省しないな、俺」
自嘲の言葉とは裏腹に、心は不思議なほど穏やかだった。自分は生きている。
こうして、燃えるような夕空を見上げている。
(もう、ただ空を見上げて絶望するのはごめんだ。でも、この空を綺麗だと感じられる心まで、失くすのは嫌だ)
その時、心の底から、本当の願いが浮かび上がってきた。
(……そうか。俺は……)
頬を撫でる夜風が、心地いい。岩壁に叩きつけられた背中はまだ痛む。
だが、その痛みこそが、自分が今、ここに生きているという何よりの証拠だった。
「……やっぱ、死にたく、ねぇな」
ぽつりと、本音がこぼれた。もっと生きたい。もっと、この景色を、この世界を、見ていたい。
その純粋な渇望が、綴の口元に、二年ぶりとなるかもしれない、心からの笑顔を浮かばせた。
そんな感傷に浸っていると、隣から聞こえてくる寝息が、やけに耳についた。
「すー……」「『ぴー……』」
(……こいつら、本当に寝てるのか?)
ツッコミを入れる気力も、もはや残ってはいなかった。瞼が落ちる。
(ああ……風が、涼しい……)
それが、綴の最後の思考だった。




