第一話 どうせ死ぬなら
「……人生なんて、クソだ」
遮光カーテンが閉め切られた部屋の闇の中、ベッドに沈んだ体が軋む。日野旅綴、28歳。
その手にはスマートフォンが握られ、青白い光が天井に無意味な模様を映し出す。
虚ろな目が追う画面には、自分とは無関係な世界の、楽しげな映像が流れては消えていく。
「これまで、散々こき使いやがって。
俺より優秀な社員が入ってきた瞬間、今度はゴミみたいに扱いやがってあのクソ上司」
文句を垂れつつ、独り言を呟くも、闇に溶けるように言葉は消えていく。
「ああ……俺の人生、何だったんだろうな」
理不尽な叱責。巧妙に押し付けられる仕事。そして、かつては仲間だったはずの同僚たちからの、氷のように冷たい視線。綴の心が限界を迎えるのに、数週間もかからなかった。
退職を申し出た日、上司は待っていましたとばかりに、まるで不要品を処分するかのように、あっさりと書類を受理。
「……クソが」
上司の顔を思い出すだけで、奥歯が軋み、視界が悔しさで滲む。
だが、その怒りも、すぐに無力感の沼へと沈んでいった。
数年間、働きづめだった綴には、当座の生活には困らない程度の貯金があった。
実家の親からは「いつでも帰ってこい」と優しい声が届いたが、どんな顔をして帰ればいいのか分からなかった。
結局、彼は空の弁当容器と酒瓶が転がるアパートの一室で、ただ貯金を切り崩しながら、緩やかに死んでいくような日々を過ごしていた。
「消えたい……」
スマートフォンの検索履歴は、『自殺』『安楽死』といった、救いのない言葉で埋め尽くされている。
机の上には、ドラッグストアで手に入るだけの風邪薬の箱と、現実を麻痺させるためだけに呷った安酒の瓶が転がっていた。
自ら命を絶つ勇気はない。だが、このまま生き続ける気力もない。
そんな矛盾を抱えたまま、彼はただ、薬の過剰摂取という不確かな奇跡に、最後の望みを託そうとしていた。
『君も、探索者になろう!!』
爆音で流してた動画から、そんな音声が漏れる。
ダンジョン配信専用の動画アプリ、通称『Dダイバー』。
配信中に流れて来るCMの音を聞いて、綴はベッドからガバリと起き上がる。
「ダンジョン、か」
会社員であれば、そこそこの給料で、それなりの生活ができた。だからこそ、28歳になるまで社会にしがみついてきたのだ。だが、その糸はもう切れた。新しい仕事を探す気力も、新たな人間関係を築く自信もない。
画面の中では、探索者が派手なスキルで魔物を倒し、喝采を浴びている。あんな風になれるとは思わない。だが、少なくとも彼らは、生きている。戦っている。この部屋の隅で、ただ腐って息絶える自分とは違う。
「そうか……」
視線を、スマートフォンの画面から机の上の薬箱へと移す。
こんなもので、本当に楽になれるのか。この惨めな部屋の隅で、誰にも知られずに、ただ消えることが、自分の結末なのか。
再び、画面に目を戻す。爆炎。剣戟。咆哮。
そこには、少なくとも「生」と「死」の確かな手触りがあった。
「どうせ死ぬなら……ダンジョン、か」
その考えに至った瞬間、まるで何かのスイッチが入ったかのように、淀んでいた彼の思考が急速に回転を始めた。
「よし、それだ!!」
ベッドから跳ね起きる。その表情は、数秒前まで死を考えていた人間とは思えないほど、不気味なほどの活気に満ちていた。
一種の躁状態だったのかもしれない。「自分よりも大変な人はいる、自分はまだ恵まれているはずだ」という理性の声と、「もう何もかも終わりにしたい」という本音のせめぎ合いが、彼の心を限界まで追い詰め、そうすることでしか前に進めない、歪んだ活力を生み出していたのだ。
・・・・・・・・・・
数週間後。
借りていたアパートを解約し、過去の全てをゴミ袋に詰めて捨てた。
今の綴の全財産は、背負ったリュックサック一つだ。
「……行くか」
探索協会の壮麗なエントランスを前に、彼は自分を鼓舞するように短く呟き、固く閉ざされた扉を押した。
「探索許可証は、出ない、と?」
綴の問いに、受付嬢は業務用の微笑みを崩さずに頷いた。
「はい。日野旅様はダンジョン経験がございませんので、まずは探索者資格試験を受けていただく規定となっております」
「……試験」
その言葉は、冷たい水のように綴の頭に染み込んだ。そうだ、そんなものがあった。
死ぬことばかりに気を取られ、あまりにも短絡的に事を進めすぎていた。自分の浅はかさに、彼は眩暈すら覚える。
そんな彼の内心を意にも介さず、受付嬢は淡々と続けた。
「はい。ただ、失礼ながら申し上げますと、日野旅様の現在のご様子では、試験の合格は極めて困難かと存じます」
「うっ……」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その内容は彼の心臓を的確に抉った。
彼女の視線が、贅肉のついた自分の腹や、不健康な顔色を値踏みしているのが分かったからだ。
(凄いずばずば言うな……まあ、その通りだけど)
ストレスによる暴飲暴食で蓄えられた脂肪、そして長年の喫煙で蝕まれた肺。
探索者とは、あまりにもかけ離れた肉体であることは、誰よりも綴本人が一番理解していた。
だが、それでも。
ここで引き下がるわけにはいかなかった。
死に場所を求めて、過去の全てを捨ててきたのだ。もう、彼に戻る場所などどこにもない。
震える膝に、叱咤するように力を込める。会社を辞めてから、まともに人と目を合わせることすらできなくなっていた。それでも綴は、脂汗の滲む顔を上げ、受付嬢の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……それでも、やらせてください」
絞り出した声は、情けなく震えていたかもしれない。
だが、その瞳に宿るのは、後がない人間の、なりふり構わぬ覚悟の光。
その必死の形相に、受付嬢は表情を崩さず、にこりと業務用スマイルを返した。
そして、一枚の書類をカウンターに滑らせる。綴は、その紙に視線を落とし、呟いた。
「訓練、施設?」
「はい。こちらの訓練施設に入所し、所定の課程を修了なされば、日野旅様にも探索者としての道が開かれます」
受付嬢が示したパンフレットに、綴は視線を落とす。そこに並ぶ数字に、思わず息を飲んだ。
(た、高い……)
入所金と半年分の費用で100万。その後は半年ごとに50万。そして、三年以内に教官から許可を得られなければ、探索者の道は永久に閉ざされる。あまりにも厳しい条件だった。
「なお、中途退所される場合は規定に基づき一部返金も可能ですが、全額は返金されませんのでご注意ください」
『返金』
その文字に、一瞬だけ心が揺らぐ。まだ、引き返せるのではないか、と。
だが、彼はすぐに奥歯を噛み締め、その甘い思考を打ち消した。
(逃げ道を探してどうする。俺は、死に場所を見つけるために、全てを捨ててここに来たんだ)
一度固めた覚悟が、再び彼の心を支配した。
パンフレットに記された数字を、彼は頭の中で計算する。三年、もし彼が落ちこぼれ続けた場合の総額は350万。それは、彼の貯金のほぼ全てに等しい。
安月給で上司の嫌味に耐え抜いた、惨めな5年間。その対価が、人生最後の挑戦権。そう思うと、乾いた笑いが込み上げてきた。
書類の片隅には、税金や社会保険料が補助される旨も記されていた。
存在するだけで取られる住民税。大した怪我もないのに支払い続けた国民健康保険。
そして、将来貰える保証すらない年金。そんな社会とのしがらみからも、探索者になれば解放されるのだろうか。
もっとも、死に場所を求めている彼にとって、それは些細な問題でしかなかったが。
綴は全ての思考を吐き出すように、長く、静かな息を吐いた。もう、迷いはない。
「いかがでしょうか。こちらの訓練課程は、明日からでもご参加いただけます。滞在されるお部屋もご用意しておりますので、日野旅様は訓練にのみ集中できる環境です」
もはや、断るという選択肢はなかった。いや、むしろ、彼が迷う余地すら与えない、至れり尽くせりの提案だった。
「……お願いします」
「かしこまりました。それでは、こちらにサインを」
差し出されたペンを握る。その重さが、彼が捨ててきたもの、そしてこれから賭けるものの全てを象徴しているようだった。
綴は震える指で、契約書のサイン欄に自分の名前を刻み込んだ。
「ご契約、承りました。日野旅様の挑戦を、協会一同、心より応援しております」
「よ、よろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げた綴に、受付嬢は「それでは、あちらへどうぞ」と通路を示した。
案内された部屋の扉を開ける。そこは、殺風景なベッドと机が置かれているだけの、独房のような一室。
だが、綴にとってはそれで十分だった。
こうして、彼は訓練者として、人生最後の舞台へと一歩を踏み出した。ダンジョンという、輝かしい死に場所を求めて。