第八の手記
ついに出会ってしまった最愛の人。
いや、公介にとっては、人智を超越した女神のような存在だった。
貯金を切り崩しながらネットカフェやスーパー銭湯を点々とする日々は、自分と向き合うには充分すぎるほどの時間を与えてくれました。
マイのことを思い出さない瞬間がないほどに、彼女の顔が、終始脳裏にこびりついては離れず、罪悪感に苛まれては終わりのない苦しみを、これでもかというほどに味わいました。
自分は、法律的観点で言えば、罪人ではありませんが、一般論的見解で見れば、間違いなく裁かれるべき社会悪だと自覚せざるをえませんでしたが、どうにも腑に落ちない点がありました。
若い体を武器にしては男から搾取を繰り返し、その恵まれない境遇に同情して援助をしてくれた男の善意を踏み躙る行為をしていた彼女は、悪ではないのか。
彼女が生きていたと仮定し、その先の彼女の未来に安寧はあったのか否か。
もしかして、無駄に歳を重ねるよりも、若いうちに死ねた方が、彼女の場合は良かったのではないか。
売春の過去を隠し、猫を被って無垢な男と結ばれる未来が仮にあったとすれば、彼女の死は、その罪深い行為を阻止したという意味では有益であり、犠牲となる男が減少したという社会貢献に繋がったのではないか。
罪の意識に苛まれていた自分は、そういったことを自身の心に言い聞かせ、罪悪感から逃れようとしていました。
自分は罪人でもなければ、断じて悪でもない。
悪はあの様な女を生んだ社会であり、そもそも、自白強要を迫ったあの刑事の方が、よほど悪党ではないかとさえ思いました。
あれほど希死念慮に苛まていた自分ですが、何故かこの期に及んで、図太くも生き永らえようという、不思議な心境に至ったのです。
失うものなど元より持ち合わせていない。
第二の人生の幕を開けるべく、自分は前進する事を心に決めました。
ひとまず不動産サイトから血眼になって手頃な物件を探し、杉並区の環八通り付近の、家賃三万円の物件の審査を奇跡的に通過し、いとも容易く寝床の確保を成功させました。
流石は、23区内とは思えぬほど破格な賃料とでも言うべきでしょうか、廃屋と見紛うほどのボロアパートでしたが、自分は心なしか嬉しかったのです。友も女もいない、家族からの縛りも無い、本当の意味で独りになり、自由になれた事による開放感に高揚し、生きる希望の様なものを見出すことが出来たのです。
自分は、今度はアルバイトでも探そうと思い、ネットで色々見ていると、ボロアパートのすぐ近くのパン屋が、調理補助(接客業など到底出来るはずがない自分にとって、簡単な調理補助の仕事は理想的だったのです)のスタッフを募集していると知り、偵察がてら、冷やかしに行く事にしました。
無類のメロンパン好きの自分は、トングとお盆を持ち商品を吟味しておりましたが、かつてメロンパンが並べられていたであろう置き場に、完売の二文字が書かれた札の様なものが貼られているのを見て落胆しましたが、店に入った以上、何も買わずに帰るなどという非常識な真似をする事は、自分の美学が許さず、そして、何も買わずに帰るという行為は、建造物侵入罪に該当する恐れがあるやもしれぬと深読みし、適当に惣菜パンを買って帰る事に決めました。
帰り際、レジ打ちの女性店員に「待ってください」と呼び止められ、恐る恐る振り返ると、女性は、メロンパンが一つ入った小さな紙袋を、自分に渡してきて、その思わぬ展開に、自分は意表を突かれたのでした。
「当店のメロンパンは人気商品なので、すぐに売り切れちゃうんです。これ、実は後で私が食べようと思って取っておいたんですけど、お兄さんに差し上げますね。私はいつでも食べれるんで」と、屈託も打算もない笑顔で言われ、自分は思わず顔が熱くなり、耳まで真っ赤になってしまいました。
流石に申し訳ないから、金は払いますよと言いましたが、女性店員に頑なに拒否され、自分は恥ずかしくてきりきり舞いをしてしまいそうな気持ちを抑えながら、帰路につきました。
それは、女神への謁見に近かったです。
自分は、その女性店員に、一目惚れをしてしまったのです。
自分は、これまでの人生で、あんなにも綺麗に笑う人を、ただの一度たりとも見たことがなかったのです。
前の女も、過去に遊んできた女も、比較対象にすることすら烏滸がましいほど、全てにおいての格が違い、本当に、あんな人が自分と同じ世界に存在しているのかと疑いたくなるほど、神々しかったのです。
あの女性の職場である小洒落たパン屋の名前と、あの女性の付けていた"冬川"という姓が書かれた名札、これら二つを手掛かりに、自分は彼女の事を徹底的に調べ上げ、遂にSNSのアカウントを特定しました。
その後は、そのSNSアカウントの投稿を調査すれば、彼女の名前、故郷、出身校名と在籍大学、現在の交友関係と行動範囲と1日のルーティーンを調べ上げる事は造作もありませんでしたが、流石に、彼女の現在の住所と最寄駅の特定までには至れませんでした。
自分はそれから足繁く、多い時は8日連続で例のパン屋に通い、その度に、とっくに飽きているメロンパンを買い続けていたのです。
あれほどまでに女を蔑視していた自分が、たった一人の女性の笑顔が見たいがために、こんな大胆な行動に出るなど、自分の薄っぺらい人生史を振り返ってみても、どこにも記されていませんでした。
彼女は自分と同い年の女子大生で、名をエミリといいました。
自分は、パンを買いに行くたびにエミリと少しの会話をする程度の関係でしたが、通い続けるうちに、くだらない世間話をし、冗談を言い合っては笑い合う程の仲になっていきました。
遠い昔に笑顔を封じた自分は、自身の笑顔は元より、他人の笑顔や笑い声が大嫌いで、不快でした。
その全てが、自分に対する嘲笑と侮辱に思えてならなかったからです。
自分は、笑顔を厭悪していましたが、唯一、エミリの笑った顔だけは、自分にひとときの安らぎを与えてくれたのです。
自分たちの関係は、所詮は妙な常連客と店員でしたが、そうと分かっていても、自分にとっては、あの時間こそが、人生で一番心が安らかになった、大切な時間だったのです。
側から見れば、どこにでもいる、何の変哲もない普通の女性に見えるかもしれませんが、自分にとっては本当に特別な存在で、その感情は最早、好意を超えて、崇拝に近かったです。
自分は幼い頃、母親から「女の子を大事にしなさい」と、口酸っぱく言われて育ちましたが、上京してからは、それとは真逆のことばかりしていました。
母親の言う通りに、女に優しくなど陳腐な正義感を心がければ、女に舐められ、良い様に利用されるだけだと知っていたからです。
電車の乗降時に残高不足で改札を通過できず、後ろに人がいるというのに、フリーズして数秒立ち止まる。
狭い通路で広がって歩き、前方から人が歩いてきても誰一人避けようとしない。
建物の出入り口前に屯して井戸端会議をする。
こんな連中に、なぜ敬意を持って優しく接しなければならないのか、自分は甚だ疑問でしたが、エミリに関しては、心の中で微塵も見下す事なく、自然体で接することができ、初めて、笑うことが出来たのでした。
ある日、パン屋の店先で、二人で他愛のない会話をしている時、エミリから、笑った顔が可愛いと言われ、自分は照れるよりも先に、衝撃を受けたのでした。
他者に自然な笑顔を見せることのできる自分自身の変貌ぶりもさることながら、自分の笑顔は気持ち悪いから、自分は人前では笑ってはいけないと、少年時代から自己洗脳をしていたため、まさか、他人からそんな事を言われる日が訪れるとは、夢にも思っていなかったからです。
「今夜空いてる?ご飯でも行こうよ」
自分は、勇気を振り絞るまでもなく、自然とこんな言葉を口に出せました。
「うん、行きたい」
「本当か!」
「何でそんなに驚いてるの」
「良さげな店探して予約するよ!嫌いな食べ物とかアレルギーはない?」
まるで、中学生の様な恋でした。
鉄板焼き屋で、愛想の悪い店主に気を遣いながら、気まずそうに小声で会話していたあの時間でさえ、当時の自分にとっては宝物で、また、自分の様などうしようもない男が、かような女神と同じ時を共有して許されるのかと、恐れ多くすら感じ、それこそ、女ひとりを死に追いやる行為よりも、遥かに重罪なのではないかとすら思えました。
エミリを家まで送る道中、自分は徹底的にジェントルマンを演じ、猫を被り、彼女の家に上がることも、また、自分の家に連れ込むことなど言語道断で、実に健全なデートに終わり、やがて、自分達はどちらから言い出すまでもなく、付き合う事になったのでした。
幸せでした。
喜びも悲しみも、他の誰かと共有し、分かち合えるものだと知りました。
彼女に喜びあれば分かち合い、悲しみあれば全て自分が吸い取ろう。
彼女に降りかかる火の粉あれば身代わりとなろう。災いあれば、喜んで犠牲となろう。
彼女が道誤れば、自分も共にその道を歩こう。
彼女が是と言えば、悪行すらも是と讃えよう。
彼女に害する者あれば、四肢を潰そう。
彼女が死にたいと言えば、共に死のう。
彼女と共に過ごせるならば、この先どんな不幸が待ち受けていても構わない。
自分は、あの時間違いなく、この世で1番の幸せ者だったに違いありません。
彼女の存在そのものが、自分の生涯で最も美しく純粋で、豊かな夢でした。
しかしそんな幸せを、自分は自ら手放してしまったのです。
破壊とは、いつだって、一瞬の出来事なのです。
エミリを運命の女性と信じて疑っていなかった公介。
次回、知りたくなかった真実を知ってしまった公介は、地獄に叩き落とされる。