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3.リリカと夫と魔法使い(後編)

本編はこちらで完結です。


・ヘラ視点

・カミル視点

・ネモ視点

・ポポラ視点


でのお話&後日談を予定しています。

 リリカは、まだ膨らんでいないお腹を守るようにうずくまった。周囲で悲鳴が上がる。痛みを覚悟したのだが、……なにも起こらない。恐る恐る目を開ける。


 そこにあったのは、見慣れた大きな背中だった。走ってきたのだろうか、息が上がっている。ふわりと香る、青林檎のような香水は、結婚記念日にリリカが贈ったもので……。視界が安堵に滲んでいく。


「……カミ、ル?」


 なんとか声を絞り出すと、目の前に立つ人が振り返った。不機嫌そうなその顔は、口数の少ない夫の、心配しているときの表情だとリリカは知っている。カミルは、うずくまったままのリリカの手を取り、支えるようにして抱き起こした。


「カミル、カミル……!」


 リリカは、夫の胸に飛び込んだ。カミルもまた、リリカを抱きしめ返す。その手はかたかたと震えていた。


「よかった、間に合った」


 胸に伝わってくるカミルの鼓動は、痛いくらいに速い。


「だれだお前は! 離せ、離せ……!!!!リリカは僕の妻だ、離れろよ!顔を見せろ!」


 ナルヴィスの声が、夜の街に響き渡った。


 リリカは、カミルの大きな肩越しに、彼の姿を見た。子どものように必死にばたばたと手を動かし、涙をこぼしているのだが、複数の手が彼を煉瓦の道に押さえつけている。


 ナルヴィスは、ふいに目の色を変えた。警備隊の一人が魔封じの腕輪を取り出したのだ。


「やめろ!」


 人々のざわめきが大きくなる。


「魔封じの腕輪?」

「魔力があるってこと……?」

「もしかして、ネモとにたようなものかしら」


 魔封じの腕輪は、魔法を暴発させる危険性のある罪人に使われる。過去に、ネモを捕まえようとした者たちが殺されたことを教訓に、警備隊員たちはつねにそれを持ち歩いているが、実際に使われた例はこれまでにないのだ。



「あなたがエストラードさんですか……! 」


 警備隊の一人が、夫の元に駆け寄ってきて敬礼する。


「いや、半信半疑だったんですがね、本当に危なかったですよ。通報してもらえてよかった」

「え、俺は通報なんて……」


 カミルは困惑している。


「あの男、違法な転移魔石を持っていました。隣国産の禁制品でね。わずかでも魔力があれば使えるやつなんですよ。あと少しでも遅れたら、奥さんが連れ去られていたかもしれません」

「連れ去られて、いた……?」


 リリカは怖くなって、カタカタと震えた。自分のことばかりだったけれど、ふとヘラが一緒だったことに思い至る。ヘラは、リリカのすぐとなりで気を失って倒れていた。


「ヘラ、ヘラ!」


 顔色は見たことがないくらい真っ白だ。ヘラのまつ毛が震えて、わずかに赤い瞳が覗く。

 美術館から支配人が飛び出してきて、てきぱきと指示を出した。


「まさか、あいつが……」


 そうつぶやいたカミルの声は、リリカには聞こえなかった。


 リリカはその背中に身を預けた。すると、緊張の糸が切れたのか、そのまま意識を失ってしまった。





 リリカはまた夢を見る。

 いや、過去を、見ている。ここ数日で、ほんの一部だけ、前世の記憶が戻っていた。


 それは、自分が死ぬ瞬間だ。胸を貫かれた苦しみ。そしてそんな自分を抱えて、涙をはらはらと落とすナルヴィスの表情。

 愛している、君を愛しているんだと何度も切なげに訴える声色は、嘘には聞こえなかった。


「次の世界では幸せになろう」


 リリカの目はすっかりかすんでいて、もうあまり見えないのだが、はらはらと雪のように降ってくる涙が、さらに目を曇らせていった。


 そのあと、くぐもった声とともに、ナルヴィスは倒れ込んだ。支えていた腕が崩れ落ちたので、リリカの身体もまた、地面に投げ出される。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 だれかがリリカにすがるようにして、泣いていた。

 頬をちくちくと刺す草の感触も、土のにおいも、どんどん遠くなっていく。目の前が、赤く染まっていく──。




 それを思い出してもなお、リリカの中にはなんの熱も蘇らなかった。ナルヴィスのことは、幼いころ仲良くしてくれた友人に過ぎない。彼と家庭を築くことなんて、考えられなかった。


 だから、リリカは怖くなった。──前世は、本当にあるのだ。


 それならば、いま、こんなにも夫を、カミルを愛しているのに、生まれ変わったらまったくの他人になってしまうのだろうか。

 もし、お互いが生涯知らないままならいい。でもナルヴィスのように、片方だけが思い出してしまったら? すでに相手に伴侶がいたら?


 一生、嫉妬の炎を燃やして生きなければいけないのではないのだろうか。

 リリカの悪阻は、迷い込んできた蝶が庭を一周するくらいのわずかな間隔で吐き続ける、やや重いものだった。ほんの数週間で枯れ木のようになった。終わらぬ気持ち悪さに、夜になると見る悪夢。


 そんな中で彼女は、正常な判断力を持ち得なかった。

 生来の彼女は、深く考えないおっとりした気質なのだが、ありもしない不安がぐるぐると渦巻いて、夫の顔を見るのが怖くなった。すこし前までは心待ちにしていた夫からの連絡に不安になるほどに。


 ──あの人が、カミルが、もし他の人を愛してしまったら? ここ数日は、そればかりをぐるぐると考え込んでいた。





 美術館で倒れたあとリリカが目を覚ましたのは、真っ暗な部屋だった。


 一瞬自分が連れ去られたのかと思って取り乱し、叫びそうになったけれど、てのひらにぬくもりを感じる。そちらを見やると、カミルがリリカの手にすがるようにして、寝台の横に座ったまま寝息を立てているのに気がついた。


 あれからどれくらい経ったのだろう。


 しゃらりと冷たい風が吹いてきて、カーテンが揺れる。大きなまんまるい真珠色の月が、リリカとカミルの二人だけを、舞台の上のように照らしていた。


「来世のことなんてわからないわ」


 リリカは、ぽつりとこぼした。


「それでもわたしは、この人がいい。この人じゃなくちゃ、いやだ……」


 今度は、自分に言い含めるようにつぶやいた。

 はらはらと涙が落ちてくる。喉が熱くて苦しい。リリカは、わざと大きく息を吸い込んだ。荒い息を整えるように、呼吸をくり返す。そして、涙を手の甲でぬぐった。


 ぱちぱちぱちと、乾いた音が、窓の外から聞こえる。


「ふふ、いいね! いいよ、君」


 窓枠を踏み越えるように、男が入ってきた。叫ぼうと思うのに声が出ない。


「ひさしぶりー。たまに見てたからわかってたけどさ、変わってないね」


 やや不健康そうな色白の男だ。

 顔立ちは整っていそうなのだけれど、頬が痩けている。髪の毛は無造作にくくられた長い黒髪。目の下には深いくまがある。


「心配しなくていいよ。君たちには魔法がかかっている。何度でも巡り会える、特別な魔法だよ。邪魔者は俺がなんとかしておいてあげるからさ、安心しなよ」


 男は不器用な笑みを浮かべている。薄いくちびるの端が、片方だけぎこちなく上がっていて──。


「……ネモ?」

「うん、俺がネモだよ。君には昔世話になったからさ、いいものあげる!」


 そういうとネモは、リリカにてのひらを向けた──。







「リリベルカーナ。勘違いしてもらいたくないのだが、僕は、君を愛することはない」


 それは結婚式を終えた夜のことだった。

 魔導灯ではなく、蝋燭のぼんやりした光と、窓から差し込む月光しかないため、室内の様子はよく見えない。薄手の寝間着を着せられたリリベルカーナは、押されて床に倒れ込み、先ほど夫となった男を呆然と見上げていた。


「この結婚はね、親に押し切られたんだ。僕には真に愛する人がいる。だから君にはせいぜいお飾りの妻でいてもらうつもりだ」


 美しい夫、ナルヴィストラードは冷たく切り捨てるように言った。そして、愛人のいる離れへと”帰って”いった。


 実家で冷遇されていたリリベルカーナは、これで自分も憧れていた温かい家庭を築けるのだと思っていたから愕然とした。けれども、翌日も、そのまた翌日も、ナルヴィストラードは彼女を拒絶した。


 リリベルカーナは、衣食住があるだけありがたいと考えるようになった。実家では使用人に混じって働いてきた。一日の食事はひときれのパンだけ。顔は煤で汚れ、水浴びもままならなかった。


 衣類も支給されることなどなく、ゴミ捨て場から使用人が捨てたものを拾ってきては、バレて怒られないようにちくちくと縫い直して身につけていた。新しいドレスへの憧れがあったけれど、それは絵を描くことで紛らわせていた。


 それに比べたら、今はずっと幸せではないか。温かい湯につかり、身体を磨き上げてもらった。鳥の巣のようだった髪の毛も、櫛を通してもらい、つやつやと銀の月のように輝いている。

 それにこのドレス。清楚な詰め襟のドレスには、繊細なアズィーリアの花の刺繍が模様のようにあちこちに施され、小粒の宝石も縫い付けられている。


 目の前にある小さな幸せに気づいたら、リリベルカーナの世界は変わった。屋敷のなかで自分ができることを懸命にやった。

 助けてくれる人が、ぽつりぽつりとできてきた。友と呼べる人も、二人ほどできた。


 ──いつからだろう。

 ナルヴィストラードが、食事をともにしたがるようになったのは。


 そうしてあの事故が起こってしまう。リリベルカーナは、よろけたはずみに壁にぶつかった。そこには何もなかったはずなのに、焼けるような痛みが走った。息ができない。

 自分の胸から、木が生えているようだとぼんやり思った。


「リリカ! リリカ……!」


 ナルヴィストラードは、はらはらと涙を流した。今まで呼ばれたことのない愛称を呼びながら、熱のこもった目で自分を見つめる夫を、リリカはぼんやりと見つめていた。


「すまない。ああ、どうしよう……なぜこんなことに……。リリカ、僕は、君を愛している。愛しているんだ……」


 リリカの目の前がどんどん暗く曇っていく。




 次に彼女が目を覚ましたのは、暗いひんやりとした場所だった。胸に空いていた穴は綺麗に塞がっている。横に倒れているのは、影に日向にリリカを助けてくれていた庭師の青年。リリカのはじめての友だち。


 カミルは、婚外子であるという理由で使用人として冷遇されていた、ナルヴィストラードの異母弟だ。


「カミルさん……?」


 リリカは取り乱して、彼にすがりつく。カミルは真っ白な顔で苦しげだ。胸がかすかに上下しているだけ。


「そいつさぁ、ちょっと死にかけてるよぉ」


 間延びした声が響く。

 驚いて振り返ると、ごつごつした岩壁に氷のような巨大な結晶があって、その中に男が閉じ込められていた。


 やや不健康そうな色白の男だ。

 顔立ちは整っていそうなのだけれど、頬が痩けている。髪の毛は無造作にくくられた長い黒髪。目の下には深いくまがある。

 男は不器用な笑みを浮かべている。薄いくちびるの端が、片方だけぎこちなく上がっていて──。


 それが、リリカと魔法使いネモの、出会いだった。





「この男、魔力量はなかなかのもんだねえ。俺の遠い親戚みたいだから、あり得るっちゃあり得る話か」

「なにを……」

「んーちょっとまってね。調べたげる」


 男は目を閉じてなにかぶつぶつと唱える。


「なるほどなるほど。ざっくり言うとさぁ、そいつは、死にかけた君を魔法で助けたんだよ。魔力開放したのはじめてだったみたいだねぇ。引き出しすぎだよ。俺の魔力分けてあげる」


 男の身体が光る。氷の結晶のような部分に細く細かい亀裂が入り、そこからじゅわりじゅわりと、日が完全に沈む直前の空のような色をした光が滲み出してきて、カミルの身体へと吸い込まれていった。


「あの罠、俺が仕掛けてたやつなんだ。完全に事故。千年くらい前の話だからすっかり忘れてて……。力尽きたその男と、君とがさ、俺のところに転移させられてきたときはびっくりしたよ。罠にかかったやつがさ死ぬとこみたくって、俺の前にくるように、自分で設定したんだったあ」


 男は片方のくちびるをあげて、楽しそうに笑う。


「あの、何をおっしゃっているか、……わからないです」


 リリカは声を張り上げたが、男は意に介さずといった様子でぺらぺらとしゃべり続けた。


「ここは……?」


 カミルがまつ毛を震わせた。額を押さえながら、身体を起こそうとしている。


 二人は、自分たちの知る情報をすり合わせて、答え合わせをしていった。その間も、魔法使いネモはわけのわからないことをぺらぺらとまくし立てていたが、二人ともだんだん慣れてきて、気にせずに会話を進めた。


 リリカを見つけたときには、ナルヴィストラードとその愛人も、その場で事切れていたという。手にかけたのはリリカでも、カミルでもない。でも、その場から姿を消してしまった以上、──二人はおそらく、もう、表の世界に戻れない。でも、それも悪くない気がした。


 ナルヴィストラードは、死にかけたリリカを見て、ただ涙を流すだけだった。来世で会おうとそう言った。でも、カミルは、自らの命を危険にさらしてまで、今のリリカを守ってくれた。

 リリカの胸の中に、温かい種が芽生えた。


 そして数年後、リリカとカミルは……。






 鳥の声で目を覚ましたカミルは、がばりと飛び起きた。

 てのひらに確かにあったはずのぬくもりが消えていたからだ。驚いて立ち上がると「起きたの?」と声をかけられた。


 久しぶりに会う妻は、すっかり痩せていた。もともと華奢だったのに、ずいぶんやつれてしまったように思う。カミルはその細い肩をかき抱いた。


「会いたかった……」

「わたしも」

「無事でよかった」

「あなたも」


 カミルは、どちらかというと大人しくて恥ずかしがり屋の妻が、まっすぐな強い視線を自分に向けてくることに驚いた。


 リリカは何度か視線を彷徨わせた。どう切り出そうか迷っているようだった。


「どうしたの」

「うん、あのね、思い出したことがあって……」


 リリカは、はくはくと浅い呼吸をしている。

 淡いブルーの瞳を隠すように涙が滲み出している。カミルはベッドに腰掛けると、彼女を膝に乗せるようにして抱き、苦しそうに上下する背を撫でた。


「何でも聞く。……ゆっくりでいいよ」


 どれくらいそうしていたのだろうか。

 やがて、リリカは遠慮がちに口を開き、けれども、強い確信を持った目で、こう言った。


「カミルが、……カミルは、わたしの前世の旦那様だったのね?」と。


 カミルは驚いた。

 乾いた笑いを漏らし、目尻に流れていく涙を隠そうと手の甲で顔を覆う。


 そうしてふたりは、吸い寄せられるように口づけをした。バルコニーに、にやつく魔法使いが隠れていることに気づかずに。

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