2.リリカと夫と魔法使い(中編)
『リリカと夫と魔法使い』作中メモ
・アズィーリアの花:
日本でいうところの「ツツジ」に似た花。開花は春先で、蜜を含むため、さまざまな虫を呼ぶ。
・浮遊車:
ルナ・マシーナ。十六王国の空に浮かぶ2つの月の光を動力とした、最先端の車。リリカとヘラが暮らす大陸では、まだ十台にも満たない。
夫のカミルが王都を離れた日のことは、よく覚えている。彼はリリカを実家であるクリューゼの屋敷へ送り届けると、ひらひらと手を振って、夜が迫ってくる方角に消えていった。蝉の声がひどくうるさかった。リリカはそのとき、いやな予感を覚えていた。
妊娠に気がついたのは、実家に身を寄せてしばらく経ってからだった。
夏は駆け足で過ぎ去り、近ごろは朝夕の空気がひんやりとしている。カミルにはまだ、リリカの中にいる新しい命の存在を伝えていない。
「悪の魔法使いネモ展」がそろそろ終わるらしい。
カミルがまだ戻らないなら、女二人で行かないかと、ヘラから誘いがあった。
ポポラは過剰に心配したけれど、先週よりはすこし体調も落ち着いていたし、人と話している間は気分が悪くならないことに気がついたので、出かけてみることにした。
「あのね、王立美術館は、絶対に暗い方が綺麗なんだよ!」
ヘラがそう断言するので、出発時間は夕方に決まった。
当日になってもポポラはまだ心配していたが、午後になると諦めたように笑い、リリカの長い銀髪を複雑な形に編み込み、花を挿した。
「吐き戻してしまうとき、髪がじゃまになったらいけないわ」
そういえば、リリカがまだ結婚する前の去年の今ごろ、ポポラは外で食べたものに当たって、一日中吐き続けていた時期があったっけと、リリカは思い起こした。
ポポラはリリカが家を出ていくのを泣いて嫌がり、引き止めた。初対面だったカミルに挨拶もそこそこに突進し、ぽかぽかと彼の厚い胸板を殴っていたっけ、とリリカを思い出す。
それから涙をぬぐってカミルを見上げた。まるで時が止まったように、ポポラはなにかを見ていた。それからふいにカミルから離れて、乱れたスカートの裾を直し、彼のことを「義兄さま」と呼びはじめたのだった。
リリカは、クローゼットの扉を開く。そこに入っているのは、今よりもう少し若いころに身につけていたものばかり。少し色味が明すぎるような気がして、なかなか気が進まない。
ワンピースはすべてリリカが自分で縫ったものなのだが、妹たちの服の足しなればと実家に残していた。
「でも、お下がりばかりもつまらないよね」
せっかく実家に戻ってきているのだから、弟や妹のために、新しい服を一から作ってあげるのも良さそうだ。
リリカはそのひらめきにわくわくした。
アスターはすぐに泥だらけになるから、撥水性のある生地を探そう。アイリスは最近、ピンクを卒業したと聞く。淡い水色のワンピースを作ってあげよう。カメリアは物語に出てくる悪役に憧れているので、強くなれそうな深い赤で動きやすいパンツスタイルにしたらいいかもしれない。
デザイン画を描いているうちに、日が傾いてきた。
屋敷の前に浮遊車が停車しているのが見える。トーマスに買ってきて欲しい布をまとめたメモを手渡し、リリカは階段を降りた。
この日のヘラは、真っ白でゆるりとした、ワンピースというには短くて、シャツというには長すぎる、王都で今流行りの形の服を身にまとっていた。その下には、ふんわりと裾が広がる、女性らしいパンツスタイル。
ヘラが動くたびに、肩口で短く切りそろえた髪の毛と、耳に輝く大ぶりのイヤリングがしゃらりと揺れた。
浮遊車は、海の向こうの大陸で開発されたもの。ブルムフィオーレ王国ではほとんど普及していないのだが、ヘラが自分で稼いだお金で購入したという。
ふわりと浮き上がり、リリカは感嘆する。ハンドルを握るヘラは得意げに笑っていた。
屋敷がどんどん小さくなっていく。淡いサーモンピンクに染まる西の空へ向かって、ものすごいスピードで飛ぶ。馬車とは違い揺れもほとんどない。
自分がとてつもなく高いところにいるという恐怖に気づくこともないくらい、ごくごくわずかな時間で、王都中心部に位置する美術館にたどり着いた。
ブルムフィオーレ王国は、花の国と呼ばれている。一年を通して温暖で、花のない時期が存在しない。
人々は植物を偏愛している。ひと昔前の高位貴族でさえ、手ずから土を耕し、肥料をまき、手を汚して自らの庭園を作り上げていたのだが、それは他国からすると驚くべき野蛮な文化なのだそうだ。
そんな、花の国の王都の美術館である。外観もまた独特な形状をしていた。
アズィーリアンの花のように、筒状で、上部がふわりと開く花びらのよう。きっと硝子で作っているのだろうけれど、どうやってこんな複雑な構造物を組み上げているのだろう。
美術館のある場所は、高層建築物が立ち並ぶ海沿いの都市だ。両側を巨大な建物に挟まれているのだが、敷地内には地面がない。
「すごい……」
建物を囲む水には色とりどりの花と、小さな魔導灯が浮かべられており、 幻想的な光景だった。
水の上に浮かぶ巨大な花。その言葉がしっくり来るような気がした。
浮遊車は少しずつ高度を下げていき、建物の"花びら"部分を守るように敷かれている見えない屋根の上に、二人は降り立った。
特別な賓客専用の場所であったらしく、支配人らしき年配の男性と警備の制服を着た数名の男性が飛んできた。
「へ、ヘラ・カリスタ様でしたか。館長をおよびいたします」
場違いな若い女二人に厳しい視線を向けていた彼らは、ヘラの名を聞き、特別なチケットを確認すると、恐縮仕切った様子でそう口にした。
まずい態度を取ってしまったとでもいうように、二人よりずっと年上の支配人は、しきりにこめかみに流れてくる汗をぬぐっている。警備員たちの反応はそれぞれだ。感心したようにヘラを眺めるもの、頬を染めるもの……。
ヘラはちょっと困ったふうに笑って「友だちと来てるだけだから」と断り、ひらひらと手を振った。
ヘラのことは大好きだけど、彼女といると、ちっぽけでなんの取り柄もない自分のことを、すこし、恥ずかしくなることがある。
「どうして、ブルムフィオーレには魔法使いが少ないんだろうね」
ヘラが言った。
この世界には、わかっているだけでも四つの大陸と、十六の王国がある。
ほぼすべての国で魔法は当たり前の存在なのだが、ブルムフィオーレの民は、ほとんどが魔力を持たない。
歴史上で魔法使いとして名を残しているのは、たった三人の人物だけ。綿毛の魔女、妖精魔導士、そして悪の魔法使い。綿毛の魔女は、縁結びの魔女。妖精魔導士は、辺境の地位向上に尽力した。そして悪の魔法使いは大量殺戮をくり返し、逃亡を続けた……。
「あのね、この展覧会にさ、あたしが今付き合ってる人の絵があるんだ。見て。すっごいから」
ヘラがからからと笑う。
「彼も、ネモの信者なの?」
「そうそう。超信者」
魔法使いネモは殺戮者だ。けれども、芸術分野にも研究者にも、一定数の熱狂的なファンがいる。まるで神に魅了されたかのように、彼らはなぜだか、ネモを追い求める。
この展覧会自体も、そうした”信者”たちが作り上げたものなのだろう。
ネモの情報はほとんど残っていないし、顔もわからない。なんなら、名前がわかったのも最近だ。彼の生い立ちや少年時代の考えが書かれた、ネモ自身のものと思われる手記が見つかったのだ。
リリカとヘラは、展示されていたネモの手記だとされるものを読んだ。
価値のある展示物は、大陸の向こうから来た魔術師によって保護魔法をかけられているため、術士の魔力を大幅に超えるような人物でもない限り、破壊したり、盗んだりすることができない。
二人は、気負わずに歴史的価値のある書物を、指でなぞりながら読み込んだ。
ネモは、復讐に取り憑かれた際に、夢の中で悪魔に魔力をもらったと書き残している。
そのときに、対価として人間ではなくなったのだと。けれども、人間ではなくなったら、復讐もどうでもよくなって、好きなことだけをして生きてきた。たまに友人のために手を貸してみたり、恋をしてみたりもしたのだけれど、加減を間違えた……。
そんなことが記されていた。後悔というには軽く、かといって、殺戮を楽しんでいたという雰囲気でもない。とらえどころがない人物だと思った。
「次の新作、ネモのことを書いてみようかな」
ヘラがぼんやりと言った。彼女は付き合う相手の影響を受けやすい性質だったので、恋人の”ネモ崇拝”がうつったのかもしれない。リリカは苦笑しながらも、そうして恋をするたびに、新しい知識や感性を経て、自分のものに変えていくヘラを眩しく思った。
リリカは、夫のカミルとしかお付き合いをしたことがない。
ネモの手記が本当のものなのかはわからない。むしろ怪しいと言われている。ネモが生まれたのは千年以上も昔だというのに、手記の紙質が新しいからだ。
この原本が出てくるまで、ネモについての情報は、ほかの二人の魔法使いと比べても圧倒的に少なかった。
彼の起こした罪はわかるが、誰もネモの顔を知らない。どこの誰だったのか、平民なのか貴族なのか。そういった情報がなにもなかった。
手記は見つかっても、もちろん、顔はわからないわけで、展覧会に集められたのは、たくさんのアーティストたちが想像で描くネモのファンアートのようなものだった。
「当展の特徴は、五感に訴求する展示でございます」
”ネモの似顔絵”コーナーの受付に立つ女性が熱弁する。きらきらした瞳は、ヘラの姿しか映していない。
展示室に入ると、円形の回廊をぐるりと囲むように絵画が点々と並べられていた。
展示物の前に立ったわたしたちは、顔を見合せた。
香りがする。ネモの似顔絵が語りかけてくる。
「ええ、……すごいね」
「本当だね。アーティストごとの世界観があるんだ。匂いも声も、……ほら。絵によって変わるよ。この絵はウッディな香りだったけど、こっちは甘ったるいね」
ヘラは感心したように言った。
意志の強そうな赤い瞳に、ひらめきの表情がきらきらと踊っている。ああ、ヘラはきっと、今日の経験もまた形にしていくのだろうと、リリカは目を細めた。
「どこの国の言葉だっけな、ネモってさ、存在しない者っていう意味なんだって。本当は、ブルムフィオーレの魔法使いは2人しかいなかったのかもしれないよ?」
ヘラは、途中から笑いを噛み殺しながら言った。殺戮者であるネモにはとうてい見えない、ポップな色使いとキラキラした瞳に描かれた彼のイラストを前にしたからだろう。
「これいいなあ」
芸術家たちがそれぞれ描いたネモの似顔絵は、どれも冷酷さや非情な雰囲気がにじみ出ていた。この絵は異質だった。
「意外とさ、明るい性格だったらおもしろいよね」
リリカは、さまざまなネモの絵を見ながら、考えをめぐらせていた。
魔法使いの数は、本当にそんなに少なかったのだろうか。本当はもっとたくさんいるのではないか。
異端だと思われるのが怖くて、隠しているだけで……。
だってリリカは、夫が、カミルが魔法を使っているのを、見たことがあるから。
その後、二人は美術館内のカフェに向かった。
外から見ると、垂れ下がる花びらのように見えていたその場所は、実際には、ゆるやかなカーブがついた三角屋根のようなガラス張りの窓に覆われていた。床も透明で、少し胃の当たりがすうすうする。
眼下に広がるのは、ブルムフィオーレ王国の華やかな街並みと、美術館を囲む、花と光が浮かぶ水。
時間がやや遅めだからだろう。スイーツしか提供のないカフェの中は静かで、ヘラとリリカの二人だけしかそこにはいなかった。コーヒーの香りが心地よく漂っている。
ヘラは「ネモの夜冥石ゼリー」を、リリカは「ネモの手記タルト」を選んだ。
ゼリーは、ネモの杖を模したものだ。全体が暗い紫色に発光しており、妖しい雰囲気を醸し出している。
ネモの手記タルトは、展示されていた彼の手記を再現したもので、何層もの生地が重なったさくさくとした食感。中にはカスタードやフルーツが詰められ、表紙にあたる一番上の部分には、ネモの名前がダークチョコレートで描かれていた。
「リリカはどの絵がよかった?」
回遊したときの様子を一つひとつ思い浮かべてみる。記憶の中のリリカは、一つの絵の前で足を止めていた。
そこに描かれているのは、やや不健康そうな色白の男だ。顔立ちは整っていそうなのだけれど、頬が痩けている。髪の毛は無造作にくくられた長い黒髪。目の下には深いくまがある。
男は不器用な笑みを浮かべている。薄いくちびるの端が、片方だけぎこちなく上がっていて──。もし自分が”ネモ”を想像するなら、こんな人だと思った。
名前が思い出せない。どんな芸術家の描いたものだっただろう。
しょっちゅう会っているのに、話は尽きない。
リリカが実家の者たちしか知らない妊娠を打ち明けた。ヘラは、一瞬ぽかんとしたように口を開けたが、自分のことのように喜んでくれた。
「全然気づかなかった! 」
目の下がうっすら赤くなっている。
「吐いてるっていうからさ、なにかストレスが溜まってるのかなって」
帰りにベビーグッズを買おうなどと気の早いことを言う。
「ミュージアムショップ、すごかったね」
カフェ以外の”花びら”部分は、”5枚”分の空間すべてがミュージアムショップだった。そこは大賑わいで、どこを見ても、ネモ、ネモ、ネモ。誰もがネモのグッズを買い漁っていた。
「でしょう? 毎回、特別展に合わせたグッズがたくさん出るんだよ。カミルさんとはあんまり来ないの?」
「うん。美術館に来たことはないかもしれない。カミルは、どちらかというと、庭いじりをしているほうが好きかな」
「お土産、何を買ったの?」
「ネモの杖の、レプリカ万年筆。仕事で使ってもらえるかなって」
「いいじゃん!」
二人がきゃらきゃらと笑いながら、屋上駐挺場へ向かっていると、先ほどの支配人が恭しく頭を下げながらやってきた。
「お帰りになるのであれば結構なのですが、近隣で浮遊車をとめられるところはございません。もし散策なさるのであれば、閉館時間まで置いていただけますよ」
「そうなんだ! じゃあさ、このままベビーグッズ買いにいっちゃおうよ」
ヘラがひらめいたように言った。
「でも、まだどうなるかわからないのよ……?産み月まで、なにがあるかわからないって母様が」
リリカが言うと、ヘラははじめての表情を見せた。苦しそう、というのか。けれども、それは一瞬のことで、次の瞬間にはいつも通りのヘラだった。
「じゃあさ、ごはんにしよう。おなかすいちゃった!今食べられないものとかある?」
美術館のエントランスを抜けたリリカとヘラは、水の上にかけられた透明な橋を渡った。目の前には、王都中心部らしい、高層建築物ばかりが立ち並んでいる。
「店、どっちだったかなあ」
ヘラが頭をかいている。
そのとき、ふとぞくりとして振り返った。
「リリカ……」
人混みに紛れるようにして立っていたのは、ナルヴィスだった。
彼は、髪を整えることもなく、虚ろな瞳でこちらを見据えていた。
その目には、すがるようなぎらつきがあった。
悲鳴を飲み込んだそのとき。
「いやあああああああああ!」
叫んだのはヘラだった。
歯をカチカチと鳴らし、焦点の合わない瞳で地面を見つめてしゃがみこんだヘラを立たせようとしたが、すぐ目の前にナルヴィスが迫っている。
「リリカは、僕と結婚するよね?」
彼の手が、腕を掴みそうになり、リリカはきゅっと目をつむった。